何かを「わかる」ということが、その何かが置かれた文脈を理解することなのだとしたら、わかりやすい文脈ごと提示してリアリティを感じさせる表現というのは、何かを「わかりやすく」伝えるための非常に有益な方法の1つといえるでしょう。
すーっとリアリティをもって受け入れられるということは、そのこと自体、そこに表現されているものが、それを受けとる人にとって、わかりやすいものになっているという証拠だといえるのかもしれません。
▲1875年に竣工のパリ・オペラ座(ガルニエ宮)。まさに19世紀後半のパリ大改造で建てられた建築物
その方法の模索…、
ぱっと文脈を読みとることができるリアリティある表現によって大衆が「わかる」ものを提示する方法…、
それが大々的に模索されたのが19世紀後半の自然主義・写実主義の時代だったように思います。
その中心にあったのが、ピクチャレスクでした。
17-18世紀を通じて、自然や遠方の憧れの土地などを見栄えのする絵のように表現することを通じて、身近に、そして、あたかもそれを自分が所有しているように感じさせるピクチャレスクという表現方法が多くの芸術家たちによって磨かれてきました。と同時に、表現を受けとる側の市民のほうもピクチャレスクな表現を読み解く力を身につけてきました。
そのピクチャレスクの対象が、自然や遠方の地から、より身近な都市の日常の光景に向かったのが、19世紀の自然主義・写実主義の時代でした。そして、「わかる」ということのあり方が大きく変わり始めたのが、その時でした。
「田舎のピクチャレスク」から「都市のピクチャレスク」へ
身近な都市の日常の光景に向かうピクチャレスク。その代表的な例を、フランスの著名な挿絵画家であるギュスターブ・ドレが挿絵を描き、ブランチャード・ジェロルドが文を担当した『ロンドン』という本にみることができます。
ドレは下図の版画のような煙をはく工場の煙突が乱立する様子や、スラム化した界隈の路地の光景など、決して美しいとはいえないロンドンの光景を版画にしました。
▲ギュスターブ・ドレ画、ブランチャード・ジェロルド筆の『ロンドン』より
僕が今回書いていることを学んだ本のなかの1冊に、19世紀後半のヴィクトリア朝の時代の芸術作品を論じた、ピーター・コンラッドの『ヴィクトリア朝の宝部屋 』があります。そのコンラッドの本のなかに、まさに次のような記述があります。
ピクチャレスクは現実を追認するための1つの方法である。それは荒涼たる風景を美しく見せ、ごつごつした光景を心地よい眺めに変えてしまう。ピクチャレスクは田舎の風景の鑑賞から始まったものだが、ジェラルドとドレはそれを都市にあてはめる。ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋 』
ここでピーター・コンラッドが指摘しているように、ピクチャレスクはそもそも17-18世紀において「荒涼たる風景」や「ごつごつした光景」といった人を拒絶するような「現実を追認するための1つの方法」として用いられていたものでした。人を拒絶する自然を馴染みやすい形で絵に描きなおすことで、人と自然のあいだに認知のための接点をつくる方法がピクチャレスクだったといえます。
それは荒々しい自然を、馴染みのある「よい眺め」に変換する行為でした。
馴染めないからすこしでも馴染みやすくする。理解できないから理解しやすくする。ピクチャレスクが「荒涼たる風景」や「ごつごつした光景」を対象にしたのはそうした理由からでした。
言い換えれば、価値があるかどうかわからないところに、価値をつくりだす作業。それがピクチャレスクだったと言えます。
ところが、19世紀の後半になると、人が日常的に接している「都市」をあらためて「よい眺めに変え」るために用いられるようになったのです。
どうでしょう? ちょっと変な感じがしませんか?
馴染みのない、理解を拒絶する対象に対して行われていたピクチャレスクという絵になる表現を用いた理解促進が、なぜか人々にとって馴染みも理解もそれなりにあるはずの、日常、人々が生きているはずの都市という対象に適用されるのですから。何より、そこに描かれているのは、彼ら自身の日々の生活の光景であるわけですから、それを「よい眺め」として描きなおすこととはいったどういう意味をもつのだろうか?と。
ヤラセの起源としてのピクチャレスク
こうした観点にたつと、ドレらによる「都市」のピクチャレスクのもつ意味は、非常に興味深いものに見えてきます。それまで遠くにあって馴染みにくいものを認識しやすくする手法であったピクチャレスクを、身近にあって、それほど認識しづらいわけではない都市の日常という対象に援用するということは、いってみれば、本来なら見る人ごとに異なる都市の日常の風景の解釈の可能性を、ある意味ではわかりやすい画一的なイメージに固定してしまう形で作用したのだろうと考えられるからです。
名所を撮影した絵葉書の写真が、実際の風景以上に、その名所の固定したイメージとして人々の意識に強く焼きついてしまうかのように、ピクチャレスクに「よい眺め」として描かれた都市は、それまでの多様なイメージを徐々に失って画一的なイメージに収束していったのではないでしょうか。つまり、都市をピクチャレスクに描いたイメージが増えるほどに、都市に暮らす人々は都市に暮らしながら、自分自身の目で都市の光景を見ることをしなくなってしまったのではないか。まるで僕らがインターネットなどから入ってくる情報ばかりを信じて、自分自信の観察や経験を通じて知識を得ることを怠ってしまうかのように。
こうした観点にたつと、ドレが挿絵を描いた『ロンドン』で、文章を担当したブランチャード・ジェロルドの次のような言葉はとても興味深い響きをもちます。ピクチャレスクという価値観からは、貧しいイギリスの群衆は絵にならないというのですが、その理由がなんとも面白いんです。
彼らの貧しさにはピクチャレスクなものは何ひとつない。イギリスの群衆は世界中で最も醜いと言ってよいかもしれない。なぜなら、貧しい人々は金持ちの衣装を真似るだけだからである。ブランチャード・ジェロルドの言葉(『ヴィクトリア朝の宝部屋 』より引用)
わかりますか? ブランチャード・ジェロルドはイギリスの群衆が貧しすぎるから絵にならないと言っているのではないんですね。貧しいながらも、それなりに金持ちの衣装を真似られてしまうから絵にならないと言っているんです。
つまり、金持ちの衣装を真似た群衆は、群衆らしく見えないから絵にならないということです。労働者は労働者らしく、農民は農民らしい格好をしているから絵になる。ピクチャレスクになる。
実際、この時代の画家は、農村の風景を描くのに、農民らしい人がなかなか見つからないと嘆いたり、見つからなかったあげく、自分で用意した「農民らしい衣装」を着せて描いたりしていたりということもあったそうです。いまでいう「ヤラセ」ですよね。まさに、この時代の「絵になる」という感覚は、現代のそれに通じるものがあるし、正確には、現代のそうした感覚が芽生えた時期こそ、この19世紀後半の時代であったということができると思います。
リアリティー=紋切り型
絵になる光景を描いた絵を描く画家の例としては、イギリスのヴィクトリア朝期の画家ウィリアム・フリスがいます。例えば、ダービーの日に集った群衆の様子を描いた以下のような絵があります。
▲ウィリアム・フリス『ダービーの日』(1856-58年)
ヴィクトリア女王の王女の一人が「ママ、こんなに大勢の人、これまで見たことないわ」と言ったのに対して、ヴィクトリア女王が「ばかね、これ以上の人をしょっちゅうみてるじゃない」と答えたところ、王女は「でも、絵の中ではないわ」と言ったと伝えられる絵です。それほど、フリスのこの絵のように、たくさんの人々を描いた絵というのは新しさがあったということです。
時代は、自然主義・写実主義の時代でした。ありのままを正確に描き出そうとする流れが生まれてきていたわけです。フリスの絵もまさにそうした時代の典型的なコンセプトを共有しています。
ただ、その「ありのままの正確に」描かれた絵はすでに見たように、絵になる光景を描いた絵でなくてはならなかったし、実際の光景のほうが「ありのままを正確に」描いた風に見えないのであれば「ヤラセ」という演出で実際の光景のほうをありのままに見えるように変えて描かれたものでした。
フリスの絵をもう一度よく見てください(画像クリックで拡大して、よーく見て!)。
誰もがぎこちないポーズをとらされているのに気づきます。つまり、絵になるポーズをさせられたのち、絵にされていることに気がつきます。17世紀頃からはじまったピクチャレスクの流れが、大衆を対象になるまでになったとき、絵になる飼いならされた人生が描かれるようになったわけです。
もう1枚、フリスの絵をみてみましょう。
▲ウィリアム・フリス『鉄道駅』(1866年)
続けてみると、一見ありのままの鉄道駅に集う人々の様子を描いたように思える絵が、下手な役者たちが紋切り型のポーズをとらされたところを描いた絵のようにみえてきます。
でも、それが19世紀後半の芸術の方向性だったのです。
その象徴的な作品といえるのが、『ボヴァリー夫人』などの小説で知られるギュスターヴ・フローベルが書いた、その名も『紋切型辞典』です。
紋切り型に関する辞典。
ようは人々が認識する表象と意味という因果関係のパターン、つまり、リアリティのある「よい眺め」を集めたものです(実際は「アイスクリーム」の説明として「食べるときわめて危険」と書かれていたり、「オリーヴ油」は「どれもまずい。一樽のオリーブ油を送ってくれるマルセイユの友人を持つべし」などと、気の利いた説明がなされている)。
フローベルがこの辞典を作成した意図は、こうしたパターンを組み合わせれば、誰もが小説は書けるということを示したかったからです。こうしたパターンの蓄積とそれを自動的に組み合わせることができる仕組みがあれば、誰でも、いや機械的にも小説は書ける、と。
同じようにフリスの絵の登場人物がバラバラにパターン化され、シールやスタンプといった形で提供されていれば、誰もが「ダービーの日」の光景や「鉄道駅」のストーリーを描き出せる。そうした方向性をつよく出していたのが、自然主義や写実主義の時代の芸術だったわけです。
自然科学主義という方法
もう1つ指摘しておくと、この自然主義や写実主義における「ありのままの正確に」ということのなかには、実は、自然主義がより正確にいえば自然科学主義だったように、芸術作品における表現も科学と同じように客観的で正確でなくてはいけないといった考えが反映されていたりもするんですね。だから、紋切り型のように、誰が扱っても同じ結果が出るような客観性をもつことが価値をもったわけです。
以前、書評記事という形で、ワイリー・サイファーの『文学とテクノロジー』という本を紹介しましたが、まさにその本では19世紀の文学をはじめとする芸術と、科学や科学技術との強い結びつきが考察されていました。
その本にこんな記述があります。
バルザックはキュヴィエ、ビュフォン、その他の生物学者や植物学者によって整えられた種の分類を適用することによって、自らの描く世界を扱うことができると考えた。ゾラは医学におけるクロード・ベルナールの方法を呼び出した。フローベルは自らの小説に「科学の正確さ」を与えたいと望み、ド・モーパッサンは、小説家は常に正確な言葉を見いださねばならないと考えていたのである。リアリストたちはロマン主義的「屑鉄」(過去の神話)を捨て去ろうと決意していたが、彼らが共通してもっていた最たるものは、科学の世界で用いられるような方法の意識であった。ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』
先の『紋切型辞典』のフローベルをはじめ、バルザック、ゾラ、モーパッサンなど19世紀を代表するそうそうたる作家たちがリストアップされています。そうした作家がみな共通してもっていた意識が科学的な方法への意識だったわけです。「ありのままを正確に」、誰が書いても同じような結果が生まれるように。
そのために、彼らは科学が自然を抽象化して、客観的に扱えるようにデータ化してしまうように、ピクチャレスクにありのままに感じてもらえるよう描けるように紋切り型化することを望んだわけです。
19世紀芸術の残骸
先に、そうした行為を現代の「ヤラセ」と関連づけてみました。あるいは、パターン化された紋切り型の風景=情報を提示されることで自ら経験しなくてもあたかも自分が対象に触れて学んだかのように受け取ってしまうがちな現代の僕らと関連づけてみました。でも、たぶん、結果は似ているのかもしれないのですが、いまの僕らの「ヤラセ」や「情報の鵜呑み」と、19世紀後半の自然主義・写実主義では、そもそもの意識においてはまったく違うんだろうなとも思うんです。
彼らの意図はあくまで、自然科学と同じような客観性を芸術の分野でも確立してみようとしたということだったはずです。それはある意味、美しく価値あるものを生み出す活動を、属人的な領域から解放しようという試みだったと捉えることができるはずです。
結局、彼らはその試みに失敗した。意図を失った紋切り型やヤラセという技法だけが残った。そして、それがいまも世にはびこっている。その残骸だけがはびこってしまうのも、当初の芸術家の意図に対して現代の僕らがあまりに無知すぎるからなんでしょう。
そんなことを思うと、過去に対する無知とか、自分たちが普通に使っている手法・技法への無知って、おそろしいなと思います。僕らは無知であるがゆえに、まったくもって自分たちが欲しいと思わないものを作ってしまうことになるということなんでしょう。
そういう無知を1つ1つ気づいていくことを怠らないようにしたいなと思います。
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