接受国建設工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 08:49 UTC 版)
1972年の沖縄の日本への復帰が決まった後、那覇基地の所在海兵部隊を本飛行場に移転することが決められた。 基地施設の建設・整備を担当する陸軍工兵隊は復帰に伴う接受国建設工事計画を策定し、これは沖縄復帰関連建設工事計画及び日本施設調整計画として知られている。復帰関連建設工事計画は更に施設移設計画と施設整備計画に分かれ、日本政府が資金を提供して代用の新施設を建設する。移設計画に基づき日本政府が米軍に提供する施設は、同等原則、つまり同面積の設備に対して同面積の設備、ある機能に対してはそれと同等の機能を提供することを基礎としている。この計画を練る際に問題となったのは、日本側と相容れない設計と建設基準、環境基準の問題であり、それまでの米軍施設建設工事で求めてきたように、建設の質がアメリカの基準に合致するように努力された。 本飛行場も移転と再編成に伴って幾つかの建設工事が実施されることとなり、その設計を担当したのは太平洋管区下の西太平洋本部技術部であった。西太平洋本部は沖縄返還に伴う工兵隊太平洋管区の組織改正で廃止され、新たに日本地域工兵隊を創設してその中に組み込まれた。 しかし、那覇の側では早期に工事を実施したものの、本飛行場では日本政府の接受国建設工事着手は遅延し、建設が始まったのは1973年夏のことであった。移設工事は何期かに渡って計画され、第1期計画は1975年4月に一応完了した。日本地域工兵隊とその下の沖縄事務所は基準を無視したり不適当な材料を使用する一部の日本の業者と度々衝突した。最終的には業者を教育することに成功したが、環境関連のようにその後も日本側の理解に問題があるとみなされ続けた分野もあった。 第1期計画では海軍と海兵隊の工事として運用棟、高性能火薬庫、ミサイル整備棟、工場、格納庫が建設されたという。ただし、『極東の城』ではこれらをまとめて記述しているため、どれが普天間で実施した工事かは不明である。その後、本飛行場での工事は1970年代末の第3期計画で再度俎上に上り、内容は滑走路と各種雑工事であった。
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