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手紙はいろいろ知っている 袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』
なぜ、日本は先の大戦で、誰も駐留米軍に対してレジスタンス活動などを行わなかったのか。
軍のトップに立っていた天皇がそれを求めない以上、そんなことが出来るわけがないし、そもそも他国ないし他勢力からの援護が期待できない状態でのレジスタンス運動など不可能だ。
袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様―占領下の日本人の手紙』(岩波現代文庫) を読了した。
400ページを超える著作だが、退屈さを感じさせない良書。
既に書評があり、例えば以下のようなもの(「絶望よりも反省よりも『拝啓マッカーサー元帥様』」)。
このパルチザン云々は、既に、「軍のトップに立つ天皇が制止する以上そんなことが出来るわけがないし、そもそも他国ないし他勢力からの援護が期待できない状態でのレジスタンス運動など不可能だ」と上に書いたとおり、的外れと思われる。
「実は相手が誰であれ、拝跪できさえすれば構わない質の純朴さではないかと思えてくる」も、諸々本書を読んでみる限り、的を若干はずしている気配がある。
確かに、「マッカーサーに手紙を書くような人々」は「戦中戦後に自国の指導者にも投書をしていた人が多い」のは事実だ(216頁)。
無論、全員ではないらしいが、戦争煽った奴らの少なからずが、手の平返して司令官様にこびへつらった、というのは間違いない。
しかし拝跪には、当然物質的な要因も含まれる。
食料と海外からの引揚げ。「深刻な食糧不足」に対して「マッカーサーが大量の食料を救援物資として搬入することを許可」し「何百万という旧軍人と一般人の引き上げを促進」したという事実、かなりの投書がこの点に触れているらしい(431頁)。
彼が当時の日本人に好まれた具体的な要因。
素朴さだけでは人は跪くまい。
本書は、植民地や人種という話題に多く触れる。
著者によると、占領軍のみならず、自らの非をみつめた投書は少ないとのこと(74頁)。
投書のなかには、米国兵士の振舞いを非難するものもあったが、自国の振舞いを問い直す当初は少なかったらしい。
「日本人ってつまらん民族だと思ったね。あんな手紙をマッカーサーに書くなんてサ」と、ハワイ出身の沖縄系二世の米国ATIS隊員が発言したという(412頁)。
その「つまらん民族」は、「沖縄」を捨てた。
「敗戦日本の占領が、アメリカ人でなく中国人によって行われたと考えてみたらいい」。
そうジョン・ダワーが解説している(425頁)。
確かにマッカーサーへ向けられた"畏敬と賞賛"は、もし司令官が中国人だったら、向かうことがなかっただろう。
「日本人の多くは、自分たちが他の民族に及ぼした苦難についてはあまり考えなかった」と、ジョン・ダワーはまとめている(429頁)。
一方、松本治一郎の追放解除を要請する手紙を書いた人も大勢居た(18頁)。
帰国後逃亡罪で12年の刑に処せられた夫を救おうと手紙を書いた妻もいた(372頁)。
「つまらん民族」には例外もいるのだろう。
『拝啓マッカーサー元帥様』に、占領期、木村毅ら反左派系出版人たちが、自らの戦争協力の過去を棚に上げて、日本の出版会の主流にのし上がる旨の記述がある(351頁)。
当時、雑誌『キング』も戦意煽ってたのである。
マッカーサーは厳しいスケジュールの中、送られた手紙を読むことにかなりの時間を費やしていたらしいが(10頁)、こういう手紙も読んでいたのだろう。
当時、『キング』がどのように戦意を煽っていたかについては、佐藤卓己『キングの時代』等参照。
木村毅、1945年時には、グルーやニミッツ、マッカーサーらに厳罰を、との旨のことを書いてる(345頁)。
当時の"身の軽い"マスコミの動きを象徴する人物といえる。
マッカーサーによる「日本人十二歳」発言で(これは誤解らしいのだが)、日本国民はマッカーサー熱から冷める(408頁)。
その背景に「占領という事態にあまりにもやすやすと身を寄せたことへの恥ずかしさ」が国民にあったというが、はてさて。
(加筆訂正:2011/8/9)
(加筆訂正:2013/8/5)
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軍のトップに立っていた天皇がそれを求めない以上、そんなことが出来るわけがないし、そもそも他国ないし他勢力からの援護が期待できない状態でのレジスタンス運動など不可能だ。
袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様―占領下の日本人の手紙』(岩波現代文庫) を読了した。
400ページを超える著作だが、退屈さを感じさせない良書。
既に書評があり、例えば以下のようなもの(「絶望よりも反省よりも『拝啓マッカーサー元帥様』」)。
確か一億玉砕まで誓った戦争だった。神国は不滅であり、必勝不敗は揺るがせない国是だった。
だから総力戦の敗北は、帝国臣民を深い挫折へと追いやったはずであり、日本の滅亡を認めないものは、決起したはずだ。
だが、現実はどうかといえば、ひとりのパルチザンも生まなかった! その事実に気付くとき、マッカーサーに対する見返りを求めない庶民の善意溢れる手紙も、実は相手が誰であれ、拝跪できさえすれば構わない質の純朴さではないかと思えてくる。
あの戦争は幻だったのかというくらい、かつての立場にこだわりがない。それを権力者に対決しない本能というのでは、説明になりえない。
このパルチザン云々は、既に、「軍のトップに立つ天皇が制止する以上そんなことが出来るわけがないし、そもそも他国ないし他勢力からの援護が期待できない状態でのレジスタンス運動など不可能だ」と上に書いたとおり、的外れと思われる。
「実は相手が誰であれ、拝跪できさえすれば構わない質の純朴さではないかと思えてくる」も、諸々本書を読んでみる限り、的を若干はずしている気配がある。
確かに、「マッカーサーに手紙を書くような人々」は「戦中戦後に自国の指導者にも投書をしていた人が多い」のは事実だ(216頁)。
無論、全員ではないらしいが、戦争煽った奴らの少なからずが、手の平返して司令官様にこびへつらった、というのは間違いない。
しかし拝跪には、当然物質的な要因も含まれる。
食料と海外からの引揚げ。「深刻な食糧不足」に対して「マッカーサーが大量の食料を救援物資として搬入することを許可」し「何百万という旧軍人と一般人の引き上げを促進」したという事実、かなりの投書がこの点に触れているらしい(431頁)。
彼が当時の日本人に好まれた具体的な要因。
素朴さだけでは人は跪くまい。
本書は、植民地や人種という話題に多く触れる。
著者によると、占領軍のみならず、自らの非をみつめた投書は少ないとのこと(74頁)。
投書のなかには、米国兵士の振舞いを非難するものもあったが、自国の振舞いを問い直す当初は少なかったらしい。
「日本人ってつまらん民族だと思ったね。あんな手紙をマッカーサーに書くなんてサ」と、ハワイ出身の沖縄系二世の米国ATIS隊員が発言したという(412頁)。
その「つまらん民族」は、「沖縄」を捨てた。
「敗戦日本の占領が、アメリカ人でなく中国人によって行われたと考えてみたらいい」。
そうジョン・ダワーが解説している(425頁)。
確かにマッカーサーへ向けられた"畏敬と賞賛"は、もし司令官が中国人だったら、向かうことがなかっただろう。
「日本人の多くは、自分たちが他の民族に及ぼした苦難についてはあまり考えなかった」と、ジョン・ダワーはまとめている(429頁)。
一方、松本治一郎の追放解除を要請する手紙を書いた人も大勢居た(18頁)。
帰国後逃亡罪で12年の刑に処せられた夫を救おうと手紙を書いた妻もいた(372頁)。
「つまらん民族」には例外もいるのだろう。
『拝啓マッカーサー元帥様』に、占領期、木村毅ら反左派系出版人たちが、自らの戦争協力の過去を棚に上げて、日本の出版会の主流にのし上がる旨の記述がある(351頁)。
当時、雑誌『キング』も戦意煽ってたのである。
マッカーサーは厳しいスケジュールの中、送られた手紙を読むことにかなりの時間を費やしていたらしいが(10頁)、こういう手紙も読んでいたのだろう。
当時、『キング』がどのように戦意を煽っていたかについては、佐藤卓己『キングの時代』等参照。
木村毅、1945年時には、グルーやニミッツ、マッカーサーらに厳罰を、との旨のことを書いてる(345頁)。
当時の"身の軽い"マスコミの動きを象徴する人物といえる。
マッカーサーによる「日本人十二歳」発言で(これは誤解らしいのだが)、日本国民はマッカーサー熱から冷める(408頁)。
その背景に「占領という事態にあまりにもやすやすと身を寄せたことへの恥ずかしさ」が国民にあったというが、はてさて。
(加筆訂正:2011/8/9)
(加筆訂正:2013/8/5)
英米人は恣意の人を相手にしない。
'Shame on you!' (恥を知れ)と一喝して、それで終わりである。
恣意の人は、子供・アニマルと同等である。
子供・アニマルの状態になるのは、日本人としても恥ずかしいことである。
だから、普段は胸のうちに秘めている。
いずれにしても、腹の底にたまっていて、公言できない内容である。
言葉にするのをはばかられる内容であるから、言外の行動に出る。
それで、本人は、わけのわからぬ暴動を起こす。
この問題に対処するには、本人のリーズン(理性・理由・適当)を理解するのではなくて、周囲の者の察しが必要である。
察しは、他人の勝手な解釈であって、本人の責任とはならない。
その内容を「真意は何か」と言うふうに、本人に問いただすこともある。
言外の内容は、言語を介しては通じにくい。腹を割って話さなくてはならない。
日本人といえども、恣意の内容は公言をはばかられることである。
恣意の実現のためには、赤子になったつもりで、皆の衆に甘えさせてもらうものである。
こうした人情話をするには、是非とも談合が必要である。
英米人は、リーズンを求めている。
英語で答えるときは、リーズナブルな内容を提出しなければならない。
以心伝心・言外の内容などを求めていない。
'Be rational!' (理性的になれ) にも、'Shame on you!'にも意味がある。
日本語の理性には意味はなく、恥も英語の内容とは違ったものになっている。
だから、英文和訳の方法により英米文化を取り入れることは難しい。
日本語による英語教育の振興にも限界がある。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812