昨年末、2016年12月22日午前10時20分頃に発生した新潟県糸魚川市の大火から2週間が過ぎた。
現地では、3月末までに民有地のがれきを撤去すべく、その作業が1月6日に開始。被災された方々にとっては「がれきの撤去は一日も早く」という思いだろう。
その一方で、被災地以外の人々はあの大火を急速に忘れ始めている感がある。
被災された方々にとって今年の新年は、それぞれの生活、それぞれの住まい、それぞれのビジネスの再興を目指す厳しい決意で迎えたはずだが、新年のテレビ番組では糸魚川市への励ましや支援の思いを込めた放送もほとんどなかった。
熊本地震、鳥取県中部地震、台風10号の北海道や岩手県岩泉町水害、そして糸魚川火災。災害多発時代ゆえ、私たちは「我が身にふりかからなかった」巨大災害に対してかなり鈍感になっている。
だが、同じような巨大災害は自分が暮らす土地に見舞う可能性がある。
私の家が、私の会社が、私の街が炎に包まれないとは言い切れない。
明日にでも「我が身にふりかかる」かもしれない災害を防ぎ、あるいは被害をできるだけ少なくするためには、巨大災害の被災地からできるかぎりの「教訓」を得なくてはいけない。
「我が身にふりかからなかった」からと言って、早々と忘れてはいけない。
糸魚川火災から4日後の2016年12月26日の早朝、糸魚川大火のニュースを見ながら思った。
東日本大震災以降、私たちが備えるべき巨大災害の第一の関心は巨大地震、そして津波だった。しかし巨大災害は地震・津波だけではない。大規模水害や竜巻、豪雪、巨大噴火、そして大火も忘れてはいけなかったんだ…。
阪神・淡路大震災以降、巨大災害を大きなテーマとしてきただけに、糸魚川の被災地を見ないですませるわけにはいかない。
現地入りし私なりの調査・記録をし、教訓を得て、それを広く伝えなければ。(早朝、まだ寝床にいた妻を起こし、「これから糸魚川へ行ってくる!」と話したところ、妻は凍ったように私をじっと見つめるばかりだったが)
あれがフェーン現象の山か
糸魚川を初めて訪ねたのはおよそ50年前、高校時代のことだ。
夜行列車などを乗り継ぎやっと着いたその町は、東京からは遥か彼方の別世界だった。「糸魚川~静岡構造線」という地質用語でしか知らなかった糸魚川に、やっと来た。駅からまずまっすぐ海岸まで歩いた。初めて見る日本海。太平洋しか見たことがなかったため、まったく違う海、日本海を見て、日本が細い島国であることを実感した。
そんな遠い遠い糸魚川だったが、今は北陸新幹線によって東京からたったの2時間だ。何度も利用してきた北陸新幹線だが、あらためて新幹線の威力に感動した。
昨年は、熊本地震や岩泉町水害の現場の取材をしているが、今の時代に都市部で大火が発生したことも驚きだった。
1976年の酒田大火以降、地震による火災を除いて、都市大火は発生していない。風速が大きいほど、火災前面線が長いほど、また不燃化率が低いほど、火災拡大の勢いが強い。延焼速度は不燃化率、風速の関数となる。大火に発展するケースは、延焼の勢いが消防力を上回っていたことによる。消防力の投入が火災の延焼速度より大きければ、大火には至らない。酒田大火が季節風やフェーン現象で生じる最後の市街地大火であった。この後、火災は集団(都市)から個(建物)へ移行していった。 (吉田正友『いざというときに備えて―都市火災の脅威と教訓』GBRC・2008年10月)
この吉田さんの説明をふまえれば、糸魚川大火は、風速が大きく、建物の不燃化率が低く、消防力より火災の延焼速度が大きかったことが原因ということになる。
糸魚川駅に停車する北陸新幹線はほぼ1時間に1本。
糸魚川駅で降りた客は少なく、真新しいホームにはほとんど人陰がなく閑散としていた。
その高架上のホームから南には、少しだけ冠雪がある山の連なりが望めた。
日本海側の大火の原因は、乾燥した強い風、フェーン現象によることが多いと言われ糸魚川大火も、その強風が大きな原因だった。それが、あの山並みから吹き下ろしていたのだ。地方都市ではどこでも見るような山々だが、フェーン現象と関連づけて眺めたのは初めてだった。
糸魚川市はこの火災を「糸魚川駅北大火」と呼んでいる。
単に「糸魚川大火」とすれば、市のかなりの範囲が焼失したと誤解され、観光産業への影響も出るだろう。そういう風評被害だけは回避したいという市の思いが感じられた。
巨大な炎の矢が北へ突進?
駅舎を後にし被災エリアに向かった。
出火元である「広小路通り」に面した中華料理店(大町1丁目)までは糸魚川駅からわずか110m、ごく近かった。火はこのあたりから「広小路通り」の左右を日本海の海岸線までおよそ300mをなめつくしたのだ。
「広小路通り」が途中でクロスする道は「みいちゃん通り」と「本町通り(「ありがたや通り」)」の2本のみだ。そんな楽しい名からは、この町がもつあたたかさ、なごやかさを感じさせる。町の案内板には駅東の飲み屋街に「親不幸通り」という名も記してあった(「親不孝」の誤記?「親不孝通り」は福岡市にもあるが)。飲み過ぎで親に心配かけるなよ、という意味かな。
これほどの大火で死者が出なかったのは、隣近所の助け合い精神が生きている町だったからこそと報じられたが、それこそ学ぶべき「教訓」だろう。
ちなみに、広小路道路の西に並行している道路は「白馬通り(塩の道)」、東に並行するメーンストリートは「ヒスイロード」と呼ぶ。
糸魚川は白馬山などが連なる北アルプス沿いに松本へといたるJR大糸線の一方の起点だが、かつてそのルートは中部地方の山間部へ塩を運んでいた道に重なる。
また糸魚川市に流れ下る姫川は、宝石、糸魚川翡翠(ヒスイ)の産地だ。糸魚川翡翠は縄文時代から勾玉などとして珍重され、『古事記』にもその記載がある(鉱物採集に熱中していた中学時代、糸魚川では姫川の河口でも大きなヒスイが採集できることがあると知り、私にとって糸魚川ヒスイは憧れの鉱物だった)。
そんな歴史と人情味を感じさせる町が大火でどうなったのか。
まず、中華料理店が面する広小路通りを国道8号線が走る海岸線まで300mを歩いた。
火元の中華料理店は北に向かって道路の右手。
不思議なことに、建屋の道路側は燃え落ちていなかった。「ラーメン」という黄色い看板は焦げてもいない。だが、道路から店内をのぞいてみると、ここが店だったのか何だったのかも分からないほど燃え尽きていた。
そこから先に続く古い商店街(住宅もかなり混じっていたが)も同じように、道路に面した外壁や扉が焼けていないのは、消防のおかげだろうか。しかし、建物内はことごとく焼け落ちていた。
火はあたかも巨大な炎の矢となって脇目もふらずに北へ北へと家々を突き破り、進んでいったような印象だ。「みいちゃん通り」まで道路の左手の商店や民家はほとんど被害がないことも、火元からの火が真っ直ぐ北進したことを物語っている。
「ありがたや通り」を渡り少し進むと、道路の左右とも大半が焼損。北進していった火がこのあたりから横にも広がったことがわかる。強風によって燃えた木材の破片などによる「飛火」が機銃掃射のように遠方まで拡散、家屋の窓を突き破るなどして燃え広がったという。
生活の痕跡がないがれき
何か所かの広い土地に、鉄骨や焼けただれ変形が著しいトタン板(亜鉛メッキした鉄の薄板)が山のように折り重なっていた。焼けた自動車も混じっている。
ここをテレビ局のカメラマンがなめるように撮影していたが、大火前の地図と見比べると住宅が大火で焼け落ちた状態、そのままというわけではないという印象だった。
東日本大震災の津波被災地で感じたことだが、がれきが積み上がったような場所は被害の大きさを伝える格好の撮影シーンとして報道されることが多かった。しかし実際は、道路などに散乱したがれきを片づけた仮置き場の例が多いのである。
道路を通行可能にしなければ復旧作業もできない。そのため、道路上のがれきの撤去、仮置き場への積み上げは復旧の第一の仕事なのだ。
私が糸魚川を訪れた12月26日は、道路の通行禁止が解かれた日だった。つまり、電力線の張り替えなどインフラ復旧用車両などが通行できるよう、道路上のがれき撤去が完了したばかりだったことになる。
がれきの山はそうして片づけた仮置き場とはいえ、大火がどういう被害をもたらすかを如実に物語っていた。何より驚いたのは、「人々の生活の痕跡」がほとんど残っていないことだった。「灰燼に帰す」という言葉が頭の中で渦巻いた。
東日本大震災では多くの家財、そして人命が海の彼方へと持ち去られたが、陸にも膨大ながれきが残った。被災直後、私は、東北各県の沿岸を数百キロ走りながらその「陸のがれき」を見続けた。いずれもひどく壊れ砂や泥にまみれてはいたが、仏壇、食器、入歯、小説本、ビデオテープ、工具、パチンコ台、漁具、衣類、漫画本、布団、便器、オモチャ、そして写真プリントと、被災前の生活を物語る痕跡が少なくなかった。
糸魚川大火の現場では、被災された方々がクワなどを手にがれきの中に遺されたものを探している姿に接して、1つでも2つでも大事なものが見つかればいいなと祈るばかりだった。
1月3日、糸魚川市のホームページに以下のような短いトピックスが掲載された。
思い出の品さがし
(更新日:2017年1月3日)
婚約指輪と結婚指輪
年始、被災地では大規模な作業はされていませんでしたが、晴れ間を縫って、静かに思い出の品を探している姿がありました。
「何か見つけられましたか」と聞いてみると、「指輪が出てきました」と。婚約指輪と結婚指輪、揃って2個、見せてくださいました。ご主人は既に他界されたとのことで、見つけられて本当に良かったとおっしゃっていました。
オーブンで炙られたクルマ
海岸近くに、トタンで覆われた小さなガレージが焼け残っていた。
焼け焦げて鉄製のボディだけが残ったクルマは何台か見たが、このガレージは延焼を免れ、中に駐車してあった自動車も焼損はしてはいなかった。
だが、近づいてみて唖然。
バンパーの片側はだらりと落ち、フロントグリルやヘッドライト回りも変形、サイドミラーはアイスクリームのように垂れ下がっていたのだ。
クルマが溶けている!
ガレージは延焼をまぬがれたものの、樹脂製部品が多く使われているクルマはオーブンのように外から炙られた炎によって、燃えなかったもののあちこちが溶けてしまったのだ。
大火による炎、熱とはこれほど怖いものかと立ちすくむばかりだった。
私が糸魚川火災の現場を訪ねたのは、近い将来、東京に必ず見舞う、直下型地震に備える教訓を得たかったからだ。東京直下型地震では、下町や山の手の住宅密集地で大火災が発生する。それはハザード・マップなどを通じて警告されている。
その巨大地震による大都市火災の被害をできるだけ小さくすることは可能なのだろうか。
糸魚川市では、強い南風によって海岸沿いまでの街が焼き尽くされてしまった。もし海岸がさらに遠かったならば、被害はさらに大きなものとなっていたはずだ。
その現場に立ち、東京で巨大地震が発生すれば、住宅密集地で発生した火災はどれほどの被害をもたすのかということばかりを考えていた。
この大火の現場は何を物語っているのか、何を学ぶべきなのか。
専門家の意見を聞きたい。
そこで私は、大火の現場から長年の親交がある元・北九州市消防局長の山家桂一さん(現・北九州市立いのちのたび博物館・副館長)に電話をかけた。
山のようながれきの山の脇で、iPhoneで撮影した現場の写真を送り、話し合ったのである。
糸魚川市駅北大火で被災された方への義援金の受付
糸魚川市駅北大火へのふるさと納税
糸魚川市地域たすけあいボランティアセンター(facebook)
(続く)
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