後妻打ちとは? わかりやすく解説

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うわなり‐うち〔うはなり‐〕【後妻打ち】

読み方:うわなりうち

本妻後妻(うわなり)を嫉妬して打ちたたくこと。

「あらあさまし六条御息所(ろくでうのみやすどころ)ほどの御身にて、—の御振る舞ひ」〈謡・葵上

室町時代離縁になった先妻後妻をねたんで、親し女たちと隊を組み後妻の家に行って乱暴を働く風習。相当打ち騒動打ち


後妻打ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/03 01:38 UTC 版)

「往古うはなり打の図」 女たちが双方に別れ、箒や擂り粉木など日用の道具を持って争う。歌川広重画。

後妻打ち(うわなりうち)とは、日本平安時代から江戸時代にかけて行われた風習のこと。夫がそれまでの妻を離縁して後妻と結婚するとき、先妻が予告した上で後妻の家を襲うというものである。さうどう打相当打[1]あるいは騒動打[2])とも称するが、時代ごとに様式は異なる。

解説

「うはなり」(うわなり)とは後妻のことで、かつては妻がいる上にさらに迎えた女性(など)を「うはなり」といったが、のちに先妻と離婚して新たにむかえた女性を「うはなり」といった。この「うはなり」を先妻が打擲することを古くは「うはなりうち」といった。

最古の記述は『権記寛弘7年(1010年)2月18日条、祭主大中臣輔親の前妻(藤原教通乳母)が、教通の随身下女など30人ばかりで後妻のいた鴨院の西対を襲撃させ、内財雑物が損壊されたというものである[3][4]。その二年後の『御堂関白記』寛弘9年(1012年)2月25日条にも、同じ女性が「宇波成打」(うはなりうち)を行ったとの記述がある[4][5]。この他にも『宝物集』巻第二では、「うはなりうち」と称して庶民の間で掴み合いが行われていたと記されている[6][7]

武家においても、北条政子は夫源頼朝の愛妾亀の前に後妻打ちをしたことで知られる[注 1][8][9]。また元亀元年(1570年)ごろ、鍋島直茂の館に先妻がたびたび「うわなり打」にやって来たが、後妻・陽泰院の説得により退散したとの以下の記述が、直茂の曾孫・光茂に仕えた山本常朝の談話を記録した『葉隠』にある[10]

直茂公最前の御前様、御離別以後、うわなり打におりおり御出候へども、陽泰院様御とり持御丁寧に候故、納得候て御帰り候事、度々にて候よし。 — 『葉隠』聞書三

この「うはなりうち」は時代が下った江戸時代にも受け継がれ、『土芥寇讎記』には磐城平藩内藤忠興の正室である天光院が、忠興の妾を預かる家臣宅に薙刀で押入ったと記載されている[11]。江戸時代の『昔々物語』(八十翁疇昔話)には後妻打ちについて「相応打」(そうおううち)、また「相当打」(そうとううち)と称し以下のように記す[注 2]

一、百弐三拾年以前の昔は、女の相応打と云ふ事ありし由、女もむかしは士の妻、勇気をさしはさむ故ならん、うはなり打と云に同じ、たとへば妻を離別して五日十日、或は其一月の内また新妻を呼入たる時はじめの妻より必相当打とて相企る、巧者なる親類女と打より談合して是は相当打仕りては成まじと談合極ける時、男の分は曽てかまふ事にあらず、

扨手寄のたとへば五三人も有之女に、親類かたより若く達者成女すぐりて借、人数廿人も三十人も五拾人も百人も身代によりて相応にこしらへ、新妻のかたへ使を出す、此使は家の家老役の者を遣す、口上は御覚悟可有之候、相当打何月何日可参候、女持参道具は木刀なりとも棒なりともしないなりとも道具の名を申遣す、木刀棒にては、大に怪我有之故、大方しない也、

新妻かたにても家老承て新妻へ申達、新妻おどろき何分にも御詫言可申と申も有、また左様によはげ出し候得ば、一生の大恥に成ほど御尤相心得待可申条、何月何日何時待入候と返事有之、其後男の分一切かまはず最前申遣使一度男にて其後男出会事不有之法也、

扨其日限に至り離別の妻乗物にのり、供の女は何ほど大勢にても、皆歩行にてくゝり袴を着、たすきを懸髪を乱し又はかぶりものにて或は鉢巻などし、甲斐甲斐しく先手にしないを持、腰に挿、押寄る也。門を開かせて台所より乱入、中るを幸ひに打廻る也、鍋釜障子相打こわす、其時刻を考へ新妻の媒と待女郎に来る女中と先妻の昏礼の時女郎良したる女中同時に出会、真中へ扱ひ様々言葉を尽し返、供の女ども働に善悪様々あり、

昔は相当打に二度三度頼まれぬ女はなし、七十年計り已前、八十歳斗のばゝ有しが、我等若き時分相当打に、拾六度頼まれ出しなど語りし、百年斗已前は透と是なし — 『昔々物語』[12]

これによれば後妻打ちは、男性が妻を離別して1か月以内に後妻を迎えたときに行われる。まず前妻方から後妻のもとに使者が立てられ、その口上で「御覚悟これあるべく候、相当打何月何日参るべく候」などと述べて後妻打ちに行く旨を知らせる。当日、身代によって相応な人数を揃えて主に竹刀を携え、後妻方に押し寄せ台所から乱入し、後妻方の女性たちと打ち合う。折を見て前妻と後妻双方の仲人や侍女郎たちがともにあらわれ仲裁に入り、双方を扱って引き上げさせるという段取りであった。「待女郎」とは婚礼のとき、新郎の家に来た新婦を家の中へ案内する女性のことである。『昔々物語』は享保17年(1732年)またはその翌年の成立といわれており、それに従えば上に記される「百弐三拾年以前」の後妻打ちとは、およそ慶長のころの話となる。また最後に「百年斗已前は透(過ぐ)と是なし」ともあり、このような習俗が寛永(17世紀前半)を過ぎた頃にはすでに絶えていたのがうかがえる。

曲亭馬琴文化8年(1811年)の『烹雑(にまぜ)の記』で『昔々物語』を引きながら後妻打ちを論評しており[13]山東京伝は文化10年(1813年)の『骨董集』の「後妻打古図考」で後妻打ちに関する文献や古画を紹介している[14]。これらの文献でも既に失われた過去の風習として紹介されている。

脚注

注釈

  1. ^ その背景としては、単なる政子の嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は貴種である頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったためと考えられる。
  2. ^ 『昔々物語』の伝本によっては「さうどう打」(騒動打)ともある[1]

出典

  1. ^ 氏家 2007, p. 17.
  2. ^ 川口 2005, p. 16.
  3. ^ 笹川種郎 編『史料大成 続編 第36』矢野太郎 校訂、内外書籍、1939年(昭和14年)、134頁。doi:10.11501/1207143NDLJP:1207143/79 
  4. ^ a b 氏家 2007, p. 16.
  5. ^ 藤原道長 著「廿五日癸亥水成 - 寛弘九年二月 ― 三月」、立命館出版部 編『御堂関白記 [15]』立命館出版部、1936年(昭和11年)、350頁。doi:10.11501/2591262NDLJP:2591262/194 
  6. ^ 川口 2005, p. 15.
  7. ^ 平康頼『宝物集 (新型袖珍名著文庫 ; 第13)』芳賀矢一 校、富山房、1927年(昭和2年)、65頁。doi:10.11501/1452746NDLJP:1452746/43 
  8. ^ 「十一月小」『吾妻鏡』 第1、与謝野寛 ほか 編纂・校訂、日本古典全集刊行会〈日本古典全集 第1回〉、1927年、95頁。doi:10.11501/1110798NDLJP:1110798/62。「養和2年(1182年)11月10日条「御寵女(亀前)住于伏見冠者広綱飯嶋家也。而此事露顕。御台所殊令憤給。是北条殿室牧御方密密令申之給故也。仍今日、仰牧三郎宗親、破却広綱之宅。頗及恥辱…」」 
  9. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』小学館、2021年12月23日、83頁。ISBN 978-4-09-388845-5 
  10. ^ 氏家 2007, pp. 14–16.
  11. ^ 清水 2021, p. 141.
  12. ^ 日本庶民生活史料集成 第8巻, pp. 390–391, 「昔々物語」.
  13. ^ 烹雑の記. 前集 / 滝沢觧 編纂 ; 柳々居辰斎 [ほか画]”. wul.waseda.ac.jp. 2024年5月18日閲覧。
  14. ^ 岩瀬醒、喜多武清、歌川豊広「後妻打古図考」『骨董集 [3]』文溪堂、6頁。doi:10.11501/2554345NDLJP:2554345/6 

参考文献

関連項目



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