滋賀県庁移転
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1891年(明治24年)12月16日、磯部が彦根への滋賀県庁移転案を滋賀県会に提出。 移転理由は『「大津は滋賀県の南にあるため北部の人民は不便を感じ、県庁と往復する際、常に不満の情を抱いていると主張しています。そして、鉄道が合流する草津や米原の中間に位置する彦根は交通網が発達して便利であり、滋賀県内第一の都市で大津町より多くの人口を有する点においても、県庁を置くことが当然である」と論じました。』(滋賀県ホームページ【コラム1】滋賀県庁の移転騒動 明治の県庁移転騒動より引用)との記載がある。彦根は県中央に位置しており、大津は県北部の住民にとっては遠すぎるというのが磯部の意見で有り、背景には湖北地方(旧彦根藩を中心とした旧犬上県)と湖南地方との対立があったと考えられる。また、明治16年の人口を比較すると大津市が18,160人、彦根町が21,891人であり彦根町の方が人口が多いという記録もある。 県庁移転の建議は、採決の結果、過半数の賛成により可決された。引き続き12月22日に開催された臨時県会では、可決済み建議の取り消しが提案されたが、滋賀県知事の大越亨が臨時県会で決議すべきではないと主張して県会の中止を命令した。背景には、1888年(明治21年)に洋風建築の庁舎が県庁所在地(大津市京町)に完成したばかりであったこと及び、大越は、他にも瀬田川の鉄橋架設や坂田郡と東浅井郡の合併という課題を抱えており、明治25年1月6日開催の県議会で建議取消しの取消しまでもが提案され可決された結果、二度目の県会中止命令を出した。 結局、2月8日に内務省の権限により県会解散となって県会議員選挙の再実施が決まり、県庁移転問題は一旦立ち消えとなった。
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