育児

自閉症や知的障害について思ったこと

今回のエントリーは、素人が今までの経験から感じたことをつらつらと書き連ねたものです。すべての意見が完全オリジナルではなく、ツイッターなどのネットからパクったものもありますが、もう誰の発言だったかも追いかけられないので、「自分のがパクられてる」と感じられた方はご遠慮なくつっこみ願います。それから、思ったことをつらつら書いているだけで、何か解決策を提示しているわけでもないのですが、そちらについてはつっこまないでいてくれるとありがたいです。

プロフィールにも書いてあるし、すでに知っている人も多いと思うが、うちの長女は重度の知的障害を伴う自閉症である。重度の知的障害であるため、彼女の欲していること、うれしいことなどがわかりにくいためかもしれないが、一般に言われているような強いこだわりや生活のリズムやスケジュールが変わることに対する抵抗もあまり感じられないので、本当に自閉症なのか、と思うことも時々ある。しかし、欲しいものがあったときに他人の手を引いて誘導しようとするクレーン現象や視線を合わせることを嫌う、ロッキング(上体を揺らす)などの自閉症に特徴的な行動もあるため、おそらく自閉症だとは思われるのだが。

うちの長女の場合、黙って座っていれば知的障害があるとは思えない落ち着いた雰囲気ではある。しかし、たいていすぐに動き出して奇声を発する、所かまわずロッキングする、あらぬ方向を見ながら手首から先を激しく振る、など近くにいる人がぎょっとした顔でこちらを見るようなことをしでかす。正直言って、静かにしなければならないところには連れて行けないし、大勢の人がいるところでは非常に気を使う。しかし、逆に言えばはっきり知的障害者だとわかるため、特に説明は不要なのは気が楽な点である。往来でも大概の人は見て見ぬ振りをしてくれる。手間はかかるが、割り切りはしやすい。

なので、境界線上の人達や高機能自閉症などの人達は逆にしんどいのだろうな、と思う。話せるのに、コミュニケーションがとりづらい、他人の気持ちを汲むことができにくい、など変人と見られたりすることもあるだろう。療育手帳などを交付される人はまだそれを使えば説明できなくはないが、それでも理解を得るのはかなり面倒だと思うし、かなり消耗する作業だと思う。

そうやって、養護学校などでいろんなパターンの、そしていろんな段階の自閉症や知的障害者を見ていると、そういうものって単に突出した個性なのだろうなと思う(いまさら言うな、と多数の方からつっこまれそうだが)。私自身は一応「健常者」の範疇にカテゴライズされているが、ものの感じ方、考え方を周りの人間と比べて「俺はおかしいんじゃないか」と思うことも多々ある。周りの人の感じ方の平均的なもの(と自分が感じる)と自分のそれに結構大きな距離を感じることもあるのだ。考え方についてはこれまで歩んできた人生が凝縮されたものともともと持っていたものが融合したものかと思うが、感じるということについてはもともと持っていた性質の方が影響が大きいように思う。怖いと感じる、楽しいと感じる、好ましく感じる、それをそのまま全部表に出していたのでは迷惑極まるので抑えるべきところは「理性」で抑えているが、基本的に「感じてしまう」ことはどうしようもないだろう。その個性が今の社会デザインに合わなければ「障害」とされてしまうのではないだろうか。

もちろん、そういった社会デザインというものはより多くの人が暮らしやすいように設計されている(少なくともそれが目指されているはず)。ただ、今の日本では「例外である障害者」に対応できる部分がまだまだ足りないのだろう。「健常者」なら何とか自分を社会に適応させて生きていけるが、「障害者」はそのままでは生きていきづらい。うちの長女のようなはっきり障害者とカテゴライズされるとそれなりに社会が対応してきてくれるようになってきたが、境界線上で、特にぎりぎり「健常者」にされてしまう人は社会の対応や他人からの理解の難しさなどでより生きづらい状態になっていると思う。

ただ、社会デザインはより多くの人に合わせてあるというだけで、それが理想なのかどうかはわからない。今の平均的人間像(なんてものがあるのかは置いといて)自体が正しいものかどうか、というより「正しい」という概念が存在するかどうかもわからない。いや、多分ないのだろう。人間の脳がたまたまこういうように発達したというだけで、それに合わせて社会も発達してきたというだけではないのか。

逆に言うと、「健常者」の範囲内での個性というのも、社会に適応できる範囲内での発達のバランスの問題なのではないか。ほとんどの人が気づいているように、障害者と健常者ははっきり別のものとして分かれているわけではなくて、グラデーションのように連続している。そのバランスが許容(という言い方は適切ではないかもしれない)できる範囲をはみ出ているかどうかの違いでしかない。

そういった「許容」を社会全体で柔軟に運用して、すべての人が生き易い世の中を実現するのは、「完璧な人」や「完璧な社会」を定義することがおそらく不可能な以上、無理なのではないかと思えるようになって来た。しかし、実情に合わせてよりよい方向へ少しずつ変えていくということは出来ると思う。ごつごつの岩を少しずつ角を削っていけば、いずれ球に近づいていくように、完全な球になり得なくてもそれを目指していくことはあきらめないでいたいと思う。

このように思えるようになったのも、近年のネットでの交流によるところが大きい。それらの考え方を私に与えてくれた友人たちに感謝したい。

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方便を使うこと 「もう一度生まれてきても」

普段自分は、いろいろな物事の説明に科学的であることを心がけているし、求めてもいる。しかし、心情的には科学では割りきれないし、割り切りたくないこともある。自分の子供が初めて「死」というものを意識し、それに対して恐れを抱いているときに親としてどういうことができるのか。そのときに、宗教的考え方を説明することで安心させるのは「方便」として適当なのか。それについて考えてみたい。答えは出せないかもしれないが。
そこで、以前mixiの日記に3年前に書いた内容を転記する。読み返してみて、文章的にどうかと思う部分もあるが、子供達の名前の部分を除き、あえてそのままとした。

***引用ここから***

ある日、末娘がぽろぽろ泣いていた。

「どないしたん?」と聞くと、
「あのね、人間て死んだらどうなるん?
心はなくなるんかな?死んだら終わりなんかな?」

どきっとした。どう答えたらええんやろ。
とりあえず、仏様に頼ることにした。
「あのな、ええことして死んだ人は天国に行くねん。
ほんで、仏様や神様と一緒に楽しく暮らすんや。
悪いことして死んだ人は地獄へ堕ちて、
えんま様や鬼にいじめられてずーっと辛い目に遭うねんで」
それから、輪廻転生(生まれ変わり)のことなどいろいろ説明した。
ちょうど、お寺で買ってきた「地獄と極楽」という漫画も
あったので、それを見せてみたりもした。

「今度生まれてきても、家族は一緒?」
「さあ、お父さんにはそれはわからへんなあ」

すると、またぽろぽろ涙を流しながらこう言った。
「また生まれてきても、お父さんの子どもがええ」
「そう。そうなったらええな」
ぎゅっと抱きしめて、こっちまで涙が出そうになった。

「大阪のおじいちゃんは、まだ天国におるん?」
「たぶん、おるんちゃうかなぁ。
お父さんももういっぺん逢いたいし」

すると、黙って聞いていた長男がぼそっと言った。
「お父さん、俺が死ぬまでおってな」
「あほか、お父さんの方が先死ぬに決まってるやろ」
「ちゃうわ、俺が天国に行くまで、
生まれ変わらんと待っとってな、ていうことや」
「そんなになってもお父さんに会いたいんか(笑)」
「うん」

たぶん、自分の子育ては間違ってなかったんだと思えた出来事でした。

***引用ここまで***

これを書いたとき、子供達はいい子に育ってくれた、ええ話やなぁと自己満足していた。もちろん、優しく思いやりもあり、当然子供なので未熟な部分の方が大きいがそういう意味では悪くない子育てができていると思ってはいる。しかし、今回言いたいのはそこではなく、子供達を安心させるためにとはいえ、宗教を持ち出したことが果たして良かったのかということだ。大人になってから、というかなる前に将来のために科学的思考ができるようになって欲しいと思っていながら矛盾した考え方を教えている。いや、大きく間違ってはいないかとも思うが、どのタイミングで修正するのか、自分で身につけてくれるのを待つべきなのか。
科学と優しい心の持ちようは対立する概念ではないが、科学は時に冷酷でもあるからそのバランスを失わないようにしたい。なかなか正解はないと思うが、努力を放棄したら、その時点でおしまいだから。

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自閉症で気になる記事

気にはなっていたが、詳細を調べずにいた「三種混合ワクチンで自閉症になる」という論文があった。doramaoさんの「とらねこ日誌」というブログで知ったのだが、これが、どうやら論文の構成等に問題があっただけではなく、データが捏造であったとのニュースが47ニュースというサイトに出ていた。

この話がニセ科学批判系のブログ(と言う括りはあまり良くないかもしれないが)を中心に急速に広がっている。このブログは(たまにでも)見に来てくれる人ならよくおわかりと思うが、超遅筆である。と言うわけで、完全に乗り遅れてしまったので、いつものように他人のブログに相乗りさせて頂く。非常に申し訳ないが・・・。

せめてリンク集でも作ろうかと思ったが、すでにとらねこ日誌で綺麗にまとめて頂いているので、自分は次の土日までまとまった時間がとれないので(言い訳ばっかり・・・・)そちらをご参照頂きたい。

しかし、こんなに自閉症の親をバカにした話もない。予防接種を忌避する問題点については、すでに色々なサイトで論じられているので、ここでは触れない。私が問題にしたいのは三種混合ワクチン(MMR)を受けてしまった自閉症児の親がどういう心理状態になるのかわかってやっているのか、と言う事だ。

私は、重度の知的障害を持つ自閉症児を育てている。通常、親という役目の一応のゴールは子供を経済的、社会的に自立させるところだろう。しかし、自閉症児でしかも知的障害を伴っているとなるとそのゴールは永遠にやってこないのだ。別のゴールを求めて、自分も色々とその道を模索しているところだ。もし、MMRを我が子に受けさせた事で自閉症になってしまったと言う事にでもなればその親はどれだけ重い十字架を背負う事になるか、想像しただけでも心が塞がってしまう。

二度とこんな話が持ち上がらないように、ここを読んだ人にもこの話を拡散して頂くようお願いしたい。

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発達障害が親の責任で?

産経新聞に、発達障害についてこんな記事が掲載された。

【解答乱麻】明星大教授・高橋史朗 豊かな言葉がけ見直そう

これによると、発達障害や軽度の自閉症は早期発見と適切な対応により予防することが可能とある。ただ、この話はこの明星大教授高橋史朗教授自身が唱えているわけではなく、さいたま市教育相談センターの金子保所長や「脳科学に基づいて発達障害児を治療指導している」という澤口俊之氏(誰?)、玉川大学脳科学研究所の塚田稔教授などの説のようだ。

この記事にはいくつかの問題点がある。

たとえば、記事にはテレビやDVDなどのメディアを遠ざけ、声かけやあやし、たかいたかいなどを実施したところ、人間性が回復した、とある。ということは、発達障害や自閉症の人は人間性が大きく阻害されていると言うことか?ここに、発達障害に対する大きな差別意識が感じられる。

また、「このような昔から日本人が当たり前に行ってきた伝統的な子育てや「普通の環境」を取り戻すことによって、2歳までの早期に治療指導を行うことが、発達障害の予防になり、この「金子式治療指導法」と澤口氏のHQを伸ばす脳科学理論は「きわめてよく一致」すると同書は述べている。」ともあるが、「普通の環境」ってなんだろうか。それでは、発達障害や自閉症児を抱える家庭は「普通の環境」ではないのか。自分たちの考える「普通の環境」を他人に押しつけて、発達障害児を抱える親に「自分の家庭環境は特殊なのではないか」と不安やプレッシャーを掛けているだけなのではないか。

定説としては、自閉症は先天性の脳の機能障害であるし、自分の子育ての実感からもその通りだと感じている。もし、発達障害や自閉症が生まれつきの脳の障害ではなく、あるいは障害があるにしても対応如何で治療が可能だというのが本当に科学的知見に基づいたものであるというのなら、現在の定説をひっくり返す大発見だが寡聞にしてそのような話は聞いたことがない。

実は、私は3人の子持ちであるが、そのうち第1子である長女は重い知的障害を伴う自閉症である。だから、そういう新説が間違いない形(査読付きの専門誌に掲載されるなど)で出てきたのなら、何らかの形で情報が入ってくると思うが、何も見聞していないのである。

また、早期発見や声かけなどが重要であるというのなら、長女は比較的早期発見だったと思われるし、第1子であるからなおさらあやしたりたかいたかいしたり、声を掛けたり抱きしめたり、どこへでも連れて行ったし、手を掛けて慈しんできたつもりだ。環境が悪いというなら第2子の長男は長女に手がかかった分、ほったらかしになった割合は長女とは比較にならないくらい大きいが、それでもそれこそ「普通に」育ってくれている。

長女の通う養護学校でも同じ障害を持つ親御さんと会い、話をする機会もあるが、どの人も深く悩み、一生懸命子育てをしている。そんな親たちの育て方が悪いというのなら、日本人の大半は自閉症や発達障害になっているはずであるが、そんなことは全くない。

とにかく、日々悩み、懸命に子育てをしている親たちを表面的な言葉だけで深く傷つけているこの記事については全く容認することはできない。もう少し科学的な態度とは何かと言うことを産経新聞には考え直して頂きたい。

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