横浜への遊学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 05:22 UTC 版)
天保4年(1833年)または天保6年(1835年)7月15日阿波国美馬郡重清村東原(現徳島県美馬市美馬町中東原)に佐々治藤太の次男として生まれた。幼名は次郎、後に次郎吉。 佐々家口伝によれば、厳格な継父の教育に耐えかねて家出を決意し、草鞋製作により800文を蓄え、12歳の時吉野川岸に着物と下駄を置いて投身自殺を偽装し、家出を決行した。徳島からは金刀比羅宮参詣者に変装して無賃で大坂に渡り、呉服屋・大工・武家に奉公して旅費を貯めた後、横浜に上り、中浜万次郎出入りの米屋に住み込みで働き、毎日単語カードを譲り受けて英語を学んだという。 安政元年(1854年)頃芝浜松町大木忠益に入門し、大鳥圭介・加藤弘之・子安峻・橋本綱三郎・宮内広・中村正直等と蘭学を学んだ。 万延元年(1860年)横浜に出て、サミュエル・ロビンス・ブラウンに英文法、ジェームス・カーティス・ヘボンに世界地理、ジェームズ・バラに初級英語、デイヴィッド・トンプソンに数学を学んだ。文久2年(1862年)3月神奈川奉行所に召し抱えられ、神奈川表英学社で英学を学んだ。慶応2年(1866年)12月通弁・翻訳御用となり、徳島藩石川権五郎等に英学を教え、イギリス士官との航海術の問答を通訳した。
※この「横浜への遊学」の解説は、「鳴門義民」の解説の一部です。
「横浜への遊学」を含む「鳴門義民」の記事については、「鳴門義民」の概要を参照ください。
- 横浜への遊学のページへのリンク