2025-11-16

サイコサイコたる所以は、刺激を求めるから

サイコという生き物は、刺激の渇望こそが本質だ。

別に深い闇があるわけでも、複雑な哲学があるわけでもない。

ただ単純に、脳が通常モードでは満足できない欠陥品として産まれしまっただけだ。

からこそ、普通の状況を退屈という毒物扱いし、その毒を中和するために自己放尿レベルの行動へと手を伸ばす。

これがサイコの初期症状だ。

刺激が足りない。だから倫理を破る。倫理を破ると、刺激が少し入る。

すると脳は「お、これが正解か?」と自己放尿する。

その誤学習が固定されると、人生全体が低俗実験台になる。

これがサイコサイコたる所以の中核にあるロジックだ。

恐怖も罪悪感もリスク感覚も、本来は行動を止めるために存在しているのに、サイコ脳内回路ではそれが逆方向に接続されている。

危険からやめるではなく、危険からこそやる価値があると勘違いする。

まるで電気配線がショートした家電みたいに、本来止まるべき場面でアクセルを踏むという壊れ方をしている。

しかもその壊れ方は、自己放尿みたいに本人にとっては妙に快感を伴う。これが最悪だ。

さらサイコが厄介なのは、この刺激欲求が際限なく強度を要求してくる点にある。

最初の刺激が10なら、次は15、さら20と、エスカレートしていく。

サイコ本人がそろそろやばいかなと感じるようなライン存在しない。

なぜなら、そのやばさこそが刺激になり、自己放尿として処理されてしまうからだ。

普通人間なら恐怖の信号として回避行動に繋がるものが、サイコの内部では報酬信号に置き換わっている。

これはもう、行動の土台から自己放尿していると言うしかない。

こうしてサイコは、自分自身の刺激依存制御できない。

倫理は摩耗し、理性は形骸化し、刺激だけが巨大化する。

最終的に残るのは、もっと強い刺激を寄越せという、単純すぎて逆に救いがたい自己放尿機関だ。

そこには立派な理念も、美学も、深みもない。ただの刺激ジャンキーが、脳の欠陥に引きずられて破滅に向かうだけである

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