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融通無碍、あるいは、相撲の歴史と「由緒」と「差別」の話 -新田一郎『相撲の歴史』を読む-
相撲は大好きである。
あれはすぐに決着がつく、素晴らしいものだ(ソコカヨ
でも相撲、実際の歴史ってどんな感じか、意外に知られていない。
フランシスコ・ハビエル・夕ブレロによると、鎌倉時代だと力士は盗人や浮浪者、恐喝者と同列の扱いであったり、相撲節会というのは、実は平安時代の天皇と宮廷人のためだけが観戦するものであったり、土俵は歴史的には比較的新しいものであったり、大銀杏髷が義務付けられたのは明治42年(1909)のことだったりする。
こうしたことは知られていないだろう。(詳細は、この記事を参照。)
相撲を正しく把握するには、相撲とは何だったのか、「伝統」という言葉の抽象性によってではなく、可能な限り吟味された具体的な事実にそって、知る必要がある。
以下、気になったところだけ。
これは、『日本書紀』に載っている雄略天皇の話。「女性は国技館の土俵にあげない」という日本相撲協会の方針をめぐる議論を思えば、史書に記された最初の「相撲」が、いわば「女相撲」の記事であるというのは、いささか皮肉なこと (39頁)
「相撲」の文字が初めて登場したのが、この時である。
神話ではなく、ただの人が相撲を取った記録というのは、これが最初である。
エピソードを簡単にいうと、優れた石職人が、自分は失敗しないぜ、と雄略天皇に言ったので、天皇が意地悪して、采女に褌を締めさせて女相撲を取らせたら、石職人がそいつに気を取られて失敗したぜ、という内容。
雄略天皇、マジドイヒーである。
要するに、平安後期になると、宮中の公式行事として、相撲節が行われることがなくなったという話である。相撲好きにとっては甚だおもしろくないことではあるが、平安後期の朝廷が、相撲節を定例の行事として維持する努力をさほどはらっていたとは、考えられない (110頁)
相撲節(会)は、皇室と相撲との関係を象徴するものとして、当時から今に至るまで持ち出される行事である。
相撲節は、承安四年を最後として廃絶してしまう(104頁)。
もちろん、相撲そのものは引き続き、朝廷周辺で行われてはいた(107頁)。
しかし、ここで、「公式」とはいいがたくなったのも事実。
朝廷や天皇と相撲との関係を考える際、念頭に置いておかねばならない。
相撲は、興業でもあると同時に、日本の伝統文化を担う神事でもあり、かつスポーツでもあると、相撲の「混合性」をアツく擁護する玉木正之の相撲愛溢れる記事において欠けているのは、上記のような歴史性にほかならない。
後述するように、この時点から、相撲の神事としての性格は薄れてくる。
このように、相撲は宮廷内の神事から、奉納相撲としての娯楽に移り変わっていく。寺社における祭礼に奉納される相撲が、しだいにそこに集う人々自身のための娯楽としての性格を濃厚に帯び、祭礼本来の神事との結びつきの必然性を希薄にしてゆく(134頁)
著者によると、「近世村落の祭礼における相撲」も、「村落の祭祀のなかで生まれたものではなく、そのはじまりの時点においてすでに『相撲』は特定の様式をもって社会に存在し、専門的な相撲人も活動」していた(136頁)。
中世に興行化した結果、脱神事化し、中身も専門的になっていたのである。
たしかに、これ、プロレスである。江戸を中心に活躍した谷風と、もともと京坂で修業時代を送った小野川との対戦では、江戸では谷風、京坂では小野川がそれぞれ善玉となって、敵地での勝負よりも分のいい結果を残していたりする。この点も現代のプロレスと似たところであり、花形同士の取組では双方にキズがつかないように引分・預などといった勝負なしの結果が目立つようにもなる。/観客も、(略)そうした周辺の事情を承知のうえで、土俵上のストーリーを「芸」として楽しんでいた節がある。 (211頁)
当時は、勝負「預かり」なんてのも存在したのである。
そして、客も、こうしたプロレス的なストーリーを了解していたのである。
少なくとも、この江戸期には。
(ただし、当時の力士は大名がスポンサー(抱え)であり、大名の覚えがめでたくないとクビ(契約解除)になることもあったため、上覧相撲の時はガチ勝負が多かった。各大名のメンツもかかっており、ジャッジに「介入」するような事例も本書に書いてある。)
明治期になると、いよいよ真剣勝負の色を濃くする。従来かなりの数にのぼっていた引分・預などは、これを機にしだいに減少傾向を示し、大正末の個人優勝制度化に際して原則的に廃止されることになる。取り直し・不戦勝といった制度も、個人優勝制度の確立に伴って導入されたものである。優勝制度の制定とそれに伴う競技ルールの変更が、大相撲の性格を大きく変容させた (290頁)
相撲の「格闘技」化である。
その背景にあるのは、優勝制度(特に個人優勝制度)やルール変更などがあった。
ここに、江戸と明治以降との小さからぬ断絶が存在する。
もちろん、これを断絶と云い切れないところで、現在もなお、問題が生じている。
つまり、真剣勝負である(はずの)相撲において、筋書きが形成されてしまう、という今日に至るまでの事態である。
筋書きのある肉体のドラマ(興行)なのか、それとも筋書きなしのガチ勝負(スポーツ競技・武道)なのか、この曖昧な所で揺れる相撲。
それが魅力でもあり、危険な所でもある。
簡単にいうと、これまで「えた」にショバ代を払っていた相撲興行側が、それを拒否するようになり、裁判で争った結果、奉行所は、「えた」側の相撲見物を許さない、という判断を下した、という流れ。宝暦八年、武蔵野国多摩郡八王子村(現、東京都八王子市)における興行の際におこった争論について、町奉行所は(略)今後津々浦々に至るまで「えた」の相撲見物を許さないという穢多頭弾左衛門の請証文を提出させた (221頁)
「えた」への社会的差別がさらに強化されると同時に、相撲集団は社会的地位を上昇させた。
誰かの地位上昇が、他の誰かの地位低下に直結する悲しさがある。
実際、「興行を渡世の手段とする『相撲取』は、ともすれば賎視の対象とされがちであり、幕閣にあっては勧進相撲を「乞食の類の如く」に考える者もあった」(232頁)。
(ここでは、「相撲衆」とかの説明は省略する。)
この状況に対して、「上覧相撲の儀などを経て相撲興行が社会的地位を上昇させるに従って、相撲を「下賤」「失礼」とする露骨な言説はしだいに影をひそめてゆく」(232頁)。
つまり、将軍の上覧によって、差別を脱していくのである。
そして明治になると、今度は天皇の天覧に頼る(←重複)。
人の上に作られた人間の力を頼ることで、人の下にいる人間が引き上げられる、この力学。
この力学が大日本帝国でどのように利用されるに至ったかは、よく知られているだろう。
なぜ相撲はあそこまで、自分の伝統にこだわるのか。「相撲は武道である」とか「朝廷の相撲節の故事を伝える」「だからその他の興行物とは違う」という含意を持った主張は、そうした宿命から逃れようとする相撲興行集団の主張だった (232頁)
それは、そうした伝統にこだわる言葉を発しなければならないほど、差別されていたからである。
興行を生業とすることじたい蔑視されていた時代、そんな時、理論武装をせざるを得なかった。
そうした理由で、「武道」、「故事」といった由緒(言説)が必要だったのである。
(吉田司家の話は、ここでは省略する。)
相撲が「国技」と言われるようになるのは、実は明治時代の話である。江見水蔭の起草した披露文に「相撲は日本の国技なり」とする一節があるのに年寄尾車(元大関大戸平)が着目して、「国技館」の名称を提案した、といわれている。相撲を「国技」とする言説が世間にひろくおこなわれるのは、実はこれより後のこと (288頁)
「国技」よりも「国技館」の方が先立つ格好である。
「国技」という言葉もまた、前述したように、蔑視からの脱却の為のものだった。
宮廷の神事だった相撲は、徐々に奉納技芸として専門職化していき、江戸期には更に理論武装を進めて由緒正しい興行として、そして明治以降は「日本」を象徴する武道(としての娯楽)として、道を歩んでいく。中世には相撲節に由緒を求めた奉納技芸として、江戸幕府のもとでは故実に荘厳された勧進興行として、また近代には「日本的」なるものを象徴する大衆娯楽として、相撲はそのときどきの社会情勢によって人々の支持を求めてさまざまに装飾を変えてきた。 (299頁)
先ほど紹介した玉木の議論に抜けているのは、こうした相撲の歴史的変貌に他ならない。
ちなみに、敗戦時には、「相撲協会側も、戦前・戦中の『武道』から一転して『相撲はスポーツ、競技である』と積極的に主張している。この融通無碍、これこそが相撲であった」 (299頁)。
相撲は生き残るために、つねに変貌する。
節操がないからこそ、相撲はが様々な改革を成し遂げてこられたのも事実だ(吊り屋根を取り入れた相撲の偉大さ!)。
正直、1995年の古式大相撲のようなポストモダン的なイベント(詳細上記タブレロ氏記事参照)を臆面もなくやっておいて、今でもなお伝統()を盾に自分らの「体質」を変えようとしないのは、どうかと思う。
だが、改革のために一つ一つのシステムを変えていける、いい意味で変わり身の早い「伝統」はこれからも続けていって欲しい。
固執するなら、似非伝統ではなく、融通無碍な変化を厭わぬ精神の方だろう。
相撲は「国技」ではなく、変貌する楽しい存在だと思う。
次は何になるんでしょうかね、相撲って。
・・・プリキュアだろうか(イミフ
最後に相撲界の問題点について一つ。大相撲社会の仕組みは依然として大量採用・大量挫折を前提として構築されており、減少分の穴埋めの要求が外国出身者の採用意欲に結びつく。 (365頁)
いっぱいあるのだが、その一つがこれ、この変わらない体質である。
まるで芸能界みたいな、大量に採用して大量に落としていくシステム。
不況期は活躍できていたブラック企業みたいでもある。
だが、これは大量採用が可能な時だけ通用するシステムであり、もし大量採用が望めなくなったら、システムは破たんする。
そんな供給不足の時に行った措置が、相撲界のシステム改革ではなく、外国人採用だった、というのが、いかにも日本的な感じである。
嗚呼、相撲、日本の相撲。
だから変われ、相撲よ、お前ならできる。
そう、プリキュアに!(二度目
(未完)
「皇室中心・国家本位」と「朝鮮人虐殺」からみる、警察の歴史 -大日方純夫『警察の社会史』を読む-
以下、気になったところだけ。
日本における「自由廃業」というものはこういうものであった。実際には娼妓の自由廃業の前には、依然としてたかい塀がたちふさがっていた。 (略) 遊郭主と警察が結託して、廃業を願う娼妓がいると遊郭主をよびだして「示談」にさせたり、警察官が娼妓を「説諭」して廃業を思いとどまらせるなどということが多かったのである(吉見周子「売娼の実態と廃娼運動」) (33、34頁)
特攻などにおける「自由意志」というのも、こうした文脈で考えた方がよい。
少なくとも戦前、今もそうなのかもしれないが、「自由」に自由が足りない。
日清戦争あたりからすでに、こういうことは行われていた。日清戦争後の産業革命による紡績業の急成長は、労働力の不足をまねき、専業の紹介人や会社に属する募集人が、詐欺まがい、誘拐まがいの方法で女工を遠隔地から募集してきたという(中村政則『労働者と農民』) (65頁)
「詐欺まがい、誘拐まがいの方法」を軍隊や政府が放置した時、最悪のことが起きる。
そして、御存知の通り、起きた。
警視総監・岡喜七郎「警察官と思想問題」(1919年8月)が出典である。わが国民性は徹頭徹尾、皇室中心主義である。民衆の手本となるべき警察官はいうまでもない。皇室中心・国家本位の心がけさえ忘れなければ、たとえ法規や手続きに多少問題があっても大きな失敗にはいたらない (120頁)
これ、アカンやつや。
民衆は警察化させても、警察を民主(民衆)化させるのは嫌った岡であったが、その意識が端的に表れたのが、これである。
今でもこういう意識、消えてないと思うんだけど。
松井茂(戦前の警察理論のイデオローグ)の1920年6月の論である。日本の警察官は国家の官吏である。国民警察は国民のための警察ということであって、国民のサーバントではない。 (120頁)
松井は、近年ストライキ騒ぎを起こしたロンドンやボストンの警察官のようなことがあってはならない、とした。
警察官の労働者としての性格を否定している。
個人的には、警察に労働組合を設立する案に賛成したい(詳細はこちら)。
自警団の「犯罪」は免除された。それは、この「犯罪」行為そのものが警察側のあり方と密接にかかわっていたからであった。 (184頁)
関東大震災の時の朝鮮人虐殺について。自警団の責任を徹底的に追及すれば、それは当然のことながら警察官憲の責任に及ばざるをえなかった。したがって、「事件」を事件団員の個別的な責任として処理するため、ほどほどのところでお茶をにごしたのである。 (185頁)
三田四国町自警団の一員曰く、「××来襲の警報を、貴下の部下から受けた私どもが、御注意によって自警団を組織した時、「××」を見たらば本署へつれてこい、抵抗したらば〇しても差し支えない」と、親しく貴下からうけたまわった。あの一言は寝言であったのか」。
自警団は実質、警察の肝いりであった。
その自警団の犯罪を問うことは、警察の落ち度につながりかねない。
ゆえに、その責任は回避されることになった。
皇室中心主義ってこれのことかい。
ところで、関東大震災時の虐殺については、例えば、「根岸町の自警団にとらわれた3名の鮮人(内1名女)」が「巡査派出所に逃げ込み保護を願った所、巡査は、男二人を派出所の側に縛って現場で惨殺」したという報道を紹介しているこちら記事や、横浜に「上陸した海軍陸戦隊は、 朝鮮人放火などのデマを肯定する報告を送って」いたという一文が読めるこちらの記事や、「官憲の発表に依れば、殆ど皆風説に等しく…斯くてはその犯罪者が、果たして鮮人であったか、内地人であったかも、わからぬわけである。」と喝破した石橋湛山を紹介するこちらの記事を推薦しておきましょうかね。
力士会側が、相撲協会に対してスト籠城を起こした。安部もまた、"警視庁は人民から委任されてもいない、警視庁として不似合いな仕事に関係することを今後はやめてもらいたい"と要求した。いずれも警視庁の機能は、犯罪捜査・処理という消極的なものにとどまるべきだというのである。 (201頁)
それに対して警察は調停を行った。
この警察の対応に対して、政治家・永井柳太郎、経済学者・堀江帰一、そして、安部磯雄は批判的だった。
上記引用は、安倍磯雄の回答である。
安部の指摘するように、警察の日常生活に対する介入はかなりのものであった。
(詳細は本書をご参照あれ。)
大陸型警察は中央集権的だった。フランスやドイツにならってつくり上げた大陸型警察の基本構造をそのままにして、イギリスやアメリカの自治的警察のもとでの警察と国民の関係をまねようというのである。 (204頁)
一方で、英米型は自治的警察という国民に密接するタイプのシステムだった。
要は、日本の警察は両者の都合のいいとこ取りをしようとしたのである。
で、最悪の奴が完成した。
裁判員制度とかも、そんな感じである。
民衆が自らの警察を回復するためには、国家の警察から自治体の警察へと転換させることが前提でなければならなかった。しかし、それは警察当局者によってはまたくかえりみられることがなかった (205頁)
どうだい、最低だろう?w日本の近代警察はプロシア警察にはらまれていた自治的性格さえも否定し去り、内務大臣指揮下の知事のもとに、極度に中央集権的・国家的な制度をもって確立された。 (214頁)
いったん、GHQによって力を抑えられた警察機構。一九五四年二月、政府は警察の中央集権化を企図して警察法の全面改定案を国会に提出 (221頁)
だがしかし、上記改正案によって、自治体警察と国家地方警察の二本立てという新システムは廃止され、都道府県警察に一本化された。
こうして、中央集権的な要素は格段に強められた。
で、現在に至る。
あとは御覧の通りだ。
(未完)
アイロニーとしての小説、あるいは、「血肉」と「生命」と「喜劇」から みる近代小説 -中村光夫『風俗小説論』-
これで何度目なのか。
意外と読まれていないんじゃないかね、この本。
『風俗小説論』に対する丁寧な書評(まとめ?)としては、全4回のこちらのブログさんの記事もご一読あれ。
中村の批評家・小説家としての仕事については、こちらのブログさんもぜひ。
こちらのブログ主様がいうように、「中村は、そのために文学に必要なのは『感覚』ではなく『思考』なのだと主張しているように思われる」とは、まさにその通りだと思う。
もちろん、フローベールやスタンダールらが、「彼等の多くは、ただ彼等よりはるかに平凡な作中人物を通じて、ともかく社会に伍することができたほど孤独な存在であった」という中村の主張が、どこまで正しいのか分からないけれど。
いつものように、気になったところだけを書いていく。
中村は、一応、志賀の小説の優れた点を認めていた。作者はどの登場人物もその場その場の背景に合わせて都合のいい断片に切り刻み、それを傀儡のように勝手に動かしているだけで、その人間としての統一と奥行は作者によってほとんど故意に無視されています。(略)武田の感性的リアリズムは志賀直哉にはない社会的な広がりを得た代償に、志賀直哉の私小説がともかく完全に造形し得た人間を見失ってしまった (111頁)
「完全に造形し得た人間」を創出した点である。
一方、登場人物が平面的である点を、武田鱗太郎は批判されている。
志賀の場合、(少なくとも主人公は)そうではなかった。
そして、感性の微妙なもつれと、細やかな陰影の描写にかけては、日本の近代小説はどの国のそれに比べても劣らぬ見事な独自の技術を開拓したと著者はいう。(85頁)。
著者は、そのように、日本の私小説を含め、日本の近代小説全般を、一応ほめている。
読み物としての美質はある。
著者は、では、何を"批判"したか。
ツルゲーネフ『ドミトリ・ルージン』との比較で、このように述べられている。「青春」の主人公は、これに反して、終わりまで最初に作者によって設定された性格のままなので、さまざまな事件が起れば起るほど、彼は生気を失ったこしらえものの姿で読後の胸に引証されるほかはありません。この長編の退屈さの根本はここから来ていると思われます。 (17頁)
主人公の変化、つまり、人物としての非「平面さ」に著者は拘る。
『風俗小説論』で著者が一番重要視しているのは、実はここではないかと思う。現代の風俗作家に驚くべき大量生産を可能にした理由は、彼等の身につけた小説技巧が、私小説によって変形されたリアリズム手法の更に固定化したもので、それはすでに文学的生命を喪ったために酷使と工業化に堪えるのです。 (67頁)
このお手軽さ。
「自然主義」の作家たちにはまだあった「エトス」が、もう当時の「風俗小説」にはなく、その小説の技巧だけが形骸として残っていることに、著者は不満を持っていた。
では、その「エトス」とは何かといえば、「自然」(自然主義)へのこだわりである。
彼らは、「自然」に拘り、それを突き詰めていこうとした。
その結果、この日本の作家たちは、「自己」のことを微細・執拗に書くことで、「自然」に迫ろうとした。
それは西欧の自然主義のやり方と違う、というのが、中村光夫の意見だった。
(蓮實重彦によるインタビュー(蓮實『饗宴Ⅱ』所収)に対して、中村が答えるところによると、問題にしているのは、西欧の近代(自然主義)文学と日本のそれとの混同である。)
西欧の自然主義は根本において、「科学」重視であり、作家は人間や社会に関する一般法則から出発し、普遍的な真実を求める思想家として行動した(70頁)。
彼らは「自然」を追求することで、一般法則をもとに、社会と他人を書いた。
著者も自然主義における「科学の過信」を指摘しつつ、それが与えた効能(つまり、「一般法則から出発し、普遍的な真実を求め」たこと)を述べている。
例えば、フローベールは、エンマをもっとも蓋然的な一般性を持つ人間として創造した。
ゆえに、「ボヴァリー夫人は私だ」と明言した一方で、「『ボヴァリー夫人』には何も本当のことはない。それはまったくのつくり話だ」と言い得たのである(71頁)。
だが、日本の自然小説は、一般法則を描くことに向かわずに、「自己」に向かったのである。
そこには、「他者」が欠けていた。
日本の「私小説」の方向性を突き詰めると、こうした隘路に行きつく。平たく云えば彼はここで「自己」を「自然」の法則またはリズムの体現者と云いたかったのですが、まさかそうとは云いかねたのです。(泡鳴はこの点を花袋とちがって無遠慮に云い切っています) (80頁)
言い切れない花袋に対して、泡鳴は「俺が(この世界の)ルールブックだ!」と堂々と表明してみせた。
「神秘的半獣主義」の問題にかかわるが、これ以上深追いしない。
ともあれ、中村光夫にとっての「小説」というのは、その方面とは別のものだった。
前の二作とは、「青春」と「破戒」を指す。竹中時雄は前の二作の主人公にくらべて、はるかになまなましく生きた人間であり、同時に滑稽な存在です。(略)不幸にして作者がこの主人公の姿の滑稽さにまったく気付いていない (51頁)
もちろん、本当に花袋が主人公の滑稽さに気づいていなかったのかといえば、そうではない。
(詳しくは、前回の記事参照)
ただ、中村の『蒲団』批判から、逆に彼が求めたものが読みとれる。
漱石の生み出した人物たちに関する説明である。現代までも文学的生命を失わないのは、彼等が漱石が生涯を通じて育てた人生に対する観念から生みだされた子供たちであり、観念的な手法を通じながら作者の血肉をわかたれた存在であるからです。 (14頁)
私小説にありがちな、作者と密着したタイプの主人公はダメだという一方、「観念的な手法を通じながら作者の血肉をわかたれた存在」ならいいというのである。
著者は作家と作品の関係を、これでもかとばかり、気にしている。
藤村の『破戒』の話である。抱月がこれを我国の文芸界に画期的な「新発現」と呼んだ所以は、(略)この作の主人公と作者とが互に内面の苦悩によって結ばれている点であった (24頁)
ここでも、「主人公と作者とが互に内面の苦悩によって結ばれている」ことを重視している。
「観念的な手法を通じながら」というのが重要である。
「浮雲」の本田やお政お勢などの副人物が、主人公の文三と対等の他人として、単なる「類型」以上に溌剌と活写されている (中略) 藤村には二葉亭にあったようなユーモアも自己に対するアイロニーもなかった (32頁)
後者の鍵括弧は平野謙の指摘である。「青春」の作者が主人公を上から見下していたに反して、「破戒」の作者が主人公と同じ悲哀を呼吸していた点にある反面、この作者と主人公の距離の近さが、小説構成の「必要以上に藤村自身の主観的感慨を以て丑松の心理を塗りつぶしてしまった」 (33頁)
小栗風葉の書いた「青春」の主人公は、「観念的な手法を通じながら作者の血肉をわかたれた存在」ではなかった。
著者は主人公と距離をとりすぎている。
だが、「破戒」の主人公は、逆に主人公との距離が近すぎる、というのである。
「観念的な手法を通じ」るという、距離が足りない。
適切な距離を著者は求めた。
(なお、 「「浮雲」の本田やお政お勢などの副人物が、主人公の文三と対等の他人として、単なる「類型」以上に溌剌と活写されている」というあたりについては、亀井秀雄による批判がある。こちらの記事もご参照あれ。)
この、ツンデレのようなもの。作者がその親愛する主人公の弱点を遠慮なくつき、その言行を厳しく批判しながら、結局彼を暖いアイロニーで包み、「読者の深い共感を買う」プロセスを想像していた筈です。問題は結局作者とその分身たる主人公の距離、彼の自己批判にかえって来ます。 (50頁)
中村光夫にとっての小説のミソは、ここにあった。
主人公に対して、手加減せずに批判するけど、一方で、親愛の温かい「アイロニー」がある。
(勘のいい人ならわかると思うが、『ヒューモアとしての唯物論』の作者の意見に近い。正確には、『ヒューモアとしての唯物論』の作者が中村光夫の考えに学んだ、というべきなのか。)
著者は、こうした自己批評に重きを置く。自己批評の力は近代小説家がどれほど持っても持ちすぎることのない才能 (略) スタンダールが(略)百年後の現代になお広く迎えられる秘密は、彼の自己批評の鋭さと正確さにあると思えます。 (15頁)
主人公の分身は自分である以上、当然、自己批判が不可欠になる。
他者との「劇」としての小説を中村は欲していた。少なくとも自然主義以後の小説では、構成とは筋の起伏を工夫することではありません。それは作品の主人公に対して持つ作者の人間的批判であり、言葉をかえて云えば、彼の意識の限界を作者が明確に意識することによって、他の作中人物に彼と対等なそれぞれ独自の生命を浮き彫りにすることなのです。 (41頁)
主人公を「アイロニー」の距離感に置くことによって、「他の作中人物に彼と対等なそれぞれ独自の生命を浮き彫りにする」狙いがあった。
(幾分か、バフチンのポリフォニー理論を思わせぬでもない。)
著者にとっての小説とは、自己批判であり、主人公に対するアイロニカルな距離であり、そうした批判によって他の人物の生命を浮き彫りにするものであった。
ではそうした主人公と他者(たち)との間に何が発生するのか。
著者は書く(49頁)。
目覚め来る生活の願望と周囲の社会との衝突は、喜劇としての側面を持つ。
近代を代表する個人は、コミックな存在であり、逆に彼から見れば、社会全体がコミックである。
よって作者は、滑稽の要素なしに、このテーマを生かし、主人公の現実の姿を把握することは不可能である。
青年を主人公とした近代小説の傑作、『赤と黒』や『感情教育』は、すべて喜劇的要素を重要な構成分子として持たぬ者はない。
なのに、風葉「青春」、藤村「破戒」、花袋「蒲団」、いずれの作品も、作者は主人公に対してまったくアイロニーを持たず、滑稽の分子は完全に排除されている。
たとえば、後藤明生という作家の貴重さが、この「喜劇」(正しくは「他人」と「笑い」と批評性)にあることはいうまでもない。
中村が小説を書くときに、「です」「ます」調を使用しなかったことについては、また別途考える必要がある。
いつか書く予定。
最後に、中村光夫の批評家としての慧眼については、デビューした頃の石原慎太郎評も、御一読願いたい。(但しブクマのみ残存。リンク先は既に書籍化されてしまった。)
(未完)
「非モテ」演出と私小説、あるいは、<岩野泡鳴 VS 猫猫先生>という「私小説」に期待する話。 -小谷野敦『私小説のすすめ』-
あの猫猫先生が書いた、と理解していれば、実に面白く読める。
小説に興味のある人は、読んで損なし。
知識は間違いなく身に付くし、著者の主張から学ぶべきところは多い。
「文学とか文学史からみればかなり画期的で重要な指摘とも思われるものが、下世話な話題と並べて、(印象としては)ポンッと書かれている、という事もできる。そういうふうに長所と短所(というかもったいないところ)を持っている本である。」という、同著者『反=文芸評論』に対するAmazonの評が、そのまま当てはまる。
以下、特に面白かったところだけ。
プロを目指す人というより、ともかく小説を書きたいと思っている人に、私小説を勧めてみたい (7頁)
自己治療としての私小説、といったところか。失恋でも、家族の死でも、いじめられた経験でもそうだ。それらを、断片ではなくて、まとまった「私小説」として書くことで、何かが変わると、私は思う。 (182頁)
うん、とりあえずまずは、カウンセリングを受けようぜ(違
もちろん、小説にそのような効能があることは否定しないし、むしろ肯定したい。
一応自己"恢復"のための小説という話については、以前書いたことがある。
出典は『「蒲団」をめぐる書簡集』となっている。花袋が日露戦争の従軍記者として出征したことを全部省き、その間に美知代から恋文のような手紙が来ていたことも隠した (26頁)
要するに、花袋は、自分に起きた事実を取捨選択して小説にしたのである。
私小説がどんなに体験を基にしていようとも、事実のどれを選択し、それをどのように表現するのか、というのは、重要な点だ。
そこが、プロの腕の見せ所だし、素人と差が付くところである。
ともあれ、花袋が意図的に、滑稽感を増強させているのは間違いないと思う。
(実際、後藤明生も『小説 いかに読み、いかに書くか』で、そんな指摘をしている。)
なお、著者は、読み継がれる(かつ、今なお賛否あるような)作品なんだから『蒲団』は名作やろ(137頁)、的なことを書いているのだが、そんなら漱石『こころ』は名作になるし、多分村上春樹もそうなるだろう。
、、、まあ、それは別にいいのだけど。
・・・ところで、「美知代から恋文のような手紙が来ていた」ってことは、実際の花袋はモテモテなんじゃねーか、それを小説では削ったってことかよ!、と思った
これ、後藤明生の小説そのものやないか。あなたが、勝手に相思相愛だと思っていた相手が、実はそんな気はまるでなくて、自分が勘違いして、後から考えるとさまざまに滑稽な振舞いをして、あとで自分の勘違いだと分かり、悲しくかつ情けなくてのたうち回った、というような経験があったら、それは格好の私小説の題材である (28頁)
いや、まあ、のたうち回る云々だけは、違うような気がするけど。
著者は実際のところ、それが実話を元にしようとそうでなかろうと、こういう話が好きってことなんだろう。
んじゃ、別に私小説でなくてもいいような気もしないでもない。
実際、志賀直哉らの「心境小説」は私小説を不毛にしたんだぜ、的なことも書いている。
著者は、「暴露型・破滅型」の私小説が好きなのである(30頁)。
だがしかし、著者は、岩野泡鳴について、
って書いちゃってる。全然花袋や秋江とは感触が違い、自分の「冒険家」「魚色家」ぶりを誇っているような、花袋や秋江とは別種の「愚かさ」があって感心しない (124頁)
別に私小説だからと言ってそれが好きなわけではなく、「暴露型・破滅型」の中でも、もてない、あるいは、不倫に走る「情けない自分」を書いた小説が好きってことだろう。
だから、ホーメー先生みたいな「自信家」の私小説は好きじゃないのだろう。
実際のところ、著者の体験をどこまで基にしているのかは、実はそこまで著者の好みには影響してないような気がする。
これは、結構重要な指摘だと思う。日本の純文学作家は売れないので、次々と作品を書いて原稿料を稼がねばならず、ために西洋の一部の作家のように、十分な時間をかけて小説を練り上げることができず、時には事実を洗練させて変形する暇がなく、時にはほとんど事実そのままを小説にしたりしていたせいもある。 (58頁)
時間が無かったので、それを書きました、っていう身も蓋もない話。
じゃあ、日本の私小説がみんな駄作か、といえば勿論そんなことはあるはずもない。
既に書いたとおり、事実のどれを選択し、それをどのように表現するのか、というのが大切だ。
(著者は、このような工夫(技巧)の問題について、本書で触れていない(はず) である。本書における「私小説」という概念に対する異議として、こちらの密林での批評を挙げておく。)
(そういえば、私小説の方が事実の中に小説家の「企み」を挿入しやすい、ということを、古井由吉はどこかで書いていた。)
中村光夫の頑なな『蒲団』批判の背景には何があるのか、という点に関する著者の言。中村自身が、そのように、たやすく女を手に入れてしまうような男だったのだ、と考えるべきだろう。 (126頁)
中村光夫は「もて男」だから、もてない男の小説である『蒲団』は理解できんのや、と。
この無駄な想像力の逞しさは、普通なら「あれっ?」って思う
別の理由があるんじゃなかろうか、と思うので、いつの日か書きたいと思う。
(四十宮英樹の論文によると、中村光夫は昭和25年の「モデル小説」という評論において、藤村や花袋の時代の私小説だと、自分で自分を観察することに重きが置かれていたのが、大正期の葛西善蔵らの私小説になると、自分で自分に演技をすることに重きが置かれ始めるという旨のことを述べている。その評論から読み解けるのは、中村光夫が、藤村や花袋が「自分で自分に演技をすること」をしていた可能性を、ほとんど考えていなかったことだ。自分がいったん構築した文学史的構図に、囚われてしまったのだろうか。)
同性愛=恋愛でない、という俺理論まで登場した折口は同性愛者だし、南方熊楠にも同性愛を礼賛するところがあり、もしかすると民俗学というのが、恋愛嫌いの学なのではないかとすら思う。 (164頁)
そういえば、ポール・レオトーの名前が、本書では出てこなかった気がする。
あれは小説ではない、ということなのだろうか。
次回は、中村光夫『風像小説論』か、北尾トロ,えのきどいちろう『みんなの山田うどん』のどちらかを取り上げる予定。
(未完)
「天皇にしても、ほかの権威にしても、国民にとっては与えられたもの」と大平正芳は書いた。 -福永文夫『大平正芳』再読-
大平について、以前、阿片の件でブコメをしたので、久々に本書を読んだ。
amazonで評者さんの一人が引用しているように、「大平は極端を嫌い、矛盾する事象に楕円のバランスをとり、粘り強い対話を重視した。また政府の役割を限定していく、小さな政府の先鞭をつけた政治家」だった。
バランサー型政治家であり、小さな政府を志向した人だった。
某小泉氏や、現総理とはえらい違いである。
小さな政府。
では、どんな「民」(民間、市民)を彼は考えたのか。
以下、面白いと思ったところだけ取り上げる。
(なお、同じ著者だと、『占領下中道政権の形成と崩壊 GHQ民政局と日本社会党』も重要である。)
大平は卒論・「社会職分と同業組合」で、トマス・アクィナスの政治思想の根幹である「社会全体の共通の目標」を取り上げた(31頁)。
その論文において、この目標を実現するためには、社会の一構成員が受け持つ役割を意味する「社会職分の原則」と「協同体思想」が重要と説く。
この「社会職分の原則」と「協同体思想」からの影響が、大平にはある。
(トマスの思想は、「共通善」というコミュニタリアンの思想の源泉であることは、知られている。)
各々の存在が与えられた職分を全うすることで、「協同体」全体の繁栄を目指す、というあり方である。
同時に、アメリカの同業組合にも着目し、「国家と個人を媒体する組織」としてとらえた。
「社会職分」と「協同体思想」の具体的なアイデアの一つがこれである。
キリスト教民主主義的なもの、そして、共同体主義(コミュニタリアニズム)的なものが、大平の政治思想の根っこにある。
そして、個と全体を媒介する存在を重く見ており、その一つが、「組合」だった。
(大平は自身の卒論に対してコメントしている。こちら(pdf注意)を参照あれ)
敗戦後、大平は、政策提言的メモを残している。
そのメモによると、当時の大蔵省の考えと同じで、敗戦しても国の信用は失うべきでなく、国債は償還すべきという方針だった。
その財源のために、官業の払い下げを提案した。
アメリカからの物的援助を仰ぐ必要から、政治的民主化により、日本の国際的信用を回復し、世界世論を緩和することを求めた(51、52頁)。
敗戦後に大平は、価格統制をやめ、直接税から間接税への重点を移行し、地方財政の自治性の促進し、組合の経営参加の推進(組合員の持ち株奨励)することを唱えていた。
リベラルか、ソシアルか、と言えば、おそらくリベラルに該当するはずである。
ただ、間接税重視は既にこのころからのものであったし、組合員が経営参加することも奨励している。
大蔵省的な均衡財政主義者と要約したくもなるが、そこからはみ出るものもある。
(大平の場合、財政均衡主義者たち(「信任の妖精」)とは、発想のスケールが違う。)
「国家と個人を媒体する組織」を重視する大平にとって、政府より民間という姿勢は当然であるし、一方、地域や「組合」の重視もまた当然ではある。
それが大平の政治スタンスである。
池田勇人はもともと安保騒動の時に強硬派であり、弾圧政策を主張していた(84頁)。
池田がハト派っぽくイメージされるのは、首相の時の政策のせいであるが、実際の池田は違うのである。
試験に出ます(違
大平はこう書き残している。
占領軍が日本古来の権威をすべて砕くことを指向していたのに、日本人の抵抗が意外なほど弱かった。
理由は何か。
「天皇にしても、ほかの権威にしても、国民にとっては与えられたもの」にすぎない。
自分で思考し、血みどろになって戦い取ったものではなかったからではないか(133頁)。
そう自問自答している。
そして、人はまず、家庭と地域に帰り、自分がどうすべきか考えよ、と勧める(実際、大平は、マイホーム主義を否定も軽蔑もしていない)。
保守本流の政治家・大平は、戦前の軍国主義や皇国主義を肯定することはないし、現日本国憲法にも肯定的だった。
まず、家庭と地域がある、という、「国家と個人を媒体する組織」が彼の発想の根幹にある。
1975年の公職選挙法改正では、定数不均衡の是正のために、議員定数を20名増加が唱えられた(197頁)
現在は、定数不均衡の是正のために議員定数を減らせ、という時代であるが、この時代の方がよほどマトモである。
大平は、家庭が経済や社会制度上の不備を十分吸収できる対応力を持つことを唱えた。
自立自助の精神や相互扶助の仕組みなどを守りながら、生活の質を向上させていくことが出来ると考えていた(238頁)。
ただし、政府が家庭に介入することはすべきではないし、政府が望ましい家庭のあり方を示すことも適当ではないと考えていた。
あくまでも、政府の役割を、 家庭基盤を充実する総合的計画を策定し、雇用や健康、住宅や余暇、教育等に適正な施策を行い、環境を整える ことに限定した。
まさに、キリスト教的民主主義である。
ここらへんは確かに、2014年の政権党とはえらい違いである。
マジでえらい違いである。
そして、「家庭基盤を充実する総合的計画を策定し、雇用や健康、住宅や余暇、教育等に適正な施策を行い、環境を整える」政策の一端が、「田園都市構想」である。
(ただ、田園都市構想って、正直よく分からんのだが(こなみかん )
(上記の「雇用や健康、住宅や余暇、教育等に適正な施策」を行うため、大平は、一般消費税を導入することで、将来の財政力の発動、国の積極的な活動に備えようとした、と著者は説明している(274頁)。)
こちらのブログの記事によると、日本のスウェーデン政治の研究は、「1967年から、東海大学の松前重義氏を中心に、大平正芳元首相、土光敏夫第二臨調会長、藤牧新平(社会党本部書記)などによって研究が始められていた」そうな。
スウェーデンは「組合」の強い国であり、コーポラティズムの国であるから、大平にとって矛盾はしないのだろう。
2014年8月2日、一部訂正