戦争勃発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 01:29 UTC 版)
エリオットは、1839年10月末に、2隻のフリゲート艦を率いて川鼻沖で誓約書提出済みの自国商船の広州入港を妨害し、さらに11月3日には清国兵船への攻撃を開始した(川鼻海戦)。清国側は広東水師提督関天培が督戦し、ポルトガル製の艦砲を搭載した艦を含む29隻の兵船が出動したものの、ボレージ号に損傷を与えたのみで、大半の兵船が自力航行不能の損害を受けた。 一方イギリス本国も外相パーマストン子爵の主導で対清開戦に傾いており、1839年10月1日にメルバーン子爵内閣の閣議において遠征軍派遣が決定した。「阿片の密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の庶民院でも、野党保守党のウィリアム・グラッドストン(後に自由党首相)らを中心に「不義の戦争」とする批判があったが、清に対しての出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。総司令官兼特命全権大使には、チャールズ・エリオットの従兄のジョージ・エリオット(英語版)が任命され、チャールズは副使となった。 1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4,000人が中国に到着した。イギリス艦隊は林則徐が大量の兵力を集めていた広州ではなく、より北方の防備が手薄な地域に向かい、舟山列島を攻略した後、長駆首都北京に近い天津沖へ入った。 天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、林則徐に開戦の責を負わせて新疆イリへ左遷し、和平派のキシャンを後任に任じてイギリスに交渉を求めた。イギリス軍側もモンスーンの接近を警戒しており、また舟山列島占領軍の間に病が流行していたため、これに応じて9月に一時撤収した。 この間イギリス側は、清国との交渉方針を巡って両エリオットの対立が激化し、特命全権大使のジョージ・エリオットは11月29日に病気と称して帰国してしまった。 1841年1月20日にはキシャンとチャールズ・エリオットの間で川鼻条約(広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。後の南京条約と比べると比較的清に好意的だった)が締結された。ところがイギリス軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝はキシャンを罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否した。 チャールズ・エリオットも、本国に無断で舟山列島を返還したため罷免となり、後任の特命全権大使にヘンリー・ポッティンジャー(英語版)が任命され、1841年8月11日に着任した。 首脳陣が交代したイギリス軍は、本国の方針により軍事行動を再開した。イギリス艦隊は廈門、舟山列島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧していった。三元里事件での現地民間人の奮戦や、虎門の戦いでの関天培らの奮戦もあったが、完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。とくに「ネメシス」号をはじめとした東インド会社汽走砲艦の活躍は目覚ましく、水深の浅い内陸水路に容易に侵入し、清軍のジャンク兵船を次々と沈めて、後続の艦隊の進入を成功に導いた。 広州では広東水師提督関天培が戦死し、鎮海・寧波陥落時には浙江方面防衛責任者の両江総督兼欽差大臣裕謙(中国語版)(ユキャン)が自決した。浙江戦線では清軍は増援を受けて反撃を試みたが、失敗した。 イギリス艦隊はモンスーンに備えて1841年から1842年にかけての冬の間は停止したが、1842年春にインドのセポイ6,700人、本国からの援軍2,000人、新たな汽走砲艦などの増強を受けて北航を再開した。5月に対日貿易港の乍浦を、次いで揚子江口の呉淞要塞を陥落させて揚子江へ進入を開始し(ここでも汽走砲艦が活躍)、7月には鎮江を陥落させた。イギリス軍が鎮江を抑えたことにより京杭大運河は止められ、北京は補給を断たれた。 呉淞では江南提督の陳化成(中国語版)が戦死し、乍浦・鎮江では駐防八旗兵が玉砕した。また乍浦や鎮江ではイギリス軍による大規模な住民虐殺・婦女暴行・略奪が発生している。 この破滅的状況を前に道光帝ら北京政府の戦意は完全に失われた。 イギリス海軍の進撃ルート 1841年8月26日、厦門で清軍を圧倒する第18近衛アイルランド連隊。 イギリス軍の鎮江攻略 清軍ジャンク兵船を沈めていくイギリス軍艦
※この「戦争勃発」の解説は、「アヘン戦争」の解説の一部です。
「戦争勃発」を含む「アヘン戦争」の記事については、「アヘン戦争」の概要を参照ください。
「戦争勃発」の例文・使い方・用例・文例
- 戦争勃発のページへのリンク