山本幸三地方創生担当大臣が、4月16日、大津市内で講演を終えた後、観光を生かした地方創生に関する質疑の中で
「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければダメだ」
と述べたのだそうだ(こちら)。
最初に《「学芸員はがん」=山本担当相が発言》という記事の見出し部分を見た時、私は、単純に、意味がわからなかった。
「どうして大臣が特定の学芸員の病状に言及しているのだろうか」
と一瞬疑問に思ったほどだ。
で、リンク先の本文を読んで、ようやく大臣の発言の真意を了解したわけなのだが、それでも、大臣の目指しているところと学芸員の仕事のどの部分が対立しているのかを理解できたわけではなかった。
理由は、私自身が、学芸員の仕事と、地方創生担当大臣が担っている役割を正確に把握していなかったからだ。
ついでに申せば、山本幸三という政治家の来歴や人柄についても、知識を持っていなかった。
なんというのか、私は、はじめから最後まで、ろくに事態を掌握していなかったわけだ。
こういう時、インターネットは頼りになる。
大臣を批判する立場の人々と、大臣の発言を擁護ないしはフォローする人々との間でやりとりされている論争をひと通り眺めて、しかる後に、「学芸員」と「地方創生担当大臣」についてウィキペディアとネット上の各種辞書(私はJapanKnowledgeというところの会員制辞書サービスを利用している)を当たり、ついでのことに「山本幸三」で検索をかければ、15分前よりは、ずいぶん見識が高くなっている。
無論、15分で身につけた情報は、その時間に見合った中味しか持っていない。至極薄っぺらな知識だ。
とはいえ、簡単な感想を述べるだけのことなら、15分前とは別人に見える。その程度の粉飾は可能だ。
一定の文章力を持っている書き手なら、この15分間で仕込んだネタを足場に、それらしいコラムを書くことだって不可能ではない。
が、今回はそれはしないことにする。
今回のこの件に関して、15分前までは学芸員の何たるかさえ知らなかった私が、あれこれときいたふうな説教を垂れることは、大臣がやらかした臆断とそんなに変わらないやりざまになると思うからだ。
でなくても「相手をよく知らないからこそカマせる大胆発言」みたいなクリティカルヒットは、入社半年までの新入社員とグラビアアイドルだけに許された特権みたいなもので、私のような年嵩のコラムニストが人前でやってみせて良いことではない。
ツイッターや巨大掲示板をざっと巡回して意外に思ったのは、大臣の発言を擁護する立場の人間が少なくないことだ。
逆に言えば、この種の見解(学芸員に観光マインドを求めるみたいな考え方)が、一般に広く共有されているからこそ、大臣は、「がん」という強い言葉を使って学芸員の仕事を論難しにかかったのであろう。
中には、こんな意見もある。
これは、さる記事サイトにのったテキストで、タイトルもそのものズバリ
「学芸員についての山本大臣発言は間違っていない」
となっている。
内容は、大臣の発言の真意を忖度してさらに敷衍したお話と言って良い。
本文の中で、筆者は
「美術館や博物館、それに所蔵物は10年ごとに見直して、原則20年で全面リニューアルか廃止にしてはどうか。」
と言っている。
この記事の書き手が、あてつけやもののたとえでなく、本当にこの通りのことを文字通りに主張しているのだとすると、思うに、彼が大いに持ち上げているフランスのルーブル美術館も、たぶん無事では済まない。大英博物館も、エルミタージュ美術館も、軒並み、シンガポールの空港の中のスーベニアショップみたいなものに生まれ変わることになるだろう。
でもまあ、山本大臣の言う「観光マインド」というのは、要するにこういうことなのである。
一部の政治家やコンサルタントが博物館や美術館を目の敵にする傾向は、いまにはじまったことではない。
美術館や博物館に対しては、以前から「税金の無駄遣い」「美術や学芸の利権を独占する特権階級による資産のかかえこみ」という声はあがっていたし、町おこしや観光地の集客事業にかかわる関係者からも、「1000円に満たない入場収入で観光客を何時間も足止めさせる観光事業への妨害施設」といった感じの意見が出ていた。
つまるところ
「観光客にカネを使わせない施設は無駄だ」
というお話だ。
個人的には、この種のものの見方は、短絡的に過ぎると思っている。
美術館や博物館自体が、単体で地域の収益に貢献していなくても、それらを目当てにその地域を訪れる観光客は決して少なくないはずだ。美術館に立ち寄った訪問客が、美術鑑賞だけをしてメシも食わずにまっすぐに帰宅する、と決まりきったものでもない。当然、美術館の客は、飲食もすれば宿泊もするし、別の観光施設を訪れることもあれば、土産だって買う。ということは、美術館は、十分に地域に貢献しているではないか。
逆に考えて、たとえばの話、ルーブル美術館の無いパリや、大英博物館を最新のアミューズメントパークに改装したロンドンに観光客は集まるだろうか。あるいは、エルミタージュ美術館をまるごとカジノにリノベーションしたサンクトペテルブルクは、魅力を増すのだろうか。ちょっと考えれば誰にだってわかるはずのことだと思うのだが。
それでもなお、学芸員のような立場の人間に「観光マインド」を求める声は消えない。
学芸員に観光マインドを求める態度は、大学の教員や医者に「接客マインド」を求め、研究者に「起業家マインド」を要求する昨今流行の市場経済万能主義から派生した拝金思想と軌を一にするもので、ついでに申し上げるなら、そもそも「古い」からこそ価値を持ちこたえている博物館や美術館の収蔵品に「リニューアル」を求める思想の本末転倒の浅薄さは、文楽に現代的な演出を求め、仁徳天皇陵を電飾でデコレーションして世界遺産登録を促そうとする政治家の馬鹿さ加減と見事なばかりに呼応しているわけで、結局のところ、この人たちは地域をネタに一儲けをたくらむ野盗コンサルの手先みたいなものなのだ。
さて、山本大臣の発言が、閣僚の資質を疑わせるに足る問題外の失言であるのだとして、しかしながら、だからといって彼が即座に更迭されるべきであるのかどうかは、また別の議論になる。
10年前の常識なら、このレベルのバカな発言を漏らした大臣は、まず一もニも無く、即座にクビだったはずだ。
それが、昨今は、そういうことでもなくなっている。
なぜだろうか。
私の考えを述べる。
10年前なら即座にクビが飛んでいたはずの失言で大臣のクビが飛ばなくなった理由のひとつは、この10年ほどの間に、大臣のクビを次々と飛ばし続けていた理由がいちいちあまりにもくだらなかったからだ。
わかりにくい言い方をしている。
もう少し噛み砕いた言い方をすると、第1次安倍政権から民主党政権の時代を通じて、些細な言葉尻をとらえたメディアによるバッシングで閣僚が辞任に追い込まれるケースが相次いだことが、現今の状況をもたらしているということで、つまり、現在の、閣僚が相当に悪質な失言をやらかしてもクビが飛ばずに済んでいる状況は、過去においてあまりにも安易に大臣のクビが飛ばされてきたことへの反動ないしは、それらの事態がもたらした副作用なのである。
別の側面から見れば、メディア主導の報道圧力で大臣のクビを飛ばせなくなっているこの数年間の状況は、メディア自身が招いたメディア不信の結果でもある。
「死の街発言」や「放射能付けちゃうぞ発言」で大臣の責任を追及し、「絆創膏会見」を理由に大臣の辞任を迫ったマスコミは、文脈から切り取った発言をネタに大臣の首を取ることを自らの手柄であるかのように振る舞うその態度の不遜さを理由に、読者・視聴者の支持を失うに至った。そういうふうに考えなければならない。
彼らは、大臣のクビを無駄に飛ばすことを通じて、自分たちのクビを締めたのだ。
山本大臣の発言が論外の暴言であること自体は、多くの国民がそう思っているところだろう。
この点に異論は少ないはずだ。
彼自身の政治家としての評価も、今回の失言とセットで伝えられた過去の不祥事からして、地に堕ちたと考えて良い。
にもかかわらず、山本大臣が即座に更迭されるべきだと考えている国民は、そんなに多くない。
たぶん多くの国民は、
「別にいいんじゃねえの?」
と思っている。
というよりも、
「誰に代わったからって何が変わるわけでもないだろ?」
ぐらいに考えている。
一番の危機は、実にここのところにある。
つまり、誰も閣僚に高い見識や立派な人格を期待しなくなっているというこの状況こそが、安倍一強体制がもたらしている最も顕著な頽廃なのである。
われわれは、メディアにも、政治にも、粗忽軽量な大臣にも、代わりにやってくるかもしれない新任の大臣にも、あらかじめうんざりしている。この頽廃は、簡単には回復しない。たぶん、もう1回戦争がやってきて、もう1回反省するまで、この状況は改まらないだろう。
4月17日、すなわち山本大臣による「学芸員はがん」発言があった翌日、安倍首相は、都内の商業施設のオープニングセレモニーに出席し、地元・山口県の物産も積極的に販売するよう「忖度(そんたく)していただきたい」と挨拶して、笑いを取ったのだそうだ(こちら)。
ジョークの出来不出来は別として、このタイミングで、「忖度」という言葉を使って笑いを取りに行った神経に首相の「意地」のようなものを感じる。
この局面でのこのジョークは、
「オレは、全然参ってないよ」
という意思表示に聞こえる。
ふざけてみせることで自分の優位を印象づけるヤンキーに独特な行動形態のようでもあれば、なにかにつけて、語尾に「w」や「(笑)」を付加したがるツイッター論客の論争術のようでもある。
いずれにせよ、この半月ほどメディアで話題になっている「忖度」というネガティブなワードを、あえて笑いを取るための言葉として使ってみせた態度は、ホームランを打たれた投手が帽子を取って打った打者に最敬礼した時みたいな強がりを感じさせて、なんだか鼻白む。
安倍さんはどうやらマスコミを舐めてかかる段階に到達している。
しかも、その態度は、思いのほか多くの国民に支持されている。
このことは、別の言い方で言えば、われわれが他人をバカにする人間に頼もしさを感じる段階に立ち至っていることを意味している。
19日の衆議院決算行政監視委員会での質疑では、こんな一幕があった。
《--略--首相「『そもそも』という言葉の意味について、山尾委員は『はじめから』という理解しかないと思っておられるかもしれませんが、『そもそも』という意味には、これは、辞書で調べてみますと…」
山尾氏:「調べたんですね」
首相:「念のために調べてみたんです。念のために調べてみたわけでありますが(笑)、これは『基本的に』という意味もあるということも、ぜひ知っておいていただきたいと。これは多くの方々はすでにご承知の通りだと思いますが、山尾委員は、もしかしたら、それ、ご存じなかったかもしれませんが、これはまさに『基本的に』ということであります。つまり、『基本的に犯罪を目的とする集団であるか、ないか』が、対象となるかならないかの違いであって。これは当たり前のことでありまして」--略--》
(出典はこちら)
以上は、産経新聞による書き起こしだが、ごらんの通り、言い合いに近いやりとりだ。
個人的には、自分の使った言葉を辞書で引くという動作の異様さにあきれている。
あらためて言うまでもないことだが、人間同士の対話は、互いにあらかじめ辞書を引くまでもなく知っている言葉をやりとりすることで成立しているものだ。
知らない言葉を使ったら対話にならないし、辞書を引きながらの対話は、揚げ足の取り合いに過ぎない。
特定の言葉について、対話の相手が間違った使い方をしていたり、誤解をしているように思えた場合に、辞書上の語義を持ち出して先方の誤解を正したり、言葉の使い方の間違いを指摘することはあり得る。しかしながら、自分が口にした言葉について、事後的に辞書を引くことは、普通、考えられない。
自分の使った言葉について辞書を参照するのは、自分がその言葉の意味をよく知らずに使っていた場合か、でなければ、辞書に書いてある語義を足がかりに何らかの詭弁を弄しにかかる場合に限られる。
しかも、朝日新聞が伝えているところによれば、どうやら、「そもそも」について「基本的な」の語義を掲載している辞書は存在しない(こちら)。
どうでも良い話を長々としてしまった。
本当は、こんな話は、はじめからどっちでも良いのだ。
大切なのは、首相が、辞書に載っている(とされる)語義をネタに、山尾議員を揶揄している点だ。嬲っているという言葉を使っても良い。とにかく、首相は、相手を嘲っている。これは辞任に値するとまでは言わないが、到底品格のある態度ではない。
少なくとも、首相の国会答弁にはふさわしくない態度だ。
「忖度」をジョークのネタにしたこともそうだが、この半年ほど、首相の言動には、対話の相手を嘲弄したり、質問そのものを揶揄するような、不真面目な態度が目立つ。
このこと自体は、私がたしなめてどうなることでもないし、仕方のないことだとも思っている。
首相にしてみれば、あれこれと責められて反撃したい気持ちがあるのだろうし、ああいう立場にある人間にフラストレーションがたまるのは、考えてみれば当然のことでもあるのだろう。
私が懸念するのは、首相が野党をバカにし、閣僚がマスコミを軽視しているその態度が、なんとなく支持を集めているように見える昨今の状況だ。
どうしてこういうことになっているのかまではよくわからないのだが、首相が野党やマスコミの質問をはぐらかしにかかる態度は、実のところ、そんなに評判が悪くない。
「バカな質問にいちいち真面目に答える必要はないだろ」
「相手がバカなんだからバカな答え方をするのは鏡の法則からして当然だよ」
と、むしろ歓迎されているかもしれない。
現政権が大臣を辞任させないのは、責任を認めて辞任させるとかえって政権の支持率が下がるであろうことを学習したからだと思う。
第1次安倍政権も、民主党政権も、相次ぐ閣僚の辞任で、求心力を失い、支持を失い、最終的に政権を投げ出さざるを得なくなった。責任を取ったことが、かえって責任を追及される弱みになってしまったカタチだ。
とすれば、責任など、取らない方が良い。
と、政権側がそう考えるのは、むしろ当然の帰結なのかもしれない。
仮に、責任と呼ばれているものが、取るからこそ生じるもので、取らなければじきになくなってしまうものであるのだとしたら、そんなものは、はじめから取らない方が良いに決っているではないか。
多くの国民は、失言の悪質さを理由に辞任を求めるというよりは、むしろ、辞任したという結果から失言の悪質さを逆算するぐらいの関心度で政治報道を眺めている。
とすれば、辞任せずに知らん顔をしていれば、多くの国民は「たいした失言ではないのだな」と判断してくれるはずで、そうである以上、辞任などしない方が良いにきまっているわけだ。
私はいま皮肉を言っているつもりなのだが、これは、結果として、皮肉にならないかもしれない。
いずれにせよわれわれは、ジョークがジョークとして通用せず、皮肉が皮肉として響かない時代に足を踏み入れつつある。
そんなわけなので、できればこの原稿は笑わずに読んでくれるとありがたい。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
と、思わせないように編集部も頑張ります。
当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。
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