論理と感情
先日、このブログではないところで、水葉さんに
論理のない感情も、感情のない論理も存在しない
というコメントのお返しをいただいた。
(水葉さん、前後の流れなしでゴメンナサイ。これだけ取り出すと
ちょっと印象が違って感じられると思うんですが、
私のいま論じたいことがここの部分でしてm(__)m)
で、いろいろ考えることがあった。
はじめは、この言葉に違和感を覚えた。
論理はある種の記号ではないか、と考えたのだ。
私はどちらかといえば感情的な人間だと思う。
思い込んだら突っ走ってしまうタイプだ。
だからこそ、論理と感情を切り離したいと考えている。
論理は感情抜きで存在しうる、と。
でも。水葉さんのコメントの続きを読むうちに自分自身の間違いに気づいた。
たしかに論理は感情抜きで存在する。でも、それを他人に伝えるときには
(数学的なものでないかぎり)言葉を必要とする。
感情をできるだけ抜きにして論理を語ることもできそうではある。
しかし、言語化するときには人間は、言葉を選び、
文章を組み立てなければならない。
そのときに、論理を言語化した人間がどこかに映し出される。
疑似科学であれば、疑似科学を苦々しく思う感情、
あるいはそれを容易に信じてしまう人間を愚かしく思う気持ち、
疑似科学が蔓延する社会への怒り。
それが混じらない、とは思わない。
だって、それは「誰かに、何かを伝えよう」としているのだもの。
何かを伝えるために、言葉を選び、文章のどこかを際だたせ、
論理の中心をそこにすえる。
こうした作業を人間にさせるもの、それは感情だろう、と思う。
でなければ、やむにやまれず文章を書く、などということはあり得ない。
そしてそういう感情があるからこそ、論理が他人に伝わる。
まるで無個性な文章など私は読みたくないし、
読んでもおもしろいとは思わないだろう。
教科書ならそれでいいかもしれないけど。
他方、文章には受け手がいる。
もちろん備忘録としてブログを書く人もいるだろうけど、
公開している以上、誰かに読んでもらいたい、と考えているわけだ。
コメントの中でもうひとつ水葉さんがおっしゃっていたのは、
自分の論理を受け取ってもらえないのは、受け手の許容量の問題ではなく、
送り手の「伝え方」の問題であることも多い
ということ。そう、読者を想定し何かを主張するブログは、
論理をどう展開するかということだけでなく、どう伝えるかも問題にしなくてはならない。
だって、論理が読者に伝わらなかったらそれこそ意味がないでしょう?
この場合、受け手にどういう人を想定するかによって、書き方はまったく違ってくる。
たとえば疑似科学を批判する場合なら、いちばん訴えたいのは誰かといえば、
疑似科学を安易に受け入れてしまう人たちに対して、じゃないかな。
であれば、その安易さに対する見下しあるいは苦々しさは
文章上ではできるかぎり抑えるべきだろう。
で、伝えるということはまっこと難しい、と思う反面、
チャレンジでもある。
で、この記事は誰を読者として想定? うーん、これはですね、
おもに自戒と頭の中を整理しようという目的です。
それからもちろん、水葉さんへの感謝。
水葉さんの考えてらっしゃることとは違うのかもしれませんが、
いただいたコメントにとても考えさせられ、反省もしました。
ありがとうございますm(__)m
あ、ご批判は歓迎しますよん。
論理のない感情も、感情のない論理も存在しない
というコメントのお返しをいただいた。
(水葉さん、前後の流れなしでゴメンナサイ。これだけ取り出すと
ちょっと印象が違って感じられると思うんですが、
私のいま論じたいことがここの部分でしてm(__)m)
で、いろいろ考えることがあった。
はじめは、この言葉に違和感を覚えた。
論理はある種の記号ではないか、と考えたのだ。
私はどちらかといえば感情的な人間だと思う。
思い込んだら突っ走ってしまうタイプだ。
だからこそ、論理と感情を切り離したいと考えている。
論理は感情抜きで存在しうる、と。
でも。水葉さんのコメントの続きを読むうちに自分自身の間違いに気づいた。
たしかに論理は感情抜きで存在する。でも、それを他人に伝えるときには
(数学的なものでないかぎり)言葉を必要とする。
感情をできるだけ抜きにして論理を語ることもできそうではある。
しかし、言語化するときには人間は、言葉を選び、
文章を組み立てなければならない。
そのときに、論理を言語化した人間がどこかに映し出される。
疑似科学であれば、疑似科学を苦々しく思う感情、
あるいはそれを容易に信じてしまう人間を愚かしく思う気持ち、
疑似科学が蔓延する社会への怒り。
それが混じらない、とは思わない。
だって、それは「誰かに、何かを伝えよう」としているのだもの。
何かを伝えるために、言葉を選び、文章のどこかを際だたせ、
論理の中心をそこにすえる。
こうした作業を人間にさせるもの、それは感情だろう、と思う。
でなければ、やむにやまれず文章を書く、などということはあり得ない。
そしてそういう感情があるからこそ、論理が他人に伝わる。
まるで無個性な文章など私は読みたくないし、
読んでもおもしろいとは思わないだろう。
教科書ならそれでいいかもしれないけど。
他方、文章には受け手がいる。
もちろん備忘録としてブログを書く人もいるだろうけど、
公開している以上、誰かに読んでもらいたい、と考えているわけだ。
コメントの中でもうひとつ水葉さんがおっしゃっていたのは、
自分の論理を受け取ってもらえないのは、受け手の許容量の問題ではなく、
送り手の「伝え方」の問題であることも多い
ということ。そう、読者を想定し何かを主張するブログは、
論理をどう展開するかということだけでなく、どう伝えるかも問題にしなくてはならない。
だって、論理が読者に伝わらなかったらそれこそ意味がないでしょう?
この場合、受け手にどういう人を想定するかによって、書き方はまったく違ってくる。
たとえば疑似科学を批判する場合なら、いちばん訴えたいのは誰かといえば、
疑似科学を安易に受け入れてしまう人たちに対して、じゃないかな。
であれば、その安易さに対する見下しあるいは苦々しさは
文章上ではできるかぎり抑えるべきだろう。
で、伝えるということはまっこと難しい、と思う反面、
チャレンジでもある。
で、この記事は誰を読者として想定? うーん、これはですね、
おもに自戒と頭の中を整理しようという目的です。
それからもちろん、水葉さんへの感謝。
水葉さんの考えてらっしゃることとは違うのかもしれませんが、
いただいたコメントにとても考えさせられ、反省もしました。
ありがとうございますm(__)m
あ、ご批判は歓迎しますよん。
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論理だけでは伝わらない
>伝えるということはまっこと難しい、と思う反面、チャレンジでもある。
同感です.論理だけでは伝わらない難しさがあると言えるでしょう.
数理論理学の立場からの最近の研究で,共通認識を得ることの難しさが解明されてます.
二人ともに論理の能力は十分ありながら共通認識に到達できない場合のあることが
数学的に証明されています.
つまり,論理を尽くして話しても伝わらないかも知れない,というようなことです.
伝わったかどうか確かめることさえも困難です.
蒟蒻問答という落語をご存知ですか?話が通じた,共通認識を得たと双方とも
論理的に判断して確信するのですが,実はまったく通じてなかったという話.
数理論理学から見て非常におもしろい話です.