ともあれ、「加害者の顔が見えない"和解"は茶番である」というような話。 -梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』再読-
2011年に出た良書である。
久々に読んだが、やはり面白かった。
3年前の本だけど、古びていない。
(あまり関係のない話だが、例の「壁と卵」のスピーチの問題点は、「卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます」と述べ、「焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たち」を支持する者が、果たして、抑圧されるがゆえに武器を手にとった「卵」に対してどう向き合うのか、また、もしその返答が例の小説だとするなら、あの小説はどう見てもその回答として不十分としか言えない、という点と、そして、あのスピーチは「壁」が「爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾」と「システム」と二種類出現していて、「システム」変えようぜと言うのは”そーですね!”(アルタ風)という返答しかないのだが、一方の、「爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾」を使用する側の「卵」の加害への責任はどうするんだよ、という二つの点だと思う。ともあれ、「加害者の顔が見えない"和解"は茶番である」という伝説の名言を噛み締めるべきだ。 )
以下、興味のあるところだけ。
数年前にあった、毒入り餃子事件を発端とする、中国産食品に対するバッシング問題について。
1990年代後半、農産物の過剰生産により、中国の地方政府は輸出振興策を行った。
その動きに乗ったのが、中国の人件費の安さに目をつけた日系の商社や食品会社だった。
そもそも、現在の日本の中国からの輸入農産物は、ほとんどが、日本企業によって生産・品質管理・加工などのノウハウが持ち込まれた、「開発輸入」によるものだった。
本書によると、農薬の多くも、もともとは、日本企業によって持ち込まれたものだという指摘もあるらしい(19頁)。
問題は、中国側の人件費などの生産コストが上昇していく中でも、消費者が「安さ」しか求めない、という日本における中国産食品の位置づけが、当初とまったく変わらなかった点にある、というのが著者の主張。
これは、当時の日本のデフレ経済も含めて考えるべき問題なのだろうが、「デフレ脱却」を政府が唱道する2014年現在、「中国産食品の位置づけ」は、どこまで変わってきているのだろうか。
2011年の「事故」によって忌避される目に遭っている福島県産の食品の位置づけも。
(この件については、こちらのブログの記事も参照されるべきだろう)。
CSRの問題点について。
多国籍企業のCSRや民間機構による認証は、ILOのような国際機関の定めた労働基準と違い、立場の異なる複数の当事者の粘り強い「摺り合せ」によって作成されたものではない。
すると、どうしてもそこに、先進国の価値基準が入り込んでしまう可能性が出てくる。
たとえば、ナイキのような多国籍企業がCSRを盾にして現地企業の労使対立に介入したり、組合の結成を助けたりするのは、法で言う「自力救済」に当り、国内法・国際法ともに違法行為である可能性が高い(39、40頁)。
いくらナイキの方が現地政府より開明的であるように見えても、容認されていいのか、ということである。
もちろん労働CSRは、きちんとした国内法の運用と組み合わせれば、確実に途上国の労働者の待遇改善につながる(41頁)。
だが、現実に途上国で運用されるCSRの問題点は、その理念が現実社会で実現されるための精緻な「方法」を欠いている点にある。
これが著者の言わんとするところだ。
さて、日本の場合は、どうなのか。
はてダの記事「「人権」問題のグローバル化はすでに終わっている 」を読んでそう思う。
日本は一応、先進国である。
先進国だと聞いていたのだが。
とりあえず、"現実社会で実現されるための精緻な「方法」"として、労基署の権限と労働組合の力を強化しよう(こなみかん。
現実のデータを見れば、むしろ米国の金融緩和が、ホットマネーの流れを通じて中国の物価水準の上昇を招くなど、中国の金融政策全般に影響を与えている(104頁)。
その逆ではない。
中国がいくら世界第二位の経済大国になったとはいえ、まだ中国経済が米国に与える影響力は、その逆に比べてはるかに弱い。
この件については、2009年の時の著者のブログ記事も参照されるべきだろう。
2014年の今でもこのような構図は、変わっていないように思うのだが、はてさて。
ラヴィア・カーディル氏(世界ウイグル会議議長)。
著者のブログ記事から引用すると、もともと、議長は「改革開放の波に乗って財を成しながら、『誰もが平等に金儲けのチャンスが与えられる社会』を目指す、という形で民族のおかれた状況を改善していこうと」した人である。
ビジネスを拡大する場合には漢族だろうと外国人だろうと、信頼できる相手なら積極的に協力している(148頁)。
また、民族の伝統に対しても異説を唱える姿勢は、イスラムの保守的伝統に縛られたウイグル人男性たちの批判を浴び、夫にさえあきれられるほどだった。
この姿勢に、著者は、J・ジェイコブズの「市場の倫理」と「統治の倫理」のうち、前者を見ている。
(簡単にいうと、身内びいき(「統治の倫理」)ではなくて、「商人」が身内ではない相手との間に分かち持つような「信頼」を重視している(「市場の倫理」)、という話。)
このカーディル議長が、2012年、会議メンバーをともなって、「日本人支持者と共に靖国神社に向かい、集団での昇殿参拝というパフォーマンスを行った」。(以下、引用元は、著者によるウェブのこの記事。)
この出来事について、著者は、「日本に亡命したムスリム」が「日本の国家主義に利用されていった」テュルク系ムスリム、クルバンガリーの事例を紹介しつつ、「なぜ戦前から現在に至るまで、日本の国家主義たちは、自分たちを頼ってきたアジアのムスリムたちを、信仰的に相いれないことが明らかな国家神道の儀式に巻き込もうとするのだろうか?」と提起している。
そして、「そのような『野合』がうまくいかないことくらい、戦前の日本の経験を少しでも振り返れば明らかなはずだ」と批判している。
まあ、その通りである。
問題はこの議長の行為をどう考えるか、だ。
彼女のような「市場の倫理」に従っている、とみられていた人物でさえ、たやすくその道を外れて、身内(仲間)びいきをしてしまったのである。
あるいは、「漢族だろうと外国人だろうと、信頼できる相手なら積極的に協力」するという「市場の倫理」を忠実に守り、日本の右翼を信頼して靖国参拝をしたのだろうか?
とすれば、この出来事は「市場の倫理」の結果によるものと考えるべきなのか?
ともあれ。
著者は、「複雑な民族問題について『正義』を追求するとき、曲がりなりにも普遍性を追求しようという姿勢がない限り、ご都合主義的なニセの連帯が生まれるだけである」と、真っ当なことを述べている。
普遍性とはすなわち、身内や仲間にしか通じない倫理ではなくて、それ以外の人、さらには敵においてさえ、通じるような(反論しがたいような)倫理を追求せよ、ということだろう。
もっとわかりやすく言うと、ダブスタをするな、ということだろう。
ちなみに、人道的介入におけるダブスタの問題については既に書いたことがある。
新自由主義の重要な要素である「搾取しやすく相対的に無力な大量の労働力の存在」が見られるという点では、間違いなく新自由主義経済な中国(186頁)。
アルゼンチンへの輸出攻勢によって現地の伝統産業が破壊を受けるという批判に対して、中国は「そのような産業は滅びるにまかせ、急激に発展している中国市場に原料や農産物を輸出することに専念しさえすればいいと忠告」した国、中国(187頁)。
(これについて、「一九世紀にイギリスがインド帝国に対して振舞った時のやり方そのもの」である、と、ハーヴェイ『新自由主義』は書いている(邦訳193-194頁))。
とりあえず、中国人民は立ち上がって、ゼネストを起こすべきではないだろうか(マテヤコラ 。
石原吉郎「アイヒマンの告発」を著者は紹介している(220頁)。
石原は、広島の平和運動への違和感を述べている。
①政治的な「告発」は「当事者(被害者あるいは目撃者)」によってしかなされるべきではない。
②政治運動としての「告発」が基本的に死者の「計量可能性」の前提に立っており(「一人二人が死んだのではない」というなら「一人二人ならいいのか」。)、一人一人の犠牲者をないがしろにすることにつながっているのではないか。
①はそのとおりだし、②も確かにそうである。
ただし、後者の「一人の死者もないがしろにするな」論法を濫用してしまうと、1982年の「反核異論」において、戦争による死や後遺症のみならず「老衰による自然死」までも(!)被爆者の問題と同等の事柄として扱おうとした吉本隆明みたいになってしまうから、注意が必要である。
ある特定の死を特権化するのは確かに危うい、だがしかし、警戒するあまり、ある死や害における「加害性」を覆い隠してしまうのは、やはり、いただけないと思う。
(吉本の「反核異論」については、こちらのブログの記事をご参照あれ。また吉本の80年以降の言論の「衰え」を批判した田川建三『思想の危険について』も参照されるべきだろう。)
中国の「左派」の話(255頁)。
社会の矛盾をあくまで「資本主義化」の弊害として捉え、国家による分配の平等を重視するのが中国の「左派」である。
この立場からは、インターネットの言論統制を批判し、法に基づいた基本的人権の擁護を訴える知識人や弁護士などは、しばしば「ブルジョア的な自由主義」の論理を体現しているとして批判の対象にされる。
例えば、「欧米の団体からカネをもらって共産党政権の転覆をはかる資本主義の手先」といったステレオタイプの誹謗中傷を受ける。
平等の理念をまとった国家(指導者)への帰依、という彼らの観念が、外敵から平等の理念を守る、という考えに転嫁してしまう。
(リベラル=「右派」とソシアル=「左派」という問題である。)
著者はそうした左派に対し、希望を「民間思潮」に求めている(詳細は、こちらの記事を参照)。
「民間思潮」の「民間」は、日本語の意味と違う。
「社会の病根を『外部』に求めるのではなく、『内部』の専制政治に目を向けることで変えていこうとする、極めて象徴的な意味を持っている」。
リベラルとソシアルと「民主主義」をめぐる問題については、kihamu氏のブログ記事、例えば、これとか、これが、実に有益でおすすめである。
(未完)
「急ぎすぎてはいけない」、あるいは、チベタンコミュニスト・プンツォク=ワンギェルの半生 -阿部治平『もうひとつのチベット現代史』雑感-
知る人ぞ知る、プンワンの半生を綴った好著である。
彼が何者かについては、Wikipediaの記事を見てくれれば分かる。
(ただ、「帰国後、中国共産党の下部機関に組み込まれるが、文化大革命では民族主義者として弾圧を受け、18年間投獄される」という記述があるのだが、プンワン投獄は文革前のはずである。)
梶谷先生による書評も、読まれるべき。
未完だが、こちらの書評もよい。
以下、気になった所だけ。
占領されるまでのチベットの当時の政治について。
イギリスはシムラ会議で中国のチベットに対する宗主権を承認し、チベットには自治権以上の権力を認めなかった。
にもかかわらず、チベット政府はイギリスにも中国にも、積極的に独立を認めさせる外交らしい外交も、独立を確実にする内政の改革もしなかった。
ラマを中心とするチベット政府首脳部にとっては宗教行事の方が国政よりももっと重要だったのである(86、87頁)。
ダライ=ラマ5世以降、ラサ三大寺院と俗人貴族の連合政権は絶対的な統制力をもってチベット人に君臨していた。
国家の危機と民衆の貧苦をよそに、200家族ほどの貴族社会は安穏でぜいたくな日常を送っていた(87頁)。
プンワンが最終的にコミュニストになる素地は、ここらへんにある。
第二次大戦は独立のチャンスであり、プンワン一派のほかにも独立を確保するためにチベット政府の改革を急ぐべきと考えるものは存在した。
だが、それは、インドと接触のある限られた知識人とラサのわずかな貴族と僧侶だけだった(88頁)。
基本的な事項。
チベットはその居住地域を文化や方言の違いによって大きく三つに分けられる。
ウ・ツァン(中央)とアムド(東北部)、カム(東南部)である(16頁)。
カムについてはWikipediaとかを参照。
で、占領当初の話。
チャムド(カムの中心都市)戦役が起きた時、カムパ(カムの住民を指す)の大衆の多くは、解放軍の勝利を願っていた。
金沙江(長江上流)の東は国民党軍閥の支配下にあり、汚職で腐敗していた。
一方、西岸のチベット政府の支配は、より苛酷で、税金をむやみに取り立て、チベット兵は遊牧民の家畜や金品を強奪し、女性を物にすることに執着した。
そのため、チャムド地区のカムパは東の同胞の暮らしを羨んでさえいた。
ところが、人民解放軍は悪事を働かなかった。
はじめカムに来た頃はぼろをまとい寄せ集めの武器を担いでいた。
だが、人や家畜を動員したときは賃金を払い、物資買い入れの時も代金を払った(172頁)。
解放軍によって幹部に抜擢され、のちにカム反乱に参加した人物は、そのように証言している(本書では『中国と戦ったチベット人』から、その証言は引用されている)。
(ただし、状況はチベットの各地域で異なり、例えば、『中共夏河県党史資料』は、甘粛南部に進駐した中共と解放軍が恣にチベット人に暴力をふるい、汚職腐敗をやって反乱を誘発する経過を記述している。これも、1949年当時、少数民族地域へ侵攻した解放軍の振る舞いの一例である(56頁)。)
方言に関して。
1951年、中国とチベット政府の和平談判が行われた。
この「十七条協定」交渉に、プンワンは関わる(187頁)。
彼と共に仕事をしたプンツォ=ザシによると、アムド方言(彼の出身)とウ・ツァン方言では、文字と語彙は同じだが、発音が大きく違った。
一方、カムのバタン出身だったプンワンだが、ウ・ツァン方言にも通じており、実質的な通訳は彼が担った。
ちなみにプンワンは、「十七条協定」の交渉の後、毛沢東から『実践論』(表紙に毛の自筆で「平措汪傑同志 毛沢東」と書いてある)を送られた。
プンワンはいまも、大切に保存しているという(203頁)。
その後の占領者たちの振る舞いについて。
中国側の占領者たちは、チベット情勢に暗かった。
漢人将軍たちは少数民族問題、とくにチベット問題にほとんど無知であった。
公用言語や学校教育、寺院の待遇や土地改革、制度をどのように変えるのか、幼稚な考えしかなかった。
そんな状況ゆえに、毛沢東の指示を腕力を持って進める方法が生まれた(246頁)。
プンワンは社会主義チベットはチベット自身が作り上げるべきであり、チベット人農牧民自身が目覚め、チベット人主導で土地改革を行うべきと考えていた。
だがこの方法は確実ではあるが、時間がかかる。
苛烈な革命戦争を戦い抜いた漢人将軍らに通用する話ではなかった。
「かれらは功をあせっていた」(246頁)。
そして内地からやってきた党員や将兵にとって、チベット反乱の鎮圧は、毛沢東に忠誠を示し戦功を上げるチャンスとなった(316頁)。
「明鏡止水の状態の中で師匠を最も脅かすものは何ですか」
「性急さ」
(ウンベルトエーコ『薔薇の名前』より)
そもそも、プンワンはなぜ、自ら作り上げたチベット共産党を解体し、中国共産党の下に入ったのかについて。
それは無理なからぬことだった。(既に梶谷先生の書評に書いてある通りだが。)
実際、北京側は、1947年10月に発表された「解放軍宣言」でも、中国領内の少数民族の平等と自治、彼らが「中国連邦」に加入する自由を持つことを認める、と、依然として連邦国家構想をあきらかにしていた。
プンワンの頭に、これがあったからこそ、妥協として「チベット共産党」の地位を捨て、中国共産党の地方組織になるという格下げを承知で、雲南北部で中国共産党に参加たのである(269頁)。
だが、49年9月に人民政治協商会議で採択された共同綱領では「民族の区域自治」を実行すると明記され、連邦性は否定された(270頁)。
プンワンはそのことを知らされていなかった(272頁)。
彼は、53年に初めて中共の決議やその他文書を読んで、初めて知ったという。
そもそも国際共産主義運動の原則から言って、革命に成功した多民族国家における少数民族の分離独立や自決権の承認は、当時のコミュニストにとって当たり前のことだった。
じっさい、スターリンは、ロシア帝国の植民地だった国家や地域を独立させて、1922年にはソ連の構成国とした。一応。
占領政策の性急さについて。
チベットにおける「民主改革」工作者たちは、一方で寺院の99%を破壊しながら、寺のラマや集落首長を晒しものにすることで、彼らにはもはや権力がないことを民衆に見せ、「積極分子」(つまり、社会の「下層階級」に指定された者たち。チンピラ等も含まれていた)に血と涙の暮らしを強いられたことを訴えさせて「政治的自覚」を促そうとした(312頁)。
あまりにも暴力的な方法だった。
もっと温和な統治方法はなかったのか。
「十七条協議」を基本に、高利貸排除と借金の整理、家内奴隷の解放、そうした改革にとどめ、あとは農牧民の要求が成熟するまで待つ、という当初の方針を貫くことはできなかったのか。
だが、毛沢東は、土地改革と上層人士からの権力はく奪を断固として決意していた(316頁)。
プンワンが、当時の中共によって地位をはく奪され拘束されたと聞いたとき、ダライ=ラマは、中共指導層に対する見方を変えてしまった(366頁)。
プンワンが、誠実な共産主義者であると、ダライ=ラマは知っていたためである。
そして、彼らは、共産主義者を装う中国大国主義者以外のなにものでもない、と考えたのである(本書において、典拠は『ダライ=ラマ自伝』になっている)。
彼のプンワンへの評価については、こちらもご参照あれ。
文革が終了して解放された後、プンワンは次のことを主張する。
すなわち、独立の否定、中国の支配を前提としながら、厳格な民族平等、名実ともに、民俗区域自治、自主政策を実行することである(448頁)。
ここで、プンワンは「弁証法」を強調する(461頁)。
少数民族の悲劇は、中国共産党が弁証法から逸脱した事が原因と言いたいのである。
彼の弁証法の要諦は、次のものだろう。
曰く、自分に反対する者はすべてが敵ではなく、時にはもっとも手ごわい反対者が最もいい意見を持っていることがある。
「毛主席の晩年に犯したあやまちのひとつはこれだ」(出典はダウェイシラオの『葛然朗巴=平措汪傑小伝』)。
(弁証法を自然科学にまで広げるのは無理だと思うが、人文科学までなら十分適応できそうである。詳細は、こちらをご参照。)
プンワンは、民族反乱への鎮圧方法を批判しており、さらに、「みんなに話し合わせ相談して物事をきめさせる。人が批判するのを恐れるのではなく批判しないことを恐れるべきだ」といった(462頁)。
陰謀詭計の政治手法、いい加減な文書を使って人を貶めようとする手練手管が存在し、肯定に哀訴してお墨付きをもらい、自分の主張を正当化しようとする「宮廷政治」が、中国共産党にあることを著者は指摘しているが(473頁)、まさに、こうした手口こそ、プンワンの主張に反するものである。
次の点も重要である。
曰く、民族平等が要因であって、団結はその結果である。
民族平等を民族団結の前提にしてこそ、確固とした平等・団結・互助の民族関係を築くことが出来る。
その逆ではない(463頁)。
平等なしに、団結は無い。
そして、プンワンは、支配の現状に古典的理論をもって、党の許容限界まで批判を試みた。
レーニンらソビエト政府は、民族自決権に基づいて、フィンランドの独立証を代表に手渡した、と(466頁)。
すなわち、プンワンはその事実を指摘して、理論上は少数民族に分離独立の権利があることを提起している。
ほかにも、毛沢東思想をもって毛沢東批判を行った紅衛兵もいたこと(『毛沢東を批判した紅衛兵』)とか、パンチェン=ラマが『七万言書』において、1949年の革命以来の中国共産党の業績を称えたうえで、チベット人の進行と飢餓の惨状を明らかにしたことだとか、実は国共合作当時の重慶は国民党の厳しい監視下にあり、共産党側の活動環境は極めて危険だったとか、色々書きたいことはあるが、省略する。
(未完)
(未完だけど追記)
プンワンが今年、亡くなった。
書き足すことは何もないが、タイトルが何だか気に入らないので、改題する。
-2014/5/28-
黒船は鉄製ではなかった
意外に知らない人が多いらしい。
「鉄の城」(某マジンガーZ)みたいに、「くろがね」というイメージがあるんだろうか。
本書を読むまで知らなかったのだが、低空飛行訓練は、米国本土ではやらないらしい。
伊波洋一の話によると、米国のキャンプ・ペンドルトン(アメリカ海兵隊最大の基地)の近くにあるオーシャンサイド市の市長に、基地被害についてたずねたところ、こう言われたという。
「被害? 市民に被害をあたえては基地は存続できませんよ」
さらに、「航空機の音は聞こえないし、ヘリコプターを見たこともない。何十年か前に砲撃演習の音が聞こえて住民から苦情がきたので、司令官と市が相談して演習の場所を変えさせたことがあった」
米国の土地の広さを考えても、すごい雲泥の差だと思わざるを得ないエピソード。
1995年に、沖縄県・太田知事(当時)が代理署名を拒否したときも、日本の国会はそれを無効にする「米軍用地特措法改正案」を「衆院9割、参院8割という圧倒的多数」で可決してしまった。
これについて、著者は、「これは特定の地方だけに適用される特別法は、その地方の住民投票で過半数の同意を得なければならないとする憲法95条の精神にあきらかに反した行為でした」と述べている。
精神に反しているということは、一応合法ということなのだろうか。一応は。
それにしても、酷い結果だといわざるを得ない。
これが美しいニッポソの風景なのだから。
基地問題とは、国外問題である以前に、国内(格差)問題だと思う。
米軍が歪めた戦後沖縄経済
■沖縄の経済と、国内格差の実態■
日本という国は、実はこんな感じである。たとえば沖縄県の県民所得は、全国で最も低い。しかしその額をドルに換算して先進工業国のリストに並べてみると、中位か下位あたりに位置する。つまり、沖縄は世界の中では経済的「豊かさ」を享受している。国内に視点を転じても、都道府県別の県民所得で平均を超えるのは九つしかなく、三八の道府県が平均以下である。そこからはむしろ、国内格差が浮かび上がる。
■米国の都合で、日本の「潜在主権」下に置かれた沖縄■
豊下楢彦先生も、このようなことを書いていたような気がする。「潜在」であれ、主権を日本が有するのであれば、その同意の下で米国は沖縄で自由に軍事基地を建設できる。 […] 要するに、信託統治では進行中の大規模な基地建設が不可能だという状況で、沖縄を排他的に統治していくためには、日本の「潜在主権」を設定しておくことが、米国にとって不可欠だったのである。日本の「潜在主権」を米国に認めさせたのは吉田外交の成果だという、学会での通説に近い解釈は明らかに不十分だと考える。
■ODA沖縄版な経済。■
情けは人の為ならず、の典型である。政府の沖縄政策の目玉として実施されている「本土との格差是正」及び「自立的発展の基礎条件整備」のために投下された振興会開発事業費は、経済自立には結びついていない。沖縄振興予算の実施機関である内閣府沖縄総合事務局が発注する公共事業費の五〇%は県外業者が受注し、沖縄の予算が本土に還流するという"ザル経済"を構築しているからである。本土ゼネコン業者は政府の沖縄振興開発事業(公共事業)を受注しているが、県、市町村の税収には貢献していない。
[…] 沖縄への財政投資が県外に還流し、資金循環効果に乏しく民間経済を誘発していない仕組みになっている […] 財政資金は、途上国援助として投入されるODA資金と同様にその大半が日本企業の受注で日本に還流する「ODA援助」と形が類似しており、「ゼロODA沖縄版」となっている。
まさに国内植民地。
■従属構造■
先ほどと同様。公共事業への依存度が高く、中小零細企業が多い沖縄では、政府が巨額の資金を投下しても、その大半が本土企業や海外資本に回収される […] 沖縄の企業は下請けや孫請けに甘んじる構図が温存されてきた。 (某書より引用)
■ハコモノばっかりです。■
ハードばかりでソフトに流れないのは、日本のそこかしこにある、あるあるである。現在の振興事業費は、公共事業中心の振興策となっている。道路、港湾等の社会インフラは本土並みに達しつつあり改善がみられるが、振興事業費が教育、福祉、医療など県民生活と密接な分野に使えるような制度設計にはなっていない。 (某書より引用)
第二次安倍内閣のアベノミクスも(ry
■米軍が歪めた戦後沖縄経済(そりゃ基地周辺に人が集まるわけだ)■
何のことは無い、沖縄経済を大いに歪めたのは米軍であり、基地周辺に住民が集まる経済構造を作ったのも、実は米軍である。基地に農地を奪われて第一次産業は衰退の一途をたどり、米軍基地建設のために必要な労働力を確保するために実施された基地労働者の高賃金政策で、戦前型の食料・軽工業産業従事者の基地労働へのシフトが進み、さらに日本円の三倍も高価なB円の投入で「輸出型産業」は競争力を失い、代わって「輸入型」産業が一気に成長を遂げることになった。 […] 唯一の外貨(ドル)獲得の機会は、米軍基地建設や基地周辺産業にしぼられていった。 (某書より引用)
■日本政府の植民地主義w■
「米軍基地再編交付金」 […] それは、新たな基地負担へ自治体の協力に応じて、防衛大臣の都合、政治的判断で補助が決まる。これに依存しなければ自治体財政が成立しないということになれば、地域に役場は残っても自治は消滅し、もはや、「軍事的植民地」 (某書より引用)
■良く考えれば、基地との「交換」が当然なわけがない。■
沖縄では、当然の権利としての財政移転が、全て基地との交換と考えられているのではないだろうか。基地がなければ食べていけないという県民の懸念は、権利として確保されるべき施策までもが、基地との交換で国が与えている恩恵であると思い込まされているために、なおさら強められている。 (某書より引用)
重大なものが書き落とされたとき、あるいは「セカイ系」な記事 -とある産業経済新聞の記事を読んでの感想-
(「教師が反日誘導「日本人に拉致を言う権利はない」 元生徒が朝鮮学校の実態告発」)
ここで問題として扱うのは、①この文章そのもの「フィクション性」、すなわち(この高校生が"実在"するのかどうか)と、②無償化を止めることと学校選択の自由の関係です。
以降検証を行います。
この記事全体において、親(保護者)の存在は希薄になっています。朝鮮学校から自分の意思で別の学校に移った高校生が初めて産経新聞に実態を告発した。
いやいや、重要なのは学校選択の自由の問題であって、無償化云々は実はこれとは無関係です。論理的には、二つは両立しますので。「生徒の立場が理解されていない。無償化するぐらいなら学校を選ぶ自由をください」。生徒は悲痛な声を上げた。
いやいや無償化があろうがなかろうが、「後輩たちが苦しめられ続ける」ことに変化などないはずです。「学校がそのままなのに無償化が適用されてしまえば後輩たちが苦しめられ続ける」と取材に応じた。
無償化と「学校選択の自由」は、実は関係のない問題であるはずなのに、何故か変に混同されている。
これは本当に、実在する人なのか、と疑問を覚える所です。
とりあえず、もしこの高校生が実在するのなら、太田昌国『拉致異論』を読むことをお勧めします。
「日帝(植民地)時代にあれだけ朝鮮人を拉致した日本人が拉致問題を言う権利はない」
この二つの問題(植民地時代の問題と日本人拉致問題)は、両方問題にされるべき事柄であって、片方だけを問題にすることも、両方とも不問にすることもしてはならないのです。
その意味で、両方の問題にきっちりコミットしている太田昌国『拉致異論』はお勧めです。
当然この事態は批判されるべきです。生徒が北朝鮮について「独裁」と漏らすと呼び出された。教師の板書の間違いを指摘しても叱り飛ばされる。「目上の言うことを聞くのが朝鮮文化だ」。教師の指導は「絶対服従だった」と今、思う。
だって、某国の「戦前」と同じレベルですからw
ていうか、「目上の言うことを聞くのが日本文化だ」って言う言説も、当然批判されるべきですよねw
奇妙なことにここでも親の姿は希薄なのです。生徒が朝鮮学校から移ろうとすると、この学校では教師や同級生が集まって思いとどまるよう圧力をかけたという。学校側は他校に受験し直すのに必要な書類の記入を渋り、「内申書はゼロだから」と告げた。
親は出てこないんですか?将来の問題に、親が一切絡んできません。
選択の自由は大切です。生徒は「人権というなら国や自治体は無償化で学校を支援するより、生徒が自由に学校を選べる環境を作ってほしい。学校を変わると一時的に苦労するが、朝鮮学校に通い続けると日本社会に適応できず苦しむ」と語った。
なので、当然朝鮮学校を選択することも認められるべきですし、なら、無償化に反対する理由にはなりません。
少なくとも、このことが無償化を止める理由にはなりえません。
第一、無償化というのは結局、「父兄の負担が軽くなるだけで、学校は無関係」です。(ここら辺の論点は、既に Gl17さん が指摘しています)
これが本当なら酷い話です。朝鮮学校から別の学校に移った高校生が耐えられなかったのが「反省会」と称するホームルームの存在だった。
クラスはいくつかのグループに分けられ、一日を振り返って得点をつけさせられる。教室で日本語を使ったら減点。「反省することがない」と報告すると、教師から「ダメだ」と突き返された。
北朝鮮で職場や地域ごとに相互批判させられる「生活総和(総括)」の朝鮮学校版だ。
でも、これが行われたのは、「朝鮮学校」なんですか? 「別の学校」なんですか?
多分これ、朝鮮学校での出来事、って受け取っていいんですよね?
てかそもそも、この生徒がどうやって別の学校に移れたのか、そのプロセスが記載されていないのも奇妙です。そここそ重要じゃないでしょうか。
だから、そのお金を支払っていたはずの親の姿が(ry学費面での不公平感も拭えなかった。毎月、授業料に加え、施設修繕費などとして4万円近い金を納めさせられたが、学校の設備はボロボロのまま。「お金はどこに行っちゃったんだろう」と感じ続けた。
かろうじて、この文章中で一番信頼度が置けそうなのは、この一文です。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)職員の子供たちは学費さえ免除されていた。この事実は他の学校関係者も証言している。
情報の確度だけは、他の分に比べ高いです。相対的な問題ですが。
素朴な疑問ですが、それ以外の朝鮮学校ではもっとマトモだった、と受け取っていいんでしょうか?しかし生徒が通っていた朝鮮学校では、故金主席の業績を称賛する教科書記述を暗記させられ、土曜日の課外授業では、北朝鮮の経済発展をたたえる映像を見させられた。教師は「わが学校は世界的に優れた教育だ」と自賛したという。
この記事は、高校生の出身地などをも曖昧にすることによって、「ある朝鮮学校ではOOである」を、「朝鮮学校(全体)ではOOである」に、容易に混同できてしまう構成になっています。
せめて、どの地域の朝鮮学校なのかが特定できればある程度防げるであろうこの混同も、それすらぼやかすことによって、こうした混同が可能になります。
一部を全体に転嫁させる論法が、この文章では炸裂しています。
(もっとも、地域を明示しても、混同されがちではありますが orz)
こういう肖像画を飾る行為は賛成しません。だって、何か御真影みたいだしwしかし生徒は「小学生のころ、肖像画が外されたが、教室の横の壁に金日成の別の写真が掲げられた」と振り返る。
つ http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/affairs/news/111002/crm11100201320000-n1.htm神奈川県の補助金問題でも学校側は拉致問題などに関する記述を訂正したとしているが、多くの学校で変わっていなかったことが判明している。
生徒も「絶対変わっていない。教師のメンツを考えると変えられるわけがない」と断言する。
産経新聞の悪質なレトリックです。(この記事が最新の記事ですが、事態は産経新聞の言う通りにはなっていません。)
最後の最後まで、親(保護者)の存在は希薄なままです。親の存在こそ、幼少時に大きく影響するはずなのですが。こうした状況でも通い続ける生徒がいるのは「幼いときからこの世界に漬かって日本の学校を知らない」からだという。
それ自体は正しいことでしょう。学校選択の自由はよいことです。授業内容があまりに違い、日本の学校を受験しにくい点も挙げ、「朝鮮学校内で日本の学校の説明会を開いたりして他の学校に行きやすいようにしてほしい」と訴えた。
もしこの高校生が実在して、他の新聞が取材しているなら、ここが本題になるはずなんですけどね orz
そんなわけで、まとめると、
・この記事全体において、親(保護者)の存在は希薄です。幼少期からの環境に重大な影響を与え、かつ、学校の授業料を支払う主体であるにもかかわらず。
・無償化と、学校選択の自由は、実は関係のない問題であるはずなのに、何故か変に混同されています(無償化は、「父兄の負担が軽くなるだけで、学校は無関係」です)。
・朝鮮学校では、一昔前の野蛮な日本の風習が残っているのかもしれません(一昔前ではない、か?)。
・太田昌国『拉致異論』は良本です。
・地域などが特定できなっていることで、「ある朝鮮学校ではOOである」を、「朝鮮学校(全体)ではOOである」に、容易に混同できてしまう構成になっています(そうでなくても混同されやすいのですが)。
以上のように見てみると、この高校生の実在性は疑わしいです。
親の存在が希薄すぎる、というのが最大の理由です。
可能性としては二つ考えられます。①この高校生が"非実在"である、②実在はするが、記者が変な「操作」を行った結果、非実在っぽくなった。
この生徒は、複数の朝鮮学校に対する言説を寄せ集めて出来た「言説的構築物」かも知れません(個人的には、その可能性が高いと踏んでいます。入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』みたいなw)。
もちろん、この生徒は実在するかもしれませんが、しかし、親の存在を事実上消去したのは重大な「操作」です。親すらそぎ落としたなら、他の重要な事柄も書き落とした可能性があります。
親の存在までも消去しているというのは、大問題です。親やコミュニティの問題も絡むはずのこの手の問題を、それを書き落とすことによって、朝鮮総連だけの問題に転嫁できるからです。そこにあるはずの複雑な事情は、この「操作」によって、無視することが可能になります。
そもそも、この生徒がどうやって別の学校に移れたのかという過程が書かれていないことに、もっと疑問を持つべきなのですが(親はそのときどう動いたのか、とか)。
というわけで、産経新聞の記事の「モヤモヤ」する所を見てきました。
最近、産経新聞の「レトリック」に対して興味がわいてきまして、今回の記事を読んで、上の文章をものしてみました。
メディアリテラシーの好材料として、産経新聞を是非使ってみてくださいw
後々で気付いたのですが、これまでの本稿の内容は、
というズバリなブコメを希釈したものに過ぎません orzbogus-simotukare 匿名と言うことは産経名物「非実在」元生徒ですね、分かります。つうか1億歩譲って実在だとしても「元生徒の多数意見」でもないし、事実だとして「無償化除外」という差別の正当化理由に全くならないが
更に後で気づいたのですが、結局、今回の産経の記事って、親の姿も地域コミュニティも希薄で、まるで「セカイ系」なんですよね。
だって、家族とか地域社会とか、そういうのをガン無視して、学校と個人が直結してるんですよ。
以降、もしこういう記事があったら、今度から「セカイ系記事」って命名したいと思いますw
農業と「食の安全」の実情について -自給率と食中毒-
まあ、結論から言うと、現状できない。
幾つか面白い所を取り上げたい。
例えば、無農薬・減農薬に向いているのは、むしろ中国というお話。
山東省は日本向け野菜の最大の産地に当たる。
日本より乾燥した気候なので、虫は発生しにくいし、冬は零下まで気温が下がるので、越冬栽培すれば、農薬を使わず野菜を作れる(49頁)。
また、農薬を使わない分、雑草や無視の除去に人手がいるが、中国は労働力が豊富で、労賃が安いのでそれも可能。
安い無農薬野菜なんて、国内だと絶対不可能だもんね。
自給率の件も載っている。
要するに、「カロリーベースの総合食料自給率」の件(60頁)。
日本の場合、畜産物の自給率は16%、小麦13%など、カロリーを多く摂取している食品の自給率は低い。
その一方、野菜の自給率76%、魚介類59%、果実35%など、カロリーが低くても、価格はいいものの自給率は比較的高い。
なんで、後者が比較的自給率が高くなるかといえば、付加価値の高いものを農家が作ろうとするから。付加価値が低いものは輸入し、高いものを作る。実に自然な姿。
もし、農水省がカロリーベースの自給率を本気で上げたいなら、米国から輸入しているカロリーの高い食品の輸入を止め、自国で生産するようにすればいい。
もちろん、やるわけないんだよねw
二〇〇八年で、日本での食中毒事件は1292件。うち、中国産食品が原因のものは、たった3件。
例の毒入り餃子事件だけ(74頁)。
要は、それ以外の日本の食中毒事件は、報道されてないだけ。
なんという報道バイアス。
ちなみに、飲食店での食中毒事件は、年間600件近く、1万3千人以上の患者が発生している。
中国産食品は、きちんと検査しているので、その分国産より安全といえるわけですよ。
例えば、東京都内では、1975年まで、毒性の強い殺虫剤ディルドリンを使用していて、これがまだ土壌に残留している。
だから、都内で収穫されたキュウリから、政府が決めた残留基準の最大5倍のディルドリンが検出されることもあるという(86頁)。
自家製農園って、必ずしも安全じゃないのね。
英語が訛って何が悪いか!! -World Englishesのニホン英語のすすめ-
ニホン英語に対する批判として、「日本人の英語のレベルが落ちる」という噴飯ものの批判があるらしい。
これに対する著者の反論はこうだ(114頁)。
じゃあ、そう心配する日本人の英語のレベルはどうかのか、と。世界的に見て高いといえるのか。国際的には下から数えたほうが早いではないか。それに、その「レベル」とやらは、何が基準か。アメリカ英語、米語に過ぎないではないか。
以上が、著者の反論である。
世界中に、お国英語としてさまざまな、World Englishes があるのであり、どれが正統などと拘るのは、野暮な考えに過ぎない。
そうした著者の理念に、賛同したい。
著者はこうも述べる。
ニホン英語を潰そうと考える言語学者たちは、世界中で失われ続けるマイナーな言語の生命は惜しむくせに、一方で、自然に生まれ育ってきたニホン英語は、その芽を摘もうとしている、と(114頁)。
著者によると、カタカナ発音のニホン英語も、きちんとネイティブ(この場合はアメリカ人)に伝わるらしい。
(このネイティブという言い方自体、World Englishesの観点からすれば問題だけどねw)
単語だけ聞くと不明な語も、文中で聞くと相当理解してくれる(127頁)。
個々の単語ばかりの練習にとらわれてはいけないのだ。
ちなみに、mildのような語の場合、「マイル」と[d]を省略して発音(子音の削除)をすると、かえって理解してくれなかったケースもあったという。
大切なこと。
「ニホン英語」も「和製英語」も、わざわざ広める必要はない。ただ、どんな相手にでも、遠慮なく、そして堂々と使うこと(130頁)。
多分蓮實重彦御大も賛同してくれよう。
うん。
著者はあるとき、チョムスキーの文法理論の信奉者に、笑われた(137頁)。
著者が作った自動英語の教科書の冒頭に、命令形の項目を載せたことに対してだ。
曰く、命令文は"深層構造"が一番複雑だから、子供が理解できるわけない、というのだ。
対して著者は、母と子は、互いに命令形で伝達しあっているのに、という。
この著者の発想は、ウィトゲンシュタインの「石版!!」という言語の使用のことを考えれば、正しい。
幼児が「パパ」とか「ママ」というとき、それは、両親を呼んでいる、言い換えれば、自分に注目するよう命令しているのだ。
(ちなみに、著者はチョムスキーに直に会ったそうで、チョムスキー自身や生成文法自体への悪印象はない模様。)
"主体思想"を北朝鮮が使い始めた頃 -中朝関係の悪化していた時期について-
この一文を、とあるブログのコメント欄で見かけた。
正直、そのブログの記事は、どーでもいい内容だったが、このコメ欄の一文は良かった。
「読者に分かりやすく書く」ということの、大安売りっぷり。そして、大安売りをする覚悟もなく、「分かりやすく書け」と言い募る人の多いこと。
五味洋治『中国は北朝鮮を止められるか』と言う本を読んでいて、いくつか、目に留まる。
本書の論旨は、"中国と北朝鮮は決して蜜月の歴史じゃなくて、表面上は互いに良好的に繕いながら、結構対立しつつも決定的断絶だけは避ける関係をずっと続けてる"、といったものか。
上記のようにまとめるとぜんぜん面白くないが、細部が面白かったりもする。
例えば、文革期の60年代後半、中朝関係は悪化し、北朝鮮が自主路線を貫いた頃の話(第4章)。
中国は、金日成を"反革命修正主義者"、"大富豪であり、帰属であり資本家である"と批判。
北朝鮮はその報復として、朝鮮戦争で命を落した中国兵たちの墓(「中国人民義勇軍烈士霊園」)を、一夜にして取り壊し、毛沢東の息子・岸英の石碑も倒した。
さらには、兵士を動員して、豆満江の真ん中に堤防を作り、中国側の田んぼや農家を水浸しにするという水害までも引き起こしている。
ちなみに、"主体思想"を北朝鮮が使い始めたのも、この中国との葛藤が契機という話である。
あと、「中国が韓国との国交を樹立したことが北朝鮮に強い失望感を与えた (略) 北朝鮮は中国の神経を逆なでするように台湾に接近する一方、密かに核開発の道を突っ走る。」と言う一文もある(第4章)。
北朝鮮が、核開発に乗り出した背景の大きな要因は、間違いなく韓国の経済力の増進だろう。
韓国は経済発展して北朝鮮を追い抜き、中国と国交を回復させてしまい、いまや、韓国の最大の貿易相手国は、中国(だったはず)。
その後、中国は何とか北朝鮮に市場経済を導入しておとなしくなって欲しいが、北朝鮮にその気がない、と言う運び。
こうして傍から見ると、北朝鮮はまるで拗ねた子供みたい、ではある。
少数民族問題とスルタンガリエフ 山内昌之『スルタンガリエフの夢』(3)
そういえば、イスラエルのナショナリズムの「熱心な担い手」になるのは、国内外にいる「入植民の末裔」が多かったはずです。ロシア帝国主義の入植民の末裔たちは、ムスリム隣人の民族的アイデンティティや失われた権利の回復に露骨な敵意をあらわしていた。「大ロシア排外主義」や「植民地主義」の熱心な担い手になったのも、このロシア人農民たちであった。 (314頁)
イスラエルの場合、入植者となるのは、国の中でも比較的貧しいセファルディムやミズラヒム出身の人々だったと記憶しておりますが、貧困層が入植者となる、という点が共通するかどうかはわかっていません。
■【帝国的】な「イリミンスキー・システム」と、タタールの位置■
これが、ニコライ・イワーノヴィチ・イリミンスキーの考えでした。イリミンスキーは、19世紀の東洋語学者であり宣教師でもあった人物です。母語にて教育を行うことで正教布教を推進せんとする彼の方針は、「イリミンスキー・システム」と呼ばれます。タタール人以外の「異民族」の母語を学校や教会で用いなければかれらの文化と母語は消え去り、かれらもタタール語と「マホメット教」を受け入れてしまう。(中略)フィン系などの「異族人」への布教や教育にその母語を用いると、たしかにかれらの民族意識を強めることになる。しかし、「統一したタタール民族」よりも弱小の諸民族をおさえる方がはるかにたやすい、と。
(中略)イリミンスキーの思想は、ソヴエト体制下の無神論宣伝家の議論と驚くほど酷似している (91-92頁)
イリミンスキーは、まさに帝国の方針としての【分割して統治せよ】という方針を提唱しました。「タタール語」・「マホメット教」・「統一したタタール民族」の脅威を、何よりもこの人物は怖れていました。
帝政ロシアにおける「イリミンスキー・システム」の位置付けや、この方式とソ連の政策との関連の度合いについては、詳しく書きませんが(注1)、タタールの人々にとって、帝政時代・ソ連時代に連続するこの【分割統治】は、タタール人の地位を落とすに十分な政策だったはずです。
この「イリミンスキー・システム」に繋がるソ連における少数言語・少数民族への厚遇的政策は、「タタール語」・「マホメット教」・「統一したタタール民族」を重視したスルタンガリエフを苦しめることになります。彼は、ロシアという存在だけでなく、タタール以外の諸少数民族の存在にも悩みつづけたのです。(注2)
■少数民族問題に向けて:未完のスルタンガリエフ■
スルタンガリエフがもし、生き残ってその主義を実践していたとしたら、うまくいったかどうか。今現在、中東地域において発生しているマイノリティの問題に対応できていたかどうか。もしスルタンガリエフがそのムスリム民族共産主義をムスリム国家やムスリム共産党に依拠して実践しながら、支配エリートとして統治責任を担っていたなら、近代のオスマン帝国いらい現代の中東にいたるまで、イスラム世界が直面したアルメニア問題やクルド問題のような少数民族問題に十全に対応できたとは断言できないからだ。 (413頁)
著者は、この問題について、「この意味でも、スルタンガリエフ主義がアルジェリア革命やイラン・イスラム革命と結びついて「復権」したのは、スルタンガリエフその人にとっても幸せなことであった」と述べています。言葉を悪くして言えば、【いい時に死んだ】ということでしょう。彼の死後も、マイノリティとしての少数民族の問題は、未解決のまま現在に至ります。(注3)
スルタンガリエフは志半ばにして命を落としたゆえに、その思想を後世に残せた側面がある、といってよいでしょうか。「革命」に寄与した彼の思想は、同時に、少数民族問題の未解決という齟齬を含みながら、現在でも、問いとしてあるのです。
(了)
(注1) 「帝政末期の民族学者・言語学者の中には、ソヴェト政権のもとでも同様の努力を続けた人たちがおり、その意味で帝政末期から1920年代にかけてのある種の連続性をみることができる」ゆえに、「帝政末期の言語政策は「ロシア語化」だけで単色に塗りつぶされるものではなく、多面的な要素をもっており、その一部はソヴェト政権初期に引き継がれたということになる。」と、塩川伸明「ソ連言語政策史再考」(『スラヴ研究46号』様)は、論じています。
ただし、塩川論文は、「ソ連特有の事情や民族ごとの個性差が見落とされがちであること」に注意を払っており、「必要なのは、政策と実態との複雑な交錯を民族・地域ごとの独自性を踏まえつつ解明する作業である」として、ある地域での事例を全面化して考えることを戒めています。今回のタタールにおけるケースを、ロシア全体での政策と混同することはできません。
(注2) 例えば、「ムスリム諸民族を統合した連邦をつくりソビエト国家の枠内での自治を実現しようとするタタール人共産主義者」スルタンガリエフに対し、「ロシア人主体のソビエト政権は民族ごとの自治領域を設定してムスリムを民族ごとに細分する」政策で対抗しました(Wikipeia:「タタール人」)。
(注3) ゆえに、本書『スルタンガリエフの夢』は、例えば、廣瀬陽子『コーカサス国際関係の十字路』とともに読まれるべき書物なのです。
「マイノリティ/マジョリティ」としてのタタール人 山内昌之『スルタンガリエフの夢』(2)
自分たち民族内部の経済的・身分的格差よりも、ロシア人たちとの格差の方が広かった。ゆえに、スルタンガリエフは、まず先にこの格差を解消する、そうすれば、共産主義は進む、と主張したのです。ツァリーズムに圧迫された民族内部の「階級対立」は、かれらが植民地主義者や大ロシア排外主義者たるロシア人ブルジョアまたは末端の入植民に対抗して、「プロレタリア民族」として一緒に行動するのを妨げるほど鋭くなかったからである。 (193頁)
スルタンガリエフの主張は、ウクライナ人やユダヤ人やムスリム諸民族の琴線に触れます。彼らもまた、自分たち民族内部の経済的・身分的格差よりも、ロシア人たちとの格差の方が広かったからです。
■マイノリティとしてのタタール、及びスルタンガリエフが共産主義を取り入れた意味■
十八世紀末までに、現在のタタール自治共和国にあたる領域一円に大きな人口構成の変動が生じた結果、ロシア人が住民人口の大多数を占めるようになった。(中略)この比率は総人口の増加にもかかわらず、スルタンガリエフが生まれた頃も基本的に変わらないまま革命にいたっている。 (62頁)
ロシアによる植民などの経緯もあり、例えば現タタールスタン自治共和国の一帯においては、多数派はロシア人であり、タタール人は、それに順ずる構成でした(ロシア50、タタール40位の割合)。しかも、タタール人たちはロシア各所に散らばり、一定の箇所で凝集して存在しているわけではありませんでした。内地ロシアから中央アジアにかけて「ディアスポラ」の状態にあったタタール人は、ユダヤ人と同じく「一定の領土をもたない民族」だと考えられており、ヴォルガ中流域でかりに自治領土がつくられたとしても、多数派を占めるのはロシア人になるはずだったからである。そして、一九二一年に実際にそうなった。 (145頁)
この比率ゆえに、スルタンガリエフは、イスラームとタタール・ナショナリズムにプラスして、共産主義も唱える必要性があったのでしょう。もし、彼らが多数派なら、イスラームとタタール・ナショナリズムだけでも、十分に反抗できたはずです。それをしなかった(できなかった)のは、ロシア人たちの経済的及び数的な優位によるものだったはずです。
多数派であるロシアに対して、イスラームとタタール・ナショナリズムによって自分たちの集団的アイデンティティを保持して対抗しつつ、その数的不利を挽回すべく「平等」・「普遍」理念としての共産主義をも摂取した、と考えられるのではないでしょうか。同化を防ぎ、しかし数的不利にも対応するやり方。あくまで仮説ですが、スルタンガリエフが共産主義を取り入れることの必然性は、(本人がどう考えたかはともかくとして)以上のようなかたちで説明できるかと思います。
■ロシア支配の中の「文明」的タタール人■
タタール人、なかでもヴォルガ・タタール人は、広く中央アジア一帯に生活する民族であり、ユダヤ人と同じように、地域的なまとまりはできにくい存在でした。そんな彼らがアイデンティティを保てたのは、①イスラーム、②チュルク=タタール語、に加えて、③ロシア人の征服者への憎しみ、という三つの要因があったのです。ディアスポラ(離散)の状態にありながら、タタール人が民族的に凝集したアイデンティティを持ちつづけることができたのは、イスラム信仰と、文明語として熟していたチュルク=タタール語への執着のためであった。それにタタール人の民族意識をたえず覚醒させた別の要素も忘れてはいけない。ロシア人征服者に対する憎悪と怨恨という心理的な要素も。 (61頁)
チュルク=タタール語が「文明語」とされるのは、エカチェリーナ2世らがこれまでのイスラーム弾圧政策を改め、「「文明」化したムスリムであるタタール人のイスラム信仰を保護し、いまだ「野蛮」な中央アジアやカフカスのムスリムの教化にあたらせようとする政策に転じた」(「Wikipedia:タタール人」)という事情によるものです。
「ロシア帝国政府は、タタール人を警戒しつつも、中央アジアを「文明化」するために彼らを利用した」というわけです(松里公孝『エスノ・ボナパルティズムから集権的カシキスモへ』第4章)。彼らタタール人は、単に「抑圧される側」というふうには括れない存在なのです。タタール人は、対ロシアでは抑圧される側でしたが、バシキール人など少数民族に対しては抑圧する側へと変容しうる存在でした(注1)。
(続く)
(注1) タタール人は、「膨張的であり、周囲の住民を不断に同化してゆく」だけの勢力を持った民族でした(上掲松里論文、第4章)。つまり、「タタール人」とは、血族的・遺伝的に先天的に存在するのではなく、言語的・文化的な類似性や、集団的アイデンティティの共有などによって、後天的に存在するものなのです。まさに、「タタール人として生まれるのではなく、タタール人になるのである。」
「日台戦争」あるいは、「芸」のためのガイドブック 特別番外編(0)(本田善彦『台湾総統列伝』)
■はじめに■
「コメント欄の容量にも限りがあります」とブログの管理人が書いているのに、なかなか止められない人はいるものです。まるでアメリカが止めても入植をやめなかったイスラエルのようです(もしかしたらシオニストの方なのかもしれません)。
Apemanさん曰く、「自分の主張の根拠として higetaさんのエントリ(そこのコメント欄における自分の発言ではなく)を挙げる、という不可思議な発想をお持ちの方」なのですが、なかなか面白い「芸」をされているみたいですし、「その他の理由についてはこちらをご参照ください。http://d.hatena.ne.jp/higeta/20090509/p1 」と書いてあったので、面白半分に見てみることにしましょう。いや、あのような
この拙稿が、「芸」を鑑賞する上で助けとなるガイドブックの役割を果たせれば幸いです。歴史研究など恐れ多いことです。
(できればhigetaさんのところのコメント欄に記入するのは、もう二度とやめた方がいいと思います。また、こちらのコメント欄に長文として掲載された場合は、削除しますので、念のため。トラックバックは気分しだいで受け付けます。)
①基本方針:
基本的に、政府がどう考えようと、これはあくまでも考慮すべき対象のひとつであり、「戦争」は規模を重視して考えてもよい。「日本政府が閣議決定で戦争だと承認していた」かどうかは、あくまで考慮すべき事柄のひとつという立場をとります。重要な点は、本稿が「妥当性」を問題としていることです。「唯一正しい」ではなく、きちんとした論拠に基づいており、それを使うことに問題が無い、という点を論じています。
②戦争規模について:
だそうな。■戦争状態=複数の勢力間に戦闘が発生している状態=「戦闘」
■戦争=「日本政府が閣議で正式に認めた戦争」
一方こちらは、「その実質的な能力を重視するため、国家ではなく武装勢力に対しても使用されている軍事力の規模によっては用いる場合がある。」というWikipediaの「戦争」の項目での定義を、本論では重視する見方をとります。ただし、こちらは米軍の基準を使う必要などありません。あくまでも、これまで「戦争」と呼ばれてきた(呼びえた)慣例に依拠して、これを材料の一部として判断をする見方をとります(「函館戦争」など)。これについては、既に拙稿にて論じたことですので繰り返しません。
以上、御主張の内容です。なるほど。西南戦争のときの病死者の数はどのくらいなのか、という点は置いておきましょう。藤村道生『日清戦争』によると、日清戦争(「日台戦争」分を除く)の戦死者は、736名です。「日台戦争」(仮に「日清戦争後半」)以前の日清戦争(仮にこれを「日清戦争の前半」と呼ぶ)も、戦争と呼ばなくていいことになるんですよね。今後は、「日清の戦い」に訂正です。しかもwikipediaによれば、「西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人」とありますから、「規模だけを見るなら」、西南戦争の官軍死者数の39分の1でしかない日本軍側戦死者164人の台湾平定は戦争と呼ばなくて良いことになります。なぜなら、西南戦争では戦闘1回でもその程度の死傷者が出ているからです。
で、藤村によると、戦死者こそ「日清戦争の前半」が、「日清戦争後半」の二倍程度。対して、戦争での病死者は、「日清戦争後半」が「日清戦争の前半」の六倍です。戦闘の性格の違いがこの様な結果を生んだのですが、戦死者は圧倒的に「日清戦争後半」の方が上です。「戦争」って呼んでもいいでしょう、とこちらがいうのは、この点です。(以上、「15年戦争資料 @wiki 日清・日台戦争戦没者数」より引用)
③清国兵と一般住民の乖離?:
>清国兵に合流した「台湾の住民」の正体は「土匪・匪賊(=山賊)」
この点については既に、higetaさんからの反論があります。
と他の資料も交え反論されています。んで、それに対する反批判はというと、『清国兵と一般住民の乖離』の部分は、一面的すぎましょう。 / 陸奥宗光「台湾島鎮撫策ニ関シテ」においては、「台湾人民」は広東福建出身の人々が多く、「同族聚居シテ村落ヲ成シ互相応援シテ以テ他族ト抗拒シテ下ラサルノ習俗尤モ固ク」、首長のもと、同族一体となり、「豪モ海外事情ニ達セサルヲ以テ他国管轄ニ隷属スルヲ欲セサルト且他国管轄ニ属セハ同族財産ヲ虧損シ或ハ没官セラルルヲ危疑スルニ因リ敢テ抗拒ヲ図ル」と述べられています。 / 『台湾総督府警察沿革誌第2編』271-272頁をみても、「土匪」と「部民」が一体となっていること、両者は簡単に関係が切れていないことわかります。
あらかじめ、『近衛師団台湾征討史』に対する読解についていっておきましょう。政府側の資料を何の疑いなく読めるというのは、なかなか素直で幸福な人生を送っていらっしゃるようです。たぶん歴史を扱う学問には向いていないと思います。また、『台湾総督府警察沿革誌第2編・領台以後の治安状況(上巻)』 / 271-272頁には、「台湾島の住民は土匪をそれほど悪い人間だと思わず、 / 状況に合わせて土匪に従うことを恬として恥じない風潮がある」と / 書かれていますので、ご紹介したように土匪が村を襲って村民を / 従わせているという事実を補足する内容です。
歴史を研究するなら、①一次史料にあるバイアスには注意する、②二次資料をきちんと読み、それとの対照の中で自身の読解を研鑽する、以上の少なくとも二点が重要になります。学校の先生に習わなかったかもしれませんので、念のため、書いておきましょう。
次に、『台湾総督府警察沿革誌第2編・領台以後の治安状況(上巻)』に対する読解について。これはむしろ、【日本政府側から見て、台湾の住民は状況に応じて、「土匪」側についたりする傾向がある】内容です。「土匪が村を襲って村民を従わせているという事実を補足する」内容ではなく、『近衛師団台湾征討史』と齟齬をさえ含む関係にある内容、と読むのが普通じゃないでしょうか。『台湾総督府警察沿革誌第2編】の内容は、住民たちのいわば【日和見主義】を書いているだけでしょう。
むしろ、『近衛師団台湾征討史』での住民の「歓迎」も、住民たちの日和見主義と捉らえる方が妥当なんじゃないかと思われます。後述しますが、「宣伝」で住民が蜂起するという性格も考慮すべき事項でしょう。
この大胆すぎる御主張の根拠になっているのは、よくよく読むと、李鴻章側の見解だけではないでしょうか(あるいは乃木の発言?)。日本側と清朝側の資料だけだと偏ってしまうと思うので、①それ以外の資料、もしくは、②きちんと資料のバイアスを考慮した二次資料を希望します。李鴻章側の言い分だけを鵜呑みにするのはよくないでしょう。なお、Wikipediaの「乙未戦争」の項目には、「戦闘の主体が清国軍ではなく台湾民主国及び自主的に組織された義勇兵に移ったことなどが主な理由としている。他に日台戦争の採用者には駒込武がいる[36]。」とありますが、ご覧にならなかったのでしょう。二次資料を探して読解して行くの歴史研究で大事なことです。がんばって探して批判してみましょう。二次資料というのは、きちんとした学術的書籍や学術論文を指しますので、お間違えないようにお願いいたします。もともと、唐景スウや劉永福の自称「台湾民主国」軍に参加したのは、「土匪」「匪賊」と呼ばれる土着の山賊です。
④「自発的に従ったよ史観」について:
台北と台南について、民間人が日本軍に「占領してくれ」と依頼したのは事実ですが、その後も戦いは続いています。「台南をまかされていた劉永福を中心にした台湾民主国軍と漢人系住民[15]義勇兵は、日本軍に対し、高山地帯に立てこもってゲリラ戦で応戦した。その際には高山族に対抗するための組織であった隘勇制度が抗日運動の基盤となった[10]。」というWikipedia「乙未戦争」の項目はきちんと読んでいるんですよね?「漢人系住民[15]義勇兵」と書った気がしますが、、見間違いかもしれませんので、きになる方は、Wikipedia本文を見てください。そのため、台北と台南の両方とも、民間人が日本軍に「占領してくれ」と依頼
その上で、
となるわけです。宣伝だけで、「台湾各地の老若男女は義勇兵として郷土防衛のために抵抗」するわけですから、婦女子への姦淫殺害は、結構ひどかったのかもしれません(未確認)。同地の地主であった簡義は日本軍を抵抗せずに受け入れたが、一部の兵士や軍夫らが婦女子を姦淫殺害したために、反旗を翻し、黒旗軍の部隊とともに日本軍を襲ったために、日本軍は北斗渓北岸まで退却した。ノース・チャイナ・ヘラルドによれば、抗日軍[20]はこれをもとに「日本軍は婦女を暴行し、家屋の中を荒らし、田畑を奪う」と宣伝したところ、台湾各地の老若男女は義勇兵として郷土防衛のために抵抗した[10][17].
自発的に従った住民がいたことが、そのまま「自発的に従ったよ史観」にはならないでしょう(この史観は、住民はみな従順に日本軍に従い、戦ったのは「土匪」「匪賊」だけだったという、勧善懲悪的で素敵な史観を指します)。むしろ、反抗する勢力がいて、結果、②で見た規模の戦闘になったわけです(wikipediaに、台湾側の「義兵 100,000人」という数字が載っています)。「宣伝」で「台湾各地の老若男女は義勇兵として郷土防衛のために抵抗した」というので、これは「土匪」「匪賊」だけじゃないですよね?
さらに言えば、
という自信満々の文章についても一言。これはおそらくWikipediaの「乙未戦争」の項目の以下の文章を使ったものでしょう。清国反乱兵側はゲリラ戦により、白旗を掲げて敵意がないことを装い、日本軍が安心したら後ろから攻撃することを繰り返したために関係のない住民までが戦闘に巻き込まれ、このために日本軍が住民から恨まれたいうこともあったようですが
の日本軍が土兵や土匪と呼んだ義勇兵は大軍をみたら白旗を揚げて笑顔で迎え入れ、少数になれば後ろから襲いかかって日本軍を攻め立てたために、日本軍は対策として村まるごと殺戮するといった強硬手段に出た。このことがさらなる反発を呼び、抗戦運動を長引かせた[17]。
(「自発的に従ったよ史観」というのはこちらのめいめいに過ぎないので、「自発的に従ったぜ史観」への変更を希望される方は、ご連絡ください。)
■まとめ■
・歴史研究によく似た「芸」に対しては、ガイドブックが必要です。
・本論では、病死者含む死者が「日清戦争後半」の方が上である点で、「戦争」と呼ぶことが十分妥当であることを主張します。
・「清国兵と一般住民の乖離」を論証するには、ちゃんとした二次資料も必要になります。
・「自発的に従ったよ史観」という名前が気に入らなかった方々は、候補をいただければ幸いです。(注1)
・Wikipediaくらいきちんと読めないと、社会に出てから苦労します。
・『日本近現代史と戦争を研究する』の新しい記事が待ち遠しいです。
■おまけ☆Q&A■
小林一美『義和団戦争と明治国家』という名著が存在しております(「名著」というのは、増補版のキャッチコピーです)。「戦争の推移」という但し書きが、Wikipediaにもあります。実質戦争ということです。要するに、「義和団の乱」と呼ばれるのは、慣習上のことに過ぎないようです。論拠があれば当然、「戦争」でもいいわけですね。清国末期に起こった『義和団の乱』は西太后が列強諸国に「宣戦布告」までしているにもかかわらず、何故「庚子”戦争”」と呼ばれないのか?
これのきちんとした出典をください。・清国兵は台湾の住民を守らず、敗走時には逆に住民を虐殺・略奪
「決戦がないと戦争じゃない」という斬新な考えをお持ちのようです。早速、論文を書いてそっち方面の学会に投稿されるといいんじゃないでしょうか。同時に、台北と台南という2大拠点の両方で決戦すらせず、 / 逃亡しただけなのですから、規模の点でも戦争とは呼べません。
(注1)
一応、Wikipediaだけだと不安なので、二次資料のなかでも、周婉窈 『図説・台湾の歴史』から引用しました (「第7章 日本統治時代――天子が代わった」(『15年戦争資料 @wiki』様))。台北と台南以外は、日本軍と台湾側(義勇軍含む)との激戦が続いた、と書かれています。また、台北と台南以外の「無血入場」についても、それを行った側には、「慈悲という宗教的な動機」以外の動機があったことを述べています。台北と台南2城が戦わずに開城したのを除き、各地(後山=山岳地帯と東部を除く)ではすべて日本軍の侵入に激しく抵抗し、無数の死傷者を出している。日本軍を案内して無血入城させたことについて、以前から人民をさらなる塗炭の苦しみから免れさせたという言い方があった。結果論としては、このような言い方も正しいかもしれない。しかし開城して敵を迎え入れるこの行為は、果たして外敵との抗争に苦しむ人民のためを思っての大慈悲心によるものであったのか、それともあるいは自分の財産や生命に思いがあったのか、あるいは極言すれば、いちかばちかの大博打であったのか。史料を見わたしても語るものは少なく、憶測は敢えて避げておこう。ただ、無血入城を推進した彼らが、 後に日本側から膨大な贈り物を受け、久しく密接な「協力」関係を続けていったことから見れば、少なくとも慈悲という宗教的な動機からではなかったことはほぼ確かであろう。
「日本軍を台北城に導き入れた辜顕栄は、逆に一躍台湾の名家の仲間入りを果たし、その一生を栄華のうちに終え、現在その遺産は何代も後の子孫にまで及んでいる」。これは、Wikipediaの「辜顕栄」の項目にも書かれています。
(さらに追記)
二次資料について、どれを読めばいいかについては、「植民地台湾」(『日本近現代史と戦争を研究する』様)をご参照ください。
2010/2/12 一部修正済
「漢民族」とは何か?、ある「台湾人」をめぐって 番外編(3)(本田善彦『台湾総統列伝』)
次に移ります。NHKの例の番組で、台湾人のある人物について、「中国福建省から移り住んできた漢民族」との表現を行ったことに対して、批判が挙がりました。果たして、この人物に対して、「漢民族」と表記することは、妥当なのでしょうか。
具体的にみてみましょう。放送での「一家は中国福建省から移り住んできた漢民族でした」というナレーションに対してです。そう名指された柯徳三氏は、自分は漢民族ではない、といいます。「台湾人の祖先は、宋代に南アジアの少数民族との混血が進んだ。その一部が約200年前に台湾に移り、南方系の先住民と結婚した。私でその移民から7代目。漢民族の血は1万分の1も入っていない」とのこと。しかし、この調子で行くと、純粋な漢民族はほとんどいなくなる(あるいは存在しない)はずなのですが。では、「漢民族」って何でしょう。
■「漢民族」とは何か■
厳密に言うと、「漢民族」というのは、遺伝的血統によるものではありません。どんな血族でも、その文化や伝統を受け入れれば、その条件を満たします。その条件の中の最たるものが、漢語(漢字)文化の習得です。他に衣食や祭祀などの諸文化も、その条件に入るといえましょう。結構あやふやです。
さらには、wikipediaの項目曰く、「現在の趨勢では、中国文化は漢字表記の漢語(中国語)を基本とする文化として収斂されつつあり、漢族の定義如何よりも漢族概念自体が漢族を形成しつつある[8]。」とのこと(また、注を見て分るように、民族の定義自体、基本このようなあやふやなものです)。要は、漢字を含む諸文化と、あとは自己のアイデンティティに依拠するわけです。
だとすれば、移民した当時の彼らの祖先は「漢民族」に当てはまると思われます。混血しても諸文化の内容が漢民族なら、彼は漢民族といいうるからです(果たしてご先祖様たちは、少数民族の「諸文化」にどの程度依拠していたのでしょうか)。もし台湾に移民した「漢民族」たちが、「平地に住んで狩猟生活を営んでいた先住民族(平埔族)と婚姻し多くが混血となっているが、生活の基本は漢人文化である。」というのが正しいならば、柯徳三氏は、「漢民族」と呼称されても妥当でないとはいえないはずです(「不可解なNHKバッシング(3)漢民族」『安禅不必須山水』様)。
さらに、日本統治下のころから、台湾人の大部分を漢民族であると、台湾総督府は定義していました。「 「本島人」とは通常台湾住民中の漢民族」と矢内原忠雄は1927年に述べていますし、「台湾全島の総入口は 5,194,980人、そのうち漢民族が総人口の 90.0%(4,676,259人)を占め、」と1934年の台湾総督府データには書かれています(前掲「不可解なNHKバッシング(3)漢民族」)。
この日本植民地下において、上記の人々が「漢民族」と呼ばれることに反発した文章などは、あるのでしょうか。もしなければ、少なくとも、日本統治下の台湾における大陸からの移民の出自の人々は、「漢民族」と呼称されることを受け入れていた、といいうるでしょう。「漢民族」であることを否定するようになるのは、少なくとも、日本統治を離れて以降のことといえるでしょう。そして、それを否定する根拠は、漢字を含む諸文化によるものというよりも、自己のアイデンティティ、それも「台独派」に見られる政治的アイデンティティと思われます。
■「大陸」の出自と、「台湾人」であること■
「民族の呼び方は、その人たちのアイデンティティーを尊重するべき。(反発は)自然なことなのでは」という徳永勝士氏の言葉は確かに正しいかもしれません。しかし、少なくともこの番組のナレーションで使われた「漢民族」というのは、台湾における少数民俗との対比で使われている言葉のはずです。あくまで、少数民族との対比で使われた便宜上の言葉(日系とか中国系とかの「系」と理解されます)なのですから、この使用はある程度許容されるべきでしょう。
もし、それでもなお認めがたいなら、例えば「漢民族系台湾人」という呼称もあるでしょうし、「閩南語系台湾人」でもいいでしょうし、もっと直裁に大陸と無関係といいたいのなら、「漢民族系台湾人(大陸とは無関係)」と表記すればいいのだと思います。どんなに日本が嫌いな日本人でも、自分自身が「日本人」、あるいは「日系人」と他者から名指されることからは、逃れられないように、柯徳三氏も、「漢民族」であること、「閩南語系」と他者から名指されることからは、逃れられません。
たとえ「漢民族」だろうと、「閩南語系」だろうと、自らの「台湾人」というアイデンティティに本当に誇りを持てるのならば、上のような論法を使わずとも、現在の「大陸」政府とは異なるアイデンティティを持つことは、可能なはずです。「大陸」の主張を跳ね除けるのに必要なのは、上のような理屈めいた論法ではなく、自らの出自を乗り越えて生きていく「台湾人」としての誇りではないか、というのが僭越なる愚見です。
(了)
「日台戦争」・「台湾征服戦争」が「戦争」であることの妥当性 番外編(2)(本田善彦『台湾総統列伝』)
次に、「日台戦争」(「台湾征服戦争」)という表記の妥当性の問題です。先述したとおり、学術的用語の問題ですので、台湾の人々が聞いたことがない云々等は、大きくは関係しません。また、「日台戦争」という用語を、この事件に対して使うことの妥当性の問題ですので、造語やら新語やら論文検索云々などは、ここではあまり重要ではありません。
再び、wikipediaの「NHKスペシャル シリーズ 「JAPANデビュー」」の項目によると、
とのことです。プロジェクトJAPANの公式サイトに記された見解では、「1995年、『日清戦争百年国際シンポジウム』から使われ」始めた用語であるとの説明と、文献3点が示された[36][66]。また台湾「平定」に際して日本軍の死者が5000人に上った[67]ことに着目している。
これに対して、産経新聞や「日本李登輝友の会」が「4000人以上はマラリアによる病死であり「戦死」者と言えるのか」という批判をしているそうです。「治安回復のための掃討戦に過ぎない」という批判もあるとのこと。では、検討をしましょう。
その1、 病死者が多数だと「戦争」と呼ばれないのか?
まず確認したいのは、この「日台戦争」が、日清戦争全体において、日本軍の死者の半数を出したということであり、途中で、「大本営の関与の仕方、戦闘の主体が清国軍ではなく台湾民主国及び自主的に組織された義勇兵に移ったこと」です(wikipedia「乙未戦争」項目)。しかも、「台湾民主国」側の死傷は1万4千人程度、その後の「平定」と抵抗運動により死者は倍以上に増えました。
という「不可解なNHKバッシング(2)日台戦争 」(『安禅不必須山水』様)の一文を見れば、本件の是非は明白です。下関条約までの戦没者より、下関条約以降にあった台湾での「戦争」の方が死者の人数は多く、しかも、下関条約以前のものでも、病死者の割合は十分高いのです。要するに、病死者の割合云々は、「戦争」であることを否定する材料にはなりません。日本軍の死者の数も9600人(うち病死7600人)と、下関条約締結までの戦没者8400人(うち病死7200人)を上回った戦闘であった(高橋典幸ほか『日本軍事史』吉川弘文館、2006、326頁)。
その2、 「治安回復のための掃討戦に過ぎない」のか?
上記記事「不可解なNHKバッシング(2)日台戦争 」でのコメントにおいて、「leny さん」という方が以下のような発言をされています。
いざ、検証してみませう。行政組織、官僚機構、構成員による軍、というのが焦点と仰りたいようです。んじゃあ、西南戦争はどうでしょうか。官僚機構などあったかどうか。「蝦夷共和国」は、形式的な「国」じゃあないのでしょうか。「薩英戦争」「馬関戦争」「戊辰戦争」「会津戦争」「函館戦争」は、それぞれ政府(行政組織)と軍隊を持ち、開戦・停戦を結ぶ「国」が存在しています。NHKが「日台戦争」の当事者として想定している「台湾民主国」は、便宜上の形式的な「国」で、あくまでも清国官僚の抵抗でしかありませんでした。形式的な政府機構を作りましたが官僚機構が機能していませんし、軍隊は傭兵です。そのコントロール化にない民衆蜂起とは別の存在でしょう。
もっというと、西欧の三十年戦争を想起すればいいのでしょうが、傭兵を使っても戦争は戦争です(国民国家同士の戦争だけが戦争ではありません)。あと、国民軍云々を言うなら、「蝦夷共和国」の軍隊が、地元住民をどの程度含んでいたかも、検討すべきです。向山寛夫『日本統治下における台湾民族運動史』の、「広く軍官民と各層各派の住民が参加した民族総抵抗としておこなわれた」という一文を引用した、「[植民地]「日台戦争」と呼ぶのは誤りか」(『日本近現代史と戦争を研究する』様)のhigeta様のコメントも参照しましょう。
後は、「シリーズ・JAPANデビュー 第1回「アジアの“一等国”」に関しての説明」(【NHKオンライン』様)のいうように、下関条約以降も、大本営が、「台湾」の抵抗が圧せられるまでのあいだ継続していたこと、そして、初代台湾総督・樺山資紀や当時の首相伊藤博文がこの戦いについて、「外征」という認識を示していたことも、考慮されるべきでしょう。
仮に、当時の日本政府がこの「戦争」を、「外征と見なすのは恩給などの待遇を「事実上=実際の状況」に合わせて改善するため」であって、実際は「日清戦争の延長、あるいは一部」にすぎないと考えていたとしても、今回の結論に揺らぎはありません。それは、上のほうで論証したように、この台湾での「戦争」規模がとても「延長、あるいはその一部」とは到底認めがたいものだからに他なりません。当事者の意識を、その戦争の客観的数字が上回っている、というのがその理由となります。
その3、 まとめ
上記より、戦闘の規模も併せて考えれば、「戦争」という表記は問題ない(妥当である)と思われます。すなわち「掃討戦」という規模にはおさまらない、ということです。ゆえに、「台湾平定」や「台湾征討」等の戦闘規模を考慮しない表記は、妥当とは認めがたい、ということです。
本ブログでは、「戦争」であったことを確認したいだけですので、「台湾征服戦争」でも「日台戦争」でも構いません。「日台」とする場合、当時の人々に「台湾人」というアイデンティティがあったかどうかが論点となりますが、この点については今回は論じません。この問題については、本ブログ「台湾のアイデンティティと、中国共産党の存在 本田善彦『台湾総統列伝』(3)」の(注2)もご参照ください。
(続く)
(追記)
前掲記事「[植民地]「日台戦争」と呼ぶのは誤りか」にて、「論理的には日台戦争と呼んでも問題ないのかも知れないが、準国営の放送局がいきなり、殆どの日本人にとって耳慣れない言葉を注釈無しに使うってどうなんでしょうかね。」という主張に対して、ni0615様が、「日台戦争と呼んでも問題ないのなら、殆どの日本人にとって耳慣れない言葉でも、放送局はどんどん使うべきです。教科書と放送局の違いを考えてください。新しい知識、新しい概念、新しい文化を紹介しなくなったら、放送局の存在理由がなくなります。それこそ受信料不払い運動が広がるでしょう。」と返答されています。公共放送とは、「常識」や「俗情」に阿るための放送機関ではないということです。勉強になりました。
(さらに追記) 本稿の続きとして、「「日台戦争」あるいは、「芸」のためのガイドブック 特別番外編(0)(本田善彦『台湾総統列伝』)」を書きました。お時間のある方はご覧ください。
(より一層・追記)
> 山崎様
質問をいただきましたので、
たぶん、higetaさんにカキコしていた、「ころはる」様と同一人物でしょう。「2010/04/04 15:03」と、「2010-04-04 15:14」。この記事を、長くても11分程度で読まれたご様子です。素晴らしい速読・読解力です。その読解力に見合った
論点は二つ、①自治政府を持つレベルの集団同士でなければ、「戦争」という用語は使えない、②「戦争」の語は、あくまでも国家間の戦闘状態に対して用いるべき、という二点だと思います。
また、「下関条約もありますし」などと、教えろという割には抽象的であいまいな質問をしてくださったことに対して、怒る気持ちは一切ありません。これは、清朝と日本政府が戦争終了にサインしたのだから戦争は終わりじゃないか、という主張だと思います。つまり、②がそれにあたるはずです。
で、②については、例えば、ttp://d.hatena.ne.jp/higeta/20090701/p1 をご参照ください。少なくとも、「社会学的な意味においては、戦争とは、かなりの規模の軍事力によって行われる政治集団間の対立」であるという定義は存在しており、この意味においては十分妥当です。ゆえに、②はクリアできます。国家同士でなくてもいいのです。
「アルジェリア独立戦争」の件を考えれば、主権国家同士のものでなくても、「戦争」の語を使うことは可能です。『Apes! Not Monkeys! はてな別館』様の「一つの事例として」(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20091113/p1)は、ご覧になりましたよね?
で、次に①ですが、そもそも、「自治政府」とは何か。これ自体があいまいで、質問に答えるのも難しい限りです。「自治政府」の定義を、「国家」の定義をゆるくしたものとして、考えることにしましょう。
果たして、台湾民主国(及び当時の台湾)は、「自治政府」と見なしうるのか、「戦争」の語を用いるのは妥当か否か。
考えられる反論は二つ。A,傀儡政権であり、自治政府ではないので、これは「戦争」とは呼ばれない。B,傀儡政権とは厳密には言えないが、自治政府ではなく、国家とは呼べない規模・資格の集団にすぎないので、これは「戦争」とは呼ばれない。以上を想定します。
Aの場合、傀儡政権ということは、実質糸を引く存在がいることになります。この場合それは、清朝であることになります。清朝を主権者とすれば、これは、国家同士の争いとみなすことになりますが、ただし、清朝はそれを下関条約で否認しています。(ただし、宣戦布告なしでも「戦争」の語を使いうる以上、この時点で「戦争」の語を使えなくもありません。)
次にBを検討します。Bの場合、主権・領土・国民・他国からの承認という、「国家」認定基準を参照します。これを、自治政府かどうかの測定基準として用います。このとき、台湾民主国は、主権のみは満たしています(傀儡政権ではない以上)。
国民に対しては、多くの住民を「国民」のメンバーとして包摂していないとの反論もありうるのですが、それは西南戦争や函館戦争もおなじです。領土についても、同じことです。
他国の承認をついに受けられなかった点をもって、論駁される可能性があります。ただし、「確認的効果説」(他国が承認しなくても、上記三条件がそろえば、国際法上の主体であることを否定しない説)を取れば、十分3条件を満たす限りは、これもクリアできる可能性はあります。
さらに、「トランスニストリア戦争」の事例を考えれば、ほとんどの他国がその国(沿ドニエストル共和国)を承認していなくても、「戦争」の語を用いうることは不自然ではありません。以上から、自治政府であってもなくても、「戦争」の語を使うことには、十分な妥当性があると考えられます。
この戦争が「本当の意味での独立では」なく、「下関条約に違反するため、清朝の名義で日本に抵抗することができなかっただけのこと」という反論が存在していますが、これも「トランスニストリア戦争」の事例を考慮すべきでしょう(李筱峰「「台湾独立」の歴史的変遷」『『週刊台湾通信』 』様) 。
それは、以前から重要と述べてきた「戦争規模」という要素も加味することで、より説得的な主張となるはずです。
今度からは、もっと時間をかけてから、人のブログにコメントを書きましょう。せっかちな人は嫌われます。
(2010/5/18 一部更新)
1910年日英博覧会の「展示」への「人間動物園」という表記の妥当性 番外編(1)(本田善彦『台湾総統列伝』)
①1910年にロンドンで開かれた日英博覧会にて台湾の先住民族を「紹介」したことを、「人間動物園」と表記したことについて、「当時の日本政府が使った言葉と錯覚するように使った」という批判。
②「日台戦争」(乙未戦争または台湾征服戦争)との呼称を使ったことへの批判
③ある人物について、「中国福建省から移り住んできた漢民族」との表現を行ったことへの批判。
今回は上の三つに対して、どのような反批判ができるのかを、すでにウェブ上で反批判を行った方の主張から「引用」しつつ、書いていこうと思います。無許可の「総括」といえましょうか。
もちろん、総括云々などする資格はないし、要するに「論争」に乗り遅れたのに、さっきまで台湾について書いたので、じゃあ何か書こうということで、こんなものをものしているわけです。
■①にたいして■
wikipediaには、すでに、
と言及しています。番組内で、1910年に開催された日英博覧会で台湾の先住民族・パイワン族の生活を紹介した企画を「人間動物園」と表現したことについてNHKは、取材協力者のブランシャールの著書[59]を始めとして野生動物商人ハーゲンベックの回想録や吉見俊哉の著書[60]を参考にしたとしている[46]
まずこれは事実のようです。吉見俊哉『博覧会の政治学 まなざしの近代』(1992年)ではすでに、1889年のパリ万博の主催者たちが模倣することとなった、「一〇年ほど前からブローニュの動植物園、ジャルダン・ダクリマタシオンで行われていた展示方法」を、「人間動物園」と表記しています(「[文献紹介]『博覧会の政治学』(追記あり)」(『Apes! Not Monkeys! はてな別館』様)。むろん、これは、当時のパリ万博にも当てはまる言葉です。
まず、ここで問題となるのは、放送の仕方の問題です。ナレーション自体は、「当時、イギリスやフランスは、博覧会などで植民地の人々を盛んに見せ物にしていました。人を展示する、人間動物園と呼ばれました。日本はそれを真似たのです。」というもので、日本は「人間動物園」を行った、という読み取りはできません。
「歴史学者パスカル・ブランシャール氏」のコメントも、「当時、西洋列強には、文明化の使命という考え方がありました。植民地の人間は野蛮な劣った人間であり、ヨーロッパの人々は彼らを文明化させる良いことをしている、と信じていました。それを宣伝する場が、「人間動物園」だったと言う訳です。 」という風に、ここではあくまで「人間動物園」というのが西欧に対して使われていることは自明です。
では、「人間動物園」という表現を、日英博覧会にて台湾の先住民族を「紹介」したことに対して使うことは可能かどうか、です。
1903年の第五回内国勧業博は、「北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する」という、「パリ万博やアメリカの博覧会における原住民集落と同様の差別主義的なまなざしの装置」と説明されます(上記「[文献紹介]『博覧会の政治学』(追記あり)より引用・孫引)。
「各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する」という「生活」を展示しており、これは「差別主義的なまなざしの装置」だったわけです。だとすると、同じ条件(「日常の生活」を展示する差別)を満たす以上、1910年の日本が行った「展示」にも、十分「人間動物園」という表記が当てはまるでしょう。
上記「[文献紹介]『博覧会の政治学』(追記あり)」のページにて、ni0615様もおっしゃっているように、「博覧会場に住居をつくってそこで生活させたのが1910年の日英博覧会」であり、「生身の人間の展示」であって「民俗芸能の出演」ではないわけです(問題は「生身の人間の展示」という点であることに、注意してください)。その点で、「もし、「人間動物園」なんかではありえないとすれば、なぜ、日本本土の純粋日本人の家族のありさまを、同様に「生活展示」しなかったのでしょうか?」という言葉は、大変説得的なのです(「人間動物園」、台湾先住民は出演者に過ぎないのか?」(『安禅不必須山水」様))。
さらに、以下の点にも注意しましょう。
・この「台湾村」の展示について、朝日新聞記者として特派された長谷川如是閑は、「之を多くの西洋人が動物園か何かに行ったやうに小屋を覗いて居る所は聊か人道問題にして、西洋人はイザ知らず日本人には決して好んでかかる興行物を企てまじき事と存じ候。」と述べています。「人道問題」という認識を当時の日本の知識人たる長谷川は持っていたようです(同前)。
・日本政府は展示について、英国政府に立案を英人「シンジケート」に全面的に委託したが、その際、「方針としては「本邦の品位を損するものは一切之を許容せさること」とし、委託した博覧会事業者の希望を考慮した上で「台湾生蕃の生活状態」を含む8項目の「余興」を容認したと、後に書かれた『博覧会事務局報告』は記している。 」(wikipediaの「人間動物園」の項目より)。ゆえに、長谷川の上の発言「西洋人はイザ知らず日本人には決して好んでかかる興行物を企てまじき事と存じ候」というのは、半ば不正解なのです。
以上より、「人間動物園」という表記が、1910年にロンドンで開かれた日英博覧会での台湾の先住民族の「展示」にも適用は十分妥当であるということは分るかと思います。となると問題は、
という、ずばり、wikipediaの「NHKスペシャル シリーズ 『JAPANデビュー』アジアの“一等国”」の項目(上記参照)のことです。パイワン族は村長は、「我々の文化を海外で紹介されたことは、現在でも村の誇りとして語り継がれている」とし、そのような感情を番組で紹介されることはなく[58]
参加者は確かに、「報酬とチップを合わせると帰国後一年間働かなくてもよい収入があった程羽振りがよかったようだと、近隣のものが述懐する程であった(注4)。」(上掲wikipediaの「人間動物園」の項目より引用)というのは事実のようです。ただし、
①「人間動物園」という表記が、西欧人の博覧会などで、「未開」の人々の「日常生活」を「見世物」とする際につけられたものであり、1910年の日英博覧会でも同じような「展示」がなされている点で、「人間動物園」という表記は妥当性を持ち、
②当時の日本人の中にさえも、このような「展示」方法を「人道問題」と考える人間は存在しており、日本人の家族の「日常生活」を同じようには「生活展示」しなかった点で、当時日本側にはすでにそれを差別ととららえるだけの「思考」が存在しており、さらに、
③インタビューに答えているパイワン族の「村長」も、少なくとも現代の世の中で同じことをされることを差別とは感じるであろうと推定される、
以上三点において、「人間動物園」の表記は十分妥当と思われます。また、③について、もし仮に当時「展示」されていたパイワン族の人々が、自分たちに「差別」的まなざしを送られていたことを知らされていたら、蓋しおおよそ二種類の反応を返したろうと思われます。
(1)差別されたと考えて怒りを感じる、(2)自分たちは差別と思っていないとして無視する、の二つです。「誇り」だったのですから、おそらく後者だったと思います。もし、(1)なら、この「展示」へ怒りを覚えて「誇り」などなかったでしょう。(2)でも、「誇り」だったのですから、「人間動物園」などという表記はさして気になさらなかったでしょう。その点も含め「妥当」と考えるわけです。はたして、「展示」されることの差別に憤慨することもないのに、「人間動物園」という表記にはきちんと憤激する【都合の好い】存在などいるのでしょうか。
これが現段階での最大限の推論です。注意いただきたいのは、「人間動物園」という表記の学術的な妥当性の問題ということです。だから、当時この用語が使われていたかどうかなど問題ではないのです。この点は、勘違いしやすい点なので、念のため書いておきます。
(不要な追記)
ついでに、「人間動物園」というキャプションを「集合写真」に付けた件については、こういう「編集」はワイドショーやら何やらで山ほどあるはずなので、そっちの方もきちんと指摘したほうがいいと思います。「誤解を招きかねない編集」が、テレビにも、もちろんネットにも溢れる世の中です。
(さらに追記)
日本人も「展示」されていたから問題ないという反論も、意味を持ちません。確かに、「数十人の力士団もロンドンに渡って土俵を造って相撲を披露、日本人農民も農村風景を描いて米俵製作の実演日本の伝統的な農村風景を紹介」という風に、wikipediaの「日英博覧会 (1910年)」の項目には、書いてあります。
重要なことは、これが「日常の生活の展示」ではない、ということです。本稿で問題にされているのは、「台湾蕃人ノ生活状態」の展示です。「蕃社ニ模シテ生蕃ノ住家ヲ造リ蕃社ノ情況ニ擬シ生蕃此ノ処ニ生活シ時ニ相集リテ舞踏シタリ」という生活の展示であるという問題です(宮武公夫『黄色い仮面のオイディプス―アイヌと日英博覧会―』より孫引き、「「人間動物園」 コメントへの答え」(前掲『安禅不必須山水』様)より曾孫引き)。
「此ノ処ニ生活シ」という「展示」の問題であって、居住ではないはずの書割の前での「米俵製作の実演」の問題ではないはずなのです。上のほうでも引用したように、「日本本土の純粋日本人の家族のありさまを、同様に「生活展示」」しなかったことの問題なのです。
だから、「米俵製作の実演」を「人々の暮らしを展示していた」と表現するのは、この「生活」という点を考えれば厳密さを欠きます(「NHKスペシャル偏向番組「アジアの“一等国”」(続き)」『Japan Sea 日本海』様)。なお、この日本人自身の「展示」が「日本人の訪問者にとって不愉快で恥さらしなものと受け取られていた」のは、第一に、「農村風景を描いて」とか「桜の木の下」などのあからさまな紋切り型の日本像の描き方を、不快に感じたからではないでしょうか。
(もっと追記)
古森
この場合問題は、「余興従業者ノ住家ハ其ノ便宜ヲ図リ博覧会会社ト交渉ノ上契約中ニ従業者ノ負担トナリ居ルニ拘ハラス会社の負担ヲ以テ会場付近ノ住家ヲ借入シメ之ニ居住セシメタルカ後各本人等ノ望ニ依リ余興場ノ建物内ニ便宜ノ施設ヲ為シテ居住セシムルコトトナレリ」という一文の「余興従業者」に、「生蕃」の人々が入るかどうか、が焦点となるはずです (「日英博覧会事務局事務報告 第17章 日本余興」『15年戦争資料 @wiki』様)。つまり、「生蕃」の人々もまた、自由意志によって、「余興場ノ建物内ニ便宜ノ施設ヲ為シテ居住」したのか、という点です。その是非は、この史料からは即断できません。
ただし、彼らが24時間自由意志で居住していたにせよ、していないにせよ、「各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する」という点で、1903年の第五回内国勧業博と類似しており、このことが西欧における「人間動物園」の定義に当てはまる以上、本件日英博覧会にこの呼称を使うことは、妥当性を持つと考えます。
ただし、これについて興味深い資料があります。「台湾日日新報「日英博の生蕃館」」(『15年戦争資料 @wiki』様)です。これの「もう台湾に帰りたい」という記事を見てみましょう。
曰く、「台湾を連れ出すとき遠い英国へ行くのであるとは明示したさうだが彼らも斯んなに遠いとは想わなかったであらう何しろ二月十八日基隆発二十一日門司著四月十五日倫敦著で都合ニ個月掛かったから彼らも大いに退屈したのである (略) 著英以来もう四個月、たヾ生蕃小屋の中に篭城して山野を跋渉する事が出来ないから彼等はもう飽きが来て台湾の山が断然より善い早く帰りたいと度々監督官に迫る (略) 昨今は大いに冷気になって来たから蕃公も之には閉口して居るそうである」とのこと。
この文章を額面どおり受け取るなら、彼らは、「著英以来もう四個月、たヾ生蕃小屋の中に篭城して」いたのです。そして、「大いに冷気になって来たから蕃公も之には閉口して居る」ことが分かります。「住家ハ其ノ便宜ヲ図リ博覧会会社ト交渉ノ上契約中ニ従業者ノ負担トナリ居ルニ拘ハラス会社の負担ヲ以テ会場付近ノ住家ヲ借入シメ」という、大盤振る舞いを日本側はしたはずなのですから、「蕃公」の人々に対して、「会場付近ノ住家ヲ借入」してあげてもよかったはずです。そちらの方が暖かいでしょう。でも、このような便宜は無かったようなのです。
考えられるのは、2つです。「蕃公」の人々が、それを望まなかったか、もしくは、主催者側が拒んだか、です。「蕃公」の人々が帰りたがっていることを考えると、後者です。さらに後者のうち、可能性が2つあります。①ひとつは、最初から日本側が彼らに住居の便宜を図らなかった可能性です。②もうひとつは、最初は便宜を図ろうとしたが、「蕃公」の人々が「建物内ニ便宜ノ施設ヲ為シテ居住」することを選んだため、それ以降は契約を理由に拒否したか、です。
本稿は、一度日本側が大盤振る舞いに出たのに、あとから②のように契約を理由に拒否することが、財政的な可能性として考え難い事から、①だったのではないかと考えます。十全な論拠こそ示せませんが、以上の理由によって、本稿は、「蕃公」の人々は最初から、「生蕃小屋の中に篭城」させられていた可能性が高いと判断します。
2010/2/28 一部改訂済
侯孝賢の『悲情城市』のはなし 本田善彦『台湾総統列伝』(5)
蔣経国は、70年代以降民主化を進め、国民党以外の政治勢力の活動も容認されるようになります。そして彼の死後、李登輝が政治的実権を着実に握ろうとしていた1989年に、公開された映画が侯孝賢の『悲情城市』です。87年にはすでに戒厳令は解除され、95年には、二・二八事件の犠牲者に対して李登輝が(皮肉にも、当時弾圧された側である彼が)、国家元首として謝罪することとなります。
この映画は、日本統治の終わりから、中華民国の台北への遷都までを描いた映画で、台湾国内で二・二八事件を初めて公に扱った映画でした。田村志津枝『悲情城市の人びと』は、この映画を見る上で重要な著作で、「幌馬車の歌」という日本の歌を、なぜ銃殺される直前に台湾の青年が歌ったかを解き明かしています。著者が台湾各地を旅し、そのモデルとなった鍾浩東の夫人・蒋蘊瑜にも取材しています(曰く、このモデルとなった人物は、その歌を「日本の歌」とは知らなかったとのこと)。
ただし、矢吹晋(前傾矢吹論文)によると、「この歌の秘密は、藍博洲の手紙「致田村志津枝小姐」(原載八九年一二月二五日『自立副刊』、のち『幌馬車之歌』に所収)ですべて解かれていた。田村は「既知」をあたかも「未知」のごとく扱うフィクションの旅を続けたことになる。」とのことです。もし、こんな俗流ドキュメンタリー的詐術を行ったことが事実なら残念です(文献とか研究論文などですでに答えが出ていることを、ただ追認するためにのみする旅とは、一体何なのか?)。
さて矢吹は、この映画の意味の読み取れないシーンについて、「藍博洲の解説」を読んで、次のように言います。
そのシーンは、50年代の台湾における白色テロを暗示している、というわけです。50年代の白色テロは、国民党政府が台湾に撤退してから後に起こした出来事でした。二・二八事件と違い、部下に責任を「転嫁」できない出来事だったため、中華民国政府がこれを認めるのはさらに遅れることになります。(注1)戒厳令解除直後の台湾政治のなかで、最大のタブーに挑戦するための戦術なのである。映画は四五~四九年の台湾史だけでなく、五〇年代の左翼粛清(山村工作隊)をも描いている。にもかかわらず、字幕は国民党が大陸で敗北し台湾に撤退するまでの話としているのは端的な一例である。
個人的に、獅子舞が爆竹が炸裂するさなかに舞うシーンなどに見られるロングショットの距離感がやはり好きだなあ、などという自堕落な印象批評はここでは控えます。この映画で特に印象的なものの一つに、通訳を介しての会談のシーンがあります。
長兄である文雄は台湾語(閩南語)で話して、これが一旦広東語に訳されて、これがさらに上海語に訳し直され、大陸から来た人間がそれを聞くわけです。同系の言語のはずが、二人も通訳を必要とするのです。
よく知られているとおり、中国語の「方言」は、漢字という文字自体こそ共通するものの、方言が違うと相互理解はほとんど無理です。中国の方言は、おおまかに7つに別れます。台湾語は、その七大方言のうちの一つ閩語です。広東語は七大言語の一つの粤語、上海語は呉語です。みな方言が違うわけです(方言内部でも、相互理解が無理なほど異なる言語もあります)。
大陸と台湾島に共通するようなリングワ・フランカはなく、このような事態となったわけです。なお、中華民国は1920年代以降、「国語」という、標準的な中国語の国語を作りましたが、映画の中の彼らは、この「国語」を使いませんでした。たぶん、この言語はあまり当時広まらなかったのだと思われます。
以上、侯孝賢の『悲情城市』については、またの機会に触れようと思います。これとは別に、「90年頃、当時の台湾で売られている中華民国地図は、モンゴルが、「外蒙古」として、中華民国領だった」(158頁)ということが気になっているのですが(これは蒋介石の政治的理由がかかわっているといわれています)、これもまた後日とさせていただきます。
(了)
(注1) 国民党政権による「白色テロ」について、「歴史的文盲について」(『semi@aoao』様)は、周婉窈『図説 台湾の歴史』の書評において、「密告は功績になるから「でっちあげ」が横行したが、ひとたび疑いをかけられれば拷問が待っており、誰もが耐えきれずに自分を売り、家族を売り、友人を売ってしまう。それに自ら抵抗できないことが「白色テロ」の最大の恐怖だと著者は言う。だから家庭内ですら少しでも政治的な話題は避けられ、植民地時代の過去も個人の記憶に封じ込められる。」と述べています。