テネシー大学とは? わかりやすく解説

テネシー大学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/30 14:20 UTC 版)

テネシー大学
アイアーズ・ホール
大学設置/創立 1794年
学校種別 州立
本部所在地 米国テネシー州ノックスビル
学生数 30,559
学部 教育学部、法学部、経済学部等
研究科 ロー・スクール、ビジネス・スクール等
ウェブサイト http://www.utk.edu/
テンプレートを表示

テネシー大学英語: The University of Tennessee)は、米国テネシー州ノックスビル市に本部を置くアメリカ合衆国州立大学1794年創立、1794年大学設置。

UTの愛称で親しまれている。ランドグラント大学に指定されている。オークリッジ国立研究所とも教育および学術研究面で提携を行っている。

歴史

テネシー大学の母体となったのは、南西部準州の州都ノックスビルでの会合の結果、1794年9月10日に創設された大学である。この大学は、準州の知事ウィリアム・ブラウントにちなみブラウント大学(Blount College)と名付けられた。続く13年間、ブラウント大学は少ない学生数と教授陣でかろうじて経営を続けた。1807年にブラウント大学は東テネシー大学(East Tennessee College)と改名したが、1809年に同校唯一の教授を兼ねていた初代学長が死去すると一時的に閉校した。東テネシー大学は1820年に再び開校し、1840年には総合大学(East Tennessee University)に昇格した。

1861年にテネシー州は合衆国から脱退してアメリカ連合国に加入したが、東部テネシーには脱退に反対する住民も多かったため、テネシー大学の学生と教授は開戦とともに各自合衆国軍(北軍)か連合国軍(南軍)に志願し、東テネシー大学はほとんど壊滅しかけた。砲撃でキャンパスは損害を受け、大学の校舎は両軍に接収され、野戦病院となったこともあった(ノックスビル方面作戦も参照)。1865年に就任した学長は合衆国寄りであったため、合衆国連邦政府から18,500ドルの復興費用を取り付けることができた。

南北戦争が終わると、テネシー州政府は東テネシー大学を、連邦の公有地を州政府に割譲し、農工業の教育および学生の軍事訓練に役立てることを定め、1862年に可決されたモリル・ランドグラント法の対象とした。この結果、東テネシー大学はランドグラント大学となった。1879年にはテネシー大学と改名し、1893年には初めて女子学生が入学できるようになった。

1952年、連邦地方裁判所の命令により、アフリカ系アメリカ人が初めて大学院ロースクールへの入学を許可された。1954年には黒人の学生に初めて修士号が贈られ、1959年には黒人の学生に初めて教育学博士号が贈られた。学部に黒人の学生が初めて入学したのはそれより後の1961年であり、1964年には初めて黒人の教官が任官された。テネシー大学での人種の統合は比較的順調に進み、黒人の学生は学内よりも学外の飲食店や娯楽施設で不自由を強いられることが多かったが、1950年代1960年代のテネシー大学とノックスビルは南部の他の大学よりも人種間のトラブルにみまわれることが少なかった。

テネシー大学全景

1968年にはテネシー大学の再編があり、ノックスビルのキャンパスを旗艦校およびメンフィスのテネシー大学医療科学センター、マーティンのテネシー大学マーティン校、タラホーマのテネシー大学宇宙研究所、その他ノックスビルにある獣医学部、農業研究所、公共サービス研究所から成るテネシー大学システムの本部と定めた。翌1969年にはチャタヌーガのテネシー大学チャタヌーガ校がテネシー大学システムに加わった。1971年から1979年にかけてナッシュビルにもキャンパスが存在したが、1979年に閉校を命じられ、テネシー州立大学と統合された。

伝統

スクール・カラーはオレンジ色と白。マスコットはブルーティック・クーンハウンドのスモーキー(Smokey)。

スポーツ

フットボール(対空軍士官学校

テネシー大学のスポーツチームは、テネシー州が輩出した志願兵にちなみボランティアーズ(Volunteers)と呼ばれ、NCAAのディビジョンI(フットボールはディビジョンI-A)のサウスイースタン・カンファレンス東地区に属している。女子チームはレディーボランティアーズ(Lady Volunteers)と呼ばれる。略称はヴォルズ(Vols)およびレディーヴォルズ(Lady Vols)である。特にアメリカンフットボールと女子バスケットボールが強豪として知られている。フットボールは1938年を初めに過去3回全米チャンピオンに輝いており、最後に全米チャンピオンとなったのは1998年である。ホームスタジアムであるニーランド・スタジアムは全米で3番目に大きく、収容人数は10万人以上である。女子バスケットは1987年を初めに、1996年-1998年には3連覇を果たし、現在8回(コネチカット大学に次ぐ史上第2位)全米チャンピオンになっている。特にホームでは9割以上の勝率を誇る。

著名な卒業生

著名な教授

外部リンク


テネシー大学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 22:19 UTC 版)

ボディファーム」の記事における「テネシー大学」の解説

最初の人腐敗研究施設はテネシー大学人類学研究施設(University of Tennessee Anthropological Research Facility)である。テネシー州ノックスビル のテネシー大学本部から南西、テネシー大学メディカルセンター背後所在する1980年法人類学博士ウィリアム・M・バス遺体腐敗研究するための施設として創設したバスボディファーム最初アイデア得たのは、1966年カンザス大学教鞭とっていたときだったバスは「一部腐敗した牛の死体から、その死亡時刻決定することはできるのか」という問いを受け、牛の死体野原腐らせ、その経過観察することを提案したバス1971年にテネシー大学人類学科長となり、テネシー州法人類学者として、しばしば刑事事件通して腐乱死体かかわってきた。バス人間死体腐敗についてさらなる研究が必要であることを痛感したのは1977年12月のことであった当時南北戦争時代の墓が荒らされ、そこで死体発見されるという事件が起きた警察最近殺人事件犠牲者がその古い墓に放り込まれたのではないか疑いバス招いて調査依頼した。その死体損傷少なく鮮度保っていたために、バス当初、その死体死後1年以内誤って判断した。しかし、遺体衣服調べた結果まさしくその墓に葬られていた兵士本人死体であるとわかった死体鮮度保っていた理由は、鋳鉄作られており機密性高かったためであった1970年代献体された死体引き取り手のない死体を、手放され大学管理下に入った農場において湯水につけて柔らかくする方法研究行っていたが、1980年秋に施設の建設開始した。そして1981年5月15日最初死体設置された。肺気腫心臓病亡くなった73歳男性であった。 この施設10,000平方メートル森林区画からなり有刺鉄線囲まれている。施設中に常時数体死体異な状況設定のもとで配置し腐敗させている。多様な状況下における腐敗についての知見を得るために、死体をさらす方法も様々である。たとえば死体が車のトランク内に閉じ込められ状況や、水中浸かっていたりする状況などが学生により研究され事実データ基づいた知識数多く司法事例提供している。死体腐敗過程所見記録は、腐敗順序速度昆虫活動による影響含めて保存される研究上、死体腐敗4つ段階分類される死後間もない新鮮な段階(fresh stage)にはじまり、次に死後数日経過して死体膨張する段階(bloat stage)、高度に腐敗進行する段階(decay stageまたはpurge stage)を経て最後乾燥段階(dry stage)に至る。 毎年100体以上の死体施設献体される。生前事前登録する場合と、家族監察医によって献体される場合とがある。将来献体として事前登録している人は4000人にも及ぶ。デイヴィッド・ハント(David Hunt)は、自らの遺体献体した人物としておそらく最も有名な人物は、スミソニアン博物館同僚であった人類学者グラバー・クランツ(Grover Krantz)であろう記している。

※この「テネシー大学」の解説は、「ボディファーム」の解説の一部です。
「テネシー大学」を含む「ボディファーム」の記事については、「ボディファーム」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「テネシー大学」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「テネシー大学」の関連用語







7
18% |||||

8
18% |||||



テネシー大学のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



テネシー大学のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのテネシー大学 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのボディファーム (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS