憲法と中央集権とウォリンとアレントと。 (短文) -『政治思想史の方法』(小笠原、飯島,編)から-
曰く、ウォリンは、アレントについて次のように述べているという。
アメリカ憲法の草案者たちについて、アレントは経済的な動機について分析をしなかった。(彼女の議論の特徴であることは言うまでもない。)
そのため、アメリカ憲法についての説明は、「中央集権への強い意欲」を解釈しないままで終わった。(「中央集権」には、当然経済的な動機が隠されている。それは、仏国等の絶対王政における商業の発展などの歴史的事実を挙げれば容易に分かる、と思う。)
また、州議会をとらえていた民主的な社会運動を、建国の父たちが押し留めようと躍起になっていた、という事実も無視することとなった。
民主的参加を通じての権力の制限を目指すウォリンには、アレントのように憲法立案者たちを政治的なものの回復の試みとして高く評価することは、到底できなかった。
アレントの議論の「陥穽」の一つ、かもしれない。
「政治主導」の裏で誰が省庁間の調整をやっているのか?、という基本的な話。 -牧原出『行政改革と調整のシステム』-
ある程度、行政学の入門書とかを読んでおかないと、退屈してしまうかもしれない。
こちらに、行き届いた書評があるので、こっち読んでから本書を読むといいはず。
ブコメにも書いたとおり、「日常的な『二省間調整』が機能してこそ『総合調整』の負担は軽減され、むしろ十全に機能する」というテーゼが重要(後述)。
省間調整の円滑さと、国家財政の豊かさとの相関、という重要な論点にも、この書評は触れている。
本当は、本書の重要な概念である「ドクトリン」について触れておくべきなのだが、正直めんどくさいので、上掲の書評の方をお読みいただきたいw
政治学者は、「省庁間での調整」の病理をみて、上からの「総合調整」の必要性を説くのに対し、行政学者は、「省庁間の調整」が機能していることこそ、上からの「総合調整」をより活性化するものだと捉えている(182頁)。
つまり、政治学者は、省間調整に官僚機構が「失敗する」所に着目するのに対して、行政学者は、そもそもその省間調整に日常的には「失敗しない」点に着目する。
むしろ、失敗せずに機能することで、内閣の仕事を助けていることに着目している。
政治(「総合調整」)の前提として、「省庁間の調整」が基盤としてある、という観点だ。
組織における官僚的機構がきちんと機能している前提があってはじめて、クリエイティブな仕事は機能する。
(沼上幹『組織戦略の考え方』とかにも、似たようなことが書いてあった)
当たり前だが、同じ官僚機構なのだから、各国で共通することはいくらでもある。
例えば、会議をあげたり下げたりすること。
つまり、大臣クラスの会議と、事務方クラスの各会議を行き来させて、省間の調整を図ることは、日本だけでなく、海外(オーストラリアやフランスなど)でも見られる(200頁)。
国の重大事項であり、その利害調整をきちんとやるためには、欠かせない事柄である。
また、日本で言う「覚書」のような省間の協定的文書は、海外(アメリカやイギリス)でも見られる(218頁)。
アメリカでも、省間の合意文書として、「省庁間協定(Interagency Agreement)」がある。
これを作ることで、省間での合意形成がより円滑に進む。
但し、上記の「覚書」は公開形式のものだと思われる。
日本の場合、住専問題(大蔵省と農水省)をきっかけに、覚書の公開と秘密の覚書の作成禁止が、義務付けられるようになった(251頁)ことは、良く知られている。
官邸主導を掲げた小泉政権。
しかし、その小泉政権下でさえも、具体的な与党との予算の調整は、査定権を持つ主計局が行っていた。
財務省は2005年の歳出・歳入の一体改革のころから、影響力を再び強めていった(261頁)。
こういった財務省(そして法制局)を排除して、自分らで全部何とかしようとしたのが、次の安倍政権だったわけだが、結果は見ての通りだった。
調整不足が原因だった。
まさしく、「二省間調整」の「総合調整」が不活発だと、政治側からの「総合調整」の「総合調整」も機能しにくくなるのである(262頁)。
これを分かりやすくいうと、「財務省及び法制局と多省庁間との調整」が上手くいってこそ、「内閣による省庁との調整」も上手くいくということだ。
もし、財務省や法制局を通さずに、省間調整をやりたいなら、他の組織をこしらえないといけないけど、そこらへんがきちんとできていないと確実に次も失敗にいたる。
小泉政権でさえ越えられなかったハードル、果たして越えられるかどうか。
(終)
「教育改革」の問題は、「公務員改革」の問題そのまま orz -苅谷剛彦『教育再生の迷走』を読む-
教育基本法改正というのは、このような法の根本的な方針(「~するな」から「~しろ」)への転換でした。最低限の教育の目的を定め、あとは、「あり得べからざる教育」 […] を排除するという考え方から、重要な徳目を加算していく「ポジティブリスト」の発想への転換を意味する。 […] 「あり得べからざる教育」を排除する「権力拘束規範」としての性格を持っていたからこそ、改正前の教育基本法は、「空気」のような存在だったのである。 […] ところが、その性格が根本的に変わってしまう。 […] それが、教育基本法改正後の教育がさらされることになる世界である。
この点は意外に知られていないかもしれません。
■2007年当時のこの問題、今も続いてるのよ orz■
2007年頃、「指導力不足教員」の問題がよく話題に上がってましたが、それ以前に「精神性疾患により休職を余儀なくされている教員」の数のほうが問題だったわけです。文科省の調査では、「指導力不足教員人事管理システム」にのっている教員は五〇六名であり、そのうち一三一名が分限・依願退職等により教壇を去っている。このどちらの数字と比べても、精神性疾患により休職を余儀なくされている教員四一七八名という数ははるかに大きく、深刻である。
未だにこの問題、続いているんですよ。
でも、教員の数を増やそうという世論にはならないって、どこが教育立国なんすかねw
■教員には、必要な「ゆとり」がない。マジで。■
教員に余裕はありません。今後の教育改革(授業時数の増加など)で、ますます多忙化に拍車がかかれば、研修の時間はさらに減っていくだろう。教員の質が重要という割には、その質を確保するための時間を今の制度が十分に提供できているようには見えない。 […] フォーマルにも、インフォーマルにも、教員の質を高めるための時間的余裕が学校から失われているのかもしれない。
[…] 今の教員たちには校内での研修の時間がほとんどない。互いに専門職として高めあっていく時間的余裕を与えられていないのである。
ますます忙しくなって、自分の能力を磨き上げるような機会もありません。
要は人数不足・予算不足が大きな原因なんですけど、それを手当てしようと言い出す人、少ないんですよね orz
■余裕のなさが生む、教員の「ロボット化」■
教育っていうのは、ロボットとかが行うんじゃなくて、人が行うものです。どれほど整然としたきれいなカリキュラムであっても、それを実行する教員の力量次第で、教育の効果には雲泥の差が出る。 […] カリキュラムを自分のものにしていく過程を通じて、教員はそのカリキュラムに込められた教育目標を実践していくのであるし、同時に教師としての自らの力量にも磨きをかけていく。 […] 教師の外側に、教育的知識の編成があって、それを教師が外在的に使って教育を行っているのではない。 […]
この当たり前のことができなくなっている。ポジティブリストの発想でふくれあがったカリキュラムは、教師たちから、こうした時間を奪っていくからである。その結果、学習指導要領は、教科書という外在化された教育的知識の体系として形式化され、その内容に忠実に従って教えることが、あたかもカリキュラムの実行と見なされることになる。
ロボットにやらせたいなら、いっそ放送大学みたいな映像形式でやったらどうですかね(毒)
賛成はしませんけど。
■「早いうちに英語」という神話■
まあ、そういうことです。英語教育改革の議論を見ていると、どうしても「ポジティブリスト」の発想に見えてしまう。資源の投入がほとんどないまま、英語を使えたほうがいいという甘い判断で、英語教育を導入するといった姿勢である。
[…]
英語の早期教育の必修化が提唱される場合、たいていはオーラルな英語力の育成をめざしている。小さいときほど言葉を覚えるのが早いし、身につくに違いない、といった神話である。しかし、それが可能になるのは、英語漬けになるような環境においてであって、週一時間程度の授業を、英語教育の資格も持たない小学校教師がやったところで(たとえDVDなどの教材を用いたとしても)、その効果が十分でないことは明らかである。
教育を魔法の杖と勘違いしている人もいるみたいですけど、「資源の投入」をロクに考慮せずに素人の教育談義のノリでコトを進めるから、こんな惨状になるわけでw
■「教育改革」の問題は、「公務員改革」の問題そのまま orz■
学校や教師を、役所や公務員に入れ替えてみても、だいたい通じてしまう orzめざすべき教育改革のリストは長くなるばかりで、社会からの十分な理解や支援も提供されない。追加的支援も教職員の増員もなく、増え続ける改革リストのもとで、学校現場はますます「ゆとり」をなくしていく。
[…] こうなると、学校現場は、「プラスの意識」から改革に取り組むよりも、マイナスのレッテルを貼られないために改革を進めるといった、ますます受け身の姿勢になってしまう。もともと、学校現場の内発的な問題意識から始まった改革ではない上に、教師自身が改革の対象になれば、自己防衛的に改革を進める消極的な態度が広がってしまうのである。
「教育改革」に伴う一種の愚かしさは、「公務員改革」に伴う一種の愚かしさに似ています。
(2011/11/27 追記) ずっと「某書」と書いてきましたが、別に隠す必要はないので、本書の名前を明かしますと、苅谷剛彦『教育再生の迷走』です。
巷にはびこる「教育論議」なんぞより、先生の著作を読んだ方が当然有益。
流石に、全文引用だけだと気まずいので、少しだけ補足コメント書いときます。
石原慎太郎における左翼性
石原慎太郎という人はいつまで左翼だったか調べるべきだと思うんだけど(笑)、 […] 深沢七郎『風流夢譚』(初出『中央公論』一九六〇年一二月号)をいちばんナイーブかつ左翼的に読んで「われわれ庶民に天皇制はいらない」、「痛快な小説だ」とかと、週刊誌のインタビューに答えて言ってる。もちろんこれは「風流夢譚」の誤読だと思うけど、 […] あるいは『国家なる幻影』(文藝春秋社、九九年)という回想録を読むと彼が七〇年代後半に環境庁長官になった頃、川本輝夫に対するシンパシーを語っている。 […] 「第三国人」発言などを挙げつらっただけでは石原慎太郎の批判など出来はしないわけで (某書より引用)
■「舶来思想」への反動?■
由良君美が吉本隆明の思想を特徴づけて「本地垂迹説」と言ったことがあります […] 「ここ・いま」へ繋がる伝統への回帰、手触りの確かさみたいなものがないと何もできないのだ、という発想が当時の思想状況にはあった。 (某書より引用)
■廣松先生のサービス精神■
寺山さんと廣松さんは、世間知らずの若者がいきなり頼みに行っても、どんな企画でも全部受けてくれる有名人の双璧だった。廣松さんはパチンコ雑誌にまで「ギャンブルについて」という文章を書いていたぐらいです。 (某書より引用)
■犬が轢かれて■
車に轢かれたのに、車の下に逃げ込むとは奇妙なことだなと私は思った。しかしよく考えてみれば、傷ついた犬にとっては、動いているものと動いていないものの区別がいちばん大事なのであって、動いているものなら車だろうと人だろうと、見も知らぬ人間だろうと飼い主の家族だろうと、すべて等しなみに自分の弱みにつけこんで襲いかかる敵に見えるのにちがいない。 (某書より引用)
■麻酔と括約筋■
病室にもどって若い看護婦が愉快そうに話してくれたところによると、麻酔が効いてくると、括約筋が麻痺して肛門が直腸の太さに開いてしまう。そこから直腸の内壁にメスを入れたら、血膿がどっと流れ出てきて、膿盆に溢れそうになった。 […] 腹をさすってみると、いままでゴムマリみたいに張っていたのが、なるほど平たく柔かくなっている。 (某書より引用)
二大政党制じゃなくても、ちゃんと政治ってできるから。これ豆な。 -吉田徹『二大政党制批判論』を読む-
正直、第3章が一番面白い。
それ以外の章は、その分、色あせてしまうくらいだ。
政党助成金。これは世界各国で導入されている。
ただ、ドイツでは、90年代に入って、政党活動の自由に抵触する可能性があると憲法裁判所が認め、助成額は政党の収入を上回ってはならない、っていう判決が出ているらしい。
で、日本の場合、政党助成金の上限がない。
2003年の場合、民主党のうち85%、自民党の60%、社民党の61%が、政党助成金でまかなわれている。(しかも、この助成金は積立可能。)
もし、健全な政党政治を目指すなら、イギリスのように、野党だけに政党助成をすべきだろう(128頁)。
英国における「ショートマネー」と呼ばれる政党助成も、野党の第一党のみに与えられる。
(ただし、英国の場合、2000年から、与野党ともに「政策開発補助金」という補助金が出ている。)
日本の場合は、与党を除いて野党政党全部に、政党助成をすべきと思われる(連立政権の場合は、適宜判断すべき所か)。
ちなみに、英国の場合、「官僚は、マニフェスト作りなど野党の政策策定への支援が義務づけられている」という(「イギリスの政権交代から何を学ぶか?」より引用)。
確かに、官僚っていうのは、与党の占有物ではなくて、野党も活用できる存在であるべきですな。
著者は、本題で分かるように、二大政党制には、批判的。
二大政党制の弱点の一つは、新たに政権に就いた政党が、自らを支持した有権者の期待に応えようとするあまり、前政権との違いを出すためにと、急進的かつ対立的な政策を出す誘惑に駆られる可能性があること(134頁)。
しかし、これは結果、国民を分断して、政策的なブレを大きくする。
政権交代によって、かえって、社会に大きな負担をかけることになる。
日本の現状そのまんま orz
多分、今度民主党が下野しても、今と同じことになる。
イギリスで有名なマニュフェスト。
しかし、実際のイギリスのマニュフェストは、数値目標満載なんかではない。
必ずしも、財源や期限とセットになっているわけじゃない。
たいていの場合、アリバイとして数字が明記されはするが、有権者との「契約」として呈示されてはいない。(まあ、概算ですよね、あれは。)
数字、特に財源を明記するやり方は、ブレア労働党によって強調されたものだった(138頁)。
当時の労働党が、政権交代を恐れる有権者にアピールするために、マニュフェストを導入したのだった。安心してください、我々は、前政権と断絶した政治をするんじゃないんですよ、と。
ブレア労働党のターゲットは、中流層であり、彼らの支持を得て政権を獲得しようとした。
このように、「政権担当能力」を保守党支持者に示すために、マニュフェストを使ったのが実情である。
そもそも、マニュフェストどおりに政治をするなら、政治家なんて、政治政党なんていらないだろう。
政治がなぜ必要かといえば、予見できない課題や、新たな利害対立が生じた時に、万人に対して説明責任を果たすためだ。
マニフェストに、頼りすぎはいけないよね。
マニフェストについては、以下の記事もご参照あれ。
・牧原出『東電の工程表と民主党の政策が絵空事に陥る本当の理由(時評2011)』
・豊永郁子「マニフェスト政治にもの申す」
政治学者のトッドは、西欧17カ国の戦前・戦後を対象にした場合、単独内閣と連立内閣という形態と、政権の寿命には因果関係がないと実証した(144頁)。
多党制でも、安定した長期な内閣は、戦後西ドイツやオーストラリアなどいくつもある。
戦後・戦前で、50ヶ月(4年以上!!)の長期続いた内閣のうち、60%は多党制だった。
レイプハルトも、連立政権や比例代表制は、決して不安定じゃない、と述べている。
要するに、"連立政権・比例代表性=短命"ってのは、神話に過ぎないのですな。
連立政権の場合。
オーストリアは、長く、二つの大きな政党による大連立が、戦後ほぼ一貫して継続して安定していた。
ベルギーやフィンランド、イタリア、60年代までのフランスは、連立政権だったけど、選挙による政権選択で混乱したことはない。
イギリスの場合、欧州議会選挙のとき、99年から、全国を12選挙区の比例代表制度にしたら、戦後政治史上、最も高い投票率になった(153頁)。
著者曰く、日本に欠けてるのって、「強いリーダーシップ」とか云々じゃなくて、「政治が自分たちのためにある」って感覚じゃない、と。
まあそういう意味でも、死票つくったらだめだよね。
坂野潤治先生の福沢批判。
福沢の二大政党制論は、薩長閥が保守主義政党を、福沢率いる交詢社が自由主義政党を担うという前提が必要だったし、自由民権の愛国社の存在を無視していたんじゃないか、と(170頁)。
『日本憲政史』を引いて著者はそう述べている。
そういや、『明治デモクラシー』でも、そんな批判してたっけな。
福沢は藩閥と政党の中立のスタンスでいたけど、どう考えても当時強力だったのは藩閥政府の方であって、そんな力の非対称性をわきまえないで中立面したら、政党もそりゃ弱体化するよね orz
著者曰く、大正時代の議会政治は、院外の政治活動へと波及しないで、下からの運動としての政党を排除してしまった(178頁)。
結果、足腰の弱いデモクラシーのままになった、と。
当時の政党は治安維持法を容認したが、その思考回路も、院外の政治活動を嫌った当時の政党の思惑があるのだろうなあ。
(どーでもいい追記)
ブクマコメにある件
そういうのは、ご自分でおやりくださいwtoycan2004 単に政治について学校で全く教えないからそうなってる、中学の政治経済の教科書や近代史をどの程度教えてるかについて調べるといい
小泉政治を振り返る(但し、何故か2003年の書物を使ってw) -政策的な節操のなさと、制度への無関心-
2003年の書物。
所々面白い。
小泉純一郎は、実は、外交や防衛問題に殆ど関心のない政治家である(91頁)。
例えば、彼は、岡崎久彦(元駐タイ大使)からのレクチャーで、集団的自衛権の問題を聞いている。ただし、このときにわか勉強だった。
何と、2001年の出来事である。
こんなんだから、イラク派兵問題での「自衛隊のいる所が非戦闘地域」発言も生まれたわけですな orz
小泉は、首相就任以前は、タカ派といいがたい側面がある(92頁)。
1990年には、湾岸戦争のとき、自衛隊の海外派兵に批判的だったし、外務官僚にも厳しい質問をしている。
さらに、1993年のカンボジアPKOの時も、文民警察官が殺傷された事件を受け、撤退論を強く主張している。しかも当時、郵政大臣という閣僚だった。
「国連常任理事国入りを考える会」の会長だった時期には、常任理事国入り阻止を主張していた(それがこの会の目標だった)。
まあ、その後の「転向」を考えると、実際は「外交や防衛問題に殆ど関心のない」だけかも。
著者は、小泉が「制度そのものを批判するのではなく、あくまで「本人の判断」のレベルで思考している」と述べている(101頁)。
彼が世襲議員で、子分を作る必要性もなく、金集めにも苦労せず、大都市を地盤にしていたから利益誘導の必要も少ないということも、その背景にあると著者は指摘する。
確かに、小泉の"後先の考えなさ"は、制度への無頓着に根があるように思う。
"制度の複雑さ"というものを考えないから、制度を変えたことによる副作用にも目が行かず、結局は、「政治家当人がしっかりすれば大丈夫」的な考えで済ましてしまうのだろう。
ポピュリズムについて、著者は、"「エリート()既得権益)」と「普通の人々(庶民)」の二元論を設定し、後者の味方をして政治的歓心を買うこと"だと定義している。
ポピュリズムを、脇目も振らぬ"既得権益批判"とするなら、公務員叩きは、まさにポピュリズムの典型というべきだろう。
ちなみに、これはレーガンも勿論そうであるが、実は、パパ・ブッシュもクリントンも、この二元論で政治的支持を調達しているという(117頁)。
まあ、クリントンもそんな感じだったかな。
ちなみに、レーガンの場合、「支持層の利益に反する政策を追求しつつ、そして「敵」とされるエスタブリッシュメントの利益を増進しつつ、最後まで高い支持率を維持し続けるような離れ業」をしたという(128頁)。
永井陽之助によると、確か、ジョンソン大統領も似たことをしていたはず。(『多極世界の構造』とかに書いてあったよ。)
で、小泉の場合、菅原琢『世論の曲解』によると、地方の支持も結構あったらしい。
なので次のように言えるかもしれない。
「小泉は、支持層(都市)の利益にのっとった政策を追求しつつ、そして非支持層な地方の支持も、"改革"を旗印に得つつ、自身の退任まで高い支持率を得た」、と。
レーガンとはむしろ逆な感じですな。
田中真紀子が、外交政策に無関心で勉強もしなかったことも書かれている(176頁)。
彼女の素行の悪さについても触れられている。
その一方で、彼女が、米国のミサイル防衛計画に批判的だったこと、靖国神社参拝に批判的だったこと、中国に同調的だったことも、きちんと記してある(180頁)。
そういえば彼女、実は、「サヨク」受けのいい政治家ではあったのだ(まあ、実際にどの程度の支持があったかは、知らないけど)。
国歌斉唱と、トナカイと、地方自治と -大人な合意って奴を、生徒に見せてあげてね-
内容は普通。まあ強制は良くないんじゃないかな、的な内容。
一応ちゃんとしらべてて、「緑の山河」とか「われら愛す」の話題も出てくる。
ピチカート・ファイヴの「君が代」の話も出てる。
松山千春が、君が代に敬意を表しつつ、一方で、(当時の国旗国家法の)法制化には反対だったことも、書いている(210頁)。
だが、本書を読んで一番驚きなのは、スウェーデン人と日本人のハーフであるLiLiCoさん(王様のブランチに出ておられる)の好物が、「トナカイ」であることだ。
伊藤かな恵さんも、びっくりだね。
最近、国歌のことが話題になっていたが
この件についてお勧めするサイトは、以下の通り。
・「国旗国歌を大切にしないからだめなのか、職務上反抗的な態度は許されないからだめなのか、はらわたが煮えくり返るからだめなのか。」(『女教師ブログ』様)
2006年の記事だが、色あせぬ内容。「国歌を政争の具にしないためには、強制とかやめとけよ」という明瞭なスタンス。
・「国旗掲揚、国歌斉唱に関する諸外国の判例・事例」
諸外国の事例が確認できる。「ヨーロッパの立憲君主国では学校での国旗掲揚や国歌斉唱をすることが殆ど無い」という記述が重要。
・「諸外国における国旗,国歌の取扱い」
先進諸国の場合だと、国旗国歌の取り扱いについて、国レベルの義務規定がないか、そもそも学校で掲揚・演奏をしない、ということを確認できる。
・「君が代不起立訴訟最高裁判決に関する山口元一( @GenYamaguchi )氏のツイート」(Togetter)
先の「君が代」訴訟に関して、必読。舞台裏は、あんまり報道されなかったですよね。
以下、試論。
地方レベルの話。
最後に、ブコメにも書いたけれども、「もし地方分権(より正確には「地方自治」というべき)の真の意義を考えるなら、"下からの民主主義"(=各校の生徒及びPTAの内部の熟議)を尊重すべき」じゃないかな。
もはや禍根ともいうべき対立を解決する方法が、結局弾圧同然の行為だなんて、生徒が見たらガッカリするだろう(あるいは、生徒に悪影響だろw)。
最終的には、生徒一人ひとりの意思こそが尊重されて然るべきでしょ。彼らのための儀式だよ。
そのためにこそ、大人たちは熟慮すべきであり、その合意過程が生徒の模範たるべきであって。「府知事と不愉快な仲間たち」の振舞いは、そういう意味で実に非教育的じゃないかなw
国レベルの話。
業務である以上公務員は従わねばならない、という判決が出たけれども、そもそもあんなの業務に値するのかどうか。正直税金の無駄じゃないかな。ああいうの。というより、時間の無駄だし。
仮に、国歌斉唱の本来的意義が、構成員の意思の統一(矯正)にあるとするならば、こんな左右の政党で(あるいは政党内でさえ)意見が割れちゃうような"業務"は、構成員の意思の統一の障害物でしかないと思います。(構成員の意思統一は、もっとソフトなものでおやりになったらいかがでしょうかね)
悪いことは言いません。こんな役立たずな慣例、儀式から排除した方がいいですよ。もちろん、この問題の解決に至る合意は、是非、生徒が直視するに足るやり方でお願いします。大人の"対話力"の見せ所です。
(追記 6/15)
なぜか、いろんな人にブクマされてたみたいなので、補足としてお返事しておきたいと思います。
なるほど、日の丸・君が代は18歳になってからw、って話ですね。大変に興味深い考え(兼 ボケw)だと思われます。hitouban エロマンガのゾーニング・レーティングに理解を示す程度に子供さんへの影響力を考えちゃうアタシ的には、※欄ATM=ぎんちゃんの意見にも一理ある希ガス。日の丸にも戌年マークを(←違う) 2011/06/15
大人になって"判断力"を身につけてから、自分が日の丸・君が代にいかに向き合うのかを判断しよう、という考えですね。良い考えだと思います。
帰化される方のことを考えるなら、この方法でも問題ないかもしれませんな。
(最近帰化されたドナルド・キーン先生も、幼年から日の丸・君が代に接していたわけではありませんが、もう立派な愛国者様です。よかったですね。まあ、勤皇の人キーン先生なら、今上天皇の意思を汲んで、強制反対でしょうけどw)
この場合、熟議ってのは、多数決とイコールじゃあないわけです。dwnrvr リンク重宝/ 『内部の熟議』の結果、国歌国旗強制が(自ら)選ばれる可能性も大きいとは思う。各個人の意思こそが尊重されるべきなら、無強制一択。/そもそもこんなの"公共"教育機関の儀式からなくせ、という点に尽きる 2011/06/15
相互に異なる利害を持つマジョリティとマイノリティが、相互の利害を調整し、相互に共存しあう方法を模索するまで、時間をかけて議論を行うことを、ここでは「熟議」と定義しております。
各個人の意思が尊重されるまでは、彼らとの共存方法がきちんと構築されるまでは、当然強制なんぞありえない話だよね、と思います。
まあ、その最善の方法は、「"公共"教育機関の儀式からなくせ」に尽きますよね。
日本で不幸なのは、自分自身が"社畜"であることにさえ気づかないという現象です。その現象を身をもって示された貴殿に、敬意を表しますw素敵な「社畜脳」を見させていただきましたwmomopopohate 入社式の規律や研修で社歌や社訓を覚えるのも、表現の自由があればやらなくていいんですね。はい、常識はずれの公務員思考。( ゚,_ゝ゚)バカジャネーノ 2011/06/15
(思想・良心の自由と、表現の自由を混同しているという致命的ミスをしてね? ということについては、かわいそうなので指摘しないことにしますねw)
入社式や研修というのは、企業の、つまり一応、非公的な物に過ぎないのであって、ここで問われているのは、国歌斉唱とやらが、果たして公務員である学校教師の(公的な)"業務"に値するのかどうか、という問題なんですよね。その辺お分かりでしょうか。
あと、社歌と社訓を強制されて、それを拒んでも、流石に解雇にはならないと思います。そんなつまらんこと、業務に励めば、取り返しくらい付くでしょう。顧客第一の会社であるなら。業績をあげてなお、社歌云々いわれるようでしたら、その会社はブラック濃厚です。身の振り方をお考えください。
というわけで、ソックリお返しします。( ゚,_ゝ゚)バカジャネーノ
えーっと、その"色々考え"た過程を知りたいんですけどねwgingin1234 色々考え、国旗国歌強制に反対という意見に賛成かな。ただ、それは同時に中韓への「謝罪強制教育」の撤廃も視野に入れたものでなければならない。 2011/06/15
下でコメントいただいた、「現金自動預け払い機」さんの回答とともに、返答いたします。
>国旗国歌が強制というのなら、学校で旧日本軍の悪行をこれでもかと子供に教え込み、中国や韓国に対して否が応でも罪悪感を抱かせる教育を強制するのもどうなのか、と思います。
逆に言いますが、旧日本軍の「悪行」を教える程度で、萎えちゃうフニャフニャ愛国心なら、そんなの抱くのはやめちゃったほうがいいんじゃないですかね。
(90年代に、福田和也と宮崎哲弥が、西部邁ら(当時『新しい歴史教科書』に参与)と袂を分かった理由ご存知でしょうか。自虐史観云々程度でなえる愛国心なら、んなヘナチョコなもんは愛国心でもなんでもない、って話ですよ)
それに、「罪悪感」という感情程度で終わらされちゃ困るんですよね。その歴史を踏まえたうえで、どのように隣国と付き合うのか、という将来的展望まで考えてもらわなきゃ。
>国旗国歌を強制するな、というのなら、まずは中国や韓国に対する「謝罪の強制」もまた解消されなければならないでしょう。謝りたい人は謝ればいいですが、謝りたくない人は謝らなくても良い。それがまさに「強制」の無い教育というものです。
歴史教育において、謝罪は強制されてないと思います。つーか、罪悪感と謝罪って別だと思いますけど。その点はご理解されておられますでしょうか。(罪悪感を抱いても、信条によって謝罪しないっていうこと自体は、ありうるのですよ。)
っていうか、さっきご自分で、「中国や韓国に対して否が応でも罪悪感を抱かせる教育」って留保付けて書いているのに、「謝罪の強制」ってすり替えちゃうのは、レトリックとして上手くないので、やめた方がいいでしょう。
真のナショナリストなら、歴史的な事実を全て受け入れ、"自国"の為した悪行・汚辱を受け入れてなお、その自国を受け入れるものだと思います。その強い愛によって。
そういう姿勢なら、まあ、謝らないのは、行動として、自由ではあります。ただし、国家にその「悪行」を犯した「責任」があることくらいは、認識として、お認めになるべきでしょう。
>(南京虐殺を教えるな、というわけではなく、そういうのはきちんと自己判断ができるようになってから教えるべき。また、それに「謝罪」を強制させる教え方も禁止する、という考えです)。
ぜひとも謝罪強制教育の撤廃に協力していただきたく思います。
ここでいわれている「きちんと自己判断ができるようになってから」という意味が良く分からないのですが。
まさか、廃藩置県も教えるな、とおっしゃってるわけじゃないんですよねw?なぜ、よりにもよって「南京虐殺」という事例を出されたのか、ご説明された方がいいと思いますよw
あと、「「謝罪」を強制させる教え方」というのも、いまいち良くわかりません。具体的に何を指しているのか、おっしゃられた方がいいと思います。
まあ、そもそも、自国の兵士が占領先の民衆に危害を加えたら、普通"罪悪感"を抱くものだと思いますが。どうなんでしょ。
申し訳ありませんが、おっしゃっていることが非具体的で、以上のようにしか解答しようにも解答できません。
頑張ってください。
「頑張ったのに報われない」、お役所の職員編 -打開策は「お褒めの言葉」と「宣伝」?-
仮にある役所が、本当に必要な政策ができて、翌年組織と定員を拡充したいと考えたとする。
でも、昨今の財政難もあって、そう簡単にできない。(著者曰く、政治的な決断があれば別らしい)
そこで、人員や組織(つまり予算)を余らせておいて、内部留保し、しかるべきときに、「振り替え」するわけだ(112頁)。新規で増やすより、こっちのほうが、ずっと楽チン。
以上から分かるように、なぜ、役所の予算や組織や人員を総簡単に削れないのかといえば、皮肉にも増やしづらいからなんだよね。
逆にいうと、「小さな政府」支持派の人は、早急に予算・人員の増減が出来るシステムを考えなきゃいけなくて、場合によっては、そのシステムのせいで予算がかえって増えてしまうリスクも考えなきゃいけない。
公務員の場合、工夫したり頑張ったりして、てきぱき仕事を済ませてさっさと帰ると、翌年、その部署は仕事が楽だからと、配置人員が減らされる可能性がある(98頁)。
要するに、頑張っても報われないシステム。
インセンティブ効かない。
改革のパラドックス。
公務員の場合、組織の内部改革は、恩恵を受けるのは自分の後任。でも苦労するのは自分、そして、巻き込まれた周囲。
また、こういう内部改革は、自分の手柄として、アピールが外部にしにくい(142頁)。
そりゃ、内部改革なんて出来ない。
どうしたらいいものか。
組織内外を巻き込んで、大々的な表彰をするしかないように思う。名誉に訴えかけるとか、選択肢はそれくらいですよ、方法としては。
行政のパンドラの箱(つまり、不正の温床)は、仮に、ある公務員が解決しようと決意しても、一人では背負い込めない。
まず、特定部局のメンバーが巻き込まれる。
そして事態がもっと大きくなれば、プロジェクトチームを特別に組むことになって、ほかの部局から、人を動員することにもなる。
結果、その他いろいろな人たちに、「迷惑」かけることに。
しかも、この箱を空けた人間は、問題発覚時の責任者ということで、相当な確率で、出世競争に大ダメージ。
何てこった、ぜんぜん報われない orz
著者曰く、内外からの告発でばれたならともかく、勇気出して箱を空けた人間がそうなるとわかってるなら、普通は逃げ切りたくなるよね、と(163-164頁)。
うーむ。だから結局、内部か、外部からの告発頼りなるのか。
大切なことは、褒めること。
コストを頑張って削減したことへの賞賛、市民の満足度を向上させた事への評価、そういったものが逐次供給されないと、そりゃ、公務員も疲弊する(245頁)。
ほめが大事。
あと、自分達の仕事の宣伝・アピールも、実は大事ですよ。(この詳細は、権丈先生の『勿凝学問346』をご参照ください)
最後に、公務員の件について、優れたブログ『machineryの日々』様から良記事を選んでみませう。
「ナショナルミニマムを巡る利害調整」と「政策法務」では、利害関係者の多いお役人の利害調整の大変さが、「利害関係者が組織を決める」では、お役所職員の報われなさが、各々取り上げられております。
是非ご一読を。
人手不足な公務員職もあるよ -国家公務員の"天下り"問題とか、地方・中央のアンバランスな件とか-
ただ、タイトルが正直釣りで、正式タイトルは、「実際のところ、公務員ってどうよ?」みたいな感じ。
でも中身はマトモな本です。
んで、中身。
外郭団体の職員を含んだ、政府部門の就労者数は、国税庁がまとめた源泉所得税の納付状況を元にすると、約893万人にもなるらしい(22頁)。
これを多いと見るか、少ないと見るか。
ちなみに、外郭団体の幹部ポストも、大手民間に比べれば給与水準は低いらしい(49頁)。
まあ、外郭団体(天下り)問題の重要点は、彼らが給料の分きちんと働いているのか、という問題につきるだろうから、給料の安い低いは、あまり問題じゃない気がする。
結局、外郭団体(広くいえば天下り先)がきちんと仕事してるかどうかが問題だ、というのは、田中秀臣『不謹慎な経済学』もいってたっけな。
公務員なら、定員も人件費も国の枠組みで縛れる。
でも外郭団体なら、そこから外れてしまう。役所に封じ込めたほうが、行政コストは下げられる、という主張もある(107頁)。
実は、そういう意味では、「大きな政府」は合理的ではある。
公務員減らすより、いかに彼らに、仕事をさせるのか、頑張ってもらえるのか、知恵が大切ではあるけど。
実は現在、地方より中央のほうが官庁人員は欠乏してる。
政治主導とか諸々の事情で、係長クラスの官僚が引っ張られて、そこで、その穴を出先機関とか外郭団体から引っ張ってるわけだ。
実際、霞ヶ関が、地方自治体や外郭団体からスタッフを「業務研修」名目で、引っ張ってくる事例も。
ただ、国家公務員採用Ⅱ種、Ⅲ種試験合格者の場合、部局採用、地域採用になる。で、結構地元から離れたくない人も多い(108頁)。だから、そう簡単に中央へ来てくれない。
実に悩ましい所。
そこで、「地方分権だーーー」って言い出す人は多そう(笑)
ただ、現状は、地方より中央での採用を増やしていくしかない。(場合によっちゃ、中途採用という方法も検討した方がいいかも、とか思ってしまったけどw)
意外と知られていないが、公務員もリストラは可能。国家公務員法の規定では。
ただ基本的には、出向や、配置転換、勧奨退職とかで乗り切ってきた。
何でこうなってるのかといえば、総定員法によるもの(118頁)。これのおかげで、整理解雇も、配置転換も、本人の同意のないものは、できなくなったわけだ。
この流れが変わってきたのは、2006年の閣議決定による、農水省や国土交通省の特定部門の業務リストラのとき。
配置転換が決行された。よりにもよって、彼ら、国税局員や刑務官に転籍したという(p119)。
これ、超左遷じゃんw。普通のリストラよりきつい。
(逆に言うと、国税局員とか刑務官は、慢性的に人手不足ってこと。あと、生活保護課も人手不足。)
まあ、公務員って、ひとくくりには出来ない存在です。
説明責任は、制度としてここまでやる必要がある。 豊永郁子「小沢一郎論」(下) (2)
シュミッターとカールという学者は、民主主義のためには、政治的行為者の行動に一定の予測可能性が必要である、と指摘しているそうです(239頁)。著者はその主張を肯定し、民主主義には、政治家の行動がある程度予測できる必要があるといいます。
政治家は予測不可能な行動を慎むべきである(230頁)、という著者の指摘は大変重要です。著者にとって、政治家とは、不確定要素の多い政治の世界において、その「複雑性」を縮減する役割を果たす存在です。
同じことが、政党にも言えます。著者は、変転激しい政治事象の海にあって、政治の世界に一定の予測可能性を保障してくれる存在として、政党を位置づけています(232頁)。そして、このような「複雑性」を縮減する役割を果たし切れていない日本の政治家・政界に、厳しい目を向けています。
これらは、卓見というべきでしょう。何で政党があるのか、何で政治家が必要なのか、これが端的な回答なのです。
■「選挙に勝てる」ことしか考えないのは、職業放棄?■
「国民に受ける、受けない」とか、「選挙に勝てる、勝てない」などの基準を、政治家が判断基準にすることについても述べられています(234頁)。
このような振る舞いは結局、国民が政治家を品定めする機会を奪い、国民と政治家の間にダイアローグを構築するのを妨げます。また、政治家はこのとき、自分の考えを語りえないことを白状しているのも同然なのです。極端なはなし、自分は何も考えず、ひたすら「国民」に耳を傾け続ける。このような嫌われたくない症候群の"意気地"のない政治家を国会に送り出す国民とは……。
ともあれ、このような融通無碍は結局、「複雑性」を縮減させるどころか、増大させてしまいます。
■「説明責任」とは、ここまでやらないといけないらしい。■
著者は注の方で、「説明責任」についても書いています。この概念はもともと、1980年代、サッチャー政権時代に発生したものです。大臣が、議会に対してだけ説明を行う責任を負うのでは不十分だ、という考えの下に、その範囲は拡大したのです(236頁)。説明を行う責任を負う範囲が、この時期議会から、その他利害関係者、そして国民へと拡大します。
では、適切な「説明責任」とはどのようなものか。
例えば、①事実情報が公開されていること、②有権者(もしくは、その上位機関)がその評価を下せること、③これによって、その主体(政治家)が然るべき承認や制裁を受ける機会を含んでいること、などです。言い訳を一方的に言って、それで果たされるようなものではないのです。
情報公開や、有権者による評価といった点は、予想される範囲でしょうが、③の「然るべき承認や制裁を受ける機会」というのが特に重要です。説明責任とは、そこまでやらんといけません。
以前書いた拙稿より引用(「インタゲ成功のための制度的保障」より)。
要するに、説明責任というのは、制度的にそのメンバーの任を左右できることが前提なのです。日本の政党はさっさと、制度構築を急ぐべきじゃないですかね。民主党も民主党以外も。説明責任とは説明する責任があるという意味ではなく、その説明が説得的なものでなければ、中央銀行総裁をはじめとする政策委員会のメンバーの辞任あるいは免職を伴うものでなければならないという意味である。 (173頁)
(おしまい)
2010/10/02 改題済
誤解されがちなウェーバー的責任倫理 豊永郁子「小沢一郎論」(下) (1)
■小沢批判というよりも、優れた日本政治論です■
本論は、「小沢一郎論」という題名で、確かに小沢氏への批判の側面が濃いのも事実です。しかしむしろ、日本政治全体に対する批判、という趣が、「下」では強いように思います。
実際、小沢氏を、周囲の人間は手段として扱ってきた観さえある、と著者はいいます(233頁)。彼を具にして、「剛腕」といったイメージを実態以上に膨らませ、それを周囲の政治家は利用してきたのではないか、というのです。
著者は「下」で、日本の通俗的なマックス・ウェーバー解釈を正すことを通じて、日本政治全体を論じています。「上」については今回は省略し、「下」について思うことだけ書いていきたいと思います。
■権力そのものを目的にする勿れ■
著者は次のように言います。
ウェーバーにとっての権力というのは、闘争の結果、獲得するようなものではない。そして、溜め込めるようなものではない、と。つまるところ、それは、もののようには所有できないものなのです。
むしろ権力とは、ウェーバー曰く、各場面で形成される「チャンス」である、と(225頁)。溜め込むことの出来ないものなのです。
権力というのは、物のように溜め込める存在ではなく、そのつど形成していく存在なのです。これは、権力をかき集める自体を至上命令にしてしまった政治家への批判です。著者は、権力自体の獲得自体を目的にしてしまう政治を、批判しています。
■誤解された責任倫理■
責任倫理という概念が、ウェーバーにはあります。しかしこれは、日本( 特にその政界 )では誤解されがちな概念です。責任倫理が、結果・目的のためなら手段を選ばなくてもよい、という政治家へのフリーハンドを与える概念だとして、誤解されているのです。実際はそうではない、というのが著者の主張です。
では、本来の責任倫理と心情倫理とはどのようなものか(226,7頁)。
ウェーバーによると、心情倫理というのは、自分のよき心情のままに行動せよ、と命じる概念です。その結果、行為者は手段に頓着しなくなってしまいます。それは、意図や目的のためなら、暴力をも正当化して、辞さないものです。意図や目的のためなら手段を選ばない、というのは心情倫理の方です。
それに対して、本来の責任倫理は、あらゆる結果に対して行為の責任を問うものです。それは、その責任の重さゆえに、手段の選択と行使に縛りをかけます。身動きが取れなくなるのです。
政治家は、手段によって生じる結果に配慮することになりますし、だから行為は縛られます。それでもなお、なんとか進む道を見つける。これがウェーバーの求めた責任倫理なのです。フリーハンドどころか、むしろ拘束具のような存在が、責任倫理です。
(続く)
(補足) 心情倫理と責任倫理は、「前者においては心情の純粋さの程度で倫理性の程度が左右され、後者においては行動の結果への配慮の程度で倫理性の程度が左右される」と述べ、「政治家は自らの心情の表出に禁欲的でなければならないのである。そうでないと国民に迷惑が及ぶ」と作田啓一は要点を抑えています(はてなキーワード「責任倫理」項目より)。
多数代表制と比例代表制 -ついでにバジョット /加藤秀治郎『日本の選挙』を読む(2)
ちなみにこの制度、実質的に山県有朋がスタートさせたものです。原敬が一時期小選挙区制に戻したものの、すぐに護憲三派内閣が中選挙区制という形で、戻します(p36、37)。大選挙区と小選挙区での間を取るのと、三派がそれぞれ当選者を出せるようにしたためです。なんというご都合主義。これじゃあ、軍部に介入される隙を作ってしまうのも、当然といえば当然かもしれません。
そんなご都合主義に反対していたのが、吉野作造や美濃部達吉でした。しかし、二人の目指す選挙制度は異なっていました。吉野作造は多数代表制支持で、美濃部達吉は比例代表制の支持でした。ただ二人とも、中選挙区制には反対していたのです。
では何故折衷を嫌ったのか。簡単に言うと、制度にも設計思想というのがあって、混ぜ合わせとかいいとこ取りというのは、かえって設計思想をぼやかしてしまうものです。二人はともに、この点を曖昧にしてはならないと考えたようです(著者も同じ考えです)。
では、多数代表制(小選挙区制度など)と比例代表制について。
著者は、「二大政党制を、二党の議席数の伯仲と混同しているものである。(略)小選挙区制は、小さな得票の差を大きな議席の差とする制度である。(略)二党の議席が伯仲することは少ない」と言及しています(22頁)。
要するに、そもそも、小選挙区は多数派政党を作るための制度であって、二つの政党を伯仲させるための制度ではないのです。差別的に、不公平に、分りやすい一党多数派を作るための制度なのです。安定した多数派を作るための。何のために多数派を作るのかといえば、議院内閣制の場合、議会多数派を基盤に内閣が作られる以上、与党が議会の多数派を握っておかないと、政治が不安定になる、という理屈です。
ちなみに、多数代表制指示の代表者が、ウォルター・バジョットです。福沢が自身の皇室論の下敷きにした、君主制擁護論の古典『イギリス憲政論』の作者でもあり、金融における「バジョット・ルール」の考案者としても知られる人物です。バジョットルールとは、金融危機の時に、中央銀行が、「十分な担保さえあれば、通常より大幅に高めの貸出金利をつけて、相手が望むだけ思い切って貸し出す」というルールです(竹森俊平『1997』より)。高めの金利なのは、低金利だと、大量に借りたお金を、より金利の高い他国で投資してしまう恐れがあるからだそうな。
脱線しましたが、次回は、「では、内閣制度で比例代表制はダメ?」という問いを立てます。
消費税問題もいいけど、参院改革もね 加藤秀治郎『日本の選挙』を読む(1)
そもそも、日本の議会制度自体おかしい、と思った方も多いのでは。確かに、改善すべきところ、山ほどあります。加藤秀治郎『日本の選挙 何を変えれば政治が変わるのか』をチェックしてみましょう。今回は、参議院について。
まずおかしいのは、日本の「中選挙区制」が単記制であることです(6頁)。一人の名前しかかけません。そもそも、「中選挙区制」自体が、日本独自の用語なのですが。
他国は、当選枠の人数分を、記入します。この場合は、3人区の場合、3人記入します。衆議院は小選挙区制になりましたが、参議院は、今でも一部、中選挙区です。(注1)よく考えたら、一人しか書けない、というのはおかしい話です。一人しか書けないことに、そもそも、疑問を持つべきでしたね。まずここを、変えましょう。
選挙というのは、その区割りと人数割り当てが、当選の結果に大きく響きます。戦後初の選挙は、制限連記制でした。これは、選挙人が選挙区の定数よりも、少ない複数の票を投じる制度です。「1946年の第22回衆院選において、定数10以下の選挙区では2名連記、定数11以上の選挙区では3名連記といった制限連記制が行われていた」。
この結果、女性が多く当選しています。男女で併記して書いたケースが多かったようです。また、東京一区では、鳩山一郎と野坂参三の連記票が相当数に上ったようです。釣り合いを取ろうとした投票者が、左右の大物の名前を書いたというわけです。なるほど。
もともと、中選挙区制度は、その特性上、同じ政党(例えば、自民党)から複数候補者が出る場合、政策だけじゃ争えないので、カネでのサービス合戦となります。そのため、派閥がそのバックとして存在する「理由」があったわけです。これが、自民党の派閥の存在が大きかった理由の一つです。一方、この中選挙区制度は、少数政党にもメリットがあって、先ほどの理由で大政党内部で票が割れてしまうため、少数政党にも議席が生じるチャンスがありました。実際、衆議院の場合、公明党は中選挙区時代に比べて、小選挙区制度になると票を落としたりしています。
ねじれ国会を産む元凶は、参議院の不必要なまでの強大さにあります。この参議院の強さは、調整的に弱体化させるべきでしょう。出来ないというなら、米国のように、党議拘束をはずす以外ありません。各党の党議拘束をはずして、行政府が参議院の議員を説得工作をできるように法改正するしかないのです。そこまでやる気、自民党にも民主党にも、あるのでしょうか。(党議拘束の問題は、次々回扱う予定です。)
究極的には憲法改正なのですが、それでも難しい場合は、憲法枠内で、何とかするしかありません。両院協議会などの調整機関で、衆議院の議決を優先する内規を作る、などです。(たしか、飯尾先生も『日本の統治構造』でそのようなアイデアに言及されていたような。)。
著者は、「参議院には国論が分裂する問題について、時間をおいて慎重に審議させたり、少数意見を聞いて法案を修正したりするといった機能を発揮させる方がよい」といいます(197頁)。まさしく、これこそが「良識の府」ではありませんか。首肯します。(注2)「時間をおいて慎重に審議させたり、少数意見を聞いて法案を修正したり」することを重視するなら、比例選挙制の方が、参議院にはあっています。その観点からすれば、間違っても、一人区なぞ不要です。まずはさっさと廃止すべきです。
詳細な理由については次回お話しましょう。
(注1)日本の選挙制度は、各々整合性が取れていません。バリエーションが無駄にありすぎです。衆議院の場合、小選挙区制と比例代表制の混ぜ合わせ、参議院の場合、小選挙区制と中選挙区制と比例代表制の混ぜあわせ、地方選挙は中選挙区制、というグロい制度です。何とかして欲しいですな。
(注2) 上久保誠人は次のように書いています(「参議院は不要ではない! 与党の一院制導入論に反対する 」『DIAMOND ONLINE』様)。
これで決まりですね。「参院で否決した法案は、衆院の過半数の賛成で法案成立」として衆院の優越を明確に規定すべきと考える。その代わり、参院には英国・貴族院のような長い審議時間を与える。日本の国会会期は諸外国と比べて短すぎる(日本の通常国会の会期150日に対し、英国は11月から1年間の会期。ドイツは会期という概念そのものがなく、1年中いつでも国会を開ける)。これは、日本の国会で「審議拒否」「強行採決」が頻発する原因となっている。
改憲問題について -花咲く増税論争の影に in 参議院選挙2010 【短評】
一方で、なっておかしくないのに、ほとんど争点にならないものもあります。ずばり改憲問題(とくに9条問題)です。まあ、この不景気だと、今後も改憲が争点になることはないでしょうが。これは、前の前の前の前の内閣の鑑定が崩壊したせいでしょうけど。
菅原琢『世論の曲解』のメインテーマは、小泉政権の政策は「都市部寄り、若年・中年層向けに政策路線をシフトするという的確な対処法」を行っていた(11頁)、しかし小泉以後の自民党政権はそのことに気付かなかった、ということにあると思います。
あまりウェブの書評で言及されませんが、実はこの本は、改憲問題についても触れています。
例えば、「小泉はかつて革新と呼ばれていたような「野党的」な層を多く惹きつけていたが、これらの人々は安倍政権の方針や政策とは相容れなかったのである」という一文(114頁)。当時の世論調査を見ても、小泉時代のイラク派兵や、靖国参拝は、「野党的」(リベラル)な層には、やはり不評だったようです。
しかも、著者の用いる朝日新聞の世論調査によると、若年層の場合だと、過半数が9条改正反対です(全年齢層で過半数超えですが)。プライバシー権や環境権の憲法への盛り込みも過半数が賛成しています(高齢になるほど反対している)。
むしろ、別調査では、「高齢層のほうが戦力保持の明記や集団的自衛権の明記に賛成する割合が高く、若いほど賛成率が低い傾向が見られる。一方で9条の変更への反対割合は、高齢層と大きく変わらない。むしろ目立つのは「どちらとも言えない」の割合の高さである」わけです(232ー234頁)。(注1)
著者は、「プライバシー権を盛り込むために改正したっていいし、天皇制を廃止するのにも憲法改正が必要だ。憲法改正という言葉から、すぐに「右傾化」を導いてしまうのが、そもそもの間違いなのである」と適切に評しています(201頁)。【憲法改正志向≠9条改正志向】ではないのですね。リベラル志向の改憲というのは、たしかにアリです。護憲派の人々にお勧めですが、いかがでしょうか。
さてさて、構造改革推進派の「都市部寄り、若年・中年層」の支持を得ることが、政権を取るカギになるということが本書のキモになるわけですが、では彼らの支持を得るには、改憲問題(ここでは9条の問題)にどのように対処したらいいのか。
結論を言えば、何もしないこと、声高にはなにも言わないこと、せいぜい熟慮とかとか、国民的議論とかを語っておくこと、あるいは護憲・改憲どちらにせよ、超党派での開かれた場を設けて時間を稼ぐこと(スマートな言い方をすると、徐々に慎重にヘゲモニーを握ること)、となるでしょう。とにかく急がないことです。(注2)
性急に行おうとすると、「都市部寄り、若年・中年層」が、左右対立で分裂するリスクがあるためです。だから、「構造改革」のためには、改憲問題は避けておくのが一番です(特に、「みんなの党」はそういう戦略のはずです)。
強いていうのならば、「野党的」(リベラル)な層に受けるような、戦略をとるべきでしょう。「若年層の場合だと、過半数が9条改正反対」なのですから。
まあ、憲法改正を言うなら、自衛隊云々よりも先に、現状の強い参議院の力を弱める方がずっと重要でしょうが。参議院選挙には、参議院の力を弱める政党に投票しようかな、と思っているのですが、いかがでしょう。もちろん、議席数削減とかで、お茶を濁さない政党を。
(注1) この調査は、どうやら、2004年時点での調査のようです。六十代以上と言うことは、このとき60歳の人は、終戦時11歳。70歳の人は、終戦時21歳。なるほど、徴兵年齢よりも若かったのに、法案に賛成しようとする人がいるようです。もし日本が徴兵制になったら、あんたら参加しろよ。
(注2) それにしても、「国民的な議論」っていったい何なのでしょうか。そんなものは、存在するのでしょうか。
ちなみに、普天間の問題ですが、もし「構造改革」を優先するのなら、なあなあにしておくことが、一番最善の方法です。ただし、それは問題を解決したことになりません。個人的には、以前提案した方法をお勧めしたいところです。詳細拙稿「仮説的に、九州への代替基地移設の可能性を考える」などをご参照ください。
* 2010/7/8 一部訂正いたしました。でも論旨には変更ありません。
民主党シンパじゃないが政権交代はさせたい人へ 草野厚『政権交代の法則』(2)
本書詳細については、ご自分でお読みくださいとしか言いようがありません。所々、有益な情報が入っていたりするので、ディテールも楽しめるはずです。
例えば、番記者が、派閥のメッセンジャーとして機能した面があるといいます。「安倍首相が情報を選別して、懇意にしていた産経、NHK、TBSの一部の記者に提供していたことは良く知られてる」(59頁)そうです。
両党の超党派的な活動についても、「実像よりもはるかに大きく報道されているように思われる」(198頁)と述べています。確かに09年08月中旬現在、党を割るほどの活動はなされません。自民党の総裁の人は、まだ椅子に座ってますし。
小泉首相も、小選挙区制度には反対だった(132頁)というようなことも、本書には書いてあります。なんか皮肉ではありますが。
ちなみに、著者は、これまでは与党派だったそうです(27頁)。その分、政権交代の必要性を唱えていながらも、民主党に甘くはありません。官僚の残業の理由として、国会答弁用に、野党から提出される質問の時刻が遅く、官僚が深夜までかかりきりにならざるを得ないからだと説明しています(213頁)。この公平性が、この本を読めるものにしているといえるでしょう。
■「政権交代」のための投票方法■
さて、それでは政権交代をどう実現するべきなのか。そう悩んでいらっしゃる方は多いと思われます。無論、民主党に投票するのが手っ取り早いのは間違いありませんが、別に自分は民主党を支持したわけじゃない、という方も多いはずです。やむなく民主党に、という方々に、いい方法があります。
「政権交代の法則」を読んで」(『志村建世のブログ』様)によると、
とのことです。以前に村野瀬玲奈さんのブログで読んだ記事が、参考になると思っています。つまり、選挙区では、自公の候補者を落選させるために民主党の候補を当選させる、比例区では、民主党をひとり勝ちさせないために、民主党以外の野党に投票する、というものです。
実際に、村瀬さんのブログ(「民主党は他党支持者からも票を得ていることを自覚してほしい。(太田光征さんの記事を読んで)」『村野瀬玲奈の秘書課広報室』)を見てみると、これはどうやら、「選挙制度改正運動としての選挙区すみ分け投票の勧め」(『平和への結集ブログ』様)を元ネタにしている模様です。
元ネタとなるブログの主張を見ると、「民主党は、小選挙区で他野党支持者の票に大きく依存することで、得票率を超える議席獲得率を実現して」おり、「民主党支持者が比例区で努めて少数野党に投票することで、政権交代が確実」となるのであって、「選挙区すみ分け投票は、政権交代を重視する民主党支持者にとっても合理的な投票パターン」だといいます。
志村建世氏のブログは、これを応用して主張をされているわけです。政権交代のためには、自公に入れないで他党に入れればよく、小選挙区なら自公の候補を潰すのに一番効果のある、民主党の候補を選択するのが手っ取り早く、比例区の場合は、下手に民主党に入れると彼らが思い上がる可能性があるから他の野党に入れる、という風になるようです。もしもっと確実に政権交代を実現させたいなら、比例区に入れるのは、自分の地区で一番受かりやすそうな(死票になりにくそうな)自民・公明・民主以外の政党に入れるといいでしょう。
最後に、著者の主張を紹介します。「そもそも政権の座に就いたことがないのに(中略)その能力に疑問を呈するというのは、批判のための批判に過ぎやしないか」(61頁)と。こう述べて、【民主党に政権担当能力はない云々】という人たちに対して反論しています。まあ、民主党の政策に対して批判はしてもいいのですが。それに政権担当能力については、与党の方にも疑問符をつけるべきところがありますので、おあいこです。
(了)