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鶴の恩返し、量子力学、そして「マイナス1の存在確率」、あるいはぬこの運命パート3
粉塵爆発電網記憶:【難解】存在確率マイナス1???
イラストは「柿の木・ちょちょんまげ両画伯」のスキルレベルに達していませんが、記事はメタわかりやすいです。さすが文章のプロ。(イラストのプロでもあるんだよね)
こちらも恒例の「シュレぬこ」逝きます!
どらねこ画伯お作 09年9月 「paraneko」
ちょちょんまげ画伯 09年9月 「ねこみみ」
でわ、わたくしもシコシコと続けることにいたします。
・アハラノフの弱い観測
アハラノフの提唱した「弱い観測」とは、
・「重ね合わせ」を壊さないように、観測量は最小限にとどめる。
・初期状態と結果が同じものだけ選択してそれ以外のものは捨て去る
・一回の観測では得られる情報は極わずかであるが、幾度となく観測結果を積み上げ、平均を取ることで「量子状態」の姿が見えてくる。
これらの特徴を併せ持つ。
良くわからないのは、「観測量は最小限にとどめる」って、どうやって「とどめる」んでしょうね?
これは記事を何度読んでもわかりません。
おそらくNANさんのエントリの表現に乗るならば、「オッパイが見えた」(全くなんてお下品な表現なんでしょう)まで観測せずに「湯気越しに見えたものオヤジのケツかも知れないけどとにかく人間の体の一部だった」ぐらいの情報を集積して行けば、いずれは「巨」、「貧」、「離」、「垂」などの物理的な特性も見えてきていずれは「このようなオッパイであった」というところまで言及できるようになると言ったところでしょうか。
ちゅうことで、この出歯亀さんは、とにかくぼんやりとオパイが覗ける能力を得た、ということにしませう。
で、この「オパイぼんやり覗き能力」=(弱い測定)が理論的に可能であるということからどういうことが予測できるかと言うと、
「ハーディのパラドックス」というものが予測されるのでした。
・ハーディのパラドックス
英国の物理学者ハーディ(Lucien Hardy)が提唱した特殊な干渉計(私も良くわからないのですけど、「粒子」の「波」としての特性である「干渉」という現象が観測できる装置ですな)の中に電子と陽電子を入れて中を覗くと粒子の存在確率が「マイナス1」になる、という「ハーディのパラドックス」。
「光子」を除いて、全ての「粒子」には「反粒子」が存在する(って、これあってるかな?)
「反粒子」とは、電荷など(うー、電荷以外には何があるかわからん)の正負が逆で、他の物理特性は「粒子」と全く同じものをいう。
で、それらの「反粒子」から出来た物質が「反物質」である。
この宇宙が「通常物質」ばっかりあってなぜ「反物質」が全然見られないのか、みたいな話もめっちゃくちゃおもろいのですが、ここでは省略せざるを得ません。
・お役立ちメモ 「反粒子・反物質の歴史」
人間っちゅうか、科学って凄いなぁって、思うのは、
誰も想像でさえしたことのない「反物質」を理論的に予言(1928年)。ポール・ディラックというカッコいいオサン。わたくしのヒーローの1人。
↓
その「数学的にマイナスが出てきた」ということだけを取っ掛かりにしてディラックの予言からわずか四年後に「陽電子」を確認
↓
その後、各種粒子の反粒子(反陽子とか)発見。
↓
1995年、欧州原子核研究機構(CERN)では遂に「反水素」(初の反物質ですな)生成。
↓
2002年 欧州原子核研究機構で日本を含む国際共同研究実験グループにおいて、反水素の5万個ほどの大量生成に成功。
とまぁ、ディラックの予言から70年余で、数学的に負の数が出たというところからの理論的予測の反粒子から始まって、「反物質」まで作り出しちゃうんだから凄いものです。
「陽電子(ポジトロン)」に至っては、「ポジトロン断層法」などといふ「陽電子検出を利用したコンピューター断層撮影技術」で「ガンの発見」などに活躍ちゅう。いやはや。
しかし、これらの「科学の世界」におけるトンデモない想像力、発想力を知るにつけ、オカルティックな発想やらスピリチュアルやらの発想なぞ、実に現実の呪縛から逃れられない平凡でつまらないものに過ぎないことがよくわかります。(と、私は思います)
これら現実離れした恐るべき広がりを持つ発想と、「ありがとうと声をかけると水が美しい結晶を作ります」などという発想の貧困さを是非比べてみていただきたい。
そちらの支持者の方は「科学信者」のことを「そこから離れられないガチガチ頭の可哀想な人たち」みたいにおっしゃいますがね。
閑話休題
「ハーディのパラドックス」に話を戻します。
通常は「粒子」(ハーディのパラドックスでは「電子」)と「反粒子」(ハーディのパラドックスでは「陽電子」)が出会うと消滅(正確には質量がエネルギーに転換されたり、他の粒子になってしまう)してしまう。
日経サイエンスの記事によると「ハーディのパラドックス」は次のようなことである。
二つの干渉計の経路を途中で交差させ、それぞれに電子と陽電子を入れる。
もし交差点で電子と陽電子が出会えば消えてしまい、出会わなければ干渉計はそれぞれ独立に動作すると予想される。
だが、実際にやってみると、両方とも起こらない場合がある。
果たして電子と陽電子は出会ったのか、それとも出会わなかったのか。
補足すると、もし交差点で電子と陽電子が出会わなければ、それぞれの干渉計でそれまでと同じように干渉が観察され、出会って「消滅」してしまえば干渉は観察されないはずである。
しかし、「ハーディのパラドックス」の理論的予測では「電子、陽電子は消滅せず、かつ干渉も起きない」という「出会ったのか出会わなかったのかわからない」という状況が予言されるというのである。
この実験を「電子、陽電子」を使って行うのは技術的にかなり困難であるらしい。
で、「電子、陽電子」を使わず、「光子」を使って成功させたのが大阪大学チームの本年三月の実験だったのである。
日経サイエンスの表現によると、
干渉計の中の光子をそっと除き見ると
ある場所にやってくる「確率」がマイナス1になった
常識に反する現象が実際に確認された
まだ、ちゅじゅく。
(ちかれた)
鶴の恩返し、量子力学、そして「マイナス1の存在確率」、あるいはぬこの運命 パート2
やっと、「マイナス1の存在確率」のパート2に手をつけたのである。
そもそも、な~んもわかってない私がこれを書くことは許されるのであろうか、量子力学のおもろそうなところだけつまみ食いしてえらそーに書き連ねてみたところで、「んなことみんな知ってるよ~、バカぁ」とか言われるだけなんじゃないかなどという葛藤もあったのだが、んまぁ、こういうのを(つまみ食いにせよ)趣味にしてるおやぢたちってやはり少数なんじゃないかということと、理系じゃない高校生、大学生の甥っ子姪っ子(中国系アメリカ人だけど)、はやはり興味がないとこういうお話はさっぱり知らないみたいなので、とりあえず、そういうおやぢたちと自分の甥や姪に「けっこうおもろいんだよ」と紹介するスタンスで続けてみよう。
日経サイエンスの「マイナス1の存在確率」の話だったっけ。
注:実はこの「日経サイエンス10月号」、近所のマクドナルドでチキンナゲットをモシャモシャ食いながら読んでいて、一冊目はこのマックにおいてきたらしくて紛失。
で、この記事を書くために泣く泣く買いなおしたのである。
一冊日本円で1,400円。現在L.A.の日系書店では換算率が100円=1.85ドル。
即ち、この日経サイエンス一冊が$25.90(消費税抜き)もするのである。
二冊で$51.80、消費税後は$56.60 なのであるよ。
日本円で約5,200円。
東海林さだお風に言うと「5,200エーン!エーン!」なのである。
量子力学が教えるところによる、「シュレディンガーのぬこ」のような極微の世界での物質の奇妙なふるまいを、観測対象に影響を与えることなく(重ね合わせ状態を壊すことなく)観測することは原理的に不可能であり(観測方法の不備であるとか、未熟な観測技術によるものではない)、「不可能」である以上、そこがどうなっているのかを問うことは「無意味である」というのがニールス・ボーア=コペンハーゲン解釈の主張であった。
「シュレディンガーのぬこ3様」
なごなぐ画伯お作 09年9月
Kanaka画伯お作 09年9月
akira画伯お作 09年9月
それに対して、「不可能ではない」と主張したのがヤキール・アハラノフである。
アハラノフは「測定対象をごく弱く測定すれば、量子的な多重状態(重ね合わせ状態)を壊さずに観測できる」と主張し、その具体的な方法を提案した。
それが「弱い測定」である。
観測によって「多重状態」が壊れる程度は、得られる情報の大きさによってきまる。
即ち、多くを得ようとすると「観測対象」に大きな影響を与えてしまい、「多重状態」が壊れてしまう。
アハラノフの言う「弱い測定」は観測に寄って得られる情報量を極限まで減らせば、壊れ度は急速にゼロに近づくから、得られる情報量を極限まで減らすことによって、重ね合わせを壊さずに観測することが可能になる、というものである。(数学的には観測による壊れの程度は、観測によって得られる情報量の2乗に比例するから)
言わば、アベック(死語)を覗こうとする出歯亀が、「よりばっちり見よう」としてアベックに光をあてちゃったりすると、アベックに気づかれちゃうから、結果として、なんも面白いモン(重ね合わせ状態・・・・かな?)は見られないことになっちゃうようなものですな。
しかし、一回の測定で得られる情報量は極めて少ないので、それだけではなんのこっちゃわからない。
そこで何度となく測定を繰り返し、結果を平均すれば重ね合わせの輪郭が見えてくる、ということらしい。
しかし、本来量子状態はまったく同じ条件で観測しても、結果がそのたびに異なるのである。
古典力学のように、初期状態さえわかっていれば、いつも同じ結果がでるわけではない。
野球のボールのような巨大なもの(量子、粒子などというものに比べれば、とんでもなく巨大である)ならば、古典力学はほぼあやまたずボールの未来の運動状態と位置を記述できる。(これも、厳密には、「できるように見える」なのかな、たぶん)
しかし、極微の世界(重ね合わせ状態)を観測した結果は、どれか一つの状態がランダムに選ばれて実現するので、初期状態が全く同じ(のように見えても)でも結果が同じとは限らない。
だとすると、アハラノフの言うような観測にどのような意味があるのか?
測定をなんども繰り返すには、同じ状態の観測が何度もできることが前提になるのではないか?
「弱い測定」は従って、「測定対象が実験の最初から最後までまったく同じになった場合」だけを選んでデータを重ねることになる。
すなわち、「同じにならなかった場合」のデータは全て捨ててしまう。
最終状態(未来)と初期状態(過去)をセットにして同じ状態になるものだけを観測して、その途中を「対象に影響を与えないほど弱く測定」してやり、幾度となく同じ実験を重ねてやりデータを蓄積してやることによって「重ね合わせ状態」が見えてくるというのである。
ここで、「現在」に対する「未来」と「過去」というセットが遂に登場する。
この二つがあって、「現在」が見える、というのがアハラノフの考えなのである。
で、アハラノフは量子状態が測定後同じになるという前提で時間対称性を持つ量子測定の理論を構築したわけです。
でもって、「弱い測定値」というのは未来の方向に時間発展するシュレディンガー方程式(量子力学を学ぶ多くの学生が、量子力学とはシュレディンガー方程式を解くことだ、と考えちゃうそうです)と、過去の方向に時間発展するシュレディンガー方程式のペアによって定義されているそうなのである、ってこのあたり自分で何を書いてるかなんのこっちゃわかりませんが、物理の数式には時間に対して対称(言わば過去の状態がわかれば未来の事が記述でき、未来の状態がわかれば過去のことが記述できること)なもの、そして熱力学の数式のように過去から未来に向かうものしかなく時間的な対称性がないものがあるわけです。
熱力学の第二法則(エントロピー増大の原理でんな)は未来一方にだけ向かい、例えば現在の状態がわかっていても、過去のことは記述できません。(水の中に拡散したインクが過去どういう状態にあったかを記述することはできません)
で、アハラノフの理論によると、「弱い測定」を行うことによって、様々な奇妙な現象が観測されることが予測されるという。
例えば、粒子の基本的な性質であるスピンが通常の数百倍になったり、鏡が光子を反射する時に光子に吸い寄せられるような力を受けたり(これが前回書いた「裏返しの光子」の一端)さらには、アハラノフの理論により英国の物理学者ハーディ(Lucien Hardy)が提唱した特殊な干渉計の中に電子と陽電子を入れて中を覗くと粒子の存在確率が「マイナス1」になる、という「ハーディのパラドックス」。
大阪大学チームが行ったのはこの「ハーディのパラドックス」の実証であった。
しかし、アハラノフは「マイナスの確率』という言葉を使わず、阪大の実験結果を、
「光子の数がマイナスなのではなく、物理的な特性がすべて逆になった光子が正の数だけ存在する」と見るべきだ、というのである。
そして、このような「物理的な特性がすべて逆になった」ような粒子は、「反粒子」とは違う全く新しい概念だという。
すなわち、「反粒子」は電荷やスピンは「粒子」と逆になっているだけだが、アハラノフが言うのは、「負の質量を持つ、つまりは相対論により負のエネルギーを持つ」などという「江本勝」や「チタンのファイテン」やそして「船井幸雄大先生」のような「波動大好き」な人たちが聞いたら涙を流して喜ぶようなことを言い出すのであった。
以下、次回につじゅきます。
(疲れた)
注:江本先生やら船井先生やらは「悪い波動がマイナスのエネルギーを与える」みたいなのが大好きであっちこっちで吹聴してますから、上に書いたようなことは、「全然別の文脈で」既にネットに氾濫していると言っていいでしょう。
勿論とんでもなく間違っているデタラメなのですが。
ファイテンは記憶が曖昧なんですけど、「人体のエネルギーは負のエネルギーで」みたいなことをチタングッヅの説明に書いていたように覚えています。
違ってたらごめん。
「本当にサルから進化したの?」 追記アリ
そのつもりで「日経サイエンス」の記事も読み直し、PCの前に「さあ書くぞ」と座ったのではある。
しかし、あまりにも見逃せないものを発見して怒り心頭に発してしまひ、これから先に書くことになりました。
ことは時事通信のこの記事を読んだことから始まる。
ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
これをYahoo!ニュースのページで見つけたわけだが、関連ニュースとしてあげられたいたこれ↓
進化論の間違い 恵みキリスト教会札幌
読んでみたら、聖書原理主義者お得意の進化論否定のお話で「日本にもいるんだなぁ」ぐらいの感想しかなかったのだが、同じ教会が作っているこれ↓にはおじさんは怒った。
キッズ聖書クラブ
そしてその中の、
「本当にサルから進化したの?」
このページはさらに次ぎの三つのページに分かれている。
「本当にサルから進化したの?」
「地球て本当に何億年もたってるの?」
「化石ってどうしてできたの?」
内容はいつもの「創造論的進化論否定」を子供向けに書いただけの話なのでアホらしいからいちいち言及しませんけど、いくつか脳みそが沸騰しそうになるやつを挙げると:
本当にサルから進化したの?
だから、「サルから進化」したんぢゃないんだってばぁ。
むかし、むかし、人間はサルだったって?
そうだよ、あったりまえだろう?学校でもならったし、テレビやみんなもそう言ってるよ…
誰も言ってないってばぁ。
※1980年11月21日。とうとう進化論(しんかろん)はまちがいだということについて、 世界じゅうからあつまった学者たちがそうだんしました。
※けつろん
人間はサルから進化(しんか)したのではありません。神さまによってつくられたのです。
だからさぁ、てめぇらの宗教的教義について書くならウソ含みもともかく、こういう「せかいじゅうからあつまった学者たちが進化論はまちがいで、神さまによってつくられたというけつろんにさんせいしました」みたいな恥知らずなウソつくなよ。
イエスさんが泣くぞ。
調べて見たのだが、この「恵みキリスト教会」が何者なのかはよくわからない。
わかったことは、日本各地に支部があること、そして山岸 登という人が親玉くさいことぐらい。
ソースが2chぐらいしかみつからないので、あまりうっかりしたことは書けない。
Livedoorの「したらば掲示板」の中に、
「ひつじの掲示板」というスレッド群があり、その中のこれ↓
創造論・創造科学-聖書の天地創造は真実・有神進化論の誤り
に、「山岸登」氏の著書への言及があります。
この「ひつじの掲示板」のスレッドタイトルだけでも眺めてみてください。
頭がクラクラしてトリップできることだけは請け合います。
で、私ははっきり言って「宗教大嫌い人間」である。
だが、基本的に大の大人が信じる分にはなにも言うまいとは思う。
明らかに実害が見えている場合は別として。
以前ドーキンスの「神は妄想である」の発売直後に、私としては「我が意を得たり」と思い、どちらかというと「反・神は妄想である」の立場であったNANさんや地下猫さんとの議論に参加させていただき、その後は私なりにいくらか宗教に対し「穏便」になったつもりではあったのだが、ドーキンスの大きな論点である『「~教の子供は自動的に~教徒」はおかしい』という部分にはいまだに大きなこだわりがある。
(注:NANさんも地下猫さんもドーキンスが優れた生物学者であることは、もちろんよくご存知)
私も言いたい。
「ガキにも選択の余地は与えてやってくれ」、と。
とくに、今回のこのHPキッズ聖書クラブのようにウソを並べて洗脳するのはやめてくれ。
「地獄に落ちるぞ」と脅かすのもやめて欲しい。
これらは「虐待」ではないのか?
あんたらがどんなおバカなことを信じてどうなろうが、俺の知ったこっちゃない。
どーか、そのおめでたいアタマでなんでも「疑うことをせず信じ」ていればよろしい。
だが、頼むから「何にも知らないガキを巻き込む」のはやめてくれ。
その一点について、俺はやはり「宗教(者)は有害である」について譲りたくない。
進化論に親しむためにはこんなサイトを訪れて欲しい。
ネット上には本当に役に立つ情報もいっぱいあるのだ、カスがほとんどだけど。
進化論と創造論~科学と疑似科学の違い~
忘却からの帰還
(トラックバック用お記事天使と悪魔で進化論を反証しようとする創造論者たち)
そして、おまけ。
以前に進化論と創造論~科学と疑似科学の違い~
の掲示板でいただいた「ゆんゆん探偵」さんの投稿。
NATROMさんとゆんゆん探偵さんの転載許可はいただいていませんが、お二人が抗議なさるとも思えないので、載せちゃいます。
実にわかりやすく読みやすいご説明。
ご堪能ください。
種とは? 投稿者:ゆんゆん探偵 投稿日:2008年 1月11日(金)14時14分30秒
実在する生物に、生物がどこまで遺伝的に変化し得るかを規定する「種の規範」のような機構はいまだに見つかっていません。つまり、生理学的な観点から言えば、生物は時間さえかければどこまでも変わっていく可能性のあることがわかっています。
種が際限なしに変化することを受け入れられるかどうかは「そういうこともあるかも知れない」「そんなことあるわけない」と判断する、人間側の受け取り方の問題だということです。
ちなみに、図鑑で別種と紹介されるような「見た目からして異なる」種への分岐には通常、数百万年単位の時間がかかります。人類の歴史の中で顕著な分岐があまり確認できないのはむしろ当然で、印象的な大きな分岐を見るには化石記録を当たる方が適当です。
古生物学的な観点から化石記録の記載を多数載せた進化論関連の書籍などを当たると、よっちゃんさんにとっては楽しい時間を過ごせるのではないだろうかと思います。
種の境界 投稿者:ゆんゆん探偵 投稿日:2008年 1月11日(金)13時50分58秒
よっちゃんさんの疑問は「種という確固たる存在が、別の種に変わることなどありえないじゃないか」という物だと思います。これは、ある意味持って当然の疑問です。大昔の人々も、みな同じような考えを持っていました。そうした素朴な考えが、現実の観察によって揺らぎ「種という概念」の修正を迫られてきたというのが、進化論の歴史のひとつの切り口です。
・古来人々は生物の種というのは不変なカテゴリだと考えていた。
・生物を家畜化すると、速やかにその形質が変化することが知られていた。
・地中から正体不明の動物の骨が見つかることが知られていた。
・大航海時代以降、博物学が発展し世界中の生物のカタログが出来上がった。
・今までの種の概念には当てはまりづらい、曖昧なカテゴリの生物の報告が増えて来た。
・生物を特徴によりカテゴリ分けすると、どうやら「種」は入れ子状(ツリー状とも言える)の分類を描くことがわかってきた。
・さらに生物の独自性は、地理的に近い場所に住む同系統の生物ほど似た特徴を持っているという傾向があった。
・以上の観察よりダーウィンは、「かつて存在した単一の生物が進化して現存するすべての生物になった」という仮説を見出した。
・だが、ダーウィンの頃は生物の遺伝の仕方が判明していなかったためもあり、賛否両論激しい議論を巻き起こした(ダーウィンの想像では遺伝子はコーヒーと牛乳がまざってコーヒー牛乳になるように受け継がれるものだった。だが、それでは生物の特徴は薄まるだけで現在のような多様性を生み出せるはずがない)。
・メンデルが発見していた遺伝の法則が再発見され、世界に広く知られることとなった。遺伝子が粒子性を持ち、混ぜてもこれ以上は混ざらないという限度があることがわかり、ダーウィンの抱えていた問題の一端が解決された。
・遺伝子の本体であるDNAが発見された。あらゆる生物は同一の機構「DNA」によって制御されていることが確認された。
・あらゆる生物に対して、DNAの配列が調査されるようになった。種間でDNAの差がどれくらいあるかを調べることによって、種の分岐した順番を推測できるようになった。また、DNA中の変異率が常に一定である特別な部分を調べることによって、おおよその分岐年代まで推測できるようになった。
・放射性元素による年代測定法が開発され、化石が地面に埋まった年代が正確に測定できるようになった。
・古生物学の発展。化石記録の増大により、古代の生物のカタログが埋まってきた(博物学の発展の時と似たことが起こった)。
・化石記録は、共通の祖先から進化によって現代の生物が分岐して生まれてきたことを強く示唆していた。年代を重ねるごとに、少しずつ姿を変えていく種の姿がはっきりと確認できる、いわゆる中間種の観察例が多数存在する。
・化石記録と、DNAによる種分岐の推測はとてもよく一致する。DNAシーケンスの解析により推測された分岐年代の地層から、実際に2つの種の共通祖先だと思われる化石が見つかったり、2つの種が持つ共通の形態的特長から推測される祖先種の特徴(2つの種が共通して持つ特徴は祖先種の時から持っていた可能性が高い)を持った化石が実際に見つかる、などの事例がある。蛇足だけどこれは「進化論は検証可能な予測を行えないので科学じゃない」という言説への有力な反論。
このように、進化論とは決して一直線にその結論を確認できた物ではありません。それまで持っていた種の概念と現実の違いを克服するため、数々の証拠とすり合わせをする中で発展してきた物なのです。人類が「種とは不変な物である」という思い込みを克服する過程そのものが、進化論の歴史だったと言ってもいいでしょう。
以上、種概念の把握という側面からの概観でした。
よっちゃんさんは現在、NATROMさんとの対話に集中されたいとのことですので、当方への返答は不要です。
ではでは。
9月14日追記:
コメント欄のさつきさんのご指摘、違う場所での南郷力丸さんのご指摘を受け、以下追記いたします。
まず、Wikipediaの「サル」より引用。
サル(猿/申/猴/猨/猱/狙)はサル目(霊長目)のうちヒトを除いたものの総称。ただし、生物学的観点から見れば、正確にはヒトもサルである。
ですので、「人間はサル」です。
私の今回の引用先である「キッズ聖書クラブ」の「サル」の記述の意味は「サル(猿/申/猴/猨/猱/狙)はサル目(霊長目)のうちヒトを除いたものの総称」であると読んだわけで、、私のツッコミもそれに乗っ取ったものですので、もしその読みが正しければその意味では誤ってないとは思います。
というのは、特に子供が考えがちな「動物園のサルはいずれ人間になるのか」というところに乗っかった記述だと思ったからです。
が、やはり私の書き方は正確ではありませんでした。
正解は「現在のサル目の生物(ヒトも含む)は共通の先祖から進化してきた」ぐらいでしょうか。(って、さつきさんのコメント通りなんですけど)
で、さらにややっこしいのは、さつきさんのコメント通り、その「共通の先祖」が「サル目(霊長目)のうちヒトを除いたものの総称」という一般的な「サル」の概念からすると「サル」っぽいということですね(笑)
で、とりあえずツッコミはツッコミで残します(現在のヒトが昔は現在のヒト以外のサルだったわけじゃない、あるいは現在のヒト以外のサルがいずれヒトになるわけじゃないぞ、ということで。あ~ややっこしい)
ところで、某所で「動物園のサルはいずれ人間になるのか」という話を南郷力丸さんにしたら、「もう人間になってるのがいる」(園長さんとか飼育係さんとか)と見事に突っ込まれました。
鶴の恩返し、量子力学、そして「マイナス1の存在確率」、あるいはぬこの運命
「鶴の恩返し」という話がある。
男に助けられた鶴が娘に化けて、男のもとにやってくるお話である。
鶴の娘は、男のためにそれは美しい反物を織ってくれる。
だが、
「織っている間は、けして中を覗かないでください」と男に言い含めて、別の部屋に入っていく。
待っていさえすれば「反物」はできあがってくる。
中を覗こうとさえしなければ「結果」は必ず出る。
「量子力学」の「不確定性原理」や「重ね合わせ」について読むたびに、私はこの話を思い浮かべていた。
男は人としての「業」(好奇心でしょうか)に負けて、ついに中を覗いてしまい、鶴の娘は男のもとから去っていくわけだけれでも、私はそのようにどうしても中を覗きこんで真実を知ろうとしてしまう人間の「業」が好きな方であるが、好まない人もいるのだろうとは思う。
半年ほど前に、
「マイナス1個の光子観測」、「ハーディのパラドックス」
という記事を書いた。
もともとはこのブクマを見つけたのがきっかけ。
日経ネット関西版の『「マイナス1個の光子」観測──阪大大学院生らが成功という』記事のブクマである。(日経ネットの元記事の方はすでにリンク切れ)
この実験、そして「ハーディのパラドックス」、そして「弱い観測」について2009年10月号の日経サイエンスに詳しい記事が出たので、私なりに自分の前記事のあとを追ってみた。
なにせど素人が生半可な理解で書くこと。
なるべくウソは書かないように注意しますが、理解の至らないところや、誤りを見つけられた方はぜひご指摘くださいますよう、お願い申し上げます。
「量子力学」というトンデモない学問によると、極微の世界では我々の想像を絶するようなことがおきている。
すなわち、我々が見ていないところ(観測をしていないところ)では、物体は相反する状態になっていたりするらしい。
(ここで、最近覚せい剤の保持・使用で捕まっちゃった某アイドルを思い出してしまった(笑))
その「相反する状態が同時に実現していること」を「重ね合わせ」と呼ぶ。
有名な「シュレディガーのぬこ」
という思考実験があり、ある量子力学的な状況を与えた、我々の見ていない(観測していない)箱の中で、ぬこは生死が重なった状況にある、としか言えない状態になっており、これが「重ね合わせ」の一例である。
箱を開けた瞬間(観測した途端に)状況は確定し、ぬこの状況としての「生」あるいは「死」が姿を現す。
「シュレディンガーのぬこ」2様
↑南郷力丸画伯 2009年9月お作
↑柿の木画伯、ちょちょんまげ画伯 2009年9月合作
また、粒子(電子、陽子、中性子、光子、その他素粒子など)は我々の見とらんところでは、「波」と「粒」という相反する状態の「重ね合わせ」だったり、あるいは「スピンが上向きか下向きか」などという状況も「重なり合って」おり、人間が(観測機器がでもよろしい)観測した瞬間にそれらの状況が一つに確定する。
さて、「量子力学」という学問は「観測したらどのような状況に落ち着くのか」ということを、確率的には予言可能であり、「観測していない時の重ね合わせが本当はどうなっているのか」を知ることができなくても実用上の問題は全く無く、あるいはこの世界を語るのには十分であるとされてきた。
この考え方(わかんないとこは取り合えずどうでもいいぢゃんという考え方)は「ニールス・ボーア」というアインシュタインにも匹敵するぐらいの偉大な物理学者により主張され、多くの物理学者はこれを割り切って受け入れた。
なんせ、このボーアというオッサンはとにかく頑固かつ恐ろしいオッサンで、どこかに「重ね合わせ状況」に疑問を発したり「研究」したりするような科学者がいるとわざわざ出向いていってボーアの解釈(コペンハーゲン解釈と言ひます)に納得するよう折伏するような人だったらしい(笑)
ボーアとは立場を異にしたアインシュタインとの論争も有名である。
で、そういうボーアの折伏(笑)が功を奏したのか、20世紀初頭から現在にいたるまで、基本的にはこの「重ね合わせ」、「不確定性原理」については「コペンハーゲン解釈」という棚上げ式が圧倒的な主流であった。
その状態についての他の解釈もあるものの(エヴェレットの多世界解釈とか、デビッド・ボームのパイロット波解釈とかがある)、どういう「解釈」をしようが計算結果が一緒である以上は途中はどうでもいいぢゃん、という実利的な考えが勝利をおさめていたと言っていいのではないだろうか。
しかし、それぢゃぁ、シロウトとしてはおもろくないやんけ!
途中がどうなってるのか知りたいやんけ!
なんと今回の「マイナス一個の光子確認」(これは私の理解するところ不正確な表現である。「光子の存在確率がマイナス1になる」ということのようだ)は、その「重ね合わせ状況」を「観測対象に影響を与えずに」観測可能だと考えた1人のおっさんの理論が契機なのである。
その「ボーアに楯突く」英雄的なおっさんの名はヤキール・アハラノフ。
1932年、イスラエルはテルアビブに生まれた「天才的」な物理学者である。
前述したパイロット波解釈のデビッド・ボームとともに、アハラノフ=ボーム効果(Aharonov-Bohm effect)を理論的にその存在を予言し、ほぼ不可能と言われた検証実験を日本の物理学者外村彰氏が成功させた。
本実験はノーベル賞級であると聞き及びます。
ちなみに、アハラノフ=ボーム効果とは、「電場、磁場が存在しなくても、電子は電磁ポテンシャルの影響を受ける」という、全くわけのわからないものであります。
そして、アハラノフは「重ね合わせ」を壊さない「弱い測定理論」を発表し、今回の大阪大学チーム及び、トロント大学のその理論による実験の成功、そして「存在確率マイナス1」の確認、となるらしい。
「弱い測定理論」とは私が前回記事で書いたように、分りやすく言うならば「観測対象に影響を与えないようになんとか覗き見るというような、ベテランの出歯亀的観測方法」であります。
ですが、その測定方法の理論が、よい意味でとんでもない結論を導くのであります、出歯亀のくせに!
その「存在確率マイナス1」の意味、前回調べた限りではどうも「計算上はそうなる」というご意見の方が多かったようだが(私もその1人、って、わかって言っているわけぢゃないのですが。コメントを下さったNANさんも同様のご意見であったようだ)が、アハラノフの見解は違う。
彼は言う。
「裏返しの光子が実在する」と考えるべきである、と言うのである。(反粒子とは違う)
そしてまた、「未来が現在に影響する」などというとんでもないことを言い出すのであった、このおっさん!
続く。
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