情報の遮断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 08:44 UTC 版)
1941年の太平洋戦争開戦に伴い、日本とブラジルは断交。駐在公館が次々に閉鎖し、大使を始め日本政府外交団が第三国のヨーロッパに退避する中で、日本人移民は取り残された。日本人が多く住むサンパウロ州では、戦時特別取締令により、国歌の演奏、天皇の肖像の掲載が禁止された。街頭における日本語の使用も禁止され、ポルトガル語の使用を強要された。このため、公の集会はほとんど開けなかった。唯一の情報源でもあった日本語で書かれた新聞、雑誌の配布も禁止されたことで、9割の日本人移民者は完全に情報から遮断された。当時、ポルトガル語の一般新聞を読める日系移民は少数であった。戦争終結までの4年間で、移民者が入手できた情報は短波放送だけだったが、このような高性能ラジオは輸入品で高価な上に性能も悪く、聞いてもほとんど推測の域を出ないことも多かった。 ヴァルガス大統領の推し進めた国粋主義色の強いブラジル政府の厳しい同化政策、戦時中敵性国人として受けた規制と圧迫に耐えてきた移民にとっては、敗戦は日本人としての生きる道の喪失を意味していた。このため、情報が遮断されている中で、次第に日本勝利を信じるようになっていく。
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