六朝
六朝
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六朝の間には詩が徐々に台頭したが、賦は六朝文学の中で未だ主要な地位を占めていた。晋の左思が魏・呉・蜀の都の壮麗さを詠んだ「三都賦」が当時あまりにも人気を博し、人々が競ってこれを書き写したために、洛陽の紙価が上がったという逸話は有名である。梁代には古典文学史上最大の文芸集『文選』が編まれているが、賦はこの中で全37ジャンルの冒頭に置かれている。『文選』は漢初から梁までの全ての賦を集めており、以来賦研究の上での伝統的資料となった。現存する漢賦やその他の詩の大部分は、種々の作品に引かれたものを含め、『文選』などに残されたものである。 抒情賦(辞)と詠物賦は漢王朝ではまったく異なる体裁を取っていたが、2世紀以降はほとんど区別がなくなった。 漢帝国の衰亡に伴って、宮廷文学としての華美な大賦の形式は消滅していく一方、詠物賦は引き続き広く作られた。西晋の陸機以降は、四字句や六字句を多用する文体が定着し、美文化の傾向が著しくなる。魏晋南北朝期の賦の形式を駢賦(俳賦)とも言う。 謝霊運は六朝期を通じて、陶淵明に次いで最も有名な詩人の一人である。やや上の世代の陶淵明とは対照的に、謝霊運は難語や暗喩、対句を多用する。 謝霊運の代表作は、司馬相如の「天子遊獵賦」の形式に範を取り、漢の大賦に似せて私有地を描いた「山居賦」である。 古典的な漢賦と同様、この詩では僻字・難字を多用するが、「山居賦」には 謝霊運自身の注が添えられている点で独特である。 南朝梁代、依然として賦は文体として人気を博したが、五言詩や七言詩が台頭し始め、唐代にかけて詩は完全に賦に取って代わることとなる。謝霊運の「山居賦」をオマージュした沈約の「郊居賦」など古典的な賦の形式を継いだ作品もあったが、これに従わないものも多くなった。簡文帝による「採蓮賦」は短篇の抒情賦で、流布していた抒情詩を自由に取り入れつつ、華南を喜びと官能にあふれた理想郷として描き出した。蓮を採る行為は伝統的に農婦と結びつけられてきたが、5世紀初頭には賦や詩における一般的な主題となった。 庾信は、歴代最後の賦の大家として知られる。庾信は顔之推と同じく華南に生まれ、南朝の敗北後に北朝の北周に移住することを余儀なくされた後は、南朝の滅亡を南方文化や生活の喪失として描き出すことに腐心した。 庾信の代表作は、江南とその文化の滅亡という時代に翻弄された人生を描いた「哀江南賦」である。
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