スタンリー・キューブリック『博士の異常な愛情』主人公ドクター・ストレンジラブに投影された米国原子力マフィアの狂気 モデルのひとりレオ・シラード
レオ・シラードはルーズヴェルト大統領に核兵器開発を促す手紙(アインシュタイン・シラード書簡)を出したことで有名だが、その内容が摩訶不思議だ。
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レオ・シラードはルーズヴェルト大統領に核兵器開発を促す手紙(アインシュタイン・シラード書簡)を出したことで有名だが、その内容が摩訶不思議だ。
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大混乱のアカデミー賞。作品賞プレゼンターのウォーレン・ビーティは、ボルシェビキの暴力革命を「完全に共産主義者の立場」で描いた映画『レッズ』で監督賞を受賞している。
『俺たちに明日はない』から『レッズ』、『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』まで。「なんでもありのハリウッド」を生み出したのは、自由な表現者をメキシコ国境にまで追いやった「発明王」トーマス・エジソンだった。
映画の発明者は誰なのか?
1888年。フランス移民で、写真技師、陶芸家でもあったオーギュスタン・ル・プランスは映画用カメラ兼映写機の特許をアメリカで取得している。
彼の特許請願書にはこう書かれていた。
<集会や行進や諸人種の姿をフィルムに収めること。>
1930年12月12日。英国『リーズ・マーキュリー』誌は次の記事を掲載した。
<リーズ市 失踪発明家の名誉を讃える>
「映画の真の発明者」の名誉を回復する式典で、娘のマリー・ル・プランスは次のように語っている。
<「私がアメリカからまいりましたのは、父が間違いなくニューヨークとパリで映画なるものを作り、そしてここリーズでそれを完成したことを証言するためです。>
<「父はまた、映画は政治を変えると言いました。そして政府をも。」そう言って市長に微笑みかけた。「さらには、民族間の感情を改善するうえでも映画は大きな影響を及ぼすに違いないと、しばしば語っておりました」>(クリストファー・ローレンス『エジソンに消された男』筑摩書房)
1990年4月1日。『ラ・マルセイエーズ』を吹き鳴らす楽隊を先頭に数千人の群衆が英国リーズの街頭を行進した。メーデーが過去最大規模になったのは、地方自治ガス委員会が「組合など認めない」と言い捨てたからだ。
「ガスの供給ができないのは、お前らがさぼっているからだ。12時間かかっている労働を8時間で終えろ。それが就業規則だ」
ストライキ突入。経営側は700人のスト破り要員を送り込み、ガス工場はレンガが飛び交う修羅場となった。
7月1日。ガス灯が消えた。リーズ市内が原始の暗闇に包まれ、やがて陽が昇り、ガス委員会は組合の要求をのんだ。
このとき、ル・プランスは映写機を完成させた。
映画の創成期、史上最初で最大の「個人vs法人」の闘いが起きた。
会社は誰のものなのか?
「プロパガンダの父」ギュスターヴ・ル・ボンは書いている。
<群衆の声が優勢になったのである。この声が、王侯に、その採るべき行動を命ずる。国家の運命が決定されるのは、もはや帝王の意見によるのではなくて、群衆の意向によるのだ>
<今日、群衆の要求は、ますますはっきりしてきた。そして、それは、ややもすれば現在の社会を徹底的に破壊して、文明の黎明以前のあらゆる人間関係の常態であった、あの原始共産主義へこの社会を引き戻そうとする>
<群衆は、もっぱら破壊的な力をもって、あたかも衰弱した肉体死骸の分解を早めるあの黴菌のように作用する。文明の屋台骨が虫ばまれるとき、群衆がそれを倒してしまう>(『群衆心理』櫻井成夫訳 講談社学術文庫)
労働者が「会社は俺たちのもの」と主張し激しい抗議の声を上げる一方、買収、合併、独占を目指し、ひたすら巨大化する企業、法人は、はっきりと「社会の恐怖」となっていった。1898年から1904年のわずか6年間に、1800社が157社に統合された。
1908年。米国最大の企業AT&Tは広告に次のキャッチコピーを掲げた。
<友人であり隣人>
ゼニカネを食らい巨大化する法人のことを誰も「人間だとは思っていない」からこそ、法人はそう書かざるを得なかったのだ。AT&Tは、モデルではない「実際に社員である」電話交換手や架線工事人をたびたび広告に登場させた。
「でも、彼らを安い賃金でこき使っている経営者はどうなの?」
この問いには、ふたりの息子に見守られながらAT&Tの株券をしげしげと見ている母親の写真で答えようとした。
<公益企業の新しい民主主義であり、人々に直接所有されている――それも誰かひとりによってではなく、全員に管理されている>(AT&Tの別の広告)
1888年10月。トーマス・エジソンは「動く写真」についていの暫定特許請願書を提出した。ル・プランスと同じ時期だが、ル・プランスはその年のうちに特許を取得している。エジソンの書類は「暫定特許」。具体的な技術や材料を示さずに「いや、最初に思いついたのは私だよ」と言うためのだけの請願書だ。
<私は蓄音機が耳になしたことに相当するもの目に対してなす機械に関する研究を行っている。>
<この発明は、間隔を置いて継起する一連の映像を連続的に撮影し><さらには音声の蓄音機への記録と同じやり方に従ってシリンダーまたはプレート上に連続的螺旋的に一連の映像を記録してゆくというものである。>
エジソンが曖昧模糊とした暫定特許出願したまさにそのとき、ル・プランスは、自宅の庭に集う人々、英国リーズ橋を行き交う人々の姿を撮影していた。
それは今も動画サイトで見ることができる。
1888年10月。エジソンの研究室。撮影機、映写機、その試作品すらなかった。何ひとつ。影も形も。
1890年9月16日。ニューヨークでの初の一般向け試写会のために仏リジョン駅を旅立ったオーギュスタン・ル・プランスは消息を絶った。ニューヨーク港で主を待っていたリジー夫人とふたりの子どもは、がっかりして港を後にした。
1891年5月。トーマス・エジソンは、動く写真「キネトスコープ」を新聞記者に見せ、どや顔をしていた。
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映画を発明したのは、トーマス・エジソンではない。エジソンが発明したのは、動画を上から覗き見する「キネトスコープ」。史上初めて、大勢の観客の前で映画を上演したのはフランスのリュミエール兄弟だった。「シネマトグラフ」による試写会が行われたのは1895年7月11日。
エジソンは、「実はエジソンの発明品ではない」電球ビジネスと同じことやった。
リュミエール兄弟の会社を買収したエジソンは、映画産業を独占するために「モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー」を立ち上げた。
直訳すれば「映画特許会社」。映画は娯楽なのに社名に「特許」の文字を挟み込むところにこそ、エジソンの特異性が如実に表れている。
中核は映画製作会社「エジソン・スタジオ」だが、中心人物は、エジソンでもなければ、映画監督でも出演者でもない。最も活発に活動したのは、弁護士と探偵だった。
エジソンは、映画を製作するすべての米企業に対し、裁判を開始した。
法人vsユダヤ人、巨大化する独占企業vs映画(物語)の戦争が、「ブロードウェイでもシカゴでもない」聖地・ハリウッドを生み出した。
1902年。エジソンが、全米の映画会社に送りつけた警告書は、すべての映画ファンに記憶されていい。
<もし、エジソンの機材や映画のみを使用しなかった場合、エジソンの特許を侵害する映画製作を幇助したとみなし、法廷に訴えることになる。>
「ワーナー・ブラザース」4兄弟は、ポーランドからのユダヤ人移民労働者。父は靴職人。長兄のハリーは映写技師となり、歌手である末っ子のジャックのショーに映画上映を組み込んで各地を巡業した。1904年。映画製作・配給を開始すると、4年後にエジソンから訴えられ、映画製作をやめてしまった。
『カサブランカ』『エデンの東』『俺たちに明日はない』など数々の名画、衝撃作を生み出すワーナーのスタジオが復活するのは1918年。ワーナー兄弟が失意のどん底にいた約10年間、エジソンは映画産業を独占したが、「エジソン・スタジオ」は、名画、傑作と呼べる映画を一本も生み出していない。
法人は、文化を殺した。
法人は、貧しい人々のささやかな慰めを奪った。
「エジソン映画」を語れる人がいたらコメントをください。
それまでの映画の常識を完膚なきまでに叩き壊した『俺たちに明日はない』公開から50年。
「世界で一番美しい退屈した女」を演じたフェイ・ダナウェイが、アカデミー賞89年の歴史を再び完膚なきまでにぶっ壊した。
ウォーレン・ビーティー「最優秀作品賞は……(おろ?)」
ビーティーはダナウェイを見た。
フェイ・ダナウェイ「ラ・ラ・ランドだよ!(76歳の天真爛漫)」
私はやっぱりこの女優が一番好きだ。
ゴジラをこよなく愛する私だが、彼女の破壊力は10倍以上。
「もうすぐ終わる世界」には、常にフェイ・ダナウェイがいる。高笑いしている。
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一度だけですがお会いできたことが私の宝物。
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ふ・ざ・け・る・な!!の1万乗!!
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