デザインの体幹 Vol1&2 のスライドをシェア

5月から「デザインの体幹」というトークセッションイベントをやってます。
前にこの記事で紹介した「デザインの深い森」というイベントの続編です。

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▲昨夜の「Vol2.物語編集力」のスライドの一部。物語編集力を実践で示すためにつくった15世紀東西の歴史年表

「デザインのための4つの領域を鍛える連続トーク講座」と銘打って、ファシリテーション/物語編集/リフレーミング/構想の4つのテーマを1回ずつ、僕と千葉工業大学の山崎先生にプラス、テーマに応じたゲストを迎えてトークを行うイベントです。

昨日は、Vol2.ということで「物語編集力」をテーマに話しましたが、結構、ディープでカオスで参加者の頭を悩ませるトークが繰り広げられました。
ゲストの方を含めて3人それぞれが三者三様の形でテーマを噛み砕いて話すので、これが「物語編集」だとか、物語編集とデザインの関係が決して一義的に語られることなどは一切なく、イベント設計者の企図どおり、とっても理解がむずかしく頭をひねられる会になってるのがよいなと思います。

今回は、その一部として僕のパートで話したスライドとVol1.の「ファシリテーション力」の際の資料もあわせてシェアします。

Vol.2 物語編集力

まずは順番は逆ですが、昨晩開催した「Vol2.物語編集力」のスライドからシェア。
前の「デザインの深い森」シリーズから一貫して、有名な絵画から話をはじめているのですが、今回ははじめて日本の美術作品、雪舟の「天橋立図」から話をはじめてみました。



「物語編集」で、なぜ雪舟?と思うのは当然で、今回は、物語編集力というものがどうやれば身につくか?ではなく、物語編集とはどういうことか?を感じてもらうために、プレゼンで実践的に事例を示してみようという思いで、あえて一見無関係なもの同士である、雪舟から中世ヨーロッパの大聖人にして偉大な神学者であるトマス・アクィナス、さらには『イノベーションのジレンマ』で知られるクレイトン・クリステンセンまでをひとつなぎにしてみせる編集の結果生まれる物語をお話ししたのでした。

「一見関係なさそうな事柄を結びつける思考」が大事だと言ったのは、ほかならぬクレイトン・クリステンセンで、それが何に必要かというとイノベーションに必要だと言ったわけですが、この「一見関係なさそうな事柄を結びつける思考」こそが編集の力です。
そして、デザインがいまイノベーションに必要なものとして言われますが、もし本当にそうだとしたら、僕はそれが「デザインは編集の1つの特殊形態だから」だと思っています。「一見関係なさそうな事柄を結びつける思考」を視覚技術をうまく使って行うのがデザインの1つの側面です。この側面を使ってこそ、デザインのイノベーション創出の力になる。

じゃあ、そういうデザイン的な編集思考が生まれてきたのがいつからで、どういう過程で生まれてきたか?というのが昨日の話のテーマであり、前シリーズ「デザインの深い森」から通じて、ずっと僕が話し続けているテーマだったりします。

そのあたりの関係性を示したのが、冒頭の年表に続く時代のこの年表だったりします。

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▲スライドの34枚目に登場する16-20世紀のざっくりした年表。登場する要素は「デザインの深い森」や前回の講演で言及したもの

前シリーズの「デザインの深い森」であつかった時代、そして、1つ前のVol.1 ファシリテーション力で紹介した時代の範囲がこの年表でわかると思います。
特に、ヴェルサイユ宮殿、大英博物館、水晶宮とボン・マルシェといった流れなどは、情報のデザインがいかに政治から学問、そして経済や市場のしくみをつくるのに貢献し、それがどのような順番で行われたかを理解するのに最高にわかりやすい布置となっていると思うのですが、ここに気づく人はどれだけいるか?

Vol.1 ファシリテーション力

そして、ファシリテーションをテーマに話したのが、前回「デザインの体幹」の1回目の講演でした。
「ファシリテーションには予測力が必要」と話したその回では、同時に予測力を高めるためにはやっぱり予測を行うための素材として必要な知識をどれだけ持っているか?だといったことも話しました。



そして、予測を行うための知識はある程度、パターン化された情報になっている必要があるのですが、それまで比較的個々人がそれぞれ行っていたパターン化された知の生成というものを、美術や文学などの芸術分野で一気に社会共通のパターン化=紋切り型、類型の生成作業を通じて一気に行ったのが19世紀後半の自然主義・写実主義の時代だったことを伝えました。別の言い方をすれば、最初の大衆化の時代であったともいえます。

そのことはすでに「19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ」という記事にもまとめていて、そこでも紹介しているように、19世紀後期のイギリスの画家ウィリアム・フリスなどは代表的な作品である『ダービーの日』で、ダービーに集まった人々に紋切り型のポーズをさせることで、まさにパターン化された群衆像を提示してたりします。

結局、これって現代における「やらせ映像」と変わらないわけで、いかに「それっぽいつくりもの」をリアルに感じさせるか?ということでもあるのですが、逆に言うと、19世紀の社会的パターン化の時代を経て、パターン的な知はメディアや教育を通じて提供されるものということにすっかり慣れきってしまい、個々人でパターン知生成が不得意になった僕らにすれば、それっぽいつくりものしかリアルに感じられない、わかりやすいと思えなくなっているということでもあると思うんです。

"ウソ"も”欺く”も、"曖昧さ"も"わかりにくさ"も本当は愛すべき存在

このあたりは昨日のセッションのなかでゲストの大川さんがいった「物語はつくりもの、ウソ」という話とつなげるとおもしろいんですが、つくりものだからこそ物語は共感を呼ぶのだということでもあると思うんです。

僕は「デザインの深い森」をはじめたとき、「詐術としてのデザイン」(by ヴィレム・フルッサー)という話をしています。これも同じです。わかりやすく伝えるため、物事をうまくいくようにするための工夫としてのデザインは必然的に何かを欺く必要があるんです。

でも、どうしても"ウソ"とか”欺く”という言葉を使うと、必要以上にネガティブに感じすぎる人が多いんです。
そして、同時に"曖昧さ"や"わかりにくさ"などもネガティヴなものとしてのみ捉えたりする。
これっておかしいんだということに気づかない。

ウソは何に対してウソなのか、欺きは何を欺いているのか? そこをちゃんと自分で考えてみる必要がある。

それは実は、自然だとか、ありのままだとかいったものだったりする。自然に対するウソ、欺き。
それは言い換えれば単に人工ということに過ぎなかったりもします。あるいは、ありのままに対する欺きというのは、脚色やメリハリをつけて、わかりやすく伝わるように話を工夫することだったりします。

だとしたら、何故、そうしたわかりやすさを作る人工の工夫であるウソや欺きを、わかりにくさや曖昧さと同時に嫌うのか? どっちがほしいの?ということになるはずなんです。

そして、わかりやすく曖昧でないものは、すべて人工的で、不自然なものといってもいいんです。
というか、物事を知る、理解する思考という作業が、わかりにくい自然や曖昧なありのままのものを、部分的に切り取って抽象化する作業、すなわち編集的思考にほかならないのですから。その編集的思考法をうまく予想に活かして、自分が目の前の出来事をよくするために何をすべきかを考えることがファシリテーションに役立つ。

そこを捉えると、"ウソ"も”欺く”も、"曖昧さ"も"わかりにくさ"も、決して、端から敵視するようなネガティブなものではなく、上手につきあっていくとよい愛しい要素だったりすることに気づくはずです。

といったような、普通はどこでも指摘されないことを、遠回りをしながらでも伝えていける会にしていきたいな、と思います。まさに常識をリフレーミングするイベント。そして、1ヶ月後の第3回は「リフレーミング力」だったりします。

興味のある方はぜひ遊びに来てください。
デザインの体幹http://www.opencu.com/2015/04/core-for-design/

 

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