タイトル案暫定報告

継続中の「タイトル案募集キャンペーン」ですが、ここで一度全部のご提案を掲示し、皆さんと検討してみたいと思います*1。ご提案くださった皆さん、あらためて、本当にありがとうございました。
私が「キャンペーン」と呼んでしまったので、「短期だけなの?」というご質問もありましたが、≪何度脱落しても再復帰できる社会を≫という課題設定そのものは、私自身はライフワーク的に考えておりますし、タイトル案についても、今後もいいアイデアやご提案があれば、それを新しく採用してみたいです。
「キャンペーン」というより、「プロジェクト」と呼んだほうが良かったですね。



「○○社会」、「○○問題」、「○○キャンペーン(プロジェクト)」という言い方に分かれていますが、「レセプティブ社会プロジェクト」、「脱落復帰問題プロジェクト」などのように、混ぜてもいいかも。
どれも一長一短あるし、場面に応じて使い分けたい気もするし・・・・難しいです。
今の時点で決めてしまうのではなく、実際に使ってみたり、プロジェクトのディテールをもう少し煮詰め、皆さんのご意見も伺いながら、検討して参りたいと思います。
よろしくお願い致します。









*1:「自分も提案したのに無視された!」というかた、それは無視ではなくて「見落とし」なので、ご一報を!

*2:receptive。 「受容的、柔軟性のある」

「左翼的」でない連帯?

岸政彦さんのご指摘(050124)にも関わりますが、最近はいろんな方が、「弱者が連帯して活動することが難しい」ということを言う。「ひきこもり」などは分断化・孤立化の極北なのでその典型ですが、それでなくとも「集団的に何かを為すのはカッコ悪い」とか、当事者であっても(というより当事者であるがゆえにこそ)内部で意見の対立や相違があって、努力がちっともまとまらない。 → この弱者の分断化が、ますます弱者を追い詰める。
あらためて考えていたのは、「弱者問題に関わりながら、(悪い意味で)左翼的にならずにいるにはどうしたらいいのか」ということ。「オルグする」という左翼用語*1が典型的ですが、対抗運動自体が集団主義的ではまずいのではないか。むしろ「集団に馴染めない」人間に何が為せるのか、あるいは利害や意見の対立する人とさえ共有できる努力はないのか、という模索(というか方法論)が必要に思います。





*1:「連帯」や「共闘」といった単語がすべて左翼の手垢にまみれすぎていて・・・。

「共感主義」の限界

先日の仁愛大学の授業内講演では、お招きくださった三脇康生さんの勧めもあり、「ひきこもりの深刻な実状をベタに描写する」だけでなく、次のようなことも言ってみました。

 ひきこもりの問題というのは、ここにいる皆さんのほとんどにとって「他人事」だと思うし、それでいいと思います。ただ、「日本の社会は、一度脱落したら復帰できない」という大きなテーマでなら、皆さんと共有できる議論もあるのではないでしょうか。私にとっての「ひきこもり経験」は、問題意識や活動への≪入口≫です。皆さんにとっての入口は別でいい。



というわけで、「精神医学」の授業なのに、「少子化社会で子供を産めと言われているが、産休を取ると復帰できないので、子供を産めない現実がある」とか、「日本は若さを価値とするから、年齢とともに脱落的になり、生きづらくなる」といったことも話したのですが、学生の皆さんは比較的ちゃんと聞いてくださったように思います*1


私がイベントなどで発言すると、「はいはい、ボクのこと分かって、ってことでしょ」と言われることがあります。つまり、私のしているのは「ひきこもりは可哀相だから共感してください」という話だと思われている。
私自身自覚しだしたのは最近ですが、相手の共感を求める努力は、弱者問題では限界がある、というよりかえって危険だと思います。共感をベースに考える人は、「共感できない」ときには徹底して冷酷だし、あるいは引きこもりの話をしていて、「実は聞き手のほうが深刻な生育環境だった」場合、共感を求めること自体が失礼。その場で「自分のほうが」「いや私だって」云々と深刻度競争を始めても、共有できるテーマが見つかりません。 → ≪共感主義≫の運動方針には、ほとんど期待できない。


深刻な状態に苦しむ人たちがいるとして、直接その人たちの問題を(属性に基づいて)カテゴリ化し、「この人たちは大変だから、なんとかしよう!」「協力してください!」と(世界の中心で?)叫んでみても、道ゆく人はみんな自分の生活で精一杯で、直接的な支援関係では課題を共有できない。 → 一つ一つの弱者カテゴリで「○○のために」と課題設定するのではなく、むしろグランドテーマとしての課題設定をして、それに関わる一人一人がどういう思惑でそこに関わるか、は問わない形を模索する必要がある。そのプロジェクトに関わることで得られる恩恵は、各人に決めてもらう。


「ひきこもりのために」「野宿者のために」といった括りより、むしろ≪プロジェクトの括り≫を優先させて、結果的にそのプロジェクトから「ひきこもり」「野宿者」といった一つ一つのマイノリティが恩恵を受け取るほうがいい。そうであれば、「自分は何の問題に取り組んでいるのか」といったアイデンティティで悩まなくていいし、ジャンルや利害を越えた協力関係も作りやすい。これは、「何をもって支援となすか」、あるいは「そもそも支援は必要なのか」といったひどく消耗的な議論への対応にもなる。「○○のためになるか」ではなく、大きな課題=プロジェクトを析出し、○○とは無縁に取り組んでいるうちに、「結果的に○○が恩恵を受ける」にすればいい。


利害が対立していたり、そのマイノリティ問題に反感を持っている人、もっと言えば自分のことを嫌っている人にすら興味を持ってもらえる、あるいは協力し合える仕組みを考える必要がないでしょうか。
これまでの、≪属性や利害による党派≫による括りから、≪プロジェクト≫ごとの括りへ。プロジェクトへの帰属に強制はないし、各人はそういうプロジェクトに複数帰属していい。各々の課題やプロジェクトは、複層的・横断的に交錯する。





*1:ふだんの授業がどういうものなのか分かりませんが、合同クラスで120人ほどのうち、居眠りしていたのは2人だけで、私語もほとんどありませんでした。あの学校が特別良かったってことでしょうか・・・。

これには、≪お金≫という重大テーマも絡んでくる。

ひきこもり支援でトラブルになるのは、「支援方針」とともに「お金」の問題。
いや、むしろ「支援方針」の問題は、「カネ」との関係においてこそ真に問われるのだと思う。
私自身、特定の団体利益のために「利用された」としか思えない経験もあり、ひどい思いをしましたが、そういうことも踏まえた上で、今は「金を稼ぐことしか考えていない人たちとも協力できる活動スタイルが必要だ」と思うようになった。いっぽう、私が出版や講演料などで稼ぎを得ていることに対し、批判的な発言をする人もいる。
これについてはまたあらためてエントリするが、「弱者問題に取り組む人は清貧でなければならない」とか、そういうイデオロギー的な縛りは本当に有害。課題を決めてプロジェクトを立てたら、なるだけ自由度の高い取り組みスタイルを検討しなければならない。


「経営者の味方をしてはならない」のではなく、「どうやって経営者にも協力してもらえる形を探すか」ではないのか。そもそも、会社や支援団体を倒産させないように努力している経営者を批判するなら、具体的対案はどこにあるのか。
たとえば支援活動をするのに、スタッフを3人雇い、自分も合わせて月に15万円の給料を出せば、それだけで月に60万円、そこに施設賃貸料や諸経費を入れれば、年間1000万円ぐらいはすぐにかかるはず。公的援助のない民間支援努力がその経費をどこから捻出するのか。そういう具体的な話や財源対案を一切出さずに、「お金を取るのはキタナイ」などと平気で言う。 → 「お金がキタナイ」のではなく、「お金はキタナイ」と言っている意見がキタナイ。
「清貧の弱者」が1000人集まるよりも、「金儲け主義の強者」が1人関わってくれたほうが作れる成果もある。そういうリアルなところを見れない発言者は、「自分は正しいんだ」という自意識に酔っているだけではないか。





「発言内容」と「人物」の峻別

これは、党派性を避けたいための論点でもあります。
私がある人物の見解に反論すると、すぐに「逆らいやがった」という“人物”レベルの対立の話になる。逆に発言を支持すると、「あいつは○○派か」。つまり、議論のすべてが≪人間関係≫や≪上下関係≫に落とし込まれてしまう。この不自由さを避けるためには、一人一人の発言や仕事について、「あの仕事は良いが今回のは興味が持てない」というふうに、仕事ごとに評価する必要があるし――さらに言えば、自分は興味を持てなくても別の分野では価値があることだって当然あるはず――、発言内容そのものと人物への評価は、分けねばならない。
これは、論争における「フレーミング」と「正当な論争」の峻別にも関わる。


ただし現実的には、ある意見の持ち主は、たいへんな高確率でその意見を変えないので、「人物=意見」、「人物=バカ」みたいな(人物と属性を一致させる)決めつけは、多くの場合コミュニケーション・コスト削減の見地から、持ち出さざるを得ない。
むずかしい。





事態の構造的描写

私のしている「課題脱落的」という引きこもり論は、「深刻度競争=不幸自慢」と同じではないのか、というご批判を受けた(ような気がする)ので、少しだけ。
「課題脱落的」は、引きこもりに起きている事態について、なるだけ多くの人と本質的な議論を共有できるように、問題を抽象的に析出したものです。脱落は「主観的=ココロの問題」でもあるし、「客観的=社会の問題」でもある。
ひきこもりの実状を知ってもらう努力は必要ですが、しかし現実的には、それは難しい。とすれば、「実状を知ってもらえずとも、あるいは≪共感≫してもらえずとも、いろんな人と議論を共有できる概念ツール」が必要になる。それを考えてみたのです。
「課題脱落的」には、ひきこもりやニートの問題の核心部分にある(と私が思っている)≪自発性/強制≫というテーマが深く関わります。議論のテーブルを明らかにしたかった、という感じでしょうか。
状態像が「重い/軽い」は関係ないつもりです。深刻であればより徹底的に課題脱落的でしょうし、軽ければ、けっこういろんなことに自発的に参画していることになる。そこにはひとまず、「脱落することがいいことか悪いことか」といった価値判断もありません。





メールより

今日のエントリに関連し、三脇康生さんと交わしたメール(私からの返信)の一部を、許可を得てここに転載してみます。三脇さんからは、「プロジェクトに参加したい」とのうれしいお返事を頂きました。
上に書いたように、「人物と発言」は分けるべきだし、今後の三脇さんとの人間関係がどうなるかもわかりません。現時点で「プロジェクトを共有しましょう」というだけで――それ以外の帰属・共有関係はまったくないし、必要ないと思います――、そうであるがゆえの熱心な論争も今後あり得ると思います。そういう前提の上での掲載です。
さらに言えば、三脇さんと対立関係にあるようなかたともこのプロジェクトを共有できれば、それこそうれしいのですが・・・・。


くどいようですが、私は、大学のサークルにさえ属せなかった、「社会的閉所恐怖症」な人間です。対人恐怖を形作る「中間集団」*1的人間関係への不安が人一倍強いのですが、そういう私のような人間にとっても、この≪課題帰属≫、≪プロジェクト優先≫という方法論は、有効であるように思うのですが、いかがでしょうか。



以下、メールからの転載

> 闘い方は左翼の集団主義(下には下がある主義、そして集団維持のため
> だけに共通の敵を見つける主義)にならないように気をつける。これが、もし
> かしたら 今までのどの制度、どの組織にも入れない引きこもった人に課せら
> れたプロジェクトかも知れません。そしてそのプロジェクトは引きこもりの人だけ
> でなく実は、あらゆる制度内、組織内のプロジェクトでもあるべきです。


いみじくも「課せられたプロジェクト」とおっしゃっているわけですが、私は
実は「ひきこもり」を、「課題脱落的」と表現していたのでした(先日の
講義中にも申しましたが)。
そういう引きこもりであるからこそ、「集団に馴染めない」人間として、集団
主義とは別の運動形態を模索し、生きられるのではないか――そういう
積極的なご指摘と受け止めました。


弱者問題に取り組みながら、集団主義的、あるいは旧来左翼的でない
あり方を模索する必要――その課題を私たちは共有している、と言える
のではないでしょうか。
先日の三脇さんの「教授や大学院生は、制度ではなく、プロジェクトに
帰属すべきだ」というお言葉にもありましたが――意見の一致を見て、
本当にうれしいご指摘でした――、「属性による党派、制度による党派
ではなく、≪プロジェクトへの複数帰属≫というスタイルを採るべきだ」とい
うことだと思うのですが、いかがでしょうか。


私としては、ひきこもりに反感を持っていたり、私を嫌っている人にも参加
していただけるプロジェクトにする必要があると思うのです。関わっている人
間が自分の課題設定においてそれぞれなりの利益を得れればいい(全体
の利益を統合する必要はない)。 直接的な「ひきこもり支援」ではなく、
≪脱落しても再復帰できる社会を≫というグランド・テーマを、いろんな人
と共有することを目指す形を採りたいわけです【それが今回、杉田俊介さん
と共有しているキャンペーン(というかプロジェクト)の骨子です】。
脱落にも復帰にも様々なありようと方法、あるいは複層的な「課題の重なり」
があるわけで・・・・。




> 例えば、僕は企業内メンタルヘルスシステムの研究を厚生労働省の研究班
> でやっている振りをしているんですが 要は、リストラの局面(企業の内部だけ
> の問題では済まない局面)でのメンタルヘルスが考慮されないと、いくらシステ
> ム作っても、幹部の言い訳システムにしかならず、ほとんど無効なわけです。


本当に良くわかります。
おっしゃる通りだと思います。
私のこれまでの言い方ですと、「心理カウンセラーと雇用・労働問題の
専門家は、連携する必要がある」という話に当たると思います。「仕事
を探しているのに見つからない」というのは、本当に精神衛生上よくない
し、その問題は、「ココロの話」をしているだけではどうにもならないので・・・。




> 組織、制度の内か外かの単純な二律背反、これが不毛な絶望論につなが
> る訳です。 内にも見えない外がある。この外は開放の場所ではないですが、
> この外を忘れないようにしなければならない。 そして外だと思っていたら、それ
> が内になってくる場合もある。 この際、内はベタ、外はメタでもよいです。


内と外のお話は本当に示唆的です。
「制度的に設定された課題の外側に居る」ところ(つまり純粋メタレベル)
で「絶望」する(ベタレベルの取り組みは放棄されている、というより「放棄
するべきだ」とされる)。 しかし、最も外側に脱落していると思われた引き
こもりの内面や境遇論理そのものに、同時代の最も核心的な問題が現れ
ていたりする。 → 私のこれまでの思索は、その核心的問題構制の剔抉を
目指していたかもしれません(自覚していたわけではないのですが、三脇さん
のお話を伺っていてそう思いました)。 「≪脱落≫こそが、状況の中心課題
である」という逆説でしょうか。




> いずれにしろ、内外、ベタメタの間の政治が無いと、静態的な世界観に
> なって、内外の真ん中で絶望するしかなくなるのですね。


これも本当に良くわかります。課題というのは生成的プロセスの渦中に
あるわけで(個人も課題も状況内在的)、静態的にメタの視点に立って
いる(と思っている)人は、ものすごく硬直的に生きている・・・。生きられる
課題にアクチュアリティがない。
もちろん、ベタだけの人も同断ですが、ベタレベルには過剰なほどの流動
性があるので、内面を「絶望」という形で静態化させるのは、防衛反応と
いう面もある気がします。


社会という場における課題設定のあり方こそが「政治的」と呼ばれるべき
だとすると、内と外(ベタとメタ)の緊張関係の中で、あくまで状況内在的
に、暫定的な課題設定とそれへの取り組み、その解体と再生を繰り返す
ことこそが、≪生きる≫ということなのでは・・・・。


まだ読み始めたところなのですが、「制度論的精神医療」の説明、あるい
は「動的編成(agencement)」の説明から私が感じ取ったのは、そうした
モチーフでした。個人とは、社会というフィールドにおける「繰り返される
動態的課題構成活動」であり、こうした議論は、そのまま≪個人的
活動の詩学≫ではないか、と・・・・。






*1:人間関係には、(1)家族や恋人などの「最も近しい存在」、(2)ご近所さんやクラスメート・同僚などの「中間集団」、(3)通りすがりなどの「無関係な存在」、の3段階があり、≪対人恐怖≫は特に(2)を対象にする、とされる。