日本代表時代
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1996年、AFCユース選手権1996の日本代表に選出され、6試合に出場しカタール戦では1得点を決めた。 1997年、1997 FIFAワールドユース選手権に出場し、コスタリカ戦で1得点を決めた。 1998年初頭にはフル代表合宿に初参加した。2月15日のオーストラリア戦で岡田武史が監督を務めるフル代表に初招集されたが、このときは試合に出場することはできなかった。同年12月にはアジア大会U-23日本代表に選出され、クウェート戦で1得点を決めた。 1999年、シドニーオリンピックの1次予選では小野と司令塔のポジションを争ったが、最終予選では怪我の小野に代わって召集された中田が司令塔を担い、俊輔は主に左サイドで起用された。11月6日、五輪出場へ王手をかけたホーム国立競技場で行われたカザフスタン戦では、勝利と本大会出場を確実なものとするダメ押しの3点目を直接FKで決めるなど、1ゴール1アシストの活躍でチームに貢献。 2000年、U-23代表に選出され、シドニーオリンピックにて4試合に先発出場した。2月13日には、AFCアジアカップ2000 (予選) のシンガポール戦でフル代表として初出場し、同月16日にブルネイ戦にてフル代表初得点を決める。アジアカップ本戦では優勝とベストイレブンを受賞した。 2001年、3月24日のスタッド・ドゥ・フランスで行われたフランス代表戦に先発出場するも、当時の世界王者を相手に0-5で大敗する衝撃的なゲームとなり、前半のみの出場で終わる。さらに所属する横浜FMが残留争いに巻き込まれた影響もあり、代表の招集から遠ざかり、年内最後のイタリア戦には招集されるも、ベンチのまま出場できずに終わった。 2002年2月には東京、渋谷の東急東横店壁面への日本代表オフィシャル・ユニフォーム、巨大広告に起用されるなど、2002 FIFAワールドカップ日本代表への招集が期待されていたが、5月、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した。 ジーコが代表監督になると、すぐさま招集され10番を与えられ中心選手として起用される。2003年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で、3得点を挙げ『ブロンズシュー賞』を受賞した。 AFCアジアカップ2004では、全ての試合で司令塔を任され、決勝でも全得点に絡むなどし優勝に貢献、大会最優秀選手に選ばれた。 2005年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2005で、1得点を挙げてベストイレブンに選出。セルティックの監督、ストラカンにプレーを高く評価されセルティックに移籍することとなった。 2006年6月、2006 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。しかし体調不良と重なりパフォーマンスが低下。それでもジーコ監督からの信頼は高く、すべての試合にフル出場。第1戦のオーストラリア戦では自身のW杯における唯一となる得点を決めたが、チームは良いところなく2敗1分の未勝利で敗退した。 2007年3月24日、キリンチャレンジカップ・ペルー戦は、オシムジャパン発足してからの初選出となり、2アシストで勝利に貢献した。中田が前回のW杯を最後に引退した事もあり、その後3年間はチームの王様として君臨し常に代表を牽引していった。 代表の監督が岡田武史に変わってからも引き続きチームの軸として起用される。南アフリカで行われた2010 FIFAワールドカップに向けては「選手人生の集大成」と意気込んでいたが、スペイン移籍の失敗や疲労の蓄積が原因で大会を前に不調になっていく。大会直前になりチームが連敗を続けると、岡田監督は本大会で戦術や選手起用の大幅な変更を決断し、一向に調子の上がらない俊輔をベンチに置く決断をする。結果的に本大会ではグループリーグ第2戦の対オランダ戦において64分から途中出場するにとどまった。帰国後の7月1日に、このワールドカップを最後に日本代表を引退する意思を表明した。
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