- 作者: 日仏法学会
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2003/05
- メディア: 単行本
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フランス家族法との比較で、日本の家族法が、「まったく介入しない」特質を持っていることが論じられています。これまで疑問でしょうがなかったことが、法学系の本で確認できました。
今回はじめて知ったジャン・カルボニエ(Jean Carbonnier)の、「非法(non-droit)」という概念に光が当てられています。 「非法」とは、条文化はされていないが、私たちの関係や社会生活を色濃く規制してしまう、そういうもののようです*1。
Le dilemme n’est donc pas entre la loi et d’autres formes du droit : il est entre le droit et le non-droit. ジレンマは、法と「法のほかの形」の間にはありません。 ジレンマは、法と非法の間にあるのです。 (「ジャン・カルボニエ」より)
日本の家族法は、非法の性格が非常に強いとのこと(p.85など)。
社会的ひきこもりを考えるなら、これは必須のモチーフではないでしょうか。
以下、上記の本から一部を書き抜いてみます(強調は引用者)。
日本民法の特徴とは、控え目で自制的な民法が、本来的な家族法としての機能において無力であり、同時に、家族イデオロギーを宣明するものとしては強力であることである。戦後の大改正を別にすれば、民法典は最初の明治民法とほとんど姿を変えておらず、ときに「不磨の大典」と揶揄されるほどである。これは、民法が実効的に家族を規律できない無力な民法であったということを意味する。戦後の改正が現代までの家族の変化を先取りすることができたからではけっしてなかった。 (略)
家族間の権利義務関係を定めた法規として、その権利や義務の実効的な履行を確保することによって家族を維持し、とりわけ法がなければ守られない家族内の弱者を保護するという家族法本来の機能が、日本民法は、非常に弱いのである。
明治民法は、本来的な家族法としては無力な法であったけれども、「家」制度を定めて家族の正当的なあり方を宣言することにより国民の家族意識を形成する法としては、圧倒的に強力なイデオロギー効果をもった。おそらく「家」制度は、実際の生活実態や感情をそれなりに反映したところのある制度であったのだろう。戸籍制度は、当初は住民登録の一種として作られたものであり、実際の家屋の住人ごとに一戸籍が作られていた。しかし法によっいったん公認されて、国家公認のイデオロギーとして、国家意識の方向を定める基礎として推進されることになると、あらがいがたい力をもった。一つ例を挙げれば、明治民法立法以前は、わが国では戸籍上も夫婦別姓であったのだが、その記憶は瞬く間に遠のいて、現代の人々は日本がもともと別姓文化であったことを知らない。ある意味では、明治民法そのものよりも戸籍制度のほうが、国民意識においてより具体的に教育的役割を果たしたといえるだろう。 (pp.34-5、水野紀子)
親密な人の集まりを、法的にどう位置付けるか*2。
フランスの家族法は制度的性格が強く(p.247)、日本人が「家族」という言葉で思い浮かべるものと、フランス語で「famile ファミーユ」と呼ぶものは、違っているらしい(p.261)。 また親密圏について、「フランスには法の過剰があるのに、日本には法の不足がある」とのこと(p.242)。
日本社会の変遷を見ると、家族は、財と労働を相互に提供しあって、生存を支え合う経済共同体的存在であった。家族を団体として規制することは、その支え合いを義務づけることを意味するだろう。そして日本の家族は、血で広がる連帯よりも、実際に住んで一緒に働く共同体の連帯が、主になっていた点で、特徴的である。 (略) 日本民法の家族法や相続法を理解するには、このような自営業の運営を担う「家族」をイメージする必要がある。 (pp.43-4、水野紀子)
広狭両義を含めて中国の家とは、同一の祖先の生命の拡大であるという同類意識に基づく、有形無形の資産の持ち寄り関係であったということができる。たとえていえば、中国の家は組合的であった。それに対して日本の家は財団的であったということができるかもしれない。 (p.60、水野紀子の引用した滋賀秀三『中国家族法の原理 (1967年)』68項より孫引き)
家族それ自体に、経済的趣旨が織り込まれていたのではないか。
明治民法を立法するときには、「家」は、戸籍に従っており、戸籍は共同生活をうつしたものであったが、しだいに共同生活と戸籍上の「家」との齟齬が生じていた。戦後改正の基準である民法改正要綱の審議において、「民法上の「家」を廃止すること」という要綱は、保守派の大反対で、「民法の戸主及び家族に関する規定を削除し、親族共同生活を現実に即して規律すること」と書き改められた。この要綱の実現として立法されたのが、扶養義務の範囲の拡大や、民法730条であった。民法877条は、直系血族及び兄弟姉妹間に扶養義務を課し、特別の事情があるときは三親等内の親族間においても扶養の義務が生じ得るとし、民法879条は、扶養の程度や方法について白紙条項となっている。民法730条は、「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」と定める。これらの規定は、現実の「家」的共同体に即して家族団体を規律しようとしているとも評価できる。戦後の民法学界の主流は、民法730条を死文化する解釈をしたり、扶養義務の内容を、介護労働義務を含まないものとして、経済的給付に限る解釈をしてきた。もっとも高齢者の介護労働を家族に義務づけるために、民法730条活用論や介護労働義務を扶養義務の中に取り込む学説が少数とはいえ絶えることはなかった。 (pp.46-7、水野紀子)
法律の条文やその解釈に、時代や政治の都合が織り込まれている。
たんに順応的に考えていると、理不尽に人を追い込んでしまう。
「人が制度に合わせなければならない」ことになっている・・・
日本の民法は家族の領域においては奇妙なまでに控え目で無力である・・・・立法者は家族については何も関心がないと考えることもできる。 (p.206、アリエット・ヴワネソンによる討論報告)
ひきこもり問題を「扱いにくい」と感じるのは、偶然ではないようです。
*1:cf.巻口勇一郎「法と自生的秩序 〜法に対する非法の抵抗について」(PDF)
*2:たとえばフランスには、「PACS(民事連帯契約、通称パックス)」という制度がある。