その19世紀の半ば以降に生まれたのが、ショールームや百貨店などの販売システムであったことは、前々回の「見せる空間から参加する空間へ」という記事で紹介しています。
世界最古の百貨店といわれるボン・マルシェがいまにつながる百貨店のシステムを確立したのは1852年。それに先立ち、世界最初期のショールームというべき、鉄骨とガラスで作られた巨大な建造物である「水晶宮」で知られる世界最初の万国博覧会であるロンドン万博が開かれたのが1851年です。
▲19世紀半ばに世界ではじめて百貨店システムを誕生させ、1887年にギュスターヴ・エッフェルらにより店舗を拡張したボン・マルシェの現在の店内の様子
この様々な商品を魅力的に並べて販売するシステムが生まれ、同時に、わかりやすいリアリティをもったピクチャレスクな表現によって都市で暮らす大衆の生活を絵画や小説が描きはじめた19世紀の半ば以降、もう1つ、この時代の芸術家に特徴的な性質がありました。
それが何かといえば、異様なまでの細部へのこだわりです。
「細部の宝庫ではあるが」とヘンリー・ジェイムズはジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』について言っているー「しかし、それは無頓着な全体である」。同じことがヴィクトリア朝の全体について言えるかもしれない。ヴィクトリア朝の芸術作品はしばしば、その時代の室内と同様、できるかぎりぎゅう詰めにすべき入れ物であるように思われる。ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋 』
前回の「19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ」に引き続き、19世紀の写実主義や自然主義の芸術が現在にもたらした影響のようなものについて書こうとしているわけですが、この「細部へのこだわり、全体への無頓着」という話も、非常に現代につながる19世紀の発明であるように感じます。
その細部へのこだわりが、全体の統一や大きな問題の解決への意識を捨て去る口実であるかのように、19世紀後半の写実主義・自然主義の芸術家は、絵画においても文学においても徹底して緻密にディテールを描きこむことへの執着をみせます。結果、できあがるのは、全体の調和を見事に破壊してしまうくらい、異様な執着をもって細部が描きこまれた作品だったりします。
まずは、そんな作品の例をいくつかみていくことから話を進めてみたいと思います。
「自然をありのままに再現すべき」
はじめに紹介するのは、19世紀のイギリスの画家で、ジョン・エヴァレット・ミレーやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティらとともにラファエル前派の一員に数えられるウィリアム・ホルマン・ハントです。▲ウィリアム・ホルマン・ハント「死の影」(1870年)
両腕を広げて立つキリストの背後に、十字架を思わせる影が浮かんでいる様が、タイトル通りの作品ですが、残念ながら、この絵で目をひくのは、そんなキリスト自身でも、十字架を思わせる影でもなく、その周囲に散らばる様々な品物です。
部屋の上部の壁には様々な大工道具がかかっているし、キリストの足元にも大きなのこぎりが見えます。そして、その下に飾り房のついた赤い帯がみえますが、これはシリアのベドウィン族が締めるアガールという帯だそうです。実は先ののこぎりも昔のエジプト絵画から採られたデザインだし、壁の大工道具もベツレヘムで購入した大昔の大工コレクションをもとに描いているといいます。
ハントをはじめとするラファエル前派は、同時代の美術批評家であるジョン・ラスキンの「自然をありのままに再現すべき」という考えに大きな影響を受けていました。「自然をありのままに」というのが、絵画のみならず、この時代の芸術の特徴だということは前回も述べました。まさに自然(科学)主義・写実主義です。
そうした影響からハントは、聖書などをテーマにした作品を描くためには現場を見なくては描くことができないと考え、複数回にわたってパレスチナを訪れていたといいます。「死の影」における大工道具などの緻密なディテールの描写もまさにそうした考えを反映したものであるのがわかります。
グロテスクなほど不恰好で芝居がかって
さて、この異様なまでのディテールへのこだわり、写実への執着をみせるハントの「死の影」に対して、『ヴィクトリア朝の宝部屋 』のなかで、ピーター・コンラッドは、次のように書いています。ヴィクトリア朝の画家たちはどうやら、細部を描くのに骨を折れば、それで、自分たちにはもっと大きな問題において真実を捨て去る権利ができると思っているようだ。背景の事物を一つ一つ丹念に描いたのだから、前景には、「死の影」の場合のようにグロテスクなほど不恰好で芝居がかった人物や、欺瞞的なまでに感傷的な場面を描いてもかまわないというわけだピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋 』
まさに「グロテスクなほど不恰好で芝居がかった人物」というとおり、十字架の形をした影を描くという意図はわかるとはいえ、この絵におけるキリストの姿はいったいなんでしょう? 影を十字架の形にするため以外に、この姿勢をとる意図がわかりません。
前回の「19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ」という記事中でも紹介したヴィクトリア朝期の画家ウィリアム・フリスの「ダービーの日」や「鉄道駅」などの作品でも、描かれた人々のぎこちないポーズが目立ちましたが、このハントの作品はそれ以上に、画家がポーズのぎこちなさに対して無頓着であるのを感じます。
それはおなじハントの「良心の目覚め」という作品にもいえることです。
▲ウィリアム・ホルマン・ハント「良心の目覚め」(1853年)
だらしなく椅子に背をもたせたヒゲの紳士と、いま、その膝の上から立ち上がろうとしている愛人である女性(女性が愛人であるのは結婚指輪のあるはずの薬指以外のすべてに指輪がはまっていることで示される)。「良心の目覚め」というタイトルどおり、彼女はいま、何らかの啓示を受けたのか、窓の外をみながら立ち上がろうとしている(彼女が見ている先が窓の外であり、そこには決して人目に見える何かが存在しないのは、彼女たちの背後の鏡に映った窓の外の景色からわかる。あるいは、彼女が見ているのは、彼女たちの様子を窓の外から覗き見している僕らを含めた絵の鑑賞者かもしれない)。
このなんともぎこちない2人のカップルを描いた絵も、やはりディテールが執拗に描きこまれています。床の上に脱ぎ捨てられた手袋、からまった糸、丸められた未装丁の本、新しそうな家具の数々やもちろん鏡に映った外の景色。紳士の座る椅子の下で、猫が羽の折れた鳥を弄んでいるのは、2人のカップルの関係を象徴しているのでしょう。
ハントはこの絵を描くために、わざわざ愛人街に部屋を借りて制作したといいます。ディテールにこだわる、ハントはありのままを忠実に描くことを目指したのでしょう。ただ、「ありのままに」描かれるのは、あくまでディテールであって、全体はあくまでぎこちなく不恰好に芝居がかった状態で絵の上に置かれます。
過去を完全にわが物とする過程で、過去が現代と違うということを忘れる
最初に引用した文中で、ヘンリー・ジェイムズが「細部の宝庫ではあるが」と評したのが、ジョージ・エリオットの小説『ミドルマーチ』だったように、細部にこだわる傾向はこれまで例に挙げたようなハントや前回のウィリアム・フリスのような画家の描く絵画だけの特徴ではなく、小説のような文学にも生じていた特徴でした。▲ジョージ・エリオット(1819-1880)の肖像
小説家もヴィクトリア朝の装飾家と同様、細部を通して過去を把握する。そして、装飾家たちがそのような細部を自由に現代の事物に応用できると感じているのと同じように、小説家たちも過去を完全にわが物とする過程で、過去が現代と違うということをすっかり忘れてしまう。ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋 』
ハントの「死の影」が過去の道具を写実的に精緻に描けば描くほど、それは過去の歴史を描いた絵であることをどんどん離れ、現代の芝居じみたポーズと舞台セットにしか見えなくなるのと同様に、小説でもディテールを追いかけすぎることで「過去が現代と違う」ことが忘れられて、過去を描いた小説があからさまに現代風のものになってしまうという失敗をおかしていたのです。
リアルに描くことの方法論的こだわり
ディテールにこだわればこだわるほど、全体は見失われ、ぎこちなく機能不全をおこした状態が提示される。それがあちこちで起こっていたのが19世紀後半の自然主義・写実主義の芸術でした。もちろん、それはリアルに書こうとすれば必ず陥る結果ではなく、あくまで、この時期において起きてしまった結果なのです。それについてワイリー・サイファーが『文学とテクノロジー』のなかでこう書いています。
19世紀リアリズムとそれに先行するリアリズムの違いは、まさに前者が方法論的ーつまりイデオロギー的ーになる傾向が強かったというところにある。事実、イデオロギーや理論は芸術における19世紀的方法を常に汚染していたのであり、芸術は技術主義的なものの餌食となったのである。すべての方法は計画をひき出した。そして、芸術とテクノロジーの間の(おそらくまた科学とテクノロジーの間の)根本的な差異は、芸術も科学もついに計画することはできないものだというところにあるのだ。ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』
ラスキンが「自然をありのままに再現すべき」と、それが義務であるかのように語ってしまっていたように、当時の芸術の領域ではあまりにテクノロジーにひきつけられてしまったがゆえに、リアルに描くことがイデオロギーとなってしまっていたのです。その結果、全体がシステム不全を起こす作品ばかりが生まれてしまうという、本来、彼らが望んだもの=計画とは正反対の自体が生じたのでしょう。
▲ハントとおなじラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレーの「盲目の少女」(1856年)
「すべての方法は計画をひき出した」。しかし、「芸術も科学もついに計画することはできないもの」だというところに、そもそもの矛盾があるのですから、うまくいくはずはないのでした。
イデオロギーの残滓としての「木を見て森を見ないモノの見方」
その後、20世紀に入ると、芸術はこのイデオロギーから離れていきます。プロジェクトの失敗に気がついたのです。しかし、細部にこだわるという方法論は、芸術以外の分野では20世紀以降も残ってしまいます。芸術のプロジェクトにおける計画の失敗の記憶や反省は残らないまま、全体を顧みずにディテールにこだわるという方法だけが残ってしまった面があります。それが所謂「縦割り」だったり、さまざまな専門分野間の分断だったり、木を見て森を見ないモノの見方だったりといった形で現在に負の遺産として残っています。
もちろん、それを自然主義や写実主義の19世紀後半の芸術家のせいにしても意味はありません。むしろ、彼らが自らの実験的な活動を通じて、その方向性が失敗に終わることを示したのにもかかわらず、そこから学ばない無知な後世の僕らのほうに問題があるわけです。
芸術は一種のダイアローグであるーセザンヌがサン・ヴィクトワール山と交し、キーツがギリシャ壷と交した底の対話なのだ。19世紀の科学的モノローグのなかでは、人間の声は沈黙していた。物だけがそこにあり、それらのものを観察することは喜びなき行為であった。科学者は参加することができなかった。ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』
19世紀芸術は、このセザンヌやキーツのようなモノといっしょになって、その場に自分も参加して行う対話をすることをせず、ひたすらモノローグに徹してしまい、全体を見失いました。それが失敗だっからこそ、芸術の分野は参加型の対話をその後、模索しはじめます。
「見せる空間から参加する空間へ」でもすこし触れたように、現在が「参加」という概念にこだわろうとするのも、やはり「縦割り」や「専門分野間の分断」や「森を見ない狭い視野」の失敗にようやく気付いて、そこから抜け出そうとしているからなのでしょう。この脱出をよりうまく進めていくためにも、19世紀の芸術分野で何が起こっていたかを知ることは有益なことだと思います。
そんな思いを抱きながら、あらためて読み直してみようと思って買ったフローベルの『ボヴァリー夫人』や『聖アントワヌの誘惑』を読み始めてみようかと思います。
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