| ホーム |
「非モテ」演出と私小説、あるいは、<岩野泡鳴 VS 猫猫先生>という「私小説」に期待する話。 -小谷野敦『私小説のすすめ』-
あの猫猫先生が書いた、と理解していれば、実に面白く読める。
小説に興味のある人は、読んで損なし。
知識は間違いなく身に付くし、著者の主張から学ぶべきところは多い。
「文学とか文学史からみればかなり画期的で重要な指摘とも思われるものが、下世話な話題と並べて、(印象としては)ポンッと書かれている、という事もできる。そういうふうに長所と短所(というかもったいないところ)を持っている本である。」という、同著者『反=文芸評論』に対するAmazonの評が、そのまま当てはまる。
以下、特に面白かったところだけ。
プロを目指す人というより、ともかく小説を書きたいと思っている人に、私小説を勧めてみたい (7頁)
自己治療としての私小説、といったところか。失恋でも、家族の死でも、いじめられた経験でもそうだ。それらを、断片ではなくて、まとまった「私小説」として書くことで、何かが変わると、私は思う。 (182頁)
うん、とりあえずまずは、カウンセリングを受けようぜ(違
もちろん、小説にそのような効能があることは否定しないし、むしろ肯定したい。
一応自己"恢復"のための小説という話については、以前書いたことがある。
出典は『「蒲団」をめぐる書簡集』となっている。花袋が日露戦争の従軍記者として出征したことを全部省き、その間に美知代から恋文のような手紙が来ていたことも隠した (26頁)
要するに、花袋は、自分に起きた事実を取捨選択して小説にしたのである。
私小説がどんなに体験を基にしていようとも、事実のどれを選択し、それをどのように表現するのか、というのは、重要な点だ。
そこが、プロの腕の見せ所だし、素人と差が付くところである。
ともあれ、花袋が意図的に、滑稽感を増強させているのは間違いないと思う。
(実際、後藤明生も『小説 いかに読み、いかに書くか』で、そんな指摘をしている。)
なお、著者は、読み継がれる(かつ、今なお賛否あるような)作品なんだから『蒲団』は名作やろ(137頁)、的なことを書いているのだが、そんなら漱石『こころ』は名作になるし、多分村上春樹もそうなるだろう。
、、、まあ、それは別にいいのだけど。
・・・ところで、「美知代から恋文のような手紙が来ていた」ってことは、実際の花袋はモテモテなんじゃねーか、それを小説では削ったってことかよ!、と思った
これ、後藤明生の小説そのものやないか。あなたが、勝手に相思相愛だと思っていた相手が、実はそんな気はまるでなくて、自分が勘違いして、後から考えるとさまざまに滑稽な振舞いをして、あとで自分の勘違いだと分かり、悲しくかつ情けなくてのたうち回った、というような経験があったら、それは格好の私小説の題材である (28頁)
いや、まあ、のたうち回る云々だけは、違うような気がするけど。
著者は実際のところ、それが実話を元にしようとそうでなかろうと、こういう話が好きってことなんだろう。
んじゃ、別に私小説でなくてもいいような気もしないでもない。
実際、志賀直哉らの「心境小説」は私小説を不毛にしたんだぜ、的なことも書いている。
著者は、「暴露型・破滅型」の私小説が好きなのである(30頁)。
だがしかし、著者は、岩野泡鳴について、
って書いちゃってる。全然花袋や秋江とは感触が違い、自分の「冒険家」「魚色家」ぶりを誇っているような、花袋や秋江とは別種の「愚かさ」があって感心しない (124頁)
別に私小説だからと言ってそれが好きなわけではなく、「暴露型・破滅型」の中でも、もてない、あるいは、不倫に走る「情けない自分」を書いた小説が好きってことだろう。
だから、ホーメー先生みたいな「自信家」の私小説は好きじゃないのだろう。
実際のところ、著者の体験をどこまで基にしているのかは、実はそこまで著者の好みには影響してないような気がする。
これは、結構重要な指摘だと思う。日本の純文学作家は売れないので、次々と作品を書いて原稿料を稼がねばならず、ために西洋の一部の作家のように、十分な時間をかけて小説を練り上げることができず、時には事実を洗練させて変形する暇がなく、時にはほとんど事実そのままを小説にしたりしていたせいもある。 (58頁)
時間が無かったので、それを書きました、っていう身も蓋もない話。
じゃあ、日本の私小説がみんな駄作か、といえば勿論そんなことはあるはずもない。
既に書いたとおり、事実のどれを選択し、それをどのように表現するのか、というのが大切だ。
(著者は、このような工夫(技巧)の問題について、本書で触れていない(はず) である。本書における「私小説」という概念に対する異議として、こちらの密林での批評を挙げておく。)
(そういえば、私小説の方が事実の中に小説家の「企み」を挿入しやすい、ということを、古井由吉はどこかで書いていた。)
中村光夫の頑なな『蒲団』批判の背景には何があるのか、という点に関する著者の言。中村自身が、そのように、たやすく女を手に入れてしまうような男だったのだ、と考えるべきだろう。 (126頁)
中村光夫は「もて男」だから、もてない男の小説である『蒲団』は理解できんのや、と。
この無駄な想像力の逞しさは、普通なら「あれっ?」って思う
別の理由があるんじゃなかろうか、と思うので、いつの日か書きたいと思う。
(四十宮英樹の論文によると、中村光夫は昭和25年の「モデル小説」という評論において、藤村や花袋の時代の私小説だと、自分で自分を観察することに重きが置かれていたのが、大正期の葛西善蔵らの私小説になると、自分で自分に演技をすることに重きが置かれ始めるという旨のことを述べている。その評論から読み解けるのは、中村光夫が、藤村や花袋が「自分で自分に演技をすること」をしていた可能性を、ほとんど考えていなかったことだ。自分がいったん構築した文学史的構図に、囚われてしまったのだろうか。)
同性愛=恋愛でない、という俺理論まで登場した折口は同性愛者だし、南方熊楠にも同性愛を礼賛するところがあり、もしかすると民俗学というのが、恋愛嫌いの学なのではないかとすら思う。 (164頁)
そういえば、ポール・レオトーの名前が、本書では出てこなかった気がする。
あれは小説ではない、ということなのだろうか。
次回は、中村光夫『風像小説論』か、北尾トロ,えのきどいちろう『みんなの山田うどん』のどちらかを取り上げる予定。
(未完)