戦時中の奨励
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戦時中の1939年(昭和14年)からは国民精神総動員の一環として、毎月1日が興亜奉公日に定められ、戦場の苦労を偲んで日の丸弁当だけで質素に暮すことが奨励された。陸軍省では毎月7日を「日の丸デー」と定め、7銭の日の丸弁当を売って恤兵の費用を捻出した。鉄道の駅弁もやがて、日の丸弁当のみに制限された。 この日の丸弁当奨励の背景には、当時は台湾や朝鮮から米が移入され、米が比較的安価で入手できたという事情もある。米穀配給制度の施行も同1939年であった。この時代はまだ食に不足しているというほどではなく、日の丸弁当も質素ながら、ある程度の人気があった。文化史学者の小木新造は、日本人は米を主食とし、以前から単食の傾向が強かったため、副食が梅干だけでもさほど辛い食生活と感じなかったと指摘している。また、和歌山県日高郡の旧南部川村(後のみなべ町)は梅干しの生産で知られているが、日の丸弁当の登場により梅干しの需要が伸び、さらに当時の日本軍の弁当に用いられて好評を得、南部梅の基礎となった。 特に日の丸弁当が奨励されたのは小学校・中学校である。学校に通う子供たちは昼食に日の丸弁当を持参したが、貧しい家の子供の弁当は飯に野菜屑などを混ぜて量を水増ししており、白い飯と良質の梅干しの弁当を持参できる豊かな家の子供は、羨望や憎しみの対象にもなった。興亜奉公日を忘れて弁当におかずを添える子や、興亜奉公日を知りながらも、親が育ち盛りの子供のために飯の中に密かにおかずを隠すことも多かった。弁当を食べ終えた後は、弁当箱の蓋を器代りにして茶を飲むことが定番であった。当時の子供時代を経験した者たちからは、銃後の守りとして粗食に耐えたり、戦場で戦う兵士たちに感謝して好き嫌いを我慢したとの意見もあれば、梅干し1個の弁当は味気なくて嫌だったとの意見もある。 当時の弁当箱はアルミニウム製のものが多かったため、梅干しのクエン酸で溶けて穴が開くことが多かったが、後にアルマイト処理が開発され、耐食性の強い弁当箱により穴を防ぐことが可能となった。しかし戦後間もない頃の産業復興当時は、粗悪なアルマイトが多く、やはり梅干しにより弁当箱に穴が開くことがまだ多かった。 日の丸弁当の外観は、前述のように日本国旗のイメージに重なるため、愛国弁当としても意味づけられた。副食が梅干し1個だけの弁当自体は戦時中より前から存在しており、戦時中には愛国心を煽るためにあえて「日の丸弁当」と呼ばれたともいう。国民決意の標語「欲しがりません、勝つまでは」とともに、「日の丸弁当」の名は戦時中の流行語にもなり、興亜奉公日の象徴とも見なされた。昭和初期の人気小説『怪人二十面相』でも、倹約の象徴として日の丸弁当の場面が盛り込まれるようになった。一方ではこうした運動を形式主義と批判し、「御役人衆はうんと旨い物を召し上がって能率を倍加して貰いたい。民衆は日の丸弁当よりも、てきぱきと公務を進捗して貰うことを要望するものである」との評論もあった。 1940年(昭和15年)から1944年(昭和19年)頃にかけては食糧事情の悪化に伴い、家庭で重湯やすいとんなどの代用食しか食べられないようになると、日の丸弁当すら贅沢と見なされ、日の丸弁当を学校へ持参した子供が罰を与えられることもあった。
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