だいさん‐ていこく【第三帝国】
だいさんていこく 【第三帝国】
第三帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/18 19:07 UTC 版)
第三帝国(だいさんていこく、英: (the) Third Empire[1], Third Reich, Third Realm[2], Third Kingdom[3]、独: Drittes Reich)は、古くからキリスト教神学で「来るべき理想の国家」を意味する概念として用いられた。第三の国、千年帝国(英: Thousand-Year Reich[4], millenarianism[5], 独: Tausendjähriges Reich[6])とも。NSDAP(ナチス)による呼称が有名。
中世における「第三の国」
中世イタリアの思想家フィオーレのヨアキムは世界史を三つの時代に区分した。「三時代教説」と呼ばれるこの考え方では、まず「律法の元に俗人が生きる『父の国』時代」、そして「イエス・キリストのもとに聖職者が生きる『子の国』の時代」、そして最後の審判の後に訪れる、「自由な精神の下に修道士が生きる『聖霊の国』の時代」の三つに分けられると定義した。ここでは「第三の国」が来るべき理想の国であるというニュアンスを持つこととなった。フィオーレのヨアキムは1260年から永遠の福音の時代になるとした[7]。
ロシア・北欧における第三帝国
作家フョードル・ドストエフスキーは、西ローマ帝国、東ローマ帝国は信仰が足りないために滅亡したが、聖ロシアは第三のローマ帝国とならなければならないと論じた[7]。ドストエフスキーのこうした思想はドイツのドストエフスキー研究者メラー・ファン・デン・ブルックへ多大な影響を与え、メラー・ファン・デン・ブルックは『第三帝国』を著した[7]。またナチス政権で国民啓蒙・宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスもドストエフスキーから深い影響を受けている[8]。
ヘンリック・イプセンは1873年の戯曲「皇帝とガリラヤ人」において、中世キリスト教文明を「霊の帝国」、古代ギリシア思想文明を「肉の帝国」とし、この二つをあわせもった理想国家を「第三の帝国」と称した。イプセンによれば、ヘレニズム段階、キリスト教段階を総合する皇帝ユリアヌスにおいて実現される「貴族的人間」の第三帝国が出現する[7]。ドイツの劇作家・ナチ党政治家ディートリヒ・エッカートはイプセンの影響を受けた[7]。
ロシアの詩人ディミトリー・メレシュコフスキーも同様の意味での「第三帝国」を志向した。
ドイツにおける第三帝国
ディートリヒ・エッカート
国家社会主義ドイツ労働者党の前身ドイツ労働者党の創設者の一人であった劇作家でイプセンの影響を受けたディートリヒ・エッカートは、反ユダヤ主義雑誌「アウフ・グート・ドイッチュ」1919年7月号に発表した論文「ルターと利子」で、ドイツ民族が第三帝国を実現して救済をもたらすと論じた[7][9][10]。エッカートはイプセンよりも露骨な反ユダヤ主義を前面に押し出して、悪魔のようなユダヤ人が利子率を作り出したと論じた[7]。
エッカートに庇護された弟子がアルフレート・ローゼンベルクやアドルフ・ヒトラーである[11]。
メラー・ファン・デン・ブルック
ドストエフスキーの第三帝国論に影響を受けたドイツ保守革命の思想家アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックは、1923年に著した『第三帝国論』の中で、第一のライヒである神聖ローマ帝国と、第二のライヒであるドイツ帝国の正統性を受け継ぐ「第三のライヒ(第三帝国)」の創設を唱えた[12][7]。当時ドイツ人の多く、特に右派はヴァイマル共和政を正統な国家と見なしておらず、右派思想家達はドイツ帝国を継承する新たな「ライヒ」の出現を期待していた[13]。またファン・デン・ブルックの著書には民族共同体を破壊する自由主義への嫌悪、政治指導者による独裁「指導者原理」など後のナチズムと共通する部分が多いが、ナチ党自体はファン・デン・ブルックの「第三帝国」とナチ党の「第三帝国」は無関係であるとしている[14]。
メラーの「第三帝国」の理念は、結局のところ神秘的で漠然とした思想であり、メラー自身、こうした第三帝国の曖昧な思想は問題的であると感じていた。彼によれば、この思想は「不思議な雲のごときもの」であり、全く彼岸の存在であった[15]。しかし、現実の彼方のものであっても、やはりそれは一つの現実の思想とならねばならいとして、現状を「第三帝国」の思想によって克服しようとメラーは訴えている。
メラーのこの著作は二つの異なる方向に影響を及ぼした。まず第一には、ナチスが第三帝国のスローガンを採用したことによって[注釈 1]、この名称が特殊な作用を及ぼし、ついにはこの著作の内容とは異なる結果が生じてしまった。ナチ党のイデオローグたちは、メラーの著書がナチズムの世界観の発展において重要な地位を占めることになったことを認めているが[注釈 2]、その場合でも信念における一致よりは、むしろ第三帝国のスローガンの民衆に対する宣伝効果が重視されていた。いずれにせよ、ナチ党に対するメラー派の同志たちの冷淡な態度からみて、新ナショナリズムの教説を説く彼等がかなりの点でナチズムに共鳴しなかったと結論するのは可能である。 第二は、それが、民主的、自由主義的諸制度を軽蔑する態度を人々に吹き込んだことである。この影響は巧妙に操作された宣伝スローガンの効果とは比較しえないが、それが当時のナショナリズムの心情をもった知識人の大部分の政治的意志形成に重要な役割を果たしたことは否定しえない。メラーの「第三帝国」は青年保守派のいわばバイブルであったからである[注釈 3]。
ナチ党
「Drittes Reich(第三帝国)」は、神聖ローマ帝国を第一帝国、ビスマルクの帝政ドイツを第二帝国とし、その後を継ぐドイツ民族による3度目の帝国として国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)統治下のドイツ(ナチス・ドイツ)で用いられた[17]。ただし、当時の公式のドイツ国名は「Deutsches Reich(ドイツ国)」、もしくは「Großdeutsches Reich(大ドイツ国)」であった。なお、ライヒ (Reich) とは、ドイツ語で「一支配者が全ての地域 (Land) を治めている全国 (Reich)」と規定され、「ライヒ=帝国」ではない[注釈 4]。
正確な時期は不明であるが、ナチ党の数ある用語の一つとして「第三帝国」は用いられた。例としては全権委任法成立翌日に発行された『フェルキッシャー・ベオバハター』は「ドイツはめざめた。偉大な仕事が始まった。『第三ライヒ(第三帝国)』の日が到来したのだ。」と書いており[19]、ナチ党の側がいわゆるナチス・ドイツ時代を指す用語としても用いられた。
しかし、この呼称は海外の反ナチ運動の風刺に用いられるようになったため、 1939年6月13日、総統アドルフ・ヒトラーは「第三帝国」の用語を使用しないよう告げた。7月10日には、ヨーゼフ・ゲッベルスも国民啓蒙・宣伝省において宣伝の文句として使用するのを控えるよう通達している[20] 。しかし、この措置は徹底されず、ゲッベルスは以降も自身の演説などで引用した他、ヒトラー自身も、1941年12月17日から18日にかけての談話で「今や、ドイツという時、それは『第三帝国』以外の何ものでもない」と語っている[21]。
日本
日本においては茅原華山が維新以前の「覇者の帝国」と維新以後の「藩閥官僚の帝国」を超克する民本主義の帝国の出現を唱え、大正2年(1913年)に『第三帝国』という評論雑誌を発刊している[22]。
脚注
注釈
- ^ 無論、この概念を利用したのはナチ党だけではなかった。例えば、オーバーラント義勇軍(de)を改組して結成された「ブント・オーバーラント」は『第三帝国』という名の機関誌を発行していた。実際、第三帝国の理念は、青年保守派系の多くのグループや団体のイデオロギー的財産であった。その限りにおいてナチ党がこの言葉を剽窃したのだとは言えないし、ナチ党が他のナショナリストな集団に比べてメラーの概念から遙かにかけ離れていたことも確かである。他方、メラーの第三帝国の理念は全く曖昧で、幾多の内容を包み込む可能性を常にもっていたから、この理念は特定のプログラムのための標語とはなりえなかった
- ^ 「私は党の政治思想史において、意義の大きいこの書物の普及を歓迎する」(ハンブルクのハンザ出版社から1933年以後に発行されたパンフレットの中のヨーゼフ・ゲッベルスの言葉)
- ^ これは保守革命の書物の中で、いうまでもなく最大の影響力をもった書物であった。「ナショナリズムの運動は、今日、もはやメラー・ファン・デン・ブルックの書物から切り離すことはできない[16]」
- ^ ライヒは神聖ローマ帝国や帝政ドイツ、ヴァイマル共和政時代でも用いられた。ドイツは歴史的に小さな領邦 (Staat) が分立して神聖ローマ帝国皇帝の緩やかな支配を受けている時代が長く続き、ドイツ統一後も各領邦にはそれぞれの君主と政府、軍隊が存続し、強い権力を持っていた。ヴァイマル共和国期になっても、その領邦はLand (州)と呼ばれ、高度な自治権力を行使していた。現在でも州には強い権力が残り、バイエルン州やザクセン州、テューリンゲン州は「Freistaat」と言う形で領邦の名を残している。第二次世界大戦後に成立した西ドイツは「全国」を意味する語としては「Reich」ではなく「Bund」(連邦)の語を用いて「Bundesrepublik Deutschland」(ドイツ連邦共和国)を名乗った。また東ドイツは「Deutsche Demokratische Republik」(ドイツ民主共和国)を名乗り、州制度ではなく県制度を敷いていた。英語の場合は "The Third Reich"と「ライヒ」をそのまま使用している。日本語では「第三帝国」の語が当時から用いられている[18]
出典
- ^ Google Scholar「"third empire" Nazi」
- ^ Google Scholar「"third realm" Nazi」
- ^ Google Scholar「"third kingdom" Nazi」
- ^ Google Scholar「"Thousand-Year Reich" Nazi」
- ^ "Thousand-Year Reich" "millenarianism " Nazi
- ^ Google Scholar「"Tausendjähriges Reich" Nazi」
- ^ a b c d e f g h 小岸 2000,p51-59.
- ^ 小岸 2000,p.81-93.
- ^ クラウス=エッケハルト・ベルシュ: Die politische Religion des Nationalsozialismus. München 1998, S. 50.
- ^ Matthias Sträßner: Flöte und Pistole. Anmerkungen zum Verhältnis von Nietzsche und Ibsen. Würzburg 2003, S. 76, ISBN 3-8260-2539-3 (Quelle: Ernst Bloch: Zur Originalgeschichte des Dritten Reichs. In: ders.: Erbschaft dieser Zeit. Gesamtausgabe Bd. 4, Frankfurt a.M. 1977, S. 126–160) (Google Books).
- ^ 小岸 2000,p.61.
- ^ 多田眞鋤 2003, pp. 85.
- ^ 多田眞鋤 2003, pp. 83–85.
- ^ 山崎充彦 1998, p. 56.
- ^ Moeller: Das dritte Reich, op. S. 13.
- ^ Hans Schwarz, in seinem Nachwort zur Volksausgabe vom 》Dritten Reich《, Hamburg 1931, 4. Aufl. S. 246.
- ^ 「第三帝国」世界大百科事典 第2版
- ^ 「写真週報 34号」 アジア歴史資料センター Ref.A06031062900
- ^ 南利明 1988, pp. 218.
- ^ Reinhard Bollmus: Das Amt Rosenberg und seine Gegner. Studien zum Machtkampf im nationalsozialistischen Herrschaftssystem. Stuttgart 1970, S. 236.
- ^ ヒトラーのテーブル・トーク 上 1994, pp. 223.
- ^ 杉哲 2011, pp. 73.
参考文献
- 小岸昭『世俗宗教としてのナチズム』ちくま新書、2000年。
- 杉哲「西尾実と道元(IX)」『熊本大学教育学部紀要. 人文科学』第60巻、熊本大学、2011年、69-80頁、NAID 110006000032。
- 多田眞鋤「ナチズムの精神構造 : ドイツ精神史への一視角」『横浜商大論集』37(1)、横浜商科大学、2003年、68-89頁、NAID 110006000032。
- 南利明「NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制(二)」『静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇』24(2)、静岡大学、1988年、199-223頁、NAID 110007615716。
- 山崎充彦「ドイツにおける議会制批判論議の一側面 : メラー・ファン・デン・ブルックの『第三帝国』をめぐって」『国際文化論集』第18巻、桃山学院大学、1998年、53-68頁、NAID 110004694975。
- 『ヒトラーのテーブル・トーク 1941-1944 上』三交社、1994年。ISBN 4879191221。
関連項目
外部リンク
第三帝国
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「カール・リッター (映画監督)」の記事における「第三帝国」の解説
リッターは、熱心な国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)支持者だった。彼の妻の父親は、リヒャルト・ワーグナーの遠縁にあたり、リッターはこの関係からヒトラーと接するようになり、1925年には入党していた(党員番号23.040)。ナチスによる政権獲得後、ミュンヘンのライヒスリーガ・フィルム (Reichsliga-Film) で制作責任者となっていたリッターは、ウニヴェルスム・フィルムAG (UFA) の役員、制作責任者になった。そして、映画プロデューサーとして『ヒットラー青年 (Hitlerjunge Quex)』など、数多くの重要なナチスのプロパガンダ映画に関わった。映画監督としては、ハリウッドを模した娯楽映画である1939年の映画『Hochszeitsreise』や1940年の映画『正装舞踏会 (Bal paré)』なども手がけたが、最もよく知られているのはプロパガンダ映画であり、反共を打ち出した1942年の映画『GPU (The Red Terror)』や、1937年から1938年に制作された第一次世界大戦期を舞台とした戦争映画三部作『祖国に告ぐ (Patrioten)』、『最後の一兵まで (Unternehmen Michael)』、『誓いの休暇 (Urlaub auf Ehrenwort)』、1938年の映画『勲功十字章 (Pour le Mérite)』、第二次世界大戦開戦後に時事映画 (Zeitfilme) として制作された1941年の映画『急降下爆撃隊 (Stukas)』などを手がけた。後半に挙げたタイプの作品は、リッターの創意によるところが大きいが、ソ連の革命映画に対抗するナチスからの対抗策として1936年の映画『スパイ戦線を衝く (Verräter/The Traitor)』を皮切りに生み出されたものであったが、この作品はドイツで初めて制作されたドイツ・スパイの映画であった。 リッター自身、映画制作者としての目的について、ナチスのイデオロギーを踏まえて、「ドイツの映画が進むべき道は、すべての作品が我々の共同体、国家、総統への奉仕のために存在するという結論へと、いかなる妥協もなくつながる」と述べていた。「私の映画が扱っている内容は、個人は重要ではなく、我々の大義のためには個人的な事柄など放棄されなければならないということである。。リッターは、自作のプロパガンダ映画を「映像の装甲車」と称し、「プロパガンダ戦線の第一線」を形成するものだとしており、「その他」の娯楽映画などの自作は、戦線の背後にあるものだとしていた。『最後の一兵まで』に描かれた、歩兵の隊列が敵の砲撃の雨の中を突撃して全員が英雄的な戦死を遂げる、という戦略への疑問を軍幹部から尋ねられたリッターは、「私はドイツの青年たちに無意味に見える自己犠牲的な死には、それだけで道徳的な価値があることを示したかったのだ」と答えた。軍は、このリッターの映画に反論する内容のラジオ劇を放送しようとしたが、国民啓蒙・宣伝省はこれを取り止めさせた。リッターの作品には、ナチスのプロパガンダ映画の中でも最も重要なものが含まれている。1936年に制作された 『スパイ戦線を衝く』は同年のナチ党党大会でプレミア上映され、1938年の映画『勲功十字章』はナチス親衛隊の機関紙『ダス・シュヴァルツェ・コーア』によって「史上最高作」と絶賛され、第二次世界大戦を描いた一連の作品はナチスによる戦争映画の極地を示すものであった。しかし、中には事態の展開が映画を超えるものとなり、1939年に完成しながら、1941年に公開されるまで2年間棚ざらしにされた『Kadetten』のような作品もあり、さらに、開戦当初に取り組まれた『Legion Condor』、東方の土地をドイツ人入植者に与えるという約束が反故になり、映画の多くの部分を撮影していた北アフリカからドイツ軍が撤退を余儀なくされた『Besatzung Dora』、軍の反対にあいファイト・ハーラン(ドイツ語版)に監督交代となった『Narvik』の3作品が、制作途中で放棄されたり、公開されないままとなった。1943年に、リッターは映画監督業を止めるよう命じられた。 リッターは、最も重要なプロパガンダ映画の監督のひとりとなっていた。ヨーゼフ・ゲッベルスは、映画産業を取り仕切っていた機関である帝国映画院(ドイツ語版)の役員にリッターを取り立て、重鎮の文化人として処遇し、1939年にはヒットラーの50歳の誕生日の祝賀行事の一環として教授資格を与え、バーベルスベルク・ドイツ映画学校(ドイツ語版)の教授とした。リッターは、ゲーリングが作成した徴兵免除対象とするナチ党員の名簿に記載されていたが、ドイツ空軍に戻り、ソビエト連邦軍の捕虜となった。その後、逃れたリッターはバイエルン州に逃げ延びた。
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