座敷に上がる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 08:31 UTC 版)
翌1931年(昭和6年)、12歳で半玉(芸妓の見習い)として、吉原の座敷に上がった。14時頃から座敷の準備をし、仕事の有無にかかわらず午前2時まで待機し、翌朝は次に呼んでもらえるよう、礼儀として茶屋を1軒ずつ回り、必ず挨拶する生活を送った。 芸の上達は早かったようで、みな子の芸の音色を芸者屋の息子が耳にし、母と間違えたとの逸話もある。16歳のときには既に、下の者に稽古をつけていた。芸事の天分があったのか、辛さとは無縁の楽しい日々だった。一つの座敷が長く、芸がないと持たないため、芸事ができないと意味がないと、芸に生きた。 「みな子」の名は、この半玉に出たときからの名である。本人の談によれば4代目だが、初代と2代目は不明、3代目は第32代横綱の玉錦三右エ門の妻だという。 16歳で、吉原の芸妓として一本立ちした。贔屓の客は多く、19歳の頃には作家の西条八十が、月1回は来ていたという。20歳の頃、美人で芸達者なことから「吉原芸者四人衆」の1人に数えられ、1日20以上の座敷を抱えた。みな子は後年、この当時のことを「いちばんいい時代でした」と語っていた。 1軒の座敷は6時間、8時間で、最も多い日は12軒も13軒もこなし、座敷の掛け持ちも珍しくなかった。浅草や新橋などの花街などは、深夜0時頃に終わり、客はそれから引手茶屋へ移動、みな子たちが呼ばれるのはそれからであった。そのために、座敷を終えて帰宅するのは夜中3時、4時という生活だった。 夜通し座敷遊びをする客がいて、いつでも仕事に呼ばれるため、化粧を落として眠ることはほとんどなかった。明け方の4時頃に座敷がかかり、寝床で乱れた化粧をわずかに直して出かけることもあった。もっとも吉原芸者は、あくまで着飾った花魁を引き立たせるための存在だとこだわり、化粧は地味目で通し、かつらは着けず、地髪を結って座敷に出た。 中には、昼間から引手茶屋でみな子たちと遊び、夜には遊女のもとへ行き、翌朝に茶屋に戻り、昼にみな子たちを呼び、午後に風呂に行き、夕方にみな子たちを呼び、夜には貸座敷の繰り返しで、3日間居続ける客もいた。
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