[註記追加 16日 9.45][付録部分 訂正 21日 18.08][追記追加:飯館村紹介 21日 18.21]
間が空きましたが、今回を「建物をつくるとはどういうことか」の最終とします。
このシリーズでは、「私たちの『建物をつくる』という営為」は、本来、いかなる「作業」であったのか、根本・根源に戻って考えるようにつとめてきました。
それはすなわち、
「現代の建物づくりの考え方」、
そして、その考え方の基になる
「ものごと全般に対する対し方、考え方」に於いて、
決定的に忘れられている、と常日ごろ私が思ってきた諸点について、
あらためて「集成」してみようとする試みでした。
まとめは別のかたちになると思っていたのですが、今回の震災に遭遇して、この震災についての「感想」を書くことで、このシリーズのまとめにしようと決めました。
なぜなら、原発事故を含め、今回の被災の状況に、「現代の考え方」が、如実に露になっている、と思ったからです。
註 「究理」とは、ある物理学者の造語です。
どのような意味か?
「究理」の字義こそ、science の本義である、ということからの造語です。
science は「科学」であってはならない、ということです。もちろん「求利」などであっては・・・。
[註記追加 16日 9.45]
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[註記追加 16.47][文言追加 17.20][参照記事追加 16日 1.25][註記追加 16日 9.32][追記追加 5月27日 15.20]
先日、今回の地震・津波の被災からの「復興」へ向けて、海岸に津波を避けるためにコンクリート製の「人工地盤」をつくる、という「提案」がある、と新聞に図解入りで紹介されていました。「復興・・会議」の委員の一人の提案だそうです。
「この期に及んで、未だ・・・・」、というのが、私の率直な感想です。
「・・・・」のところには、いろいろな文言を入れることができます。たとえば、「懲りないのか」、あるいは「考えを改めないのか」・・・・。
地震や津波に対して「次に起る(であろう)地震に耐える強度の建物」や、「次に起る(であろう)津波の高さよりも高い防潮堤」をつくることで「対応できる」と考えるようになったのは(先回「想像を絶する『想定外』」で、こういうのを「工学的設計」と呼びました)、そんなに昔からではありません。
おそらく明治以降、つまり、「科学(技術)」を「信仰」するようになってからではないでしょうか。とりわけ第二次大戦敗戦後に著しい。
註 (であろう)と書いたのは、私にとっては「・・・であろう」ことも、
そういう《基準》を定める方がたには、「・・・であろう」ではないらしいからです。
彼らは「次に起きるのは、かくかくしかじかの事態である、と断定的に《評価》」します。
もし、それとは異なる事象が起きれば、「想定外であった」として済ますための「用意」なのでしょう。
次の地図は、福島県北の明治20年代の地図です。いわゆる「迅速図」と呼ばれている図です。
「日本歴史地名大系」(平凡社)の「福島県」編の付録から転載しました(原版はモノクロですが、一部に色を付けました)。
図中の黄色にぬった線は「陸前浜街道」、現在の「国道6号」です。
なお、赤い線で区画した西側(図の左側)が、
「想定外の」原発事故:放射能汚染で、人びとが避難を余儀なくされ苦しんでいる「飯館村」です。
清流に恵まれ水が美味しく、人情こまやかな穏やかな山村とのこと。
追記:ダイアモンド オンラインの記事に飯館村の紹介があります。
現在の道路を見慣れてしまった目には、この地図上の曲がりくねった道は、不可思議に見えるかもしれません。
しかし、道は、無意味に、あるいはわざと、曲がりくねっているのではありません。
これが人がつくる道の本来の姿なのです。
このように曲るには、それぞれ明確な理由があります。曲るべくして曲るのです。
人が道をつくるときの原則は、かなり前に書きました(たとえば「道・・・どのようにして生まれるのか」。このシリーズでも触れています)。
人にとって「分りやすい」「疲れにくい」「安全に歩ける」・・、それが道をつくるにあたっての「要点」なのです。もちろん、現代の人びとではなく、往時の人びとの採った考え方です。
現代では、案内板やカーナビがあればよい、と思うかもしれません。
「浜街道」に並行して、山寄りの山裾を、細い道(単線の表記)が南北に走っていることに注目したいと思います。
地図では「里道」と記されていますが、おそらく、この道は、「浜街道」が整備される以前からあった道と思われます。多分、等高線に沿った道だと思われます。
以前、奈良盆地を南北に走る道には、
「上つ道」「中つ道」「下つ道」の3本があったことを紹介しました。
このうち、「上つ道」:いわゆる「山の辺の道」が古く、以後、盆地の方に降りてゆくことも紹介しました。
このシリーズの第3回で触れています(末尾の付参照)。
平地:平場が歩きやすいのはたしかですが、平場は目見当をつけにくく、最初には手が付かないのです。これが、道の成り立ちの「順序」と言えばよいでしょう。
と言うより、この「里道」と呼ばれる道沿いに、数多くの集落があり、「里道」は、それらの集落を結ぶために生まれた道だったと考えられます。
明治期には人口500人以下ですが、おそらく、この地域で最初に生まれた集落の名残りではないかと思われます。往時は(多分江戸の初期ごろ)、もっと人が多かったでしょう。
そこを拠点に、目の前の平場を開拓し、江戸末には、集落の拠点が海寄りに移った、と考えられます。
しかし、平場といっても、
海からは一側内側の、今回、津波を被災しなかった区域に拠点集落:町場が構えられていることに注意したいと思います。
それを明らかにしてくれるのが次の地図です。明治20年代の地図の範囲と縮尺は、この図に合わせて編集してあります。
この地図は、国土地理院が公開している今回の津波による浸水区域の地図です。
図の海寄りの赤いところが浸水域です。
分りにくいかもしれませんが、「陸前浜街道」は、明治の頃の道筋を基本的に踏襲しています。
そして、「陸前浜街道」は、大半が津波の浸水を免れている、ということも分るはずです。
と言うことは、「陸前浜街道」が結んでいた町々の「旧市街地」もまた浸水を免れていることになります。
言い方を変えると、これらの町で浸水したのは、主に「新市街地」であった、ということです。
先にも触れましたが、往時の国道:官道は、既存の町:集落を結んで設定されています。
町:集落が生まれるのが先、それから集落・村、町相互を結ぶ道が生まれるのです。
これを、現代の「開発」の見かた:道をつくって人を貼り付けるという見かた:で理解するのは間違いです。
往時の人びとは、ものごとを「暮しの理」で考え、
現在のように、ものごとをすべからく「利」で追求することはしなかったからです。
これは、この地図の範囲だけではありません。
次の図は、仙台空港のある仙台東部地区の浸水図です。出典は先と同じく国土地理院公開の地図。4地区ほど公開されています(前記からアクセスできます)。
この地図には、南から、亘理、岩沼、名取、そして仙台中心部(旧市街)と、それを結ぶ「陸前浜街道」が読み取れ、それらがいずれも津波浸水域をはずれていることが分ります(角田という町もありますが、この町は浜街道沿いではありません)。
註 この地域の明治20年代の地図は、部分的ですが「此処より下に家を建てるな」のときに
載せてあります。[註記追加 16.47]
このことは何を示しているか。
旧市街地は、津波被害を免れている、という事実。
これらの町が津波で被害を蒙ったことが知られていますが、先に触れたように、それは、これらの町の「新市街地」が大半なのです。
「新市街地」とは、その多くは、現代の「科学・技術」による「想定」(=基準・指針)の下に「計画」された地区にほかなりません。
たとえば、地盤の悪さは杭やベタ基礎で解決できる、津波は、大きくても数mだろう・・・という「想定」(=基準・指針)の下で開発された新興地区なのです。
それがダメになったのは、「想定外」の天災に拠るのだ、天災がワルイ・・・。
旧市街:往時に人びとがつくりあげた集落:町が津波被災をしなかった、ということは、
そこに暮す人びとが、「住まいの備えるべき必要条件、十分条件」を認識していた、ということです。
「わざわざ危ない場所に暮すことはしてこなかった」ということです。
「大地」の上で暮す以上、「大地の理」を「尊重する」こと、おそらく、往時の人びとは、この「道理」を、当然のものとして理解していたと思います。
日ごろの「経験」「観察」を通して、「大地の理」を認識していたのです。
そして、当たり前のこととして、人が「大地の理」を凌駕できる、とは考えませんでした(もちろん、それが「大地の理」に「負けることだ」などとは思うわけもない)。
どうしてそれが可能だったか。
人びと自らが、自らの感覚で、日常的に、「大地の理」を学んでいたからだ、と言えるでしょう。
《偉い人》のご託宣に頼るようなことはしなかった、ということです。
もちろん、往時にも、「偉い人」は居ました。
しかし彼らは、人が自らの感性で事物に対することの必要を説き、自分の説:ご託宣を押し付けるようなことはしなかった!
だからこそ、人びとから「偉い人」だと認められたのです。
そこは、今の《偉い人》との決定的な違いです。
註 現在の「工学」の「一般的な」発想法の「特徴」について、下記で書きました。
「工か構か」 [註記追加 16日 9.32]
地図からでも、これだけのことは読み取れるのです。
冒頭に触れた「津波を避けるためにコンクリート製の人工地盤をつくるというような《工学的提案》」をする前に、先ず、往時の人びとの「知恵」をこそ学ぶべきだ、と私は思うのです。
彼らの方が、数等、scientific なのです。
このことを、今回、明治の地図と、今回の被災浸水域の地図を比較してみて、あらためて強く感じています。
「此処より下に家を建てるな」、これもまた、往時の人びとの「知恵」なのです。
この「知恵」を、笑ってはならないのです。
何度も、いたるところで書いてきたように、
scientific であるということは、「数値化すること、計算すること・・」では、ありません。
science =「数値化すること、計算すること・・」という「理解」こそ、現代のものの見かた、考えかたを生む、最大にして最悪の「根源」なのです。
得てして、「数値化すること、計算すること・・」という「ものの考え方」は、「利」に直結します。
現に、原子力安全委員会の元委員は、「万が一のことなど考えていたら、コストがかかり過ぎる」「(あるところで)割切らないと設計できない」と公言していました。
これはすなわち、ものごとの判断の根拠を「求利」に置いていることの証以外の何ものでもありません。[文言追加 17.20]
私たちの目の前に広がって在る「歴史」事象は、単に、学校の歴史教科の教材ではありません。
それらの事象には、
この大地の上でしか生きることのできない人間の、大地の上での生きかたの経験と知恵がつまっているのです。
それを認識し理解できない、というのならば、いかに「科学的」であろうが、到底 scientific であるとは言い難い、と私は思います。
そうなのです。
「復興」を考えるのであるのならば、机上で勝手なことを妄想するのではなく、
「現地」「現場」に厳然として存在する「歴史的事実」「歴史的事象」から、
「長い年月」という「実験」を経て、「その地」で、往時の人びとが為してきた営為を知り、
そこから、人は何を為してきたか、そして今、何を為すべきか、そこに潜む「理」を学ぶべきなのです。
決して「現代的開発」の論理、阪神淡路震災の「震災復興計画」のような、
普通の人びとの日常の苦しみを生むような、生むことを願ったような、
一部の人たちの「利」にだけなったような、
そういう《復興》を夢見てはならないのです。
註 「区画整理・・・心の地図」
「災害復興と再開発」参照 [参照記事追加 16日 1.25]
私はそう思います。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
リンクしないとのご指摘がありましたので、改めました。失礼致しました。[訂正 21日 18.08]
付 「建物をつくるとはどういうことか」シリーズはこんな内容でした。
第1回「建『物』とは何か」
第2回「・・・うをとりいまだむかしより・・・」
第3回「途方に暮れないためには」
第4回 「『見えているもの』と『見ているもの』」
第4回の「余談」
第5回「見えているものが自らのものになるまで」
第5回・追補「設計者が陥る落し穴」
第6回「勘、あるいは直観、想像力」
第7回「『原点』となるところ」
第8回「『世界』の広がりかた」
第9回「続・『世界』の広がりかた」
第10回「失われてしまった『作法』」
第11回「建物をつくる『作法』:その1」
第12回「建物をつくる『作法』:その2」
第13回「建物をつくる『作法』:その3」
第14回「何を『描く』のか」
第15回「続・何を『描く』のか」
追記
ここで書いてきたことを、同じ資料を使い、別の形にまとめ、下記雑誌に書かせていただいております。
[追記追加 5月27日 15.20]
雑誌「コンフォルト」2011年4月:№119(建築資料研究社)
「住まいにとっての開口部」
間が空きましたが、今回を「建物をつくるとはどういうことか」の最終とします。
このシリーズでは、「私たちの『建物をつくる』という営為」は、本来、いかなる「作業」であったのか、根本・根源に戻って考えるようにつとめてきました。
それはすなわち、
「現代の建物づくりの考え方」、
そして、その考え方の基になる
「ものごと全般に対する対し方、考え方」に於いて、
決定的に忘れられている、と常日ごろ私が思ってきた諸点について、
あらためて「集成」してみようとする試みでした。
まとめは別のかたちになると思っていたのですが、今回の震災に遭遇して、この震災についての「感想」を書くことで、このシリーズのまとめにしようと決めました。
なぜなら、原発事故を含め、今回の被災の状況に、「現代の考え方」が、如実に露になっている、と思ったからです。
註 「究理」とは、ある物理学者の造語です。
どのような意味か?
「究理」の字義こそ、science の本義である、ということからの造語です。
science は「科学」であってはならない、ということです。もちろん「求利」などであっては・・・。
[註記追加 16日 9.45]
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[註記追加 16.47][文言追加 17.20][参照記事追加 16日 1.25][註記追加 16日 9.32][追記追加 5月27日 15.20]
先日、今回の地震・津波の被災からの「復興」へ向けて、海岸に津波を避けるためにコンクリート製の「人工地盤」をつくる、という「提案」がある、と新聞に図解入りで紹介されていました。「復興・・会議」の委員の一人の提案だそうです。
「この期に及んで、未だ・・・・」、というのが、私の率直な感想です。
「・・・・」のところには、いろいろな文言を入れることができます。たとえば、「懲りないのか」、あるいは「考えを改めないのか」・・・・。
地震や津波に対して「次に起る(であろう)地震に耐える強度の建物」や、「次に起る(であろう)津波の高さよりも高い防潮堤」をつくることで「対応できる」と考えるようになったのは(先回「想像を絶する『想定外』」で、こういうのを「工学的設計」と呼びました)、そんなに昔からではありません。
おそらく明治以降、つまり、「科学(技術)」を「信仰」するようになってからではないでしょうか。とりわけ第二次大戦敗戦後に著しい。
註 (であろう)と書いたのは、私にとっては「・・・であろう」ことも、
そういう《基準》を定める方がたには、「・・・であろう」ではないらしいからです。
彼らは「次に起きるのは、かくかくしかじかの事態である、と断定的に《評価》」します。
もし、それとは異なる事象が起きれば、「想定外であった」として済ますための「用意」なのでしょう。
次の地図は、福島県北の明治20年代の地図です。いわゆる「迅速図」と呼ばれている図です。
「日本歴史地名大系」(平凡社)の「福島県」編の付録から転載しました(原版はモノクロですが、一部に色を付けました)。
図中の黄色にぬった線は「陸前浜街道」、現在の「国道6号」です。
なお、赤い線で区画した西側(図の左側)が、
「想定外の」原発事故:放射能汚染で、人びとが避難を余儀なくされ苦しんでいる「飯館村」です。
清流に恵まれ水が美味しく、人情こまやかな穏やかな山村とのこと。
追記:ダイアモンド オンラインの記事に飯館村の紹介があります。
現在の道路を見慣れてしまった目には、この地図上の曲がりくねった道は、不可思議に見えるかもしれません。
しかし、道は、無意味に、あるいはわざと、曲がりくねっているのではありません。
これが人がつくる道の本来の姿なのです。
このように曲るには、それぞれ明確な理由があります。曲るべくして曲るのです。
人が道をつくるときの原則は、かなり前に書きました(たとえば「道・・・どのようにして生まれるのか」。このシリーズでも触れています)。
人にとって「分りやすい」「疲れにくい」「安全に歩ける」・・、それが道をつくるにあたっての「要点」なのです。もちろん、現代の人びとではなく、往時の人びとの採った考え方です。
現代では、案内板やカーナビがあればよい、と思うかもしれません。
「浜街道」に並行して、山寄りの山裾を、細い道(単線の表記)が南北に走っていることに注目したいと思います。
地図では「里道」と記されていますが、おそらく、この道は、「浜街道」が整備される以前からあった道と思われます。多分、等高線に沿った道だと思われます。
以前、奈良盆地を南北に走る道には、
「上つ道」「中つ道」「下つ道」の3本があったことを紹介しました。
このうち、「上つ道」:いわゆる「山の辺の道」が古く、以後、盆地の方に降りてゆくことも紹介しました。
このシリーズの第3回で触れています(末尾の付参照)。
平地:平場が歩きやすいのはたしかですが、平場は目見当をつけにくく、最初には手が付かないのです。これが、道の成り立ちの「順序」と言えばよいでしょう。
と言うより、この「里道」と呼ばれる道沿いに、数多くの集落があり、「里道」は、それらの集落を結ぶために生まれた道だったと考えられます。
明治期には人口500人以下ですが、おそらく、この地域で最初に生まれた集落の名残りではないかと思われます。往時は(多分江戸の初期ごろ)、もっと人が多かったでしょう。
そこを拠点に、目の前の平場を開拓し、江戸末には、集落の拠点が海寄りに移った、と考えられます。
しかし、平場といっても、
海からは一側内側の、今回、津波を被災しなかった区域に拠点集落:町場が構えられていることに注意したいと思います。
それを明らかにしてくれるのが次の地図です。明治20年代の地図の範囲と縮尺は、この図に合わせて編集してあります。
この地図は、国土地理院が公開している今回の津波による浸水区域の地図です。
図の海寄りの赤いところが浸水域です。
分りにくいかもしれませんが、「陸前浜街道」は、明治の頃の道筋を基本的に踏襲しています。
そして、「陸前浜街道」は、大半が津波の浸水を免れている、ということも分るはずです。
と言うことは、「陸前浜街道」が結んでいた町々の「旧市街地」もまた浸水を免れていることになります。
言い方を変えると、これらの町で浸水したのは、主に「新市街地」であった、ということです。
先にも触れましたが、往時の国道:官道は、既存の町:集落を結んで設定されています。
町:集落が生まれるのが先、それから集落・村、町相互を結ぶ道が生まれるのです。
これを、現代の「開発」の見かた:道をつくって人を貼り付けるという見かた:で理解するのは間違いです。
往時の人びとは、ものごとを「暮しの理」で考え、
現在のように、ものごとをすべからく「利」で追求することはしなかったからです。
これは、この地図の範囲だけではありません。
次の図は、仙台空港のある仙台東部地区の浸水図です。出典は先と同じく国土地理院公開の地図。4地区ほど公開されています(前記からアクセスできます)。
この地図には、南から、亘理、岩沼、名取、そして仙台中心部(旧市街)と、それを結ぶ「陸前浜街道」が読み取れ、それらがいずれも津波浸水域をはずれていることが分ります(角田という町もありますが、この町は浜街道沿いではありません)。
註 この地域の明治20年代の地図は、部分的ですが「此処より下に家を建てるな」のときに
載せてあります。[註記追加 16.47]
このことは何を示しているか。
旧市街地は、津波被害を免れている、という事実。
これらの町が津波で被害を蒙ったことが知られていますが、先に触れたように、それは、これらの町の「新市街地」が大半なのです。
「新市街地」とは、その多くは、現代の「科学・技術」による「想定」(=基準・指針)の下に「計画」された地区にほかなりません。
たとえば、地盤の悪さは杭やベタ基礎で解決できる、津波は、大きくても数mだろう・・・という「想定」(=基準・指針)の下で開発された新興地区なのです。
それがダメになったのは、「想定外」の天災に拠るのだ、天災がワルイ・・・。
旧市街:往時に人びとがつくりあげた集落:町が津波被災をしなかった、ということは、
そこに暮す人びとが、「住まいの備えるべき必要条件、十分条件」を認識していた、ということです。
「わざわざ危ない場所に暮すことはしてこなかった」ということです。
「大地」の上で暮す以上、「大地の理」を「尊重する」こと、おそらく、往時の人びとは、この「道理」を、当然のものとして理解していたと思います。
日ごろの「経験」「観察」を通して、「大地の理」を認識していたのです。
そして、当たり前のこととして、人が「大地の理」を凌駕できる、とは考えませんでした(もちろん、それが「大地の理」に「負けることだ」などとは思うわけもない)。
どうしてそれが可能だったか。
人びと自らが、自らの感覚で、日常的に、「大地の理」を学んでいたからだ、と言えるでしょう。
《偉い人》のご託宣に頼るようなことはしなかった、ということです。
もちろん、往時にも、「偉い人」は居ました。
しかし彼らは、人が自らの感性で事物に対することの必要を説き、自分の説:ご託宣を押し付けるようなことはしなかった!
だからこそ、人びとから「偉い人」だと認められたのです。
そこは、今の《偉い人》との決定的な違いです。
註 現在の「工学」の「一般的な」発想法の「特徴」について、下記で書きました。
「工か構か」 [註記追加 16日 9.32]
地図からでも、これだけのことは読み取れるのです。
冒頭に触れた「津波を避けるためにコンクリート製の人工地盤をつくるというような《工学的提案》」をする前に、先ず、往時の人びとの「知恵」をこそ学ぶべきだ、と私は思うのです。
彼らの方が、数等、scientific なのです。
このことを、今回、明治の地図と、今回の被災浸水域の地図を比較してみて、あらためて強く感じています。
「此処より下に家を建てるな」、これもまた、往時の人びとの「知恵」なのです。
この「知恵」を、笑ってはならないのです。
何度も、いたるところで書いてきたように、
scientific であるということは、「数値化すること、計算すること・・」では、ありません。
science =「数値化すること、計算すること・・」という「理解」こそ、現代のものの見かた、考えかたを生む、最大にして最悪の「根源」なのです。
得てして、「数値化すること、計算すること・・」という「ものの考え方」は、「利」に直結します。
現に、原子力安全委員会の元委員は、「万が一のことなど考えていたら、コストがかかり過ぎる」「(あるところで)割切らないと設計できない」と公言していました。
これはすなわち、ものごとの判断の根拠を「求利」に置いていることの証以外の何ものでもありません。[文言追加 17.20]
私たちの目の前に広がって在る「歴史」事象は、単に、学校の歴史教科の教材ではありません。
それらの事象には、
この大地の上でしか生きることのできない人間の、大地の上での生きかたの経験と知恵がつまっているのです。
それを認識し理解できない、というのならば、いかに「科学的」であろうが、到底 scientific であるとは言い難い、と私は思います。
そうなのです。
「復興」を考えるのであるのならば、机上で勝手なことを妄想するのではなく、
「現地」「現場」に厳然として存在する「歴史的事実」「歴史的事象」から、
「長い年月」という「実験」を経て、「その地」で、往時の人びとが為してきた営為を知り、
そこから、人は何を為してきたか、そして今、何を為すべきか、そこに潜む「理」を学ぶべきなのです。
決して「現代的開発」の論理、阪神淡路震災の「震災復興計画」のような、
普通の人びとの日常の苦しみを生むような、生むことを願ったような、
一部の人たちの「利」にだけなったような、
そういう《復興》を夢見てはならないのです。
註 「区画整理・・・心の地図」
「災害復興と再開発」参照 [参照記事追加 16日 1.25]
私はそう思います。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
リンクしないとのご指摘がありましたので、改めました。失礼致しました。[訂正 21日 18.08]
付 「建物をつくるとはどういうことか」シリーズはこんな内容でした。
第1回「建『物』とは何か」
第2回「・・・うをとりいまだむかしより・・・」
第3回「途方に暮れないためには」
第4回 「『見えているもの』と『見ているもの』」
第4回の「余談」
第5回「見えているものが自らのものになるまで」
第5回・追補「設計者が陥る落し穴」
第6回「勘、あるいは直観、想像力」
第7回「『原点』となるところ」
第8回「『世界』の広がりかた」
第9回「続・『世界』の広がりかた」
第10回「失われてしまった『作法』」
第11回「建物をつくる『作法』:その1」
第12回「建物をつくる『作法』:その2」
第13回「建物をつくる『作法』:その3」
第14回「何を『描く』のか」
第15回「続・何を『描く』のか」
追記
ここで書いてきたことを、同じ資料を使い、別の形にまとめ、下記雑誌に書かせていただいております。
[追記追加 5月27日 15.20]
雑誌「コンフォルト」2011年4月:№119(建築資料研究社)
「住まいにとっての開口部」
地形をもう少し見てみると、津波の到達エリアっは蛇行河川の氾濫平野、あるいは三角州です。これは非常に平坦な土地であることを物語ります。あるいは、時折の大津波が大地に”カンナをかける(建築家の下山先生にこのたとえを使うのは釈迦に説法ですが)ように、平坦化していった、、、相互作用だと思います。
いずれにせよ、自然とのバランスをうまく保って生活が営まれていたのです。
最近は市町村合併により、実に”無粋、無意味”な地名になっています。この世紀の大地震で、皆が技術観・自然観・人生観を変えていかないといけませんね
地名を緯度・経度扱いするのは、困ったものだと思っています。
「浪江」については、地図を見たとき、こんなに川に挟まれて・・、と思ったのですが、別の地図で、そこが高台であることが分りました。川の削り残した、したがって地盤のよいところだったのですね。
地名辞典によると、その高台に、中世には砦があり、「権現堂」があったとのこと。
近世には、その高台一帯は、「権現堂村」の「高野(こうや)」と呼ばれていたそうです。
しかし「高野」で火災が多発したため、水に因んだ名に変えたのが「浪江」とのこと。