六波羅攻略
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播磨国では赤松則村(円心)が挙兵し、その他の各地でも反乱が起きた。則村は周辺の後醍醐方を糾合し、京都へ進撃する勢いであった。このような状況を見て、閏2月、後醍醐天皇は名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。 幕府は船上山を討つため足利高氏、名越高家らの援兵を送り込んだ。しかし、4月27日には高家が赤松則村に討たれ、高氏は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。5月7日、足利高氏は佐々木道誉や則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられた。
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六波羅攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 10:07 UTC 版)
勢いを駆った円心は尼崎の久々知に陣取り、24日には酒部に進出。3月10日に六波羅軍1万が瀬川に布陣した。その日の夜、尼崎から上陸した四国の小笠原勢が奇襲をかけてきたが、円心は僅か50騎で敵を突破し、久々知に帰陣した。そこで三男・則祐の進言を聞き入れ、集合した兵3,000騎を率いて敵陣に夜襲をかけ、敵を敗走させた(瀬川合戦)。ここでまた則祐の追撃案に基づいて、12日には摂津と山城国の国境山崎に侵攻。京都淀・赤井・西岡付近に放火を敢行した。 これに対して六波羅軍は、高橋・隅田両検断に2万を預けて出陣させた。円心は、軍を二つに分けて一方を久我縄手へ差し向け、自らは桂へ進軍して桂川を挟んで六波羅軍と対峙した。桂川は増水してとても渡れそうになかったが、則祐が先陣を切って押し渡り、敵を蹴散らした。そのまま大宮・猪熊・堀川・油小路に放火しつつ六波羅を目指し東山に攻め込んだ。 六波羅側は危機感を覚えたのか、時の天皇光厳天皇を六波羅に迎えて六波羅を仮御所とした。また、新手の河野・陶山を初め、兵を大量に投入したため、これまで破竹の進撃をしていた円心軍は総崩れとなった。円心と則祐は急ぎ男山まで逃れ、ここで円心は自刃すると従者に告げたと言われている。しかし思い直した円心は自分の旗印である左三つ巴の旗の上に大龍を描き、八幡菩薩のお告げとして再度京都へ攻め込むと告げた。 再起した円心は山崎と八幡に陣取り淀川と西国街道を押さえ兵糧攻めに切り替え、3月28日と4月3日に京都を攻めたが、六波羅を落とせず八幡で待機、27日に鎌倉から派遣された追討軍の大将軍名越高家・足利高氏(尊氏)の出陣を知ると迎撃に出陣、久我畷の合戦において一族で家臣の佐用城主の佐用範家が名越高家を討ち取って戦は終わった。この戦の後、高氏は畿内の領地である丹波篠村へ向かい、兵を集めて2万3,000騎で反幕府として挙兵した。円心も5月8日に千種忠顕や結城親光、高氏らに合流して京都を包囲、六波羅を陥落させた。六波羅探題北条仲時・北条時益は落ち延びる途中で捕捉され自殺、関東では新田義貞・足利義詮が鎌倉を落とし、元弘の乱は終結した。円心は六波羅陥落後、帰洛の途についた後醍醐天皇に30日に兵庫で拝謁している。
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