今村雅弘復興相が4月4日の会見で記者に対して
「出ていきなさい」
「うるさい」
などと暴言を吐いたことが伝えられている。
発端は、東京電力福島第一原発事故で今も帰れない自主避難者について、国が責任を取るべきでは、との記者の問いに対して、今村大臣が
「本人の責任でしょう。(不服なら)裁判でも何でもやればいいじゃないか」
と発言したことだった。
この後、記者と大臣の間で口論になり、大臣は冒頭で紹介した言葉を残した上で、会見を一方的に打ち切って退出している。
最近は、こういうことが起こると、即座に動画が出回る。
YouTubeで「復興大臣」を検索すると、7分ほどの会見の動画がヒットする(こちら)。
見ると、最後の1分ほどのところで、大臣は、
「なんという君は無礼なことを言うんだ」
「撤回しなさい」
「二度と来ないでください君は」
「うるさい」
と、強い口調で記者を叱責している。
この時の模様は、いくつかのテレビ局からニュース映像として配信されている。
なお、書き起こしのテキストは、復興庁のホームページに掲載されている(こちら)。
復興庁は、会見があったその日のうちに会見のやりとりを文字に起こしてネットにアップしたことになる。お役所としては異例の機敏さだ。
どうしてこんなに素早く対応したのかというと、会見の全文を知ってほしいと考えたからだと思う。
というのも、ニュース映像で短く編集された動画を見ると、大臣が声を荒げている場面だけが強調されるため、印象が悪くなってしまうからだ。
復興庁としては、
「大臣が一方的に暴言を吐いたわけではない。その前段として、記者が執拗に同じ質問を繰り返していたことを織り込んだ上で理解してほしい」
「ほーら、こんなに挑発されてるんだから怒るのも無理ないよね?」
と、そういう意味をこめた全文アップだったわけだ。
たしかに、やりとりの全容をあらためて見直してみると、件の記者の質問の仕方は、質問というよりは記者自身の考えをぶつけている印象だ。「議論を吹っかけている」と言っても良い。
大臣がアタマに来た気持ちはわかる。
とはいえ、記者に挑発されたからといって、暴言を吐いて勝手に会見を中断して帰って良いということにはならない。
政治家が備えているべき資質の中には、困難な場面で感情的に振る舞わないことも含まれている。
大臣である以上、記者の質問には回答せねばならない。答えられないのなら、その理由を伝えなければならない。仮に、質問者の態度が失礼であったのだとしても、そこは、冷静にたしなめるなりして、会見は会見として粛々と完了しておく必要がある。まあ、建前だが。
ツッコミどころを整理すると
1.怒鳴るのは論外。
2.「自己責任」というのは、復興担当大臣が気軽に振り回して良い言葉ではない。
というのも、社会とは責任を分かち合うシステムであり、政治はその責任を調整する手続きだからだ。特に復興を担当する大臣は、被災地の人間をサポートする任務を担っている。とすれば、復興をサポートするはずの人間の口から出た「自己責任」という言葉は、レストランのシェフが「自分で料理しろ」と言ったり、学校の先生が「自習しろ」と言ったのと同じで、職務放棄と見なされても仕方がない。
3.東京電力の株を8000株所有しているという報道があった。神経を疑う。
といったあたりになるわけだが、これらについては、新聞各紙で既に指摘されているところでもあるので、ここでこれ以上深追いすることはしない。
当欄では、今村大臣が記者を怒鳴りつけたあとの意外な行動について考える。
個人的に、暴言そのものよりも、そっちの行動の方が強く印象に残ったからだ。
会見があった4月4日の夜、私は暴言会見の動画を視聴した上で、以下のようなツイートを投稿した。
《今村復興相は、記者を怒鳴りつけた後、きちんと日の丸(だと思う。画面の左にある何か)にアタマを下げて、その後にまた記者を指差して怒鳴ってから退場している。なんというのか、人間に対する礼儀は踏み外しても、権威への服従のマナーを失っていないところに本物の奴隷根性を見た。感動した。》(こちら)
このツイートには、大きな反響があった。
現時点で7000件以上リツイートされている。
評判が良かったというのとは少し違う。
どちらかといえば「荒れた」「炎上した」と言った方が正確だろう。
たくさんの反応が返ってくるツイートが優れたツイートだとは限らない。
実際には、このツイートのような、挑発的だったり悪質だったりするツイートの方が表面上の注目度は高かったりする。
まあ、下品なダミ声の方が客を誘引する力は強いということに近い。
私自身、このツイートは言い過ぎだったと思っている。
具体的にどこが言い過ぎだったのかというと、「奴隷根性」という表現がよろしくなかった。
今村大臣が、日の丸にアタマを下げる一方で記者を怒鳴りつけていた態度は、私の個人的な趣味とは相容れないものだ。
が、そんな観察は私の側の一方的な思い込みに過ぎない。
大臣が日の丸に一礼したことは、大臣個人の道徳観なり倫理観なりマナー意識の現れとして、尊重されてしかるべきものだ。赤の他人である私が、「奴隷根性」と決めつけて良いことではない。
なので、「奴隷根性」という言葉については、謝罪の上、撤回しておく。
すみませんでした。
一国の大臣が、国旗に礼をすることを批判しているのではない。ただ、私がこれを書いたのは、今村大臣が、あんなに興奮して怒鳴っているようでいて、日の丸に一礼する時には落ち着いて見えたことが意外だったからだ。
しかも、大臣は、きちんとした態度で日の丸にアタマを下げた後、またあらためて記者を怒鳴りつけてから会見場を去っている。なんというのか、これは、私には、奇妙な仕草に見えたのである。
ずっと昔、テレビで見た、あるプロ野球選手の不思議な態度を思い出した。
その元メジャーリーガーの選手は、アタマのあたりに危険球を投げられると、まず静かに持っていたバットを地面に置いて、それからやおらピッチャーを殴るために走って行った。
テレビ放送の解説者が、選手の暴力に苦言を呈しつつも、バットを投げなかった態度を賞賛していたことを覚えている。
「さすがに一流の選手はバットを大事にします」
と。
おそらく、道具を大切に扱うという長年の野球生活の中でカラダにしみついた習慣が、ビーンボールを投げた投手を殴りに行く瞬間であっても、きちんと機能していたのだと思う。
あるいは、バットを手に持ったまま投手を殴りに行ったら大事件になってしまうことがわかっていたからこそ、とにかくとりあえずバットを地面に置いてから行動を起こすことにしたのかもしれない。いずれにしても、立派な態度だったと思う。
今村大臣も、あれだけ怒鳴っていたのだからして、冷静だったわけではなかろう。
とはいえ、半ば逆上した精神状態にあって、それでも、日の丸への一礼を忘れなかったのは、彼の中で国旗への敬意が、身体化されたマナーとして身に付いていたからだ。
別の解釈もできる。
今村大臣は、本人の自覚としては、逆上して怒鳴り散らしていたのではなかったのかもしれない。
だからこそ、ああいうふうに落ち着いて日の丸に一礼をすることができた。
大臣は、あくまでも非礼な記者を強くたしなめているぐらいな気持ちでいた。
つまり、本人としては、正当な物言いを冷静にぶつけていたに過ぎないのかもしれない。
作家の百田尚樹さんが、こんなツイートを配信している。
《卑劣な記者の汚い挑発に乗ってしまった今村復興大臣は軽率だという声もあるが、私は、よくぞ怒鳴ってくれたと思う。
卑劣な野郎には怒って当然、怒鳴って当然だ。
なぜなら大臣である前に男であるからだ。大臣は辞めたってどうということはない。しかし男を辞めたら、終わりだ。》(こちら)
記者を怒鳴りつけたことは、大臣の職責を考えるなら、良くない態度であるには違いない。
しかしながら、一個の男として考えるなら、無礼者を怒鳴りつけるのはあくまでも正しい態度だ、と、そういうことのようだ。
典型的なマッチョイズムだ。
私は、共感しない。
というよりも、このツイートはキモい。
が、一方において、百田先生のこの意見に共感する人が少なくないであろうことも、なんとなく察知している。
ざっと考えて、日本の男性の半数は、百田先生のツイートに賛成するのではなかろうか。
残りの半分の大半も、薄笑いを浮かべつつ否定はしないかもしれない。
しみじみと孤独を感じる。
おそらく、日本人の多数派は、怒鳴った態度は良くなかったのだとして、それでも怒鳴った気持ちには理解を示すはずで、そのあたりがわれわれの道徳観の最大公約数なのだと思う。
記者に対して声を荒げていながら、日の丸に対しては礼節を保っていた大臣の態度を、私自身は異様な振る舞い方だと感じている。
でも、私と同じ感想を抱く日本人は、そんなに多くないはずだ。
多くの人は、無礼者を怒鳴りつけるのは正しい態度で、一方、日の丸に礼節を尽くすことも正しい心構えだと考えている。
大きな溝がある。
私個人は、「日の丸」という表象や、「国家」という枠組みや、「国体」という概念のような、「形式」としてわれわれの前に立ちはだかる「権威」に対して礼儀正しくふるまうことよりも、生きて動いている生身の人間の生命や感情を尊重することの方がずっと道徳的だと考えている。
権力の側にいる人が自らの依って立つ権威を大事にするのは当然で、であればなおのこと、その力の振るい方には慎重であって欲しい。
だから、今村大臣が、国旗に一礼しながら人間に対して乱暴な言葉を投げつけたことを、異様な倒錯した道徳観だと感じて、こっちも「奴隷根性」などという乱暴な言葉を使ってしまったわけなのだが、今村大臣の態度こそが本当の「道徳」であると考えている日本人は、実はとてもたくさんいる。
しつこいようだが、もう一度教育勅語の話をする。
私は、このひと月ほど、これのことばかり考えている。それほど、私にとって、教育勅語の復活は、なんとも薄気味の悪い出来事なのだ。
教育勅語を再び教材として蘇らせようとしている人たちが、教育勅語を通して、なんとしても伝えようとしているのは、今村大臣が身をもって示したような、「対話の相手である記者」よりも「会見場に掲げられている日の丸」を大切にする心情およびマナーみたいなものなのだと私は考えている。
教育勅語には、親を大切にすることや、人が謙虚に生きるべきであることや、仕事に励むことをはじめとする一般的な徳目が数多く列挙されている。
であるから、教育勅語を擁護する人たちは、もっぱらその点(教育勅語の中に人としての望ましい徳目が数多く挙げられていること)を強調することになっている。
でも実際のところ、教育勅語を称揚する人々が子供たちに本当に伝えたいと思っているのはその部分ではない。
親孝行や友達と仲良くすることを教えるのだったら、何も教材は教育勅語でなくてもかまわない。そこいらへんの漫画でもショートストーリーでも、なんなら子供の書いた作文でも十分にその役割を果たすことができるはずだ。
というよりも、親孝行や謙虚さや勤勉さや協調性は、授業の中でとりたてて項目を立てて教えるより、子供たちが家族や共同体やクラスの中で普通に人間同士のやりとりをしていれば、自然に身に付くはずで、そのほうが社会としても望ましいはずなのだ。
ではなぜ「教育勅語」を持ち出さなければならないのか。
それは、特別な道徳を語らなねばならないからだ。
たとえば、「天皇」への尊崇の念、「国家」への忠誠心といった、子供には難解な概念を彼らの第二の天性として身につけさせようと思ったら、その教材は、やはり教育勅語でなければならない。
逆に言えば、教育勅語を教材に採用しようとしている人たちが、子供たちに伝えたいのは、「教育勅語の中の憲法に反する部分」だということだ。
最後の方にある
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」
という部分を子供たちの心に定着させることができるのは教育勅語だけだ。
自己犠牲。
挺身。
私心の排除。
その種の道徳は、教育勅語でなければ、その真髄を正しく伝えることができない。
だからこそ、彼らは、勅語(天皇のお言葉)という形で提供される、その前提からして日本国憲法の精神にそぐわないあの文書を教育現場に召喚しようとしているのだ。
人間よりも、国家が大切であること。感情よりも形式が重んじられるべきであること。自己犠牲がなによりも美しい心情であるということ。国民のために利便を提供する国家を建設するのではなく、国家のために命を捧げることのできる国民を育てあげること。そういうことを、彼らは成し遂げようとしている。
この先、他人を怒鳴りつける前と後に、日の丸に向かって粛然と一礼できる人間の割合が順次増加するのであれば、一旦緩急ある前に、できれば国を捨てたいと思う。
投げやりな結論になった。
せめて一礼して去ろう。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
今回のコメント欄は、この文章を入れて貴方のご意見をお寄せ下さい。
当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。
登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。
※こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。
この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。