方便を使うこと 「もう一度生まれてきても」
普段自分は、いろいろな物事の説明に科学的であることを心がけているし、求めてもいる。しかし、心情的には科学では割りきれないし、割り切りたくないこともある。自分の子供が初めて「死」というものを意識し、それに対して恐れを抱いているときに親としてどういうことができるのか。そのときに、宗教的考え方を説明することで安心させるのは「方便」として適当なのか。それについて考えてみたい。答えは出せないかもしれないが。
そこで、以前mixiの日記に3年前に書いた内容を転記する。読み返してみて、文章的にどうかと思う部分もあるが、子供達の名前の部分を除き、あえてそのままとした。
***引用ここから***
ある日、末娘がぽろぽろ泣いていた。
「どないしたん?」と聞くと、
「あのね、人間て死んだらどうなるん?
心はなくなるんかな?死んだら終わりなんかな?」
どきっとした。どう答えたらええんやろ。
とりあえず、仏様に頼ることにした。
「あのな、ええことして死んだ人は天国に行くねん。
ほんで、仏様や神様と一緒に楽しく暮らすんや。
悪いことして死んだ人は地獄へ堕ちて、
えんま様や鬼にいじめられてずーっと辛い目に遭うねんで」
それから、輪廻転生(生まれ変わり)のことなどいろいろ説明した。
ちょうど、お寺で買ってきた「地獄と極楽」という漫画も
あったので、それを見せてみたりもした。
「今度生まれてきても、家族は一緒?」
「さあ、お父さんにはそれはわからへんなあ」
すると、またぽろぽろ涙を流しながらこう言った。
「また生まれてきても、お父さんの子どもがええ」
「そう。そうなったらええな」
ぎゅっと抱きしめて、こっちまで涙が出そうになった。
「大阪のおじいちゃんは、まだ天国におるん?」
「たぶん、おるんちゃうかなぁ。
お父さんももういっぺん逢いたいし」
すると、黙って聞いていた長男がぼそっと言った。
「お父さん、俺が死ぬまでおってな」
「あほか、お父さんの方が先死ぬに決まってるやろ」
「ちゃうわ、俺が天国に行くまで、
生まれ変わらんと待っとってな、ていうことや」
「そんなになってもお父さんに会いたいんか(笑)」
「うん」
たぶん、自分の子育ては間違ってなかったんだと思えた出来事でした。
***引用ここまで***
これを書いたとき、子供達はいい子に育ってくれた、ええ話やなぁと自己満足していた。もちろん、優しく思いやりもあり、当然子供なので未熟な部分の方が大きいがそういう意味では悪くない子育てができていると思ってはいる。しかし、今回言いたいのはそこではなく、子供達を安心させるためにとはいえ、宗教を持ち出したことが果たして良かったのかということだ。大人になってから、というかなる前に将来のために科学的思考ができるようになって欲しいと思っていながら矛盾した考え方を教えている。いや、大きく間違ってはいないかとも思うが、どのタイミングで修正するのか、自分で身につけてくれるのを待つべきなのか。
科学と優しい心の持ちようは対立する概念ではないが、科学は時に冷酷でもあるからそのバランスを失わないようにしたい。なかなか正解はないと思うが、努力を放棄したら、その時点でおしまいだから。
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