ネット上の努力の、公的な地位は?

当ブログでは2009年春ごろから、《つながりの作法》という、日本語としてはやや奇異なフレーズを育てていました参照。 いわば問題意識のキャッチコピーであり、当時はこれでネット検索をかけると、このブログしかヒットしない状態でした*1

そこに、以下の本が登場。

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)



本屋で見つけた時はショックでしたが、「フレーズが流通すれば、それ自体が持つ力があるかもしれない」などと考え、わざわざ好意的に取り上げています(参照)。
ところがけっきょく自分でも、「俺のほうが剽窃を疑われるんじゃないか」と感じてしまい、このフレーズを使えなくなってしまった。案の定、イデア剽窃を責められる体験もしました。


これとは全く別に、次のようなお話を何度かいただきました(大意)。
  • ブログでいくら頑張っても、業績にはなりませんよ。
  • 論文を書くのにブログを参照させてもらったのですが、参考文献には挙げませんでした。

誰でも読める状態で公開し、アーカイブもありますから、最低限の認知だけは確保できるつもりだったのですが・・・*2。 ひょっとすると、私が論文を書くときには、うちをこっそり参照して書かれた論文でも、「先行業績」にしなければいけないのでしょうか。


当ブログを始めてもうすぐ8年ですが、着想の源はできるだけ明示するよう努めたつもりです。ところが、ネットに書いたアイデアを書籍や学術論文に使われると、むしろ後発側に優先権が生じるというのでは、ここには大事なことが書けません*3


ネット上では、有力な論者による意見表明も盛んになされていますが、ああした発言の公的地位(業績上・権利上)は、どうなっているのでしょう。手続き上の規範が、新しいメディア環境に追いついていないとも感じます。



【2011年8月24日夜の追記】

本エントリで問題とした、『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)』著者のお一人である熊谷晋一郎氏より、twitter でのレスポンスを頂きました。 ありがとうございます。



ネット上の活動と他媒体の関係など、問われるべきことは残りますし、現時点ですべてが解決したわけではありませんが、ひとまずこれで、私じしんが剽窃を疑われることを気にせずに、研究を続けられます。
むしろ私は、「これから何ができるか」を問われるでしょう。

取り上げられていないものも含め、気づいたかぎりの言及は、すべて拝読しています。
お忙しい中、ご意見やレスポンスをくださった皆様に、御礼申し上げます。




*1:検索結果はたくさん列記されたのですが、「つながり」だけ、「作法」だけのページばかりで、《つながりの作法》は、TOP に表示されたうちだけだったはずです。 「20××年×月の検索結果」みたいなサービスがあると嬉しいのですが。

*2:複数の文献や研究者が、参照元として拙ブログを明示くださっています。ここでお名前を挙げることは控えますが、記して御礼申し上げます。

*3:「気前良くあげてしまえばいい」と言われるかもしれませんが、それでは《つながりの作法》の場合のように、発案側が委縮するしかなくなります。 アイデアは出す側にとっても、大事な活動資源なのです。