モンテビデオ港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 23:06 UTC 版)
14日0時50分、アドミラル・グラーフ・シュペーはウルグアイの首都・モンテビデオに入港した。ウルグアイは中立国(ただし、イギリスの強い影響下)であり、国際法では中立国の港に停泊できるのは24時間以内となっていた。しかし、損傷のため出港できないときはその国の同意があれば修理期間中の停泊は可能ともなっていた。ラングスドルフは機関部の修理に最低でも一週間は確保したがっていたが、ドイツがウルグアイと交渉し出すよりも前にウルグアイにはイギリス駐在大使からの圧力がかかっており、ドイツ駐在大使の交渉も実らず、アドミラル・グラーフ・シュペーは72時間しか停泊が認められなかった。イギリス軍は2隻の軽巡洋艦でラプラタ川河口の封鎖を行い、カンバーランドをフォークランド諸島から呼び寄せ、さらに空母アーク・ロイヤル、巡洋戦艦レナウンを含む有力なイギリス艦隊が集結中であるという偽の情報を流した。 シュペーの自沈の理由については謎が多いが、戦後の証言ではアドミラル・グラーフ・シュペーはラプラタ沖海戦で燃料系統に損傷を受け、燃料をタンクから機関へ送れない状態になっており、修理には時間がかかり即座には長時間の航行が不能の状態にあったという。また、アドミラル・グラーフ・シュペーの見張りは港外にレナウンを発見したとラングスドルフに報告した。これは誤認だったが、ラングスドルフは現在の艦の状態では脱出が困難であり、艦を拿捕されることは本国より厳禁されており、艦の処分は自沈も含めて一任されていたことから、自沈を決断したと推察されている。乗員のうち戦闘員約700名は油槽船タコマに移り、退去期限の12月17日18時にアドミラル・グラーフ・シュペーはモンテビデオ港を出港した。19時28分、艦内に設置された爆薬が爆発し、アドミラル・グラーフ・シュペーは擱座した。脱出したラングスドルフ以下約150名は中立国(ただし親独)アルゼンチンのインデペンデンシア級海防戦艦「リベルタッド(Libertad) に救助された。また、タコマはウルグアイの練習巡洋艦ウルグアイに抑留された。なお、このとき港外にいたのは重巡洋艦1隻と損傷した軽巡洋艦2隻のみであった。アーク・ロイヤル、レナウンがモンテビデオに向かっていたのは事実であるがこの時点ではまだはるか遠くにいた。 自沈から2日後の12月19日、ラングスドルフ艦長はアルゼンチンのブエノスアイレスで、ハーケンクロイツ旗ではなく爆破前にアドミラル・グラーフ・シュペーから回収していたドイツ帝国海軍旗を体に巻きつけ拳銃で自決した。 なお、ドイツのヒトラーはこの海戦の結末をおりにふれて、「戦い抜くことをせず自沈した」「戦艦への期待は幻滅以外のなにものでもなかった」と非難している。
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