創立時の経緯
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「青山学院横浜英和中学校・高等学校」の記事における「創立時の経緯」の解説
1880年(明治13年)9月23日、ハリエット・ブリテンが来日する。57歳の秋であった。 彼女はニューヨークで育ったが、幼いころ転落事故で下半身付随になった。18歳でようやく健康を取り戻すにつれ、宣教師になろうと決意する。20代はアフリカで、さらにインドで20数年間伝道に捧げた。そのころ日本美普教会で日本布教が計画され、まず、エリザベス M.ガスリーが志願するが、来日の途上で亡くなった。ガスリーの遺志を継いで海を渡ったのがブリテンである。「教える者がなくてどうして聞けるでしょうか。聞かないでどうして主を信じられましょうか。主の最後の言葉は『行け』でありました」といった彼女の熱い心が横浜英和学院の礎である。 明治・大正期には校地が度々変わっている。山手48番地に創設した後、校地を山手68番、山手120番に移し、1886年(明治19年)、男女共学を廃し、女子部は横浜英和女学校と改称して横浜居留地84番地(現:横浜市中区山下町84番地)へ移転する。1889年(明治22年)に校地を購入し再び山手244番地に移転し、27年間を同地で過ごした後、1916年(大正5年)蒔田町に移転した。 戦時中、校名に対戦国の「英」が含まれているのはふさわしくないということから、1939年(昭和14年)「成美学園」と改称する。戦後、「元の校名に」という卒業生からの強い要望もあり、1996年(平成8年)、校名が「横浜英和学院横浜英和女学院中学高等学校」となる。
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創立時の経緯
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「愛光中学校・高等学校」の記事における「創立時の経緯」の解説
創立当時、松山市にはすでにドミニコ会により松山女子商業高等学校(現:聖カタリナ学園高校、1925年設立)が設立されている。1951年(昭和26年)5月12日、スペインのアビラにおけるドミニコ会ロザリオ管区会議にて「四国に男子校を設立したい」という管区長の提案に、初代校長となる田中忠夫(旧制松山高等商業学校第3代校長)は、難関大学進学のための中等教育の学校であるなら東京か大阪が望ましいと返答したが、四国のドミニコ会士たちの意向により松山に設立することになった。ドミニコ会は1904年(明治37年)より四国で宣教しており、地元のアカデミックな若者の育成と文化に貢献し、特有の学校を創ることを望んでいたのである。当時、私立校の新設は困難な状況下にあったが、松山市宮西町に所在した学校法人城西学園(松山城西高校、旧:松山技芸女学校、1903年-1955年)との売買契約および法人名変更により、学校の実質的な創立に至った。 校名は「愛と光」との意味が込められていて、これらの漢字はキリスト教の教えと符合する。校章には、愛と光の意味の「Amor Lumen」と記されていた。元々の意味は、愛媛県に光をということからであったが、これが、キリスト教の教義に似通っていると、50周年誌にある。現在の愛光生のアドミッションポリシーといえる「われらの信条」は、初代校長となる田中が愛光中学第1回の入試当日(1953年2月21日)にめずらしく降る大雪で純白の景色のグラウンドを眺めながら書き上げた。 創立時は松山市内の市街地である宮西(みやにし)(現在はスーパーマーケットチェーンのフジ・リテイリング本社が所在している)に所在していたが、創立20周年の1972年(昭和47年)を期に現在地の衣山(きぬやま)に移転した。
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