「東方シフト」を強めるロシアが近年、北方領土の実効支配を強化している。北方領土を訪れ、空港、港湾、道路などのインフラがほぼ整った現状を見てきた。返還交渉を進める上で極めて厳しい現実がそこにあった。

国後島の玄関口、古釜布湾に沈む座礁船。北方領土沖では、資金難のために座礁船が放置され、船の墓場状態になっている。だが近年のインフラ資金の投入で引き揚げ作業が始まりつつある(写真:記事中すべて鵜飼 秀徳)
国後島の玄関口、古釜布湾に沈む座礁船。北方領土沖では、資金難のために座礁船が放置され、船の墓場状態になっている。だが近年のインフラ資金の投入で引き揚げ作業が始まりつつある(写真:記事中すべて鵜飼 秀徳)
北方領土 基本データ
日本本土からの最短距離 根室・納沙布岬から貝殻島まで3.7km、水晶島まで7km
主要な島と沖縄本島との比較 択捉島(約2.6倍)、国後島(1.2倍)、色丹島(0.2倍)
ロシアの行政区分 択捉島はクリル地区、ほかの島は南クリル地区
現在の人口 択捉島(6157人)、国後島(6937人)、色丹島(3252人)、歯舞群島(国境警備隊のみ駐留)
終戦時の日本人居住数 1万7291人
現在の元島民 6596人(2013年時点)

 記者が初めて北方領土を訪れたのは2012年8月。日露の民間交流を目的にした枠組み、ビザなし訪問団に参加し今回で3度目になる。北方領土の変化をウオッチしていると、島が急激に「近代化」し、ロシアの実効支配が強化されてきていることが分かる。

 今回訪れたのは国後(くなしり)島と択捉(えとろふ)島だ。7月3日、北方領土の玄関口の国後島・古釜布(ふるかまっぷ)にまず上陸。ここには約6900人のロシア人が暮らす。丘陵地帯に木造住宅群が広がり、街の中心に行政府や教会、学校、商店、病院、レストランなどが点在する。島民の文化的な暮らしを支える体制が整っているようだ。至る所で目についたのが、道路と集合住宅の建設ラッシュ。国後島での道路舗装は、2012年に本格的に始まった。

国後島の道路工事の様子。道路の右奥に携帯電話のアンテナが立つ
国後島の道路工事の様子。道路の右奥に携帯電話のアンテナが立つ

 だが、インフラ整備が始まったのはここ5年ほどのこと。以前の道路は車が走れば土埃(ぼこり)がもうもうと上がり、雨の日にはぬかるみができて、冬場の移動は困難な状態だった。アパートも旧ソ連時代からのボロボロの木造住宅が多く、集落全体が褐色で暗い雰囲気を漂わせていた。ロシアからすれば北方領土は最果ての地。手厚い「僻地手当」を支給して、住民の流出を辛うじて食い止めていた。未開発がずっと続いていた理由には、「いつ日本に返還してもいいように」とのロシア側の思惑があった、との見方もある。

 それがいよいよ、択捉・国後・色丹(しこたん)の3島で開発ラッシュを迎えている[歯舞(はぼまい)群島には一般住民は住んでいない]。住宅は思い思いの色のペンキで塗られ、街全体がメルヘンチックな雰囲気を醸す。根室港から国後島までは船で5時間ほどだが、完全に異国の情緒だ。国後島を管轄する南クリル行政府の責任者は、開発への意気込みを強調する。

 「年1億ルーブル(約1億7300万円)の住宅予算を確保し、アパート8棟の建設と古い住宅の改装を実施している。街が新しくなれば、若い人がこの地にとどまることができる」

 インフラ整備はロシアの国家プロジェクトとして実施されている。2007年から始まったクリル(千島)社会経済発展計画だ。同計画は2025年までの計画で、投資総額は計1210億ルーブル(約2093億円)に膨らんでいる。

 中心街の道路工事現場では、中央アジア系らしき肌の黒い作業員を目撃した。記者は過去にも択捉島で韓国人、色丹島で北朝鮮人を発見している。彼らはロシアの土木関連企業に雇われている季節労働者だ。アジアの労働者を北方領土に入れることは、日本に対する当てこすりのようにさえ思える。

大型機が離着陸できる空港も

 場所は変わって国後島から船で8時間の距離にある択捉島。ここではさらに大掛かりなプロジェクトがいくつも進行していた。目玉が7年の歳月を経て昨秋に完成したばかりの空港だ。滑走路の長さは2400mで、380人程度が乗れるB777型機の離着陸も可能だ。

 既に運用がスタートしており、サハリンとの間に定期便がある。空港の完成で冬季も安定的に往来ができるようになった。就航便はほぼ満席状態。「国際空港化の予定はあるか?」と空港責任者に問うと、「あるよ。日本ともぜひ定期便を結びたいね」と返してきた。

 「空」に加えて「海」の実効支配も進む。択捉島の内岡港では7つの巨大桟橋が10年がかりで完成したばかり。訪れた時は工事の最終段階で、冷戦期に打ち捨てられた座礁船(記事冒頭の写真は国後島沖)の撤去作業と浚渫(しゅんせつ)工事の真っ最中だった。桟橋の完成で大型客船の着岸が可能になった。海外と結ばれると工事関係者以外に観光客も島に入ってくる可能性がある。

 既に、択捉島にはホテルが3軒存在し、バックパッカーらが島に入ってきているという。あるロシア人は「米国、韓国、ブラジル人などが入っている。島には泥温泉があり、みんなそこを訪れている」と明かした。

 ロシア人以外の流入者が増えることは、領土交渉の大きな障害になる。ロシアの実効支配が国際的に既成事実化していくからだ。

 外務省は現在、日本人が「ビザなし」以外の手段で北方四島に入ることを原則、禁じている。領土問題が解決しない以上、日本は手出しができないのが実情だ。

 北方領土は、世界的にも貴重な「未開の地」である。北方領土の占領後、最近まで、図らずもロシア側の開発はさほど進まなかった。その結果、手付かずの大地が残された。

ベーリング海より豊かな海

 だから当地では様々な資源が眠っている可能性がある。領土返還の折、確実に果実を得ることができるとされるのが漁業資源だ。仮に北方領土が戻ってきた場合の漁業資源の生産高は、年間数百億円とも言われる。ビザなし訪問に同行した北海道大学の小城春雄・名誉教授はこの海の資源に着目する。

 「北方領土海域は石狩川の18倍の流量を誇るアムール川からオホーツク海へと流れ出る鉄分のおかげで植物プランクトンが大増殖する。世界でもまれに見る豊穣の海だ。このオホーツク海の漁業の生産量は年間5500万トンにも及び、表層魚のほか、200~1000m以下の中深層性魚類は単位面積当たり換算でベーリング海の1.6倍もある」

 海域ではサンマ、マイワシなどのほか、そうした魚をエサとするクジラやイルカ、さらにはラッコやシャチなども多数生息する。小城氏によれば、「海域を含めた自然保護対策は日本よりもはるかに進んでいて、かなり保全された状態」だという。

 そうした豊穣の海を求め、日本はロシア側にカネを払って操業しているのが実情だ。例えばスケソウダラ漁やホッケ漁、サケ・マス漁、コンブ漁などでは漁獲量や操業船数などを決めた上で毎年、ロシア側に数千万~数億円の協力金を支払っている。だが、ルールを破って拿捕されるトラブルも生じている。北方領土問題の解決は日本の食料事情の改善と、漁業従事者の安全が確保される両面のメリットがある。

 「北方領土の価値」は、海洋資源だけではない。大きな可能性を秘めるのは領土問題が解決することで、新たな観光名所になり得ることだ。例えば、択捉島や国後島には良質の温泉が至る所に湧いており、リゾート産業への期待も高まる。色丹島も戦前は「東洋の箱庭」と呼ばれ、国立公園の候補地にもなっていた場所だ。

 例えば1972年に米国から返還された沖縄県。2012年の旅行・観光の経済波及効果および付加価値誘発効果は約1兆264億円に上る。雇用誘発効果は8万1000人だ。

 実は北方領土の面積は択捉島だけを見ても沖縄本島の2.6倍、国後島でも1.2倍ある。北方領土問題対策協会の理事長で日本ユネスコ協会連盟正会員の荒川研氏は「手付かずの自然が残された北方四島は世界遺産候補に十分なり得る。紛争を解決するための方策としても日露共同登録が有効」と話す。

 ところが当地は既に、ロシアの手によって観光事業計画が進行中だ。数年前には、択捉島に瀟洒(しょうしゃ)な温浴施設が開業した。ステンドグラスがはまった内湯には褐色の湯が満たされている。足湯や海を見晴らせる露天風呂も備え、地元民の憩いの場になっている。

 また同島で目下、建設中なのが島で勃興した財閥ギドロストロイが手掛けるVIP(最重要人物)専用リゾート施設。湾に面する風光明媚な立地に、2階建ての宿泊棟のほか、サウナ付きプールを備える予定だ。モーターボートの係留施設も造られ、VIPはサハリンからダイレクトに、このリゾートに訪れることができるようになる。

 ギドロストロイの関係者は「空港もできた。プライベートジェットで来るのもよし、モーターボートで来るのもよし。島ではクマ撃ちや巨大魚フィッシングなどが楽しめる。政界、財界のトップが大自然と戯れることのできる最高のリゾートになるだろう」と話す。

 ロシアは近年、しきりに日本に対し、北方領土を含む極東開発における共同事業への参画を呼びかける。同時に「日本が参加しなければ、韓国や中国などが入ることになる」と脅しも繰り返す。日本政府は「経済協力よりも領土問題の解決が先」と正反対の立場を貫く。

 日露相いれない平行線を、これからもたどるのか。かつて1万7000人以上いた北方領土の元島民は既に半数以上が死亡。残った島民も今年、平均年齢が80歳を超えた。彼らに残された時間は少ない。

 安倍晋三政権発足後、両国の関係は良好だった。2012年3月、大統領選挙を前にしたプーチン首相(当時)は、「両国民が受け入れ可能な妥協が必要だ。(柔道でいう)ヒキワケのようなものだ」と発言。色丹・歯舞の2島の引き渡しか、さらにプラスアルファの果実がもたらされるのではとの臆測を呼んだ。

 だが昨年、クリミア併合問題が勃発。米欧日の対露制裁が発動し日露関係は暗転する。ロシアは今年に入り日本側に揺さぶりを掛けてきている。下の表は近年の日露関係を「ポジティブ・ネガティブ」に分けたものだ。明らかにクリミア危機以降、関係が緊迫している。

 極めつきは8月22日、メドベージェフ首相による択捉島の訪問だった。首相は「島は我々の領土だ。これからも訪れる」と挑発した。このロシア側のシグナルをどう受け取るべきだろうか。

 「楽観的に言えば日露関係を前に進める上でのロシア側のポジション取り。悲観的に言えば経済協力を含めて、もはや日本には多くを期待できないとするロシアの見限り」。こう語るのは東京財団の畔蒜泰助氏だ。

 同氏によれば、官邸はプーチン大統領訪日の方針を変えていない。政権支持率が下がりつつある中、領土交渉への糸口を見つけたい官邸の思惑がありそうだ。楽観論が功を奏するか否かは、現時点では不明である。逆に悲観論が真実だとするならば、北方領土交渉はより厳しい局面を迎えることになる。

 一方で次のような見方もある。「かつては双方の存在がなくても生きていける日露だったが、双方が必要とする時期に来ている」(ロシア経済を専門とする立正大学経済学部の蓮見雄教授)。

 こう話す根拠として、同教授はロシアが近年、主にエネルギー戦略で「東方シフト」を強めていることを挙げる。石油や天然ガスを産出するロシアは、GDP(国内総生産)の20~25%をエネルギー部門に依存している。特に欧州連合(EU)加盟諸国は、ロシアにとって最大のエネルギー輸出相手国だ。石油は88%、天然ガスは70%がEU向けである(2010年の実績)。

EUのロシア離れで日本に秋波

日露の経済協力はこれから
●北方領土の潜在的資源
水産資源 カラフトマス、サケ、コンブ、カニ、ウニ、エビ、アワビなど
地下・海底資源 金、銀、天然ガス、メタンハイドレート、硫黄など?
生息する動植物 ラッコ、アザラシ、エトピリカ、オロロン鳥、ヒグマ、シマフクロウ、グイマツ、カタオカソウ(千島固有種)など
名所 爺爺岳、ソコボイの滝、材木岩、一菱内湖(以上、国後島)、西単冠山、散布山、ラキベツ滝(日本一の落差141m)、ライオン岩のエトピリカ生息地(以上、択捉島)など

 ところが近年、EUのロシア離れが加速している。きっかけは2009年、ロシアとウクライナのガス紛争だった。EUはエネルギーのロシア依存からの脱却にかじを切る。EUは国境を越えて国家間でエネルギーを融通し合うことを定めた市場統合を進めている。

 また、北米のシェールガスの台頭により価格競争が激化し、EUはロシアに天然ガスの値下げを迫っている。つまりエネルギー市場が、EU側の買い手市場へとシフトし、ロシアは東方に活路を見いだしているというわけだ。2012年末、ロシアは東シベリア太平洋石油パイプライン(ESPO)を完成させた。輸出相手国は中国や日本だ。

 東方シフトを進める理由は、まだある。極東ロシアの人口は直近で約625万人と減少傾向。一方、中国東北3省(黒竜江・吉林・遼寧)は1億人以上が住み、「ロシアは地政学的脅威を感じている」(蓮見教授)。

 8月、プーチン政権は「北方領土を含む極東の遊休地を、ロシアの国民に無償で分け与える」と表明、日本政府は不快感を示した。だがこれはロシアの日本に対するけん制というよりも中国への脅威に備える意味が大きい。開発や要人の視察は実効支配の強化でしかないが、ユーラシア全体を俯瞰すればロシアの東方シフトには合理性がある。

 ロシアの東方シフトは日本に経済的な利益をももたらす。蓮見教授は「ロシアの東方シフトに対し、日本は経済協力をしていいものかどうか、逡巡している。領土問題があろうと日本の独自性を発揮することこそが、これからの日本の外交の肝になってくる」。日本の「自立」こそが、領土問題解決の一番の近道なのかもしれない。

元北方領土島民 松村智氏(83歳)の独白
「島は永遠に戻ってこないのでは」

 私は国後島に14歳まで住んでいました。もう年が年だから、今回が最後の訪問になるという特別な気持ちで参加しました。かつて国後島で同じ学校に通った同級生は1人しか残っていません。多くの元島民が高齢になって弱り、島を訪れることが困難になっています。

 毎回、島を訪れるたびに、島が発展している印象があります。一昨年訪れた時は、欧米人とおぼしき季節労働者が島に入り、インフラ工事に従事している姿を目撃しました。(ロシアの実効支配が強まり)北方領土はもう戻ってこない印象を強くしています。永遠に戻ってこないのではとさえ思います。

 今秋に安倍首相とプーチン大統領の首脳会談が予定されていますが、それも期待はできません。

 いろいろな意見はあるでしょうが、個人的には色丹、歯舞群島の2島先行返還でもいいと思っています。そうすれば択捉、国後の2島への入域も可能になるからです。

 北海道の漁業関係者は、北方領土海域の海産物をカネを払ってロシアから買っています。領土問題が解決しない限り、ロシアのルールを守らなければ拿捕されます。昔、国後島を訪れた時、港に拿捕されていた日本の漁船がずらりと並べて係留されており、やはりこの地はロシアが支配しているのだと感じました。ロシアはソ連時代から「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」という感覚なんです。ですが色丹、歯舞だけでも決着がつけば、自由に海域で操業できます。

 北方領土が占領され70年が経過し、元島民が完全にいなくなるのは時間の問題です。だからといって交渉を滞らせることはあってはいけません。私たち島を知る者がいなくなっても2世、3世が意志を継いでくれています。安倍首相には、ぜひともこの島に入っていただき、元島民の心をくみ取っていただきたいと思います。

 仮に北方領土が日本に取り戻せても、ここに住んでいるロシア人を追い出すわけにはいきません。いずれにしても北方領土は日本人とロシア人が一緒に住み、共存共栄していくことになると思います。(談)

(日経ビジネス2015年9月28日号より転載)

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