テネシー大学
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テネシー大学 | |
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アイアーズ・ホール | |
大学設置/創立 | 1794年 |
学校種別 | 州立 |
本部所在地 | 米国テネシー州ノックスビル市 |
学生数 | 30,559 |
学部 | 教育学部、法学部、経済学部等 |
研究科 | ロー・スクール、ビジネス・スクール等 |
ウェブサイト | http://www.utk.edu/ |
テネシー大学(英語: The University of Tennessee)は、米国テネシー州ノックスビル市に本部を置くアメリカ合衆国の州立大学。1794年創立、1794年大学設置。
UTの愛称で親しまれている。ランドグラント大学に指定されている。オークリッジ国立研究所とも教育および学術研究面で提携を行っている。
歴史
テネシー大学の母体となったのは、南西部準州の州都ノックスビルでの会合の結果、1794年9月10日に創設された大学である。この大学は、準州の知事ウィリアム・ブラウントにちなみブラウント大学(Blount College)と名付けられた。続く13年間、ブラウント大学は少ない学生数と教授陣でかろうじて経営を続けた。1807年にブラウント大学は東テネシー大学(East Tennessee College)と改名したが、1809年に同校唯一の教授を兼ねていた初代学長が死去すると一時的に閉校した。東テネシー大学は1820年に再び開校し、1840年には総合大学(East Tennessee University)に昇格した。
1861年にテネシー州は合衆国から脱退してアメリカ連合国に加入したが、東部テネシーには脱退に反対する住民も多かったため、テネシー大学の学生と教授は開戦とともに各自合衆国軍(北軍)か連合国軍(南軍)に志願し、東テネシー大学はほとんど壊滅しかけた。砲撃でキャンパスは損害を受け、大学の校舎は両軍に接収され、野戦病院となったこともあった(ノックスビル方面作戦も参照)。1865年に就任した学長は合衆国寄りであったため、合衆国連邦政府から18,500ドルの復興費用を取り付けることができた。
南北戦争が終わると、テネシー州政府は東テネシー大学を、連邦の公有地を州政府に割譲し、農工業の教育および学生の軍事訓練に役立てることを定め、1862年に可決されたモリル・ランドグラント法の対象とした。この結果、東テネシー大学はランドグラント大学となった。1879年にはテネシー大学と改名し、1893年には初めて女子学生が入学できるようになった。
1952年、連邦地方裁判所の命令により、アフリカ系アメリカ人が初めて大学院とロースクールへの入学を許可された。1954年には黒人の学生に初めて修士号が贈られ、1959年には黒人の学生に初めて教育学博士号が贈られた。学部に黒人の学生が初めて入学したのはそれより後の1961年であり、1964年には初めて黒人の教官が任官された。テネシー大学での人種の統合は比較的順調に進み、黒人の学生は学内よりも学外の飲食店や娯楽施設で不自由を強いられることが多かったが、1950年代と1960年代のテネシー大学とノックスビルは南部の他の大学よりも人種間のトラブルにみまわれることが少なかった。
1968年にはテネシー大学の再編があり、ノックスビルのキャンパスを旗艦校およびメンフィスのテネシー大学医療科学センター、マーティンのテネシー大学マーティン校、タラホーマのテネシー大学宇宙研究所、その他ノックスビルにある獣医学部、農業研究所、公共サービス研究所から成るテネシー大学システムの本部と定めた。翌1969年にはチャタヌーガのテネシー大学チャタヌーガ校がテネシー大学システムに加わった。1971年から1979年にかけてナッシュビルにもキャンパスが存在したが、1979年に閉校を命じられ、テネシー州立大学と統合された。
伝統
スクール・カラーはオレンジ色と白。マスコットはブルーティック・クーンハウンドのスモーキー(Smokey)。
スポーツ
テネシー大学のスポーツチームは、テネシー州が輩出した志願兵にちなみボランティアーズ(Volunteers)と呼ばれ、NCAAのディビジョンI(フットボールはディビジョンI-A)のサウスイースタン・カンファレンス東地区に属している。女子チームはレディーボランティアーズ(Lady Volunteers)と呼ばれる。略称はヴォルズ(Vols)およびレディーヴォルズ(Lady Vols)である。特にアメリカンフットボールと女子バスケットボールが強豪として知られている。フットボールは1938年を初めに過去3回全米チャンピオンに輝いており、最後に全米チャンピオンとなったのは1998年である。ホームスタジアムであるニーランド・スタジアムは全米で3番目に大きく、収容人数は10万人以上である。女子バスケットは1987年を初めに、1996年-1998年には3連覇を果たし、現在8回(コネチカット大学に次ぐ史上第2位)全米チャンピオンになっている。特にホームでは9割以上の勝率を誇る。
著名な卒業生
- モニカ・アボット - ソフトボール選手
- カート・ヴォネガット - 作家(短期間在学)
- フィル・ガーナー - 野球選手
- ジャスティン・ガトリン - 短距離競走選手
- エステス・キーフォーヴァー - 政治家
- サム・グラディ - 陸上競技選手、アメリカンフットボール選手
- 栗下善行 - 政治家
- オヴィンス・サンプルー - 総合格闘家
- シェリル・ステューダー - 声楽家
- R.A.ディッキー - 野球選手
- ベン・ジョイス - 野球選手
- ジム・デミント - 政治家
- ケビン・ナッシュ - プロレスラー
- クラレンス・ブラウン - 映画監督
- ジェームズ・M・ブキャナン - 経済学者、財政学者。ノーベル経済学賞受賞者
- トッド・ヘルトン - 野球選手
- ハワード・H・ベーカー・ジュニア - 政治家、外交官
- パトリシア・ホール - 短距離競走選手
- レジー・ホワイト - アメリカンフットボール選手
- ウィリアム・マカドゥー - 政治家
- コーマック・マッカーシー - 作家
- ペイトン・マニング - NFL・インディアナポリス・コルツ、デンバー・ブロンコスに所属したQB。2021年NFL殿堂入り
- ヴィンセント・ヤーブロー - プロバスケットボール選手
- アリ・アブ・ラーギブ(Ali Abu al-Ragheb) - ヨルダンの元首相
著名な教授
外部リンク
- Official UT website - 公式サイト(英語)
- Official UT men's athletics site - 男子スポーツ関連公式サイト(英語)
- Official UT women's athletics site - 女子スポーツ関連公式サイト(英語)
テネシー大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 22:19 UTC 版)
最初の人体腐敗研究施設はテネシー大学人類学研究施設(University of Tennessee Anthropological Research Facility)である。テネシー州ノックスビル のテネシー大学本部から南西、テネシー大学メディカルセンターの背後に所在する。1980年、法人類学博士のウィリアム・M・バスが遺体の腐敗を研究するための施設として創設した。 バスがボディファームの最初のアイデアを得たのは、1966年にカンザス大学で教鞭をとっていたときだった。バスは「一部腐敗した牛の死体から、その死亡時刻を決定することはできるのか」という問いを受け、牛の死体を野原で腐らせ、その経過を観察することを提案した。バスは1971年にテネシー大学人類学科長となり、テネシー州の法人類学者として、しばしば刑事事件を通して腐乱死体にかかわってきた。バスが人間の死体の腐敗についてさらなる研究が必要であることを痛感したのは1977年12月のことであった。当時、南北戦争時代の墓が荒らされ、そこで死体が発見されるという事件が起きた。警察は最近の殺人事件の犠牲者がその古い墓に放り込まれたのではないかと疑い、バスを招いて調査を依頼した。その死体は損傷が少なく鮮度を保っていたために、バスは当初、その死体を死後1年以内と誤って判断した。しかし、遺体の衣服を調べた結果、まさしくその墓に葬られていた兵士本人の死体であるとわかった。死体が鮮度を保っていた理由は、棺は鋳鉄で作られており機密性が高かったためであった。1970年代は献体された死体や引き取り手のない死体を、手放されて大学の管理下に入った農場において湯水につけて柔らかくする方法で研究を行っていたが、1980年秋に施設の建設を開始した。そして1981年5月15日、最初の死体が設置された。肺気腫と心臓病で亡くなった73歳の男性であった。 この施設は10,000平方メートルの森林区画からなり、有刺鉄線で囲まれている。施設中に常時数体の死体を異なる状況設定のもとで配置し、腐敗させている。多様な状況下における腐敗についての知見を得るために、死体をさらす方法も様々である。たとえば死体が車のトランク内に閉じ込められた状況や、水中に浸かっていたりする状況などが学生により研究され、事実とデータに基づいた知識を数多くの司法事例に提供している。死体の腐敗過程の所見と記録は、腐敗の順序や速度、昆虫の活動による影響も含めて保存される。研究上、死体の腐敗は4つの段階は分類される。死後間もない新鮮な段階(fresh stage)にはじまり、次に死後数日経過して死体が膨張する段階(bloat stage)、高度に腐敗が進行する段階(decay stageまたはpurge stage)を経て、最後の乾燥段階(dry stage)に至る。 毎年、100体以上の死体が施設に献体される。生前に事前登録する場合と、家族や監察医によって献体される場合とがある。将来の献体として事前登録している人は4000人にも及ぶ。デイヴィッド・ハント(David Hunt)は、自らの遺体を献体した人物としておそらく最も有名な人物は、スミソニアン博物館で同僚であった人類学者グラバー・クランツ(Grover Krantz)であろうと記している。
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