馬超
父馬騰は韓遂とともに涼州で勢力を扶植していたが、司隷校尉鍾繇に帰順を説得され、人質として馬超を差し出す。馬超は督軍従事に任じられ、鍾繇に従って平陽県の郭援・高幹を討伐した。詔勅によって徐州刺史、のち諫議大夫に任じられる。馬騰は韓遂と不仲となったため鄴に帰って衛尉に任じられ、馬超は偏将軍・都亭侯となり父と入れ替わって涼州に赴いて軍勢を統率した。 鍾繇が漢中の張魯を征伐するため軍を催すと、身の危険を感じた馬超は韓遂・楊秋・李堪・成宜らと連合して曹操を攻めるべく潼関に進出した。曹操が供一人を連れて馬超と会談を交わしたとき、馬超は会談中に曹操を捕えようと密かに計画していたが、曹操の側に許褚がいたため果たせなかった。曹操は賈詡の策略を採用して馬超と韓遂の仲を裂き、疑心暗鬼に陥った馬超軍を攻めて大いに勝利した。馬超は蛮族たちを仲間に誘いながら敗走し、曹操は凱旋帰国した。父馬騰は息子の罪により処刑される。 ふたたび蛮族を率いて挙兵し、涼州刺史韋康を殺して諸郡の軍勢を接収、征西将軍・幷州牧・涼州軍事都督を自称した。しかし韋康の部下が鹵城で挙兵、馬超がこれを攻めている間に本拠の冀城も奪われ、漢中に走って張魯を頼った。しかし張魯を小人物と見て、益州を攻撃していた劉備に密書を送って帰服を願い出る。これを聞いた益州牧劉璋は馬超を恐れて劉備に降伏した。馬超は劉備より平西将軍・都亭侯とされ、臨沮を治めた。 劉備が漢中王になると左将軍に任じられ、仮節を与えられた。章武元年(二二一)に劉備が皇帝に即位すると驃騎将軍・涼州牧・斄郷侯に昇進したが、翌二年に逝去。四十七歳だった。 のち劉禅の世、威侯と諡された。 【参照】韋康 / 賈詡 / 郭援 / 韓遂 / 許褚 / 高幹 / 鍾繇 / 成宜 / 曹操 / 張魯 / 馬騰 / 劉璋 / 劉備 / 楊秋 / 李堪 / 益州 / 漢中郡 / 冀県 / 鄴県 / 徐州 / 司隷 / 斄郷 / 潼関 / 扶風郡 / 幷州 / 平陽県 / 茂陵県 / 涼州 / 臨沮県 / 鹵城 / 威侯 / 衛尉 / 王 / 諫議大夫 / 郷侯 / 左将軍 / 刺史 / 司隷校尉 / 征西将軍 / 亭侯 / 督軍従事 / 都亭侯 / 都督 / 驃騎将軍 / 平西将軍 / 偏将軍 / 牧 / 諡 / 仮節 |
馬超
馬超
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 01:49 UTC 版)
「ジャイアントロボ バベルの籠城」の記事における「馬超」の解説
自らの血を使い分身を作り出す。大作を追い詰めるもののカワラザキ、天童の捨て身の攻撃により死亡した。
※この「馬超」の解説は、「ジャイアントロボ バベルの籠城」の解説の一部です。
「馬超」を含む「ジャイアントロボ バベルの籠城」の記事については、「ジャイアントロボ バベルの籠城」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- >> 「馬超」を含む用語の索引
- 馬超のページへのリンク