| HOME |
「進化論と創造論」と「ウサギとカメ」
ある人と「がぶり寄りで有名な力士と言えば?」という話をしていた。
私にとっては「がぶり寄りと言えば荒瀬荒勢」であったが、そのある人は「琴風」であると主張した。
どう考えても関脇が最高位であった荒瀬荒勢より、大関に昇進した琴風を挙げたある人に分があると言わざるを得なかったので、わたくしは琴風に軍配をあげることに同意した。(と、思う)
なぜ私が「がぶり寄り」と言えば「荒瀬荒勢」になってしまってしたかと言うと、確か北の湖戦だったと思うのだけれど、荒瀬荒勢がもろ差しからがぶり寄っているにもかかわらず、後退させられていたのは荒瀬荒勢の方で、結局がぶり寄りの体制のまま押し出されてしまったという情けなくも強烈な印象が残っていたからである。
そのある人と私のやり取りを見ていて
「大天使がぶりより」
というダジャレを残した人がいる。
私のお気に入りのダジャレなのだが、これを発した人は他ならぬid:Pokopon氏、別名南郷力丸氏である。
南郷力丸氏はネット界隈では「悪辣」、「腹黒」、「油断がならぬ」等の形容でよく知られている怪人で、「pokoponにっき」なる「恐竜の子孫」や「走る女子高生」、あるいは「ドロンジョ様」等の写真を中心としたブログの主である。
その写真技術に対する評価は極めて高く、非常に残念なことながら美しい作品(写真に限らず)を残す人が美しい人格を持っているとは限らないという不幸な事実の歴然たる証拠になってしまっている罪深いブログでもある。
そんな南郷力丸氏が、以下のTogetterに私が残したブコメに対してidコールでひとことくださった。
Togetter - 「私たちはこういう立場はとりません。→ 聖書は正しく、進化論は間違い-から始まったやりとり」
そもそもこの件は:「聖書は正しく、進化論は間違い-クリスチャンは堂々と説明できるべき - キリスト教インターネット新聞クリスチャントゥデイ」という記事に対して一部から批判が集まったのが発端で、この記事を読んだおそらくはキリスト教信者のみなさんのツィッター上での会話をまとめたものが上のTogetterである。
Pokopon氏(南郷氏)のこのコメントを読んで、いつもながら上手いなぁ、という感想を抱くとともに、恐らくはネタを投入なさった南郷氏にバカにされることを覚悟でちょっとマジレスしたくなったのがこのエントリ。
クリスチャントゥデイの記事やTogetterで言われていることはようするに「創世記に書かれていること(さらには聖書に書かれていること)」をそっくりそのまま事実(史実)として扱うということである。
(Togetterのまとめ主は、そういう立場はとらない、とおっしゃっているわけだが)
「ウサギとカメ」で言うならばこんな内容のことをそのまま歴史上あったことだとして扱うということになる。
むかしむかし、ある暇なウサギがそのへんでのんびりしていたカメのことを、
「お前ほど歩みの遅い者は世界を見渡してみてもほかにいるまい。どうしてそんなにのろいのか」
と、上から目線で「バカなの?死ぬの?」とでも言わんばかりに動物共通語、ないしウサギ語で見下した。(ウサギ語だった場合、カメが反応したということはカメはウサギ語のたしなみがあったということであろう)
そんなことをいきなり言われたら、誰でも怒る。それは怒る。
ましてや「世界一のろい」とまで言われたのである。
カメは憤慨しつつ思ったに違いない。
「それは確かに私の歩みはのろい。しかし、世界一のろいというのは虚偽の陳述であり名誉毀損でさえある。例えば、カタツムリやナメクジ等は明らかに私よりのろいではないか」と。
カタツムリやナメクジの場合は「歩む」でなく「這う」なのであるが、そこはカメ畜生のあさましさ、自分の理屈に酔い、大いに立腹したことは想像に難くない。
そのいきなりのウサギの挑発的、冷笑的発言に対するカメの怒りに共感はできるものの、カメが愚かだと言わざるを得ないのは、「ヒトには(カメなんだけど)負けるとわかっていても挑まねばならぬ戦いがある」のようなチープなヒロイズムを発揮してしまったことである。
そこでカメは、聖書の「光あれ」にも比肩するとさえ言われる歴史に残る一言を動物共通語ないしカメ語で(カメ語だった場合ウサギが反応したということは(ry)発したのである。
すなわち、
「なにをおっしゃるウサギさん」
である。
お役だち一口メモ:これを書くために調べたのですが、実は「なんとおっしゃるウサギさん」が正しいのです。驚愕の事実。(それほどでもないか)
「なにをおっしゃるウサギさん」と言ってしまった以上、「そんならおまえとかけくらべ」と挑戦してしまうのは成り行きというものだが、余りにも無思慮な挑戦と言うべきである。
考えてもみてくれたまへ。
仮に、マイク・タイソンが私に
「ちょちょんまげよ、君は世界一ぼくしんぐが弱い。どうしてそんなに弱いのか」(元発言英語)
と見下し・挑発発言をし、私が憤慨して、
「なにをおっしゃるタイソンさん。世界一弱い、はないだろう。そんならおまえとぼくしんぐくらべ。(噛み付きなしで)」
とか返したならば、「愚鈍」、ないし「身の程知らず」としか言いようがあるまい。
ゴングが鳴るやいなや撲殺され、油断したタイソンがぐぅぐぅ寝てしまったところで、あとのフェスティバルというものである。
すなわち「ボクシング」や「総合格闘技」や「フルコンタクト空手」じゃなく、「かけくらべ」であったのがカメが極めてらっぴーだった点というべきである。
さて、ご承知のとおり、畜生の浅知恵で「むこうの小山のふもと」という極めてあやふやなゴールを設定した両者は「かけくらべ」を始め、大方の予想通りウサギの圧倒的優勢でレースは進み、ついにカメの姿が見えないところまで差がついてしまった。
こともあろうに、お話を面白くするためにウサギはここで寝こんでしまうのである。
なんという無理な設定であろう。
アブラハムの信仰心を試すために子を生贄にすることを求めた神のエピソードぐらい無理がある。
それはともかく、姿が見えないところまで離れたとしたら、いくらウサギが少しぐらい寝こんでいたところでカメの逆転は一日では無理なんじゃないかと思われるのだが、とりあえずカメが逆転勝利したということにしておこう。
さて、このお話からいくつかの教訓が得られることを「フィクションをベースに物事を判断することもたまにはあり」とPokopon氏(南郷氏)は主張なさっている。
即ちウサギ側から見た場合、「巨人の星」ですっかりおなじみになった「ライオンはウサギを倒すにも全力をつくす(この場合ウサギは負ける側だけど)」=「油断禁物」、「他人を上から目線でいきなり見下して批判したりしてはいけない。例え水伝やホメオパシー信奉者であっても」等。
カメ側から見た場合「けっして諦めてはいけない」、「どんなことでも可能性はある。たとえ低線量の短時間被曝でも鼻血が出る可能性はゼロではない」、「寝ている相手をそのままに気付かれないよう追いぬく、というスポーツマンシップにもとる行為を行おうとも、勝利を全てに優先させなければならない」等。
しかし、である。
このお話はもともとそういう教訓があってそれを読者に与えるために書かれたお話なのである。
であるからして、「教訓を読み取るためのお話から教訓を読み取って物事の判断のベースにする」というPokopon氏(南郷氏)の主張は極めてトートロジック(って言わないかな)なものと断ぜざるを得まい。
で、「ウサギとカメ原理主義者」、「ウサギとカメ逐語解釈主義者」の主張は「お話から教訓を読み取る」でなく、「ウサギがカメを上から目線でバカにしたあげく(ちゃんと何かしらの言語を使用して)かけくらべを行ったが、かなり無理な設定でウサギが油断負けを喫したという史実」が字句通り存在する、という主張なのであるね。
それに対し、「色々な証拠からかつてウサギとカメが競争した事実がないということの蓋然性は極めて高い」という「現代の知見による見解」がある。
で、「ウサギとカメ原理主義者」が提示したがる「証拠」と言えば、
「むかーし書かれた童話の本にそう書いてある」
だけなのである。
とっぴんぱらりのぷぅ
追記:id:buhikun様より、ブタ語で「荒瀬でなく荒勢である」とご指摘を受け、「五カ所」も修正いたしました。
buhikun様、ご指摘、こまんたれブー。旧荒勢関、ごめんたれブー。
再追記:とおもたら、荒勢関は1972年1月場所-1975年7月場所まで「荒瀬」っ!
私にとっては「がぶり寄りと言えば
どう考えても関脇が最高位であった
なぜ私が「がぶり寄り」と言えば「
そのある人と私のやり取りを見ていて
「大天使がぶりより」
というダジャレを残した人がいる。
私のお気に入りのダジャレなのだが、これを発した人は他ならぬid:Pokopon氏、別名南郷力丸氏である。
南郷力丸氏はネット界隈では「悪辣」、「腹黒」、「油断がならぬ」等の形容でよく知られている怪人で、「pokoponにっき」なる「恐竜の子孫」や「走る女子高生」、あるいは「ドロンジョ様」等の写真を中心としたブログの主である。
その写真技術に対する評価は極めて高く、非常に残念なことながら美しい作品(写真に限らず)を残す人が美しい人格を持っているとは限らないという不幸な事実の歴然たる証拠になってしまっている罪深いブログでもある。
そんな南郷力丸氏が、以下のTogetterに私が残したブコメに対してidコールでひとことくださった。
Togetter - 「私たちはこういう立場はとりません。→ 聖書は正しく、進化論は間違い-から始まったやりとり」
chochonmage 宗教, 進化論, 原理主義 どーにもわからん。なぜフィクションをベースに物事を判断しようとする?←その自由があることはもちろん前提。ただ私が理解できないだけ。 2011/07/08
Pokopon id:chochonmageさん。科学的には、ウサギとカメは競争をしないと考えられます。でも、競争をするというフィクションから、勝てるはずの勝負でも居眠りは避けるという判断をすることができます。 2011/07/09
そもそもこの件は:「聖書は正しく、進化論は間違い-クリスチャンは堂々と説明できるべき - キリスト教インターネット新聞クリスチャントゥデイ」という記事に対して一部から批判が集まったのが発端で、この記事を読んだおそらくはキリスト教信者のみなさんのツィッター上での会話をまとめたものが上のTogetterである。
Pokopon氏(南郷氏)のこのコメントを読んで、いつもながら上手いなぁ、という感想を抱くとともに、恐らくはネタを投入なさった南郷氏にバカにされることを覚悟でちょっとマジレスしたくなったのがこのエントリ。
クリスチャントゥデイの記事やTogetterで言われていることはようするに「創世記に書かれていること(さらには聖書に書かれていること)」をそっくりそのまま事実(史実)として扱うということである。
(Togetterのまとめ主は、そういう立場はとらない、とおっしゃっているわけだが)
「ウサギとカメ」で言うならばこんな内容のことをそのまま歴史上あったことだとして扱うということになる。
むかしむかし、ある暇なウサギがそのへんでのんびりしていたカメのことを、
「お前ほど歩みの遅い者は世界を見渡してみてもほかにいるまい。どうしてそんなにのろいのか」
と、上から目線で「バカなの?死ぬの?」とでも言わんばかりに動物共通語、ないしウサギ語で見下した。(ウサギ語だった場合、カメが反応したということはカメはウサギ語のたしなみがあったということであろう)
そんなことをいきなり言われたら、誰でも怒る。それは怒る。
ましてや「世界一のろい」とまで言われたのである。
カメは憤慨しつつ思ったに違いない。
「それは確かに私の歩みはのろい。しかし、世界一のろいというのは虚偽の陳述であり名誉毀損でさえある。例えば、カタツムリやナメクジ等は明らかに私よりのろいではないか」と。
カタツムリやナメクジの場合は「歩む」でなく「這う」なのであるが、そこはカメ畜生のあさましさ、自分の理屈に酔い、大いに立腹したことは想像に難くない。
そのいきなりのウサギの挑発的、冷笑的発言に対するカメの怒りに共感はできるものの、カメが愚かだと言わざるを得ないのは、「ヒトには(カメなんだけど)負けるとわかっていても挑まねばならぬ戦いがある」のようなチープなヒロイズムを発揮してしまったことである。
そこでカメは、聖書の「光あれ」にも比肩するとさえ言われる歴史に残る一言を動物共通語ないしカメ語で(カメ語だった場合ウサギが反応したということは(ry)発したのである。
すなわち、
「なにをおっしゃるウサギさん」
である。
お役だち一口メモ:これを書くために調べたのですが、実は「なんとおっしゃるウサギさん」が正しいのです。驚愕の事実。(それほどでもないか)
「なにをおっしゃるウサギさん」と言ってしまった以上、「そんならおまえとかけくらべ」と挑戦してしまうのは成り行きというものだが、余りにも無思慮な挑戦と言うべきである。
考えてもみてくれたまへ。
仮に、マイク・タイソンが私に
「ちょちょんまげよ、君は世界一ぼくしんぐが弱い。どうしてそんなに弱いのか」(元発言英語)
と見下し・挑発発言をし、私が憤慨して、
「なにをおっしゃるタイソンさん。世界一弱い、はないだろう。そんならおまえとぼくしんぐくらべ。(噛み付きなしで)」
とか返したならば、「愚鈍」、ないし「身の程知らず」としか言いようがあるまい。
ゴングが鳴るやいなや撲殺され、油断したタイソンがぐぅぐぅ寝てしまったところで、あとのフェスティバルというものである。
すなわち「ボクシング」や「総合格闘技」や「フルコンタクト空手」じゃなく、「かけくらべ」であったのがカメが極めてらっぴーだった点というべきである。
さて、ご承知のとおり、畜生の浅知恵で「むこうの小山のふもと」という極めてあやふやなゴールを設定した両者は「かけくらべ」を始め、大方の予想通りウサギの圧倒的優勢でレースは進み、ついにカメの姿が見えないところまで差がついてしまった。
こともあろうに、お話を面白くするためにウサギはここで寝こんでしまうのである。
なんという無理な設定であろう。
アブラハムの信仰心を試すために子を生贄にすることを求めた神のエピソードぐらい無理がある。
それはともかく、姿が見えないところまで離れたとしたら、いくらウサギが少しぐらい寝こんでいたところでカメの逆転は一日では無理なんじゃないかと思われるのだが、とりあえずカメが逆転勝利したということにしておこう。
さて、このお話からいくつかの教訓が得られることを「フィクションをベースに物事を判断することもたまにはあり」とPokopon氏(南郷氏)は主張なさっている。
即ちウサギ側から見た場合、「巨人の星」ですっかりおなじみになった「ライオンはウサギを倒すにも全力をつくす(この場合ウサギは負ける側だけど)」=「油断禁物」、「他人を上から目線でいきなり見下して批判したりしてはいけない。例え水伝やホメオパシー信奉者であっても」等。
カメ側から見た場合「けっして諦めてはいけない」、「どんなことでも可能性はある。たとえ低線量の短時間被曝でも鼻血が出る可能性はゼロではない」、「寝ている相手をそのままに気付かれないよう追いぬく、というスポーツマンシップにもとる行為を行おうとも、勝利を全てに優先させなければならない」等。
しかし、である。
このお話はもともとそういう教訓があってそれを読者に与えるために書かれたお話なのである。
であるからして、「教訓を読み取るためのお話から教訓を読み取って物事の判断のベースにする」というPokopon氏(南郷氏)の主張は極めてトートロジック(って言わないかな)なものと断ぜざるを得まい。
で、「ウサギとカメ原理主義者」、「ウサギとカメ逐語解釈主義者」の主張は「お話から教訓を読み取る」でなく、「ウサギがカメを上から目線でバカにしたあげく(ちゃんと何かしらの言語を使用して)かけくらべを行ったが、かなり無理な設定でウサギが油断負けを喫したという史実」が字句通り存在する、という主張なのであるね。
それに対し、「色々な証拠からかつてウサギとカメが競争した事実がないということの蓋然性は極めて高い」という「現代の知見による見解」がある。
で、「ウサギとカメ原理主義者」が提示したがる「証拠」と言えば、
「むかーし書かれた童話の本にそう書いてある」
だけなのである。
とっぴんぱらりのぷぅ
追記:id:buhikun様より、ブタ語で「荒瀬でなく荒勢である」とご指摘を受け、「五カ所」も修正いたしました。
buhikun様、ご指摘、こまんたれブー。旧荒勢関、ごめんたれブー。
再追記:とおもたら、荒勢関は1972年1月場所-1975年7月場所まで「荒瀬」っ!
<<タイトルなし | ホーム | webronza騒動のおかげでブログ更新(2)>>
Comments
姑息なカメ
祝・ぺんぺん草除去
Aさんが飼い犬をトリートメントに連れて行こうとしたところ、犬がどこかに行ってしまっておりません。これは大変です。もし犬がいなくなったことが配偶者にばれてしまったら、Aさんには悲惨な運命が待ちかまえております。
聖書には、神はいなくなった子羊を捜し出してくるよき羊飼いだとあります。でもいなくなった羊を捜してくれても、犬は捜してくれるとは書いていません。Aさんは神にお願いするのをやめました。
同じく、Bさんの犬もいなくなりました。しかしBさんは、いなくなった「羊」というのは例示であり、犬も捜してくれるだろうと、神様にお願いすることにしました。
同じく、Cさんの犬もいなうなりました。Cさんは、そもそも「よき羊飼い」というのは「モノの例え」であり、羊飼いと羊ということで、神と人の関係を説明してるのだから、神様というのは、いなくなった家畜を捜したりする存在ではないと考え、さっさと自分で探しに行きました。
さて、Dさんの犬はいなくなってはいませんが、そもそも「よき羊飼い」というのは「例え話」だと聖書にも書いてあるんだし、Cさんが正しいと思いました。しかしながら、聖書に「例え話」とは書いてないことは事実だから、神様がこの世界や生物を創造したのは正しいと考えていました。
一方、Eさんはそもそも犬を飼っていませんが、聖書にいっぱい例え話が載っているわけだから、少なくとも、事実だと考えられる話以外は「例え話」との記述の有無に関わらず、比喩的表現だと解釈すべきと考えています。なので、神様がこの世界や生物を創造したというのも「モノの例え」だから、それが事実かを論じるのは、神様が羊は捜すが犬は捜すかを論ずる程度にアホらしいと思っています。
そしてFさんは猫を飼っていますが、犬はどうでもいいと思っているわけですが、聖書は比喩的表現で出来ているのだから、そもそも神様だって「モノの例え」なんだろうと思っています。
この6人はいずれもが「聖書は正しい」と判断の根拠にしているわけですが、比喩についての解釈が違うわけです。元々の話題も、Dさんみたいな人が書いたことに対し、Eさんのような立場の人がつぶやいたように、私には読めます。
さて、このコメントで紹介した話はフィクションであり、出てくる6人とも架空の人物です。なので、犬がいなくなったことが配偶者にばれると悲惨なことになるというのも架空の話ですが、犬よりも猫を飼うべきだという判断の根拠にはなりうるでしょう。
聖書には、神はいなくなった子羊を捜し出してくるよき羊飼いだとあります。でもいなくなった羊を捜してくれても、犬は捜してくれるとは書いていません。Aさんは神にお願いするのをやめました。
同じく、Bさんの犬もいなくなりました。しかしBさんは、いなくなった「羊」というのは例示であり、犬も捜してくれるだろうと、神様にお願いすることにしました。
同じく、Cさんの犬もいなうなりました。Cさんは、そもそも「よき羊飼い」というのは「モノの例え」であり、羊飼いと羊ということで、神と人の関係を説明してるのだから、神様というのは、いなくなった家畜を捜したりする存在ではないと考え、さっさと自分で探しに行きました。
さて、Dさんの犬はいなくなってはいませんが、そもそも「よき羊飼い」というのは「例え話」だと聖書にも書いてあるんだし、Cさんが正しいと思いました。しかしながら、聖書に「例え話」とは書いてないことは事実だから、神様がこの世界や生物を創造したのは正しいと考えていました。
一方、Eさんはそもそも犬を飼っていませんが、聖書にいっぱい例え話が載っているわけだから、少なくとも、事実だと考えられる話以外は「例え話」との記述の有無に関わらず、比喩的表現だと解釈すべきと考えています。なので、神様がこの世界や生物を創造したというのも「モノの例え」だから、それが事実かを論じるのは、神様が羊は捜すが犬は捜すかを論ずる程度にアホらしいと思っています。
そしてFさんは猫を飼っていますが、犬はどうでもいいと思っているわけですが、聖書は比喩的表現で出来ているのだから、そもそも神様だって「モノの例え」なんだろうと思っています。
この6人はいずれもが「聖書は正しい」と判断の根拠にしているわけですが、比喩についての解釈が違うわけです。元々の話題も、Dさんみたいな人が書いたことに対し、Eさんのような立場の人がつぶやいたように、私には読めます。
さて、このコメントで紹介した話はフィクションであり、出てくる6人とも架空の人物です。なので、犬がいなくなったことが配偶者にばれると悲惨なことになるというのも架空の話ですが、犬よりも猫を飼うべきだという判断の根拠にはなりうるでしょう。
横からすみませんが
南郷力丸さん、犬をトリートメントに連れて行く飼い主はあんまりいないんじゃないでしょうか。それをいうならグルーミングではないかと思うんですが。
No hair
私ゃ、犬を飼ってないし、飼おうとも思わないし、そもそも興味ないんで、トリートメントかトリミングかグルーミングか、よくわからんのです。まあ、モノのタトエだし。
今まで飼ったことがある、モリアオガエルもメダカもイシガメも、3.11以前から毛がなかったし。
今まで飼ったことがある、モリアオガエルもメダカもイシガメも、3.11以前から毛がなかったし。
nobuさん
閑散としたブログにいつもコメントをありがとうございます。
>「山のてっぺんがゴールだ」と勝手にルール変更した疑いがあります。」
なるほどぉ。「山の麓」というあやふやな設定をしたのはそもそもカメですしね。国旗・国歌同様、設定者が恣意的な運用を図る例と言えそうです。
南郷氏は例によって難解なレスをくださってます。
なんて悪辣な人なんでせうね。
>「山のてっぺんがゴールだ」と勝手にルール変更した疑いがあります。」
なるほどぉ。「山の麓」というあやふやな設定をしたのはそもそもカメですしね。国旗・国歌同様、設定者が恣意的な運用を図る例と言えそうです。
南郷氏は例によって難解なレスをくださってます。
なんて悪辣な人なんでせうね。
にゃんごーりきまるさま
コメントありがとうごぢゃます。
ちょっと待っておくんなさい。
>この6人はいずれもが「聖書は正しい」と判断の根拠にしているわけですが
が、わかりません。Eさんなんかは正しい正しくないでなく「そういう記述があることを知っている」だけで、「聖書は正しい」ことを判断の根拠にしているとは思えませんが??
ちょっと待っておくんなさい。
>この6人はいずれもが「聖書は正しい」と判断の根拠にしているわけですが
が、わかりません。Eさんなんかは正しい正しくないでなく「そういう記述があることを知っている」だけで、「聖書は正しい」ことを判断の根拠にしているとは思えませんが??
ばらこさま
コメントありがとうございます。
そもそも犬がいなくなったのはグルーミングに連れていったときじゃありません。
南郷さんは「比喩」っぽく「デマ」を飛ばしているのです。
そもそも犬がいなくなったのはグルーミングに連れていったときじゃありません。
南郷さんは「比喩」っぽく「デマ」を飛ばしているのです。
ぺんぺん草まであと5日
以前にうちで書いたのですが「クジラは魚ではない」と「理解している」のではなく「信じている」というような人が世の中にはいます。科学も宗教と同じく「信じる」ものだと考える人ですね。
最近よく言われてるサイエンスコミニュケーションの問題でも、根本的な断絶はここにあるように思います。腐った米のとぎ汁だの砂糖玉だのが放射能除去には無意味でかえって害がある、ということを理解させようとしても、そもそも相手は、腐った米のとぎ汁が有効だと誤って「理解している」わけじゃないのです。「信じている」わけなのです。誤って「理解している」相手なら、誤っていると理解させようとすればいいんですが、「信じている」相手に理解させようとするのは大変です。内容を理解させる以前に、世の中には「信じる」ことより「理解する」方が優先すべきことがある、ということから、認識させる(まずは、信じるのでも理解するのでもいいけど)必要があるわけです。
さて、カメさんの話に戻りますと、カメが「愚鈍」あるいは「身の程知らず」ではなかった、むしろ極めて計算高いという可能性があります。
カメにはかけくらべの結果がどうあれ、失うものがないのです。つまり、負けたって、それが当然なのです。この競争における「勝ち・負け」には対称性がありません。ウサギには「当然」か「負け」、カメには「当然」か「勝ち」という結果しかないのです。
プロの将棋指しがちょちょんまげさんを見下して一局いたそうとした場合、ちょちょんまげさんは負けると予測できます。しかし、プロ相手に負けたって当然のことなのです。もしウサギのカメの話を知っていれば、「ひょっとして、持ち時間が余って退屈したプロの棋士は、女流棋士といたすかも知れないし、ついそっちに熱中したり、あるいは痴話喧嘩が始まってしまい、プロが時間切れで負けるかも知れない」と判断することが出来ます。極めて無理のある推定であっても、ちょちょんまげさんにあるのは「当然」か「勝ち」なのです。それなら、受けてみようと思うでしょ。
ウサギとカメの話によって、「失うものが全くなく、きわめて可能性が低いにしろ、得られるものがあるかもしれないなら、やってみるのが吉」ということが理解できるわけです。ところが、同じことを「信じる」ためには、フィクションを元にしてはいけないのです。「信じる」ことに必要なのは、ウソでも実例なのです。なので、フィクションを実話としてしまう必要があるのです。
なぜフィクションをベースに物事を判断しようとする?
世のモノゴトを「理解する」ためにはフィクションがベースであっても差し支えにゃーのです。ところが「信じる」ためにフィクションがベースではいけないから、そういう人にとってはフィクションではないのです。
「聖書は正しい」と「理解する」タイプの人が言う場合、書かれている内容はフィクションであるが、それによって得られる価値観は正しい、という意味なのです。「信じる」タイプの人が言うと、それはフィクションじゃないもん、皆ホントやもん、ということなのです。それを一緒にしちゃぁいけません。
最近よく言われてるサイエンスコミニュケーションの問題でも、根本的な断絶はここにあるように思います。腐った米のとぎ汁だの砂糖玉だのが放射能除去には無意味でかえって害がある、ということを理解させようとしても、そもそも相手は、腐った米のとぎ汁が有効だと誤って「理解している」わけじゃないのです。「信じている」わけなのです。誤って「理解している」相手なら、誤っていると理解させようとすればいいんですが、「信じている」相手に理解させようとするのは大変です。内容を理解させる以前に、世の中には「信じる」ことより「理解する」方が優先すべきことがある、ということから、認識させる(まずは、信じるのでも理解するのでもいいけど)必要があるわけです。
さて、カメさんの話に戻りますと、カメが「愚鈍」あるいは「身の程知らず」ではなかった、むしろ極めて計算高いという可能性があります。
カメにはかけくらべの結果がどうあれ、失うものがないのです。つまり、負けたって、それが当然なのです。この競争における「勝ち・負け」には対称性がありません。ウサギには「当然」か「負け」、カメには「当然」か「勝ち」という結果しかないのです。
プロの将棋指しがちょちょんまげさんを見下して一局いたそうとした場合、ちょちょんまげさんは負けると予測できます。しかし、プロ相手に負けたって当然のことなのです。もしウサギのカメの話を知っていれば、「ひょっとして、持ち時間が余って退屈したプロの棋士は、女流棋士といたすかも知れないし、ついそっちに熱中したり、あるいは痴話喧嘩が始まってしまい、プロが時間切れで負けるかも知れない」と判断することが出来ます。極めて無理のある推定であっても、ちょちょんまげさんにあるのは「当然」か「勝ち」なのです。それなら、受けてみようと思うでしょ。
ウサギとカメの話によって、「失うものが全くなく、きわめて可能性が低いにしろ、得られるものがあるかもしれないなら、やってみるのが吉」ということが理解できるわけです。ところが、同じことを「信じる」ためには、フィクションを元にしてはいけないのです。「信じる」ことに必要なのは、ウソでも実例なのです。なので、フィクションを実話としてしまう必要があるのです。
なぜフィクションをベースに物事を判断しようとする?
世のモノゴトを「理解する」ためにはフィクションがベースであっても差し支えにゃーのです。ところが「信じる」ためにフィクションがベースではいけないから、そういう人にとってはフィクションではないのです。
「聖書は正しい」と「理解する」タイプの人が言う場合、書かれている内容はフィクションであるが、それによって得られる価値観は正しい、という意味なのです。「信じる」タイプの人が言うと、それはフィクションじゃないもん、皆ホントやもん、ということなのです。それを一緒にしちゃぁいけません。
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
Comment Form
Trackback
| HOME |
カメのやり方は「強制ではない」という前提で君が代日の丸を国歌国旗に決めたのに条例まで作って強制する詐欺行為に似ています。
という冗談はおいといて・・・
何かから教訓を得たとして、その何かがフィクションであるかノンフィクションであるか判断できないのは問題です。(もしくは判断しかねることであれば保留する姿勢がもてるか)
私のお気に入りでほぼ毎日訪問している「Pokoponにっき」の南郷さんの一言からは「宗教」は「ウサギとカメ」と同じくらいフィクションであるとおっしゃっているようにも受け取れます。