2015-12-10(Thu)
僕たちのプライド
20年ほど前になるが、プライドという歌が大流行した。
歌っていた今井美樹が、「貴方への愛こそが私のプライド」という歌詞そのままに、作詞作曲の布袋寅泰を奪っていったということでもかなり話題になった。
結局のところ、人が動くのは、カネとプライドなんじゃないか、と思う。
■■
江戸時代の百姓一揆は、温和しいのから過激なのまで、大小あわせて3000回以上あったと言われている。
とくに1700年代中期以降に激増している。
江戸時代後期は、いわゆる小氷河期にあたり、飢饉が頻発した。
米本位制が崩れ、米に依存していた農民と下級武士が経済的に転落した。
とくに中農・富農が没落して1%に満たない超大地主に農地が集中した。
政府(幕府や藩)に時代認識が無く、有効な政策をとれなかった。
黒船以降、大量の金銀が湯水のように海外に流出した。
こうした事態が重なり、幕府の崩壊と薩長新政府へとつながっていくわけだが、そこに至るまでに、集団直訴から蜂起まで、様々の一揆が行われていた。
(退職教師の日本史授業 さんより)
明治維新というと、なんだか薩長土肥だけが頑張って、勝海舟と西郷隆盛が平和的に解決したかのように描かれるが、じつは日本中で一揆が勃発していたのである。
もちろん、一番の理由は「食えない」ということだったろう。
間引き(嬰児殺し)や人身売買や姥捨て山が当たり前の暮らしは、なにかきっかけがあれば暴発して当たり前だったと言える。
しかし百姓一揆は、正確には勉強していないが、どうも「暴発」という言葉があてはまらない、かなり組織的で計画的な決起だったらしい。 首謀者の処刑は覚悟の上で、ある程度の成果を勝ち取るということを、意識的にしていたらしい。
全員に咎が及ばないようにするために、武器を制限し、破壊する範囲も決めていたようだ。
もちろんこれは、江戸時代が米本位制だったから、一揆に荷担した全員を処刑できなかったということはある。
全員処刑すれば、誰が米をつくるのか、ということになる。
つまり、百姓一揆は、生産者と搾取者がお互いの存在を基本的には認め合った上でのせめぎ合いだった。
リーダーは処刑されるのが分かっているのに、これほどに計画的に行動していたというところに、ある種の不思議さを感じないだろうか。
懲役1年くらいなら分からなくも無い。あるいは、自暴自棄の暴発なら死ぬことを恐れなくなってしまうかもしれない。
しかしどうも一揆は、確実に数人は死刑になることを覚悟の上で、組織的な武装デモを決行したのである。
なぜこんなことができたのだろう。
■■
プライドではないか。
こちらのページの中程に「備中長尾村(岡山県倉敷市)の階層分解の実態」という表がある。
これを見ると、江戸中期から幕末に向けてのドラスティックな変化が分かる。
貨幣経済の浸透と本百姓の消滅 庶民の九割が貧困に苦しむ
1700年頃までは、農民のほとんどは富農、中農であり、誰も彼もが貧困にあえいでいたわけでは無いことがわかる。
それが、1800年には実に85%ちかくが三反以下の農地しか持たない貧農に転落しているのである。
この変化の凄まじさは、アベノミクスをはるかにしのぎ、竹中平蔵も顔負けである。
国の経済の根本を、自作農として生産していた百姓が、層として没落していく。
良くも悪しくも共同体として機能してきた農村が、不在地主のための農奴集団になっていく。
これが、江戸時代後期の日本の津々浦々で進行した事態だ。
村の百姓であることを集団で剥奪されることへの抵抗。それが一揆だったのではないのか。
村という共同体の靱帯がなければ、一揆はおきなかっただろう。
また、生産者としての自負がなければ、そこまで抑制的、計画的に動くことはできなかっただろう。
依って立つところへのプライド。
これがある時にはじめて、一揆のような行動は起こりうるのだろうと思う。
■■
それにしても、江戸末期の状況は、今日の日本に似ている。
何よりも、生産をマネーが壊す、という点がそっくりだ。
第二次大戦後の世界経済は、工業生産基軸であり、その意味で石油本位制の経済だった。
その是非はともかくとして、まだしも「ものを作る」ということが根本だった。
しかし、1970年代からそれは覆され始める。
何も生産しないマネーが全てを支配し、生産するものを痛めつけ、没落させ、1%に満たない人間に全てが集中していった。
まだ、江戸末期の85%が貧農というレベルまでは来ていないが、時間の問題だろう。
しかも現代は、その矛盾を隠しそらすために、戦争という手段が用いられる。
85%が食うや食わずの貧困に陥るまえに、戦争が始まる。
これだけ同じような目に遭いながら、なぜ現代の日本では一揆がおきないのか。
今流に言うなら、デモやストライキということになるのだろうか。
しかし昨今流行の「人に迷惑をかけないデモ」は、一揆とは根本的に違う。
経営にあまり影響の無い程度のストライキも一揆とは遠い。(それすら無いが)
一揆は「生産者をなめんなよ」という実力行使であり、「村の結束を見せつける」組織的蜂起だったのだから。
■■
それでも、他国に目をやれば、かなり激しいデモやストライキで成果を勝ち取っている。
そのなかで、日本だけは異常になにもない。
日本人が異常なのか?
その理由はじつは簡単なのだと思っている。
「依って立つところ」がない。
自分の存在にプライドを感じることができない。
自分がナニモノでも無い。
この無自覚な喪失感の中で、ほとんどの日本人は決起する力を萎縮させられてきたのではないか。
集団として差別されているわけでもない、フツウの日本人ほど、自分がナニモノかというアイデンティティもプライドも持てない。
差別されたり迫害されたりする集団に自らを仮託する人たちもいる。しかし、「連帯」と「自分の問題」は、やはり違うのだ。
フツウの日本人が「自分の問題」で立ち上がらない限り、特別に差別されている集団の問題も解決しない。
フツウの日本人にとって、アイデンティティを持ちやすいのは、会社と国だろう。
会社アイデンティティは、一時は猛威をふるい、エコノミックアニマル、社畜といわれるモーレツサラリーマンを生み出した。
その会社の社員であることにプライドを感じ、出世競争に血道を上げた。
そんな日本の生産を担った会社が、国際金融資本のマネーにぶち壊されようとしているのだから、日本のドメスティックな資本家が、「なめんなよ」と立ち上がれば、誇りをもった社員が結束してかなり強力な一揆になった可能性はある。
しかし、日本の資本家でそんな動きをした人を知らない。
それどころか、口をそろえて「グローバル化」の大合唱。せっかく稼いだ1千兆円に近い資産を自国に持ち帰ることができず、米国で運用することをなかば強制されながら、対外資産が過去最高などと喜んでいる。
では、国はどうか。
日本人ということに、強いアイデンティティやプライドを感じることができるだろうか。
一部の人を除き、これも望み薄だ。
日本人はたぶん、世界で一番、自国にプライドを持てない国民だろう。
それには理由がある。
安倍晋三ならば「左翼が、反日が」と曰うのだろうが、一番大きな理由は、安倍のような連中が過去の罪を開き直り続けているからだ。
そして、二番目の理由は、開き直っていることを批判する勢力が、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、自国にアイデンティティを感じることそのものを罪であり恥であると断じてきたからだ。(ここは、ほんのちょっとだけ極右は正しい)
重要なことは、一番の理由と二番の理由は、計画的にワンセットにされているということ。
GHQの日本支配戦略の要として、極右には侵略戦争を開き直らせ、それを批判する左翼にはナショナリズムを根本から否定させる、というセッティングをした、としか考えられない。
それほど、巧妙に私たちはアイデンティティを無くし、ナニモノでも無いものとして浮遊してきた。
本当のアイデンティティとは、極悪の部分を自分たちの責任として引き受け、対処するということだ。
そして、さまざまな違いも、「自分たち」として存在を認め合うということだ。
その上で、所属する集団が、層として被っている非道の損害に、集団のちからで対抗していくことだ。
まさに今、翁長知事を筆頭に沖縄で行われていることそのものだ。
一度ここに立ち返らないと、いくら政策を論じても、いつまでも金太郎アメの運動から脱却できない。
私が個人的にナショナリズムを好きなわけではない。
歴史の段階として、まずここから始めなければならない、ということ。
日本人が、自分たちの過去の責任を引き受けること。
そして、日本人としてのプライドを持って、収奪と迫害にたいしてたたかうこと。
■■
日本の収奪は、もはや経済的なものだけではない。
先日の伊波洋一さん(前宜野湾市長)の講演でお聞きしたのだが、なんと、米国は中国との戦争を「日本を戦場にして」行う計画だ。
中国本土を戦場にすると世界経済の影響が大きいので、日本と南西諸島を限定的な戦場にして、中国と戦争するというのだ。
下記の海上自衛隊のホームページに、堂々とこう書いてある
「オフショア・コントロールは、中国のインフラを破壊しないことにより、紛争後の世界貿易の回復は促進される。経済的な現実として、グローバルな繁栄は、中国の繁栄に多く依存するということである。」
海上自衛隊幹部学校コラム
世界経済の牽引車である中国を破壊すると国際金融資本様が困るので、日本列島を戦場にさせていただきます、というのが集団的自衛権の真相だったのだ。
戦争に反対しない右翼でも、これには腹が立つのでは無いか?
もちろん、そもそも戦争反対のものにとっては、なにをか況んや。
まさに、日本人としてのアイデンティティとプライドをもって、断固たたかうべき問題だ。
そのためには、70年前に仕掛けられた「ナニモノでも無い」罠から抜け出さなくてはならない。
右も左も協力して、この罠をはずし、卑劣な奴隷頭である安倍晋三の顔に投げつけてやらなければならない。
絶対反戦 & 日本独立
この当たり前のスローガンを掲げられる日が来ることを祈っている
にほんブログ村
応援お願いします
歌っていた今井美樹が、「貴方への愛こそが私のプライド」という歌詞そのままに、作詞作曲の布袋寅泰を奪っていったということでもかなり話題になった。
結局のところ、人が動くのは、カネとプライドなんじゃないか、と思う。
■■
江戸時代の百姓一揆は、温和しいのから過激なのまで、大小あわせて3000回以上あったと言われている。
とくに1700年代中期以降に激増している。
江戸時代後期は、いわゆる小氷河期にあたり、飢饉が頻発した。
米本位制が崩れ、米に依存していた農民と下級武士が経済的に転落した。
とくに中農・富農が没落して1%に満たない超大地主に農地が集中した。
政府(幕府や藩)に時代認識が無く、有効な政策をとれなかった。
黒船以降、大量の金銀が湯水のように海外に流出した。
こうした事態が重なり、幕府の崩壊と薩長新政府へとつながっていくわけだが、そこに至るまでに、集団直訴から蜂起まで、様々の一揆が行われていた。
(退職教師の日本史授業 さんより)
明治維新というと、なんだか薩長土肥だけが頑張って、勝海舟と西郷隆盛が平和的に解決したかのように描かれるが、じつは日本中で一揆が勃発していたのである。
もちろん、一番の理由は「食えない」ということだったろう。
間引き(嬰児殺し)や人身売買や姥捨て山が当たり前の暮らしは、なにかきっかけがあれば暴発して当たり前だったと言える。
しかし百姓一揆は、正確には勉強していないが、どうも「暴発」という言葉があてはまらない、かなり組織的で計画的な決起だったらしい。 首謀者の処刑は覚悟の上で、ある程度の成果を勝ち取るということを、意識的にしていたらしい。
全員に咎が及ばないようにするために、武器を制限し、破壊する範囲も決めていたようだ。
もちろんこれは、江戸時代が米本位制だったから、一揆に荷担した全員を処刑できなかったということはある。
全員処刑すれば、誰が米をつくるのか、ということになる。
つまり、百姓一揆は、生産者と搾取者がお互いの存在を基本的には認め合った上でのせめぎ合いだった。
リーダーは処刑されるのが分かっているのに、これほどに計画的に行動していたというところに、ある種の不思議さを感じないだろうか。
懲役1年くらいなら分からなくも無い。あるいは、自暴自棄の暴発なら死ぬことを恐れなくなってしまうかもしれない。
しかしどうも一揆は、確実に数人は死刑になることを覚悟の上で、組織的な武装デモを決行したのである。
なぜこんなことができたのだろう。
■■
プライドではないか。
こちらのページの中程に「備中長尾村(岡山県倉敷市)の階層分解の実態」という表がある。
これを見ると、江戸中期から幕末に向けてのドラスティックな変化が分かる。
貨幣経済の浸透と本百姓の消滅 庶民の九割が貧困に苦しむ
1700年頃までは、農民のほとんどは富農、中農であり、誰も彼もが貧困にあえいでいたわけでは無いことがわかる。
それが、1800年には実に85%ちかくが三反以下の農地しか持たない貧農に転落しているのである。
この変化の凄まじさは、アベノミクスをはるかにしのぎ、竹中平蔵も顔負けである。
国の経済の根本を、自作農として生産していた百姓が、層として没落していく。
良くも悪しくも共同体として機能してきた農村が、不在地主のための農奴集団になっていく。
これが、江戸時代後期の日本の津々浦々で進行した事態だ。
村の百姓であることを集団で剥奪されることへの抵抗。それが一揆だったのではないのか。
村という共同体の靱帯がなければ、一揆はおきなかっただろう。
また、生産者としての自負がなければ、そこまで抑制的、計画的に動くことはできなかっただろう。
依って立つところへのプライド。
これがある時にはじめて、一揆のような行動は起こりうるのだろうと思う。
■■
それにしても、江戸末期の状況は、今日の日本に似ている。
何よりも、生産をマネーが壊す、という点がそっくりだ。
第二次大戦後の世界経済は、工業生産基軸であり、その意味で石油本位制の経済だった。
その是非はともかくとして、まだしも「ものを作る」ということが根本だった。
しかし、1970年代からそれは覆され始める。
何も生産しないマネーが全てを支配し、生産するものを痛めつけ、没落させ、1%に満たない人間に全てが集中していった。
まだ、江戸末期の85%が貧農というレベルまでは来ていないが、時間の問題だろう。
しかも現代は、その矛盾を隠しそらすために、戦争という手段が用いられる。
85%が食うや食わずの貧困に陥るまえに、戦争が始まる。
これだけ同じような目に遭いながら、なぜ現代の日本では一揆がおきないのか。
今流に言うなら、デモやストライキということになるのだろうか。
しかし昨今流行の「人に迷惑をかけないデモ」は、一揆とは根本的に違う。
経営にあまり影響の無い程度のストライキも一揆とは遠い。(それすら無いが)
一揆は「生産者をなめんなよ」という実力行使であり、「村の結束を見せつける」組織的蜂起だったのだから。
■■
それでも、他国に目をやれば、かなり激しいデモやストライキで成果を勝ち取っている。
そのなかで、日本だけは異常になにもない。
日本人が異常なのか?
その理由はじつは簡単なのだと思っている。
「依って立つところ」がない。
自分の存在にプライドを感じることができない。
自分がナニモノでも無い。
この無自覚な喪失感の中で、ほとんどの日本人は決起する力を萎縮させられてきたのではないか。
集団として差別されているわけでもない、フツウの日本人ほど、自分がナニモノかというアイデンティティもプライドも持てない。
差別されたり迫害されたりする集団に自らを仮託する人たちもいる。しかし、「連帯」と「自分の問題」は、やはり違うのだ。
フツウの日本人が「自分の問題」で立ち上がらない限り、特別に差別されている集団の問題も解決しない。
フツウの日本人にとって、アイデンティティを持ちやすいのは、会社と国だろう。
会社アイデンティティは、一時は猛威をふるい、エコノミックアニマル、社畜といわれるモーレツサラリーマンを生み出した。
その会社の社員であることにプライドを感じ、出世競争に血道を上げた。
そんな日本の生産を担った会社が、国際金融資本のマネーにぶち壊されようとしているのだから、日本のドメスティックな資本家が、「なめんなよ」と立ち上がれば、誇りをもった社員が結束してかなり強力な一揆になった可能性はある。
しかし、日本の資本家でそんな動きをした人を知らない。
それどころか、口をそろえて「グローバル化」の大合唱。せっかく稼いだ1千兆円に近い資産を自国に持ち帰ることができず、米国で運用することをなかば強制されながら、対外資産が過去最高などと喜んでいる。
では、国はどうか。
日本人ということに、強いアイデンティティやプライドを感じることができるだろうか。
一部の人を除き、これも望み薄だ。
日本人はたぶん、世界で一番、自国にプライドを持てない国民だろう。
それには理由がある。
安倍晋三ならば「左翼が、反日が」と曰うのだろうが、一番大きな理由は、安倍のような連中が過去の罪を開き直り続けているからだ。
そして、二番目の理由は、開き直っていることを批判する勢力が、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、自国にアイデンティティを感じることそのものを罪であり恥であると断じてきたからだ。(ここは、ほんのちょっとだけ極右は正しい)
重要なことは、一番の理由と二番の理由は、計画的にワンセットにされているということ。
GHQの日本支配戦略の要として、極右には侵略戦争を開き直らせ、それを批判する左翼にはナショナリズムを根本から否定させる、というセッティングをした、としか考えられない。
それほど、巧妙に私たちはアイデンティティを無くし、ナニモノでも無いものとして浮遊してきた。
本当のアイデンティティとは、極悪の部分を自分たちの責任として引き受け、対処するということだ。
そして、さまざまな違いも、「自分たち」として存在を認め合うということだ。
その上で、所属する集団が、層として被っている非道の損害に、集団のちからで対抗していくことだ。
まさに今、翁長知事を筆頭に沖縄で行われていることそのものだ。
一度ここに立ち返らないと、いくら政策を論じても、いつまでも金太郎アメの運動から脱却できない。
私が個人的にナショナリズムを好きなわけではない。
歴史の段階として、まずここから始めなければならない、ということ。
日本人が、自分たちの過去の責任を引き受けること。
そして、日本人としてのプライドを持って、収奪と迫害にたいしてたたかうこと。
■■
日本の収奪は、もはや経済的なものだけではない。
先日の伊波洋一さん(前宜野湾市長)の講演でお聞きしたのだが、なんと、米国は中国との戦争を「日本を戦場にして」行う計画だ。
中国本土を戦場にすると世界経済の影響が大きいので、日本と南西諸島を限定的な戦場にして、中国と戦争するというのだ。
下記の海上自衛隊のホームページに、堂々とこう書いてある
「オフショア・コントロールは、中国のインフラを破壊しないことにより、紛争後の世界貿易の回復は促進される。経済的な現実として、グローバルな繁栄は、中国の繁栄に多く依存するということである。」
海上自衛隊幹部学校コラム
世界経済の牽引車である中国を破壊すると国際金融資本様が困るので、日本列島を戦場にさせていただきます、というのが集団的自衛権の真相だったのだ。
戦争に反対しない右翼でも、これには腹が立つのでは無いか?
もちろん、そもそも戦争反対のものにとっては、なにをか況んや。
まさに、日本人としてのアイデンティティとプライドをもって、断固たたかうべき問題だ。
そのためには、70年前に仕掛けられた「ナニモノでも無い」罠から抜け出さなくてはならない。
右も左も協力して、この罠をはずし、卑劣な奴隷頭である安倍晋三の顔に投げつけてやらなければならない。
絶対反戦 & 日本独立
この当たり前のスローガンを掲げられる日が来ることを祈っている
にほんブログ村
応援お願いします
- 関連記事
-
- 辺見庸の「ことば」 (2016/04/05)
- 想い遣る頭脳と柔らかい心 (2016/04/04)
- 今話題の「保育園落ちた日本死ね」について (2016/02/23)
- 信金さんと話をしていて思ったこと (2016/02/18)
- STAP事件に思うこと (2016/02/03)
- あけましておめでとうございます (2016/01/01)
- 何もかもが切迫している今だからこそ長い目が必要です (2015/12/25)
- 僕たちのプライド (2015/12/10)
- お任せ 頼りきり 縋りつき からの脱却 (2015/10/07)
- 「日本のいちばん長い日」 見てきた けど・・・ (2015/08/27)
- どっちも悪い となぜ言えない (2015/07/07)
- なんでこんなことに・・・ (2015/02/19)
- 頭の整理 (2015/01/17)
- あけましておめでとうございます (2015/01/01)
- 民主主義と「真理は少数にあり」 (2014/02/25)