はしもと‐さない【橋本左内】
橋本左内 はしもと さない
福井県生まれ、幕末の志士。父は福井藩医。大坂の緒方洪庵の適塾で医学を修得し、嘉永5年(1852)帰国。安政元年(1854)江戸に遊学し、藤田東湖、西郷隆盛らとも交友した。帰国後、書院番・藩校明道館学監同様心得などに取り立てられ、横井小楠を招くなど福井藩の藩政改革の中心となった。安政4年(1857)江戸に赴いて藩主松平慶永に仕え、14代将軍に一橋慶喜を擁すべく奔走したが、井伊直弼の大老就任により挫折。安政の大獄により江戸で斬首された。
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橋本左内
橋本左内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/31 13:28 UTC 版)
橋本 左内(はしもと さない)は、日本の武士(福井藩士)、志士、思想家。号は景岳、黎園(れいえん)[1]。諱は綱紀(つなのり)。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。安政の大獄で25歳で死罪となった。
- ^ a b c 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「橋本左内 はしもとさない(1834―1859)」(執筆者:山口宗之)
- ^ 『永遠の青年 景岳橋本左内先生』橋本左内先生奉賛会 1974, p.1
- ^ 橋本左内先生奉賛会 1974年, p.19
- ^ 橋本左内先生奉賛会 1974, p.28
- ^ 福井県文書館資料叢書13『福井藩士履歴』5 の~ま,2017年,p.108
- ^ 橋本左内先生奉賛会 1974, p.30
- ^ 『福井県大百科事典』福井新聞社百科事典刊行委員会編、福井新聞社、1991年、731頁
- ^ これ以前に安政3年(1856年)7月明道館講究師、同9月幹事に任ぜられた。福井県文書館資料叢書13『福井藩士履歴』5 の~ま,2017年,p.108
- ^ 「明道館用留抜書」『福井市史』資料編9,1994年
- ^ 橋本左内先生奉賛会 1974, pp.43-44
- ^ 橋本左内先生奉賛会 1974, p.57
- ^ 橋本左内先生奉賛会 1974, p.70
- ^ 『人物叢書(新装版) 橋本左内』山口宗之著、吉川弘文館、1985年、12頁
- ^ 『足羽小学校百年誌』百年誌記念誌編集委員会、百周年記念事業実行委員会、1973年、188頁
- ^ 『啓発録』橋本左内、講談社、1982年、12-15頁
- ^ 左内公園に設置された石碑より。
- ^ 『啓発録』橋本左内、講談社、1982年、21-47頁
- ^ 宮地 2018, p.98
- ^ a b 『新修 福井市史1』福井市史編さん委員会、福井市、1970年、285頁
- ^ 『福井市寺院名簿』福井市仏教会編 、興宗寺、1968年、278頁
- ^ 『新都市 第4巻第2号』都市計画協会編、都市計画協会、1950年、55頁
- ^ 『足羽山案内』福井市明林国民学校 刊、1941年(昭和16年)~1946年(昭和21年)、29頁
- ^ 「橋本左内先生 銅像除幕式」福井新聞 1932年(昭和7年)10月23日
- ^ 『足羽山の今昔』福井市立郷土歴史博物館 1987年(昭和62年)、105頁
- ^ 『銅像写真集 偉人の俤[資料編]』田中修二 監修、株式会社 ゆまに書房、2009年、研究資料 413頁
- ^ 『われらのほこり 橋本左内先生』うらがまちづくり春山地区委員会、1997年(平成9年)7月1日、13頁
- ^ 橋本左内先生奉賛会 1974, p.71
- ^ 「左内像除幕」福井新聞 1963年(昭和38年)10月8日
- ^ 『橋本左内石像』福井新聞 2007年(昭和38年)10月8日
- ^ 岡倉天心―その生涯・美術観・茶道観を貫く「共感」の思想平美恵子、宝塚大学大学院博士課程学位請求論文、2015
橋本左内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 22:30 UTC 版)
適塾出身の福井藩士。幕府改革をもくろむ一橋派で万二郎を勧誘する。安政の大獄で斬首される。
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