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夢想国師

自作小説がメインでファンタジーやBLなど一切掲載してません 地方経済の活性化を図る「風越峠 見返り桜編」がお奨めです

俺29男だよ 全章

1 巡り合わせ

 

 息子の春樹が癌かもしれないと知っても、由乃は誰にも相談しなかった。だが、入院費用がないのでしかたなく、両親へ借金の申し入れにいった。

「春樹が癌とはな・・・。だが、あれも親不孝な奴だし、このままほっといて少しは苦しんだほうがいいんじゃないか」

 そういわれては返す言葉もない由乃だった。

「ま、わしにしたら孫だからなんとかしたいとは思うが、ああいう道楽息子には、もう見切りをつけてもいいんじゃないか。由乃だって、たいがいあれには泣かされてきたし」

「お父さんの言いたいことは分かるけど・・・。その上で無心にきた私が甘かったようね。確かに春樹は半端者で端にも棒にもかからない。それでも私のお腹を痛めた子供なの。今日のことは忘れて」

 

 医者から癌であることを聞かされていない春樹は、腹痛が治まると、相変わらず酒と女に日々を費やしていた。その合間に気が向けば仕事にいくといった調子だった。

「春樹。あんた明日は29才の誕生日よね」

「それがどうかしたのかよ」

「人生なんてあっという間よ。これからのこと少しは考えてる?結婚して子供ができたらお金だってかかるし、今みたいなことじゃやっていけないわよ」

「そんなこたぁ分かってるって。土曜に金はいるから、それまで2万貸しくれよ」

「あたしの全財産が20万円ある。その半分持って行けばいい。それで遊んでくればいい。でも、その後は入院よ」

「誰が入院なんだよ」

「あんたに決まってんでしょ。癌は早めにとったほうがいい。それぐらい知ってるでしょ、あんただって」

 春樹は自分の病気が癌ではないかと薄々感じてはいたが、医者が胆嚢炎だというので安心していたのだった。

「お医者さんには私が口止めしといたからあんたは知らなかっただろうけど、ほっとけば肝臓や膵臓に転移して、早ければ半年で命を落とすことになるって」

 

 家を出る際に涙を浮かべながら金を手渡してくれた由乃のことなど忘れたかのように、春樹はキャバクラで美紗緒という女を口説いていた。

「しょうがないな。明日も同伴してくれるならいいよ」

 このところ金さえあれば美紗緒に入れあげている春樹は、ついに彼女をホテルに連れ込んだ。

「もう少ししたら人に会わないとなんないから、早くやって」

 これまで何十人という女と肌を合わせてきた春樹だが、そんなことをいって風呂にも入らずさっさと服を脱いでベッドに行く女は初めてだった。

「ふざけんじゃねーぞ。てめーみてーな女。誰がやるかってんだ!」

 そういって1人でさっさとホテルを出た春樹は、虚しさが込み上げてきて息ができないほど苦しくなった。と同時に彼の脇腹を激痛が襲い、自動販売機にもたれかかるようにして痛みが治まるのを待つしかないようだった。

「酔ってるの?大丈夫?」

 口もきけないほどの痛みで額に汗をかいている春樹の様子に、長田由紀は救急車を呼ぼうかと聞いた。

「み、水だ」

 由紀は自分の飲みかけのペットボトルをバッグから急いで取り出し、キャップを開けて春樹の口に持っていった。

 それを飲み下すと胃だかなんだかが動き、春樹は唸るようにしてしゃがみこんでしまった。

「いま119番かけるから」

「やめてくれ。どうせ、来週入院するんだから」

「え?」

「終電なくなるぞ」

「そんなこといいけど、ね、本当に平気なの?」

「少し待ってれば治るって」

 由紀はネットカフェで夜を明かすつもりでいたが、春樹をこのまま置き去りにする気になれなかった。

 目を開けられないほどの激痛でずっと脇腹を手で押さえながら抱え込んでいる春樹だったが、しばらくすると嘘のように痛みがぴたっと止まった。そして目を開けると、真っ黒に日焼けした女の顔が目の前にあった。

「平気?」

「やっと治ったみたいだ」

 ふーっと息を吐き出した春樹は立ち上がり、ビールでも飲みに行こうと女を誘った。

「お腹痛かったのに、大丈夫?」

「平気だって」

 そういいながら煙草をふかす春樹だった。

 

 長田由紀は韮崎の出身だが、地元の山梨の大学を卒業すると東京で就職した。IT関連の企業に就職したが3年後に倒産の憂き目に遭い、今は派遣の仕事をしながら週に2回、夜はキャバクラでアルバイトもしている。

 アパートの家賃は5万円ほどだが山を登るのが生き甲斐で、日本各地だけでなくニュージーランドやカナダにまで足を伸ばすこともあり、とにかく稼がなければという毎日だった。

 幸いなことに派遣といっても使い捨てにされるような誰でもできるといった仕事ではなく、中国語の通訳と貿易事務をこなしているので、週3日だけでも1ヶ月の収入は20万を越える。それにキャバクラのを併せると、多い月には35万ほどになるときがあった。それでも、それなりに服を自腹で買ったりするので、いつもぎりぎりの生活費だった。

 

「あたしもいつかはチョモランマに行きたいから貯金してるけど、なかなか貯まらないし。こんなふうに焼肉食べるなんて何ヶ月ぶりだわ」

「へー。山女だったのか。だから俺みたいなのも、ザイルでつないで見殺しにしなかったんだ」

「ザイルなんて知ってるの?」

「アンザイレンっていう映画見たことあるんでね」

「あれはよかったよね。見てて涙出てきたし」

 

 春樹はこれまで見てきた女性と違う長田由紀に新鮮さを感じていた。

「いつもなら、これからホテルに誘うところだけど、あんたにはそんなことできないな」

「なにいってんだか。それより、入院するってどういうこと?さっきの腹痛が原因?」

 胆嚢癌であることを話した春樹は、タクシーで帰るように1万円札を彼女に渡した。

「なによ、これ」

「命の恩人みたいなもんだし。これで帰れば。俺は歩いて帰れるから」

「いいよ、お金なんて。それより、癌なんて今は怖い病気じゃないから心配しないほうがいいわよ。お見舞いに行くね」

 2人は携帯電話の番号を教えあうと店を出た。

 夜更けの街でも人はあっちこっちにいるし、コンビニやファーストフードの24時間営業の店があっちこっちにあった。

「明日は奥多摩へ行くんだ。あそこで始発待つことにするから。あなたも元気でね。電話待ってるから」

2 春爛漫か?菜種梅雨か?

 

春樹の手術が無事に終わった。

懸念されていた肝臓などへの転移もなく、由乃はほっと胸をなでおろした。だが、別れた夫から借り入れた50万のことが、すぐに頭をよぎっていた。

由乃の60過ぎの老齢の身では、今やっているビル掃除のパートぐらいしか雇ってもらえるところはないだろう。

そんな思いを顔には出さず、春樹を抱きかかえるように上半身を起こした。

「まだ痛むかい?」

「きりきりする」

「そうだろうね。無理しないでいいから、しばらくは。でも、できるだけ歩いたほうがいいって、先生いってたよ」

「煙草でも吸ってくるか」

 ベッドから上体を起こすときは辛いが、立ち上がればなんとか歩けるし、気分もいい春樹だった。

 外に出ると青空が大きく広がり、富士山が見えている。

 山か・・・。あの女はどうしてるんだろう?

 

 由紀は冬の八ヶ岳の写真を撮るため野辺山にいた。

 車のドアを開けるにも寒風が吹きつけ、ようやく外に出れば吹き飛ばされそうになる。ゆっくりした足取りで歩き出した。飯盛山の頂上は遮るものがなく、八ヶ岳連邦をはじめとした山並みが広がっていた。

 そんな景色を何枚も撮り終えると、テルモスの熱いシェルパティーを飲んだ。

 退院したら俺も山に行くなんていってたけど、手術は無事成功したんだろうか?

 春樹から手術の前日に電話があったことを思い出していた。

 いきがかり上知り合っただけの男に深入りする気はないが、見舞いに行くといった以上行かなければと思う由紀だった。

 

 野辺山から戻った2日後、由紀はカットフルーツの盛り合わせを手に春樹を見舞った。

「元気そうね」

「お、来てくれたんだ」

「約束したしね」

「なーんだ。俺のこと好きだから来てくれたんじゃないのか」

「しょってるわね」

「あー。体力戻ったらザックもしょうぞ。槍ヶ岳に登ってみたいんだ」

 春樹が本気で山に行きたいとは思ってもいなかった由紀は彼に聞き返した。

「最低でも2日かかるのよ。そこら辺にハイキングへ行くのとは違うし、それだけの覚悟あるの?」

「知ってるって。ほら」

 春樹は槍ヶ岳のガイドブックを由紀に見せた。

「へー。本気なんだ。じゃ、退院したらとりあえず雲取でも行ってみる?東京都最高峰の山で2000mあるわよ」

「いいね。元はマラソンやってたし、2000mなんて楽勝だって」

 そんなところに由乃が入ってきた。

 由乃は美人で品のある由紀が、なぜ春樹と知り合ったかを知りたかったが、初対面の彼女に聞くわけにもいかなかった。

「お見舞い有難うございます。こんな息子ですが、宜しくお願いします。春樹。明日退院だって」

「そうか・・・」

 由紀と知り合った晩に由乃からせびった残りの金7万円はあるが、それではとうてい入院費用には足りないだろう。

 そんな不安が急に現実のものとなって春樹を襲った。

「じゃ、トレーニングしてね。行けるようになったら電話ちょうだい。待ってるわ。じゃ、お邪魔しました。お大事に」

 由紀はそういって病室を出た。

「いい感じの女性だね。何やってる人だい?」

「そんなのどうだっていいよ。それより、金どうかなったのか?」

「あんたがそんな心配しなくたっていいの。とにかく元気になったら、今度こそ真面目にやってくれればそれでいいから」

 

 春樹が退院して2ヵ月後は花見時だった。

 春樹は元来が真面目だったこともあり、今回の入院で母親の由乃にすっかり苦労をかけたこともあったのか、すぐに仕事をしだした。本業の塗装工として、しっかりしたところに就職したのだ。

「これは少ないけど今月分だ。親父から借りたんだろ。返してくればいい」

「知ってたのかい」

「お袋の実家じゃ俺は鼻つまみもんだし、金を貸してくれるといったら親父しかいないだろ」

「あんたがしっかりこのまま働いてくれれば、実家のほうだって辛くいわないって。じゃ、これはお父さんに返しとくね」

 受け取ろうとする由乃の手は皺だらけの上、加齢に伴う染みや斑点があちこちにあった。

「痩せたなぁ」

「え?」

「なんでもない。明日は休みだし、飯は外で食う」

 春樹はそういうと外に出て行った。

 由乃は今朝春樹の弁当を作った残り物で遅い夕食をとり始めた。

 

 夜桜の花見でにぎわう上野公園から浅草に行った春樹は、チャットで知り合った潤という女子大生と一緒だった。その彼女とは今日が3回目の逢瀬だった。

「あたし、すき焼きがいいな」

 春樹にしても昼から何も口に入れてなかったし、肉を食べたいと思っていたところだった。1人前7千円のコースを頼むと霜降りの美味そうな肉が舌の上でとろけた。

 潤は美味しいといいながらビールをよく飲む。

「今日は帰らなくていいんだろ?」

「えー?」

「その顔はいいって顔だな」

「そうかな?」

 

 由乃が夕食をとり終え風呂から上がると眩暈で倒れた。

 元々血圧が低く、そこにもってきて最近痩せたせいか。

 彼女は起き上がることもできずに意識を失ってしまった。

 

 何ヶ月ぶりかに抱いた女は春樹がいやになるほど肌を押し付けてくるが、彼はもう精力を使い果たしていた。

 春樹を睡魔が襲うが、家に帰ろうと思った。

「今度は温泉でも行ってゆっくりしようか」

「うん。あたしたち肌合うみたいだし」

 まだ高校生のような潤が、ときどき春樹をドキッとさせることをいう。

「大学じゃコンパばっかりやってんだろ。男遊びばかりしてないで、少しは勉強もしろよ」

「今は授業ないし。でも、来年は就職だから頑張るよ」

「そっか。じゃ、別れのキスだ」

 潤は自ら自分の舌を春樹の舌に絡めた。

 春樹の携帯電話が着信音を響かせた。彼は母からだと知ると、そのままキスを続け電話には出なかった。

 

 春樹が自宅に戻ると、由乃が浴衣姿で畳に倒れていた。

「どうしたんだよ?」

 どこか具合でも悪いのかと気遣いながらも、春樹の口調はぶっきらぼうだった。

「頭痛いから薬買って来てくれないか」

 なんとか上体を起こしていう由乃。

「日曜なのに薬局なんか開いてないだろ」

「ドラッグストアやってないのかね」

「まだ8時なのにそんなのやってないって」

「後でいいから買って来ておくれよ」

 春樹は由乃を布団に寝かせ自分の部屋に行くとビールを飲んだ。そして携帯で撮った画像をパソコンに転送した。モニターには潤のあられもない肢体が映り、それをにやけながら見てはビールを飲んだ。そうして時間をつぶし10時前にドラッグストアに行き頭痛薬を買って来た。それを由乃の部屋に持って行ったが彼女からの返事がなかった。

 春樹はもしかしたら由乃が脳梗塞にでもなったかと思い、救急車を呼んだ。

 

 由紀は春樹が真面目にトレーニングしてるか電話をかけると、彼の母親が脳血栓で入院したことを知らされた。幸いにも症状は軽いものの、山どころではないといった感じだった。

 

 春樹に兄弟はなく、母の看病を自分でしなければならないと思うと先が思いやられた。それに就職したばかりで仕事を休むのは気が引けた。

「春樹。お母さんの妹の美咲知ってるだろう」

「知ってるけど、あの叔母さんがなんだよ」

「美咲に電話して、来るようにいっておくれ」

 春樹がしぶしぶ美咲に電話で事情を話すと、彼は散々小言をいわれた。だが、そのおかげで看病からは解放されそうだった。

 由乃の血栓は薬で徐々に溶かされていったが、退院にはまだ日にちがかかりそうだった。

 春樹は1日おきに病室を訪ねるものの、由乃とこれといった話もあまりせずに帰ることが多かった。

「男っていうのは何でああ無愛想なのかしらね。私に挨拶のひとつもしないし」

「済まないね。美咲には迷惑ばかりかけて」

「うーん。姉さんに文句いうつもりなんてないのよ。でも、春樹のああいうのが許せないだけ」

「あれだって、好きでああなった訳じゃないのよ。昔は素直だったの、あんただって知ってるでしょう」

 

 高校進学で春樹の人生は変わったようだ。

 その原因は春樹自身が何もいわないので、母親である由乃さえも本当のところは知らない。ただ、別れた夫が勧める進学校に無理やり入れられたのが嫌だったことをそれとなく感じていた。その証拠に半年も待たずに、春樹は自主退学してしまった。それでも夫が高校にも行かないでどうするんだと毎日叱責し、それで彼は翌年違うところに進学したが、それも2年で退学になってしまった。

 高卒の夫は学歴コンプレックスが強かったのか、春樹には一流の高校大学に行ってほしかったようだが、息子の春樹はそれを頑として受け付けなかった。

 春樹は小さいころから絵心があり、本当は美術系の学校に行きたかった。

 それが絵なんかで人生やって行けるかという、にべもない言葉に猛反発した。それでも高校に行かなければ美大に入れないとなれば、しかたなく進学校に入学したが、明けても暮れても偏差値がどうのこうのという教師や同級生に我慢できなかった。そして、同級の女性と問題を起こして退学になってしまった。

 

 春樹が潤の電話で駆けつけた先はイラストの展示会場だった。

「凄いなー」

「サークルの仲間でお金出し合ってさ、1年に1回はやってるんだ」

 前衛的なものからアニメ系までいろんな作品があるが、春樹が好きなのはイラストというより実写に近い精密画だった。

「いつになるか分からないけど、俺も描いてみるかな、久しぶりに」

「描きなよ。描いたら見せて」

「潤のヌードでも描くか?」

「やーだ」

 2人は展示会場を出てホテルのレストランに行った。

「最近チャットに来てないけど、何やってんの?」

「お袋が入院してて見舞いに行ったりとか、時間ないんだ。今日はたまたま休みになったけど」

「大変じゃない。あたしが夕飯つくりに行こうか?」

「いやー。家に女連れ込んだなんて近所に知れたら、お袋が入院してるっていうのに何考えてるんだっていわれるのが落ちだし」

「そうか・・・。じゃ、この後にいいことしようね」

 意味ありげに含み笑いする潤の顔はハーフのように彫が深くて小さい。

胸元が大きく開いたティーシャツを盛り上げているバストはボリュームがあり、誰もが彼女とすれ違いざまに目をやるほどだ。

そんな潤の身体をこれから抱くのかと思うと、それだけで春樹の男心は燃え上がってきた。

 ランチタイムが終わるというのでウエィトレスがラストオーダーを聞きに来た。

「あたしはもうお腹いっぱい」

「水割り。それとダブルルームひとつね」

「は?」

「ダブルだよ」

「水割りのダブルですね」

「水割りはシングルで、部屋がダブル」

 ようやく洒落の分かったウエィトレスが春樹を見ながらいった。

「ここではそのようなご注文はお受けできませんので、フロントへ行っていただけますか。水割りのシングルおひとつでよろしいですね」

「はい。それでいいです」

 潤が春樹の代わりにいった。

「やーね。あの人、これからあたしたちがエッチするんだっていう顔で見てたじゃない」

「しないの?」

「してよー」 

 

春樹はベッドで高校時代のことを振り返りながら潤に話している。 

「俺、高校の3年間で何やってんだろうって、最近よく思うんだ」

「どうして?」

「友達もできなかったし、2回も中退して馬っ鹿じゃなかろうかってね」

「卒業しなかったの?」

「当然。好きでもないこと勉強してもしょうがないだろ。でも、2回目の高校のときは結構のんびりしてて面白かったな。私立の全寮制だったけど、とんでもない田舎でさ。近くに山や川があったりで、ちょっと可愛い子と授業抜け出して土手で寝転んだりしたりね」

「いけないんだ。不良じゃん」

「不順異性交遊っていうんじゃないか」

「やっちゃったの?その子と」

「やったね。それで退学になったし。親父には勘当だっていわれて参ったよ」

「悪い子だ」

「何いってんだよ。あんな気持ちのいいことして、どこが悪いんだよ。でも、あれで俺の人生変わったなーって、今思うんだ。退学してから絵も描く気になれなくて、仕事もしないでぶらぶらするしきゃなくて。それが元で親は離婚したし」

「そうなんだ・・・」

「お袋にしてみたら慰謝料も貰わないで、俺のこと面倒見ながら働きに出て大変だろうなって思ったよ」

 そんなことを潤にいいながら、このところの春樹は由乃の見舞いも疎かにしていた。

「あれから、お袋に迷惑かけっぱなしなんだ。でも、最低でも高卒じゃないとまともな仕事に就けなかった。それなら職人で稼ごうって思ったんだ。でも、でっかい現場で朝早くから朝礼やったりとかって、俺の柄じゃなくてさ。そこらの家の塗り替えとかしたくて、あっちこっちのペンキ屋行ったよ」

 

 最近の一般住宅は新建材が多用され、ペンキ屋の仕事が減っている。さらに悪質な業者が横行し、春樹が行っていたペンキ屋はことごとく暇になっていった。

 その結果、春樹は1ヶ月のうち半月は仕事に行かないということが多かった。そういう悪循環で彼は次第に仕事をする気になれなくなり、朝から酒を飲むようになった。それでも、去年は塗装技能士1級の資格を取っていた。

 そんなことを、春樹は潤の乳首を玩びながら話した。

「大変なんだねー」

「遊んでないで仕事に行けって、よくいわれたよ」

「お母さんから?」

「いや。家に電話かかってくるけど、お袋がいないから俺が出るだろ。そうすると親戚の叔母さんとか親父とかがね」

「そうか・・・。大人なんだからそんなこと分かりそうなのにね」

「分かってても、親父がいないのに、お前が母親を働かして自分は遊んでてどうすんだって。そういわれりゃ確かだけど・・・。皆、俺が悪いんだって思ってるんだろ。だから、そういう奴らの顔も見たくないし、話もしないな」

「だったら、これからは仕事のあるところに行けばいいじゃん」

「今はなんとかあるけど・・・」

 先のことなど考えたくなかった。

 今はそれより、目の前にいる潤という女にのめりこんでいたい春樹だった。

 外はしとしと雨が降り出しているようだった。

 桜も今夜が見納めかもしれない激しい降り方に変わったのは、春樹と潤がホテルを出た直後だった。

 

3 逃げた山の女神の行方

 

 由乃は後遺症もなく普段の生活に戻ることができた。

 病院にいる時はいろんなことを思い悩んでいたが、仕事をし始めるとそんなことでくよくよする暇もなかった。

「よかったねー。村井さんがいないと、私たちも淋しくて」

「有難うございます。休んだ分取り戻さないと」

「無理しないでいいのよ。仕事は私たちがやるから、適当にやってくれればいいの。管理人さんが村井さんがいるだけでいいっていってくれてるし」

 由乃は負けず嫌いで男勝りの性分だった。それは仕事だけでなくあらゆる面で現れるが、普段は周りの人間と協調している。

 休日には仕事仲間と昼食を食べに行くことも、お互いの家に行き来することもある。誰かが具合が悪いと聞けば、仕事帰りに見舞いに行ったりする人情家でもあった。

 そういう由乃だったから、彼女が倒れたときは毎日のように見舞い客が来た。

 その1人が目の前で茶を淹れている瀧子という同僚だった。

「今日は2人だけの快気祝いよ」

 瀧子は皆が帰った後そういった。

「それはどうも」

 

2人は瀧子がたまに行く店に行った。

 すべてが個室の懐石料理屋で、小さなせせらぎを石畳で渡り三和土に上がってから部屋に入るようになっていた。雪見障子を開ければ書院造のような部屋で、海霧に煙る小島の掛け軸は五月雨の雰囲気を醸し出している。漆黒のようなテーブルは螺鈿が施してある。それに見劣りしない刺繍をあしらった座椅子と脇息。

「瀧子さん。こんなお店によく来るの?」

 由乃は夫と何回かこういう懐石料理屋に行ったことはあるが、別れてからというものは外食といえばファミリーレストランぐらいのものだった。

「たまにですよ。こういうところで贅沢するより、私は温泉のが好きだし。でも、今日は村井さんとゆっくり話したいと思って」

 出される料理は見栄えも味もすこぶるつきのものばかりで、枝豆の冷静スープは甘みの中にもさっぱりした味わい。アイナメとキスに時鮭の刺身は口にしたことのない美味さだし、新じゃがとアスパラガスは旬の味わい深いものだ。金目鯛はバターでソテーしてるがかりっとした触感はさっぱりとした口当たりで、単なる塩焼きや煮付けでは味わえないものだった。そういった料理の最後は枇杷のデザートで締めくくられた。

「こんなに美味しく食事したことあったかしら」

 夫と別れてからの由乃は働きづめで、食事といえばあり合わせのもので済ますのが常だった。

「ご馳走様。それより、何か話があるんじゃない」

「実はね、私、宝くじ当たったのよ。それも、4億円」

 由乃は信じられないといった顔で、茶をすする瀧子を見た。

 瀧子はなんでもないといった感じで湯飲みを置き、煙草を吸い出した。

「こんなこと話すのは村井さんだけで、夫にもいってないのよ」

「それなのに、どうして私に?」

 

 瀧子はタクシー運転手の夫の浮気癖のことを、しょっちゅう由乃に愚痴をこぼしていた。

 由乃の夫は浮気こそしなかったが暴力を振るうことが度々あったし、そういうことで夫に恵まれなかったのは瀧子と共通していた。それで彼女の話を、自分のことのように親身になって聞いてやったことが多々あった。

 

「あの人は60だっていうのに、娘よりも若い女に入れあげて生活費もまともにくれないからこうしてパートの仕事してるんだけど、もう、これからはゆっくりしたいの。離婚するっていってやったわ。でも、宝くじに当たったことはいってないのね。それで、これは村井さんが買ったってことにしてほしいの。別れるときにごたごたするから」

 

 瀧子は離婚間際に買った宝くじの賞金を夫と折半にしなければならないことを見越し、由乃にそういうのだった。

 由乃は瀧子の夫に何回か会ったことがあるが、いかにも女癖の悪そうな感じを持っていたこともあり、彼女の申し出を受け入れることにした。

「いいわ。でも、仕事をやめてどうするの?何もしないで遊んでるっていうのも、辛くない?」

「そこなんだけど、村井さんと温泉めぐりしたいのよ。それでブログなんかやったりすれば、結構楽しくて時間たつのもあっという間だと思うし」

 ブログがどんなものか。パソコンをまったく知らない由乃に、ノートパソコンを見せながら詳しく説明する瀧子だった。それには由乃も目を丸くして驚くばかりだった。

「凄いわねー」

「でしょう。村井さんも何かやればいいのよ。ブログは面白いし、惚け防止にもなるし」

「私は瀧子さんみたいに器用じゃないし」

 瀧子は由乃より5歳下でまだ時代の流れに乗れるが、由乃にしたらパソコンなどは無用の長物だと思っている。見ず知らずの相手とメール交換など、不気味だとさえ感じているのだ。

「とにかく、温泉に付き合ってほしいのよ」

「そういわれても、私はこの仕事を辞める気はないし・・・」

 身体を動かさずにじっとしていられる性分ではないし、ましてや他人の金で遊ぶなどということは、由乃にはできかねることだった。それに、春樹の仕事も順調で、以前のように仕事を投げ出す様子もなさそうなので、これといった不満もなかった。

「来週は?新緑のいいところがあるのよ。そこは1人じゃ泊まれないし、なんとかお願い」

 瀧子の哀願するような誘いにしかたなく付き合うことを約束したが、食事代は割り勘で払う由乃だった。

 

 春樹は仕事を終えるといつものようにジョギングで帰宅する。

 贅肉の落ちた身体は引き締まり、手足には血管が浮き上がるほど筋肉もついてきた。それはジョギングだけでなく腹筋や腕立て伏せなどもしているからで、食事も美味く感じるようになっていた。酒をひかえているのが何よりなのだろう。

 その筋肉質の身体で潤の華奢な身体を責めるように抱き、彼女を快楽の底に何度も落とした。

 そして今は、登山道の片隅で由紀と一緒に奥多摩湖を見下ろしていた。

「これから徐々に勾配を稼ぐようになるの」

 ジョギングをやっているせいか、肺活量も上がってきている春樹の動悸は乱れてはいない。景色を眺める余裕もあるし、街で見る時とは違う由紀の姿に惚れ直している。

彼は、汗でうっすらと透けてる由紀の胸を舐めまわすように見ているのだ。

「煙草がうめー」

 振り返った由紀に気取られまいと、大袈裟にいった。

「息切れするわよ」

「ヘッチャラだね」

 初めての登山とは思えない軽やかな足取りで七つ石山迄難なくついてくる春樹に、これなら2時には雲取に着くと思う由紀だった。

「あそこが頂上よ」

 そういわれた春樹はゆるい登り坂を駆け上がって行った。

 その後姿は、獣が獲物をを見つけて走って行くように見えた。

 由紀は走りこそしなかったが急ぎ足で春樹の後を追った。

「子供みたいね」

「ちぇっ。浅間は見えんのに北は駄目だな」

「この時期だとヘイズが出る前じゃないと、北アルプスは無理かもね」

「ヘイズって?」

「大気中の塵。それが遠くのものを見にくくさせるの」

「いろんなこと知ってるねー」

 由紀は避難小屋でザックの荷物を整理すると外で料理を始めた。

「あなたは何を持ってきたの?」

「レトルトとフリーズドライ。あとはビールとつまみ」

 一泊の山行ならそれで十分だろう。

 由紀は冷麦をつくり、ビールを飲んでいる春樹に振舞った。

「ぬるいけど、うめー」

「山で水は貴重だから、おうちでつくるようにふんだんに水は使えないからね。でも、これぐらいなら上等よね」

「上等上等上等」

 春樹は意味もなく繰り返していう。

 遅い昼食を終えても、夜になる迄はかなりの時間があった。

 その間春樹は何かと由紀に話しかけるが、彼女は汚い言葉遣いをする彼を鬱陶しく思い、あまり話す気になれなかった。

 避難小屋にいる登山者は、場違いな奴が闖入してるといった目で、そんな春樹には冷ややかだった。

「他の人もいるんだし、少しは静かにしたら」

「つめてーなー」

 夕食を終えると星を見に小屋を出る者が多い。

 由紀はビールを飲んでいる春樹に声をかけることもなく、1人で外に行った。

 空には満天の星が輝き、手に取れる近さに見えた。

 春樹という男と一緒でなければロマンチックな星空だと感じただろうが、今はそう思えない。何であんな人間と山に来たのかという後悔のが強いからだ。

 

いきがかり上声をかけて具合の悪い彼を介抱した。癌だというので見舞いにも行った。そして槍ヶ岳に登りたいというから、それなら試しに雲取に行ってみようとなった。

電車の中では足を投げ出したり、大声で話しかけてきた。挙句に携帯電話ではげらげら笑いながら会話もしていた。山小屋でも彼のその非常識さは遺憾なく発揮され、抱き合って寝ようと、周りに聞こえるようにいってきた。

 

そんな春樹とは1秒たりとも一緒にいる気になれない由紀は小屋に戻ると、寝ている彼に気付かれないように荷物をまとめた。皆に一礼をして外に出た。

 

翌朝起きた春樹は由紀のいないことに気付いた。

由紀のザックがないことを知ると置き去りにされたと分かり、彼女に携帯電話をかけるが圏外で通じなかった。そんな春気は飯を食うどころかビール片手に外に出た。

「これが御来光って奴か」

 5月下旬だが山の朝は夏のように早い。

 雲海から顔を出した朝日はあっという間に高く昇って行く。それと同時に闇から赤く色づいたかと思うとどんどん変化していき、いいようのないドラマティックなものだった。

「これが山の魅力って奴だな」

 春樹はビールをぐいっとひと飲みすると、短くなった煙草を足で踏み躙った。

「あんた、山は初めてかい?」

 初老の男はもみくちゃになった煙草を拾い上げ、それを春樹に受け取らせながらいった。

「それが」

「山はどうだい?いいかい?」

「まーね」

「そうかい。それはよかった。彼女は逃げても、山は逃げないからな」

 春樹はむっとし、受け取った吸殻を再び投げ捨てた。

 

 由紀は雲取山荘で泊まろうかと思ったが、星空の下を飛龍山に向けて歩き通した。日が昇り始めた時は雁峠で、絵に描いたような富士山が見える。その富士山を見ながら広瀬湖畔の民宿に向かった。

 顔馴染みの由紀を見た女将は風呂を沸かして彼女を歓待した。

「温くなかった?」

「ちょうどよかったです」

「それはそれは。さ、どうぞ」

「ビール飲みたいんです。そのあと少し寝てもいいですか?」

「ゆっくりしていけばいいわよ」

 女将は酒肴に山菜とハムサラダに鱒の塩焼きを出した。

「美味しい。何かもやもやしてたのがいっきに吹っ切れました」

「何があったか知らないけど、人生色々あるわね・・・」

女将は微笑むようにいった。

「そういえば、こないだめずらしく梶山さんが見えたわよ」

 一瞬間をおいて、由紀はグラスを傾けた。

「何かいってました?」

「由紀さん来る?って聞いてたわ。連絡してあげたら」

 由紀はそれには返事をせず、ビールをもう1本といった。

 

 梶山三郎は由紀の恋人だった。

 お互い山が好きでいずれは結婚するはずだったが、今は疎遠になっている。

 その梶山とは広瀬ダム奥の東沢渓谷でアイスクライミングをしたり、甲武信岳に登ったりした際、2人はこの民宿を足場にしていたのだ。

 

「梶山さん。あなたと一緒になりたいって」

 女将にそう聞かされても、由紀にはどうすることもできない。彼が目の前にいたなら、思いっきり抱きついたかも知れないのだが・・・。

「人生って、誰かがそばにいないと面白くないわよ」

 32歳の由紀はこのさきも山にすべてをかけようとは思ってもいないが、かといって結婚する気もあまりなかった。思い立ったときに好きな山に行ける今の環境のままで、もう少しいたいと思っているのだ。

 だがキャバクラやスナックでのアルバイトをするにも年齢的な限界だと気付いていたし、派遣での高収入だっていつまで続くか保証はなかった。

 そういう意味で結婚は、いい逃げ場とも思えた。

 梶山と別れてから2年間。

 最近の由紀はそういうふうに考えていた。

 好きな山には登れるが、何か満たされないものが常にあった。それが梶山の存在だということはいうまでもないが、1人でいる身軽さと秤にかけると、結婚には踏み切れないでいた。

 

4 それぞれの夏

 

山から下りた春樹はノートパソコンを持参して、潤に撮影した山の写真を見せていた。

 潤は春樹のブログの投稿記事をまじまじと見ている。

 そんな彼女の背後から乳房をもみしだく春樹。

「もぅ。おいたしないの」

「そんなこというと、他の女のところに行っちゃうぞ」

 相変わらず強引な春樹は潤のタンクトップを乱暴に脱がし、ブラジャーをまくりあげた。潤の小さな乳首を舐めながら、何故か由紀の顔を思い出す春樹だった。

 

潤にとっての春樹は金離れのいい年上の男で、子供っぽいところが憎めないセックスフレンドでもあった。内面的に好きになれるかと聞かれれば、なんともいえないのが本音だ。ただ、一緒にいて退屈しないし、何か新しいことを彼から発見できるのが、唯一付き合ってる理由かも知れない。

 

「ブログ、だいぶ前からやってるんだね」

「暇なときにちょっとやりだしたら、俺みたいなのが結構見に来てくれるしな」

 春樹のブログの記事内容は世間に対する不平不満をだらだらつづっているのがほとんどだが、それに共感する者が多いのか、コメントがかなり寄せられている。どれもが2チャンネルなどの掲示板でよく見受けられる意味不明な絵文字を多用し、まともな文法など無視したものだった。

 それでも春樹はアクセスが増えるに連れ、多い日には3回も投稿したり、彼自身そんなコメントに励まされているようだった。

 特に今回は山へ行ってきたことで、手軽な山でバーベキューのオフ会をやろうといった希望が寄せられていた。

 春樹はそんなことを話しながらも、手は潤の身体を熱くさせていた。

「ねー。電気消して」

「俺は暗いの駄目だ。怖くて。寝るときでも電気消さないし」

「おかしいの」

「俺は、どうせおかしなやつさ」

 

 由乃は土日だけでなく月曜も休みを取るようにした。

 春樹が入れてくれる金は毎月違うがそれでも最低10万以上だし、多い時は20万ちかいときもある。都営住宅で家賃は3万円ほどだし、食費といっても春樹の弁当の惣菜ぐらいで、由乃の収入だけでほとんどカバーできた。

 由乃が休みを増やしたのは瀧子と温泉に付き合うこともあったが、それは月に1回ぐらいだった。あとは自分の体を養生させることが多かった。

 60半ばの由乃にとって、炎天下の庭掃除や階段のモップがけは厳しいものだった。

 そしてもうひとつの理由として、自分史をブログとして発信したことがある。

 パソコンの取り扱いやブログについては瀧子にひととおり教えてもらった。ノートパソコンは瀧子が使っていたお古をもらいそれを利用している。

「随分慣れたみたいね」

「瀧子さんのおかげだわ。有難うね」

「こんなことでお礼なんていわなくてもいいわよ。私なんて村井さんにはもっと大きいこと頼んだのよ。だから、こんなマンションにも住めたし」

 瀧子は離婚が成立した時慰謝料として300万円を手にし、さらには毎月5万円の生活費を得ることになっていた。その上ロトで当てた4億円という莫大な賞金があるので、何の不自由もなかった。ただ、そういった金や暇はいくらあっても、満足感を味わえないことはある。

「お金があっても、淋しいものね」

「そうね・・・。ないのは困るけど、淋しいぐらいならなんとか我慢できるじゃない。瀧子さんは温泉が好きなんだから、あっちこっち行って羽を伸ばせるでしょう」

 確かにそうだが、目的地へ行く新幹線や飛行機に1人で乗ってるときの退屈さといったら、惨めだとさえ感じることがある。ましてや宿で1人食事する時の味気なさといったら、寂寞感に苛まれてしょうがなかった。

「ねー。村井さん。1億あげるから、それで私と旅行して下さいよ」

「あらあら。何を馬鹿なこといいだすのよ。お金は大事にしないと。いくら宝くじで当てたからといって粗末にすると、罰があたるわよ」

「意地悪いわないで。本当に淋しくて、どうにかなりそうなのよ」

 瀧子には兄がいたがすでに亡くなり、肉親は娘ひとりだけだったがその仲はあまりいいものではなかった。夫とも別れた今、何でも話せる村井由乃は格好の友人なのだ。

「また働けばいいじゃない。そうすれば暇を玩ぶこともないし、汗を流してこその温泉は最高だと思うわよ」

 由乃の言い分はもっともだが、いまさら働くことなど毛頭ない瀧子だった。

「あなたはまだ60にもなってないし、まだこれから20年以上生きるのよ。今のまま何もしないでいると足腰も弱って動けなくなるし、せめて散歩ぐらいしたほうがいいわ」

「そうね。じゃ、これから歩いてこないだの懐石でも食べに行きますか」

 あまり無碍にもできず、由乃は付き合うことにした。ブログのやり方がわからずに聞きに来たが、せっかくの休日を瀧子のために費やしてしまった。

自分が彼女の立場だったら、どうなるんだろうと考えさせられる1日でもあった。

 

潤は就職活動で大学のOBがいる会社訪問や就職説明会で忙しく、春樹の誘いを断ることが多くなっていた。たまに時間ができれば友人と飲みに行くこともあるが、だいたい9時前には帰宅していた。

「どう?決まりそうなところあるの?」

「あたしさー。センスないのかも」

 潤はアニメ製作会社を主に希望しているが、競争率が激しい上勤務条件もよくない。そういうことで一般企業にも顔を出しているが、反応はあまり芳しくなかった。

「お母さんはどんな会社にいたの?」

「お母さんは普通の事務よ。残業もほとんどなくて、お給料もそこそこで楽だったわ。潤みたいに自分の好きなことを仕事にするのって、夢が叶うかもしれないけど。叶わないときは何をしてるんだろうって考えちゃうんじゃない?そういうふうになるの、お母さんは嫌だったから一般事務を選んだのよ」

「そっかー。イラストたって、あたしぐらいのスキルじゃ使いもんにならんねー」

「あなたの夢をあきらめないでって歌もあるし、頑張ってみれば。お母さんたちとは時代も違うんだから」

 短大とか専門学校でイラストを専攻ではなく、美大のデザイン科というのがネックになっていた。あくまでデザインの一環としてイラストを描くだけだろうというのが、企業側が潤を採用しない最大の理由だった。それならデザインを活かせる企業があるかといえば、潤自身が悟っているように、彼女のセンスが通用するところはなさそうだった。

「あたし、ペンキ屋と結婚でもしちゃおうかな」

「やめてよ。ペンキ屋なんて柄の悪い人と付き合うのは」

「柄は悪いけど、面白いんだー。絵を描くかと思えば写真を撮ったり。こないだなんか槍ヶ岳っていう山に登ってきたって自慢してたよ。3000m以上あんだって。あたしなんて、箱根の金太郎山しか登ったことないし」

「山なんて登らなくていいの。女の子なんだから」

「汗かいてひーひーいいながら登った頂上で飲むビールは、冷えてなくても最高だっていってたよ。このビールは冷えてても美味しいって感じないしね」

 冷房の利いたリビングのソファーで足を投げ出している潤。風呂上りだがビールが美味いと感じないのは、就職活動がうまくいってないせいなのかも知れない。

 春樹に思いっきり抱かれ汗まみれになった後に飲む、ビールの爽快感を懐かしく思う潤だった。

 

 槍ヶ岳に1人で登った自信が春樹をさらに山へ惹きつけているようで、彼は沢登りにも行くようになった。奥多摩の大常木沢で味をしめると、東沢渓谷から甲武信岳の登攀も難なくこなした。身体が身軽なのかも知れない。

 春樹は今までのブログを閉鎖し、新たに「マウントハイカー」という山のブログを立ち上げた。

 山行の様子を詳細に綴ったもので、写真も大きめのものを挿入した。根が器用なのか、画像処理用のソフトで綺麗に仕上げた写真にコメントがちらほら寄せられている。

 暇つぶしでやっていたおちゃらけのブログとは違う。ましてや山を対象にしているので、訪問者のコメントは真面目な内容がほとんどだった。コメントするにも気遣う春樹だった。

 

 由乃は相変わらず瀧子にせっつかれているが、自分のペースを乱さない程度に付き合っていた。

 盆休みには、湯治をかねて東北の温泉に行ってきた。

 山深い宿は盆休みだというのに日帰りの地元客だけで混雑することもなく、由乃は瀧子と起きては食べ、温泉に入っては休むという長閑な日々を満喫してきた。

 この歳になっても働くというのは普通の主婦では少ないのかどうか?

 そんなことは由乃にはどうでもよく、働けるうちは働くのだという気概をブログに投稿していた。

 

 2DKの薄暗い都営住宅の間取りの中で、春樹と由乃がそれぞれキーボードとマウスを操作するかすかな音以外には、古くなったエアコンが時たま唸るぐらいだった。

 外ではコオロギの啼き音が響くが、2人には聞こえているだろうか・・・。

 

 長田由紀は酔客の執拗な誘いにキレ、アルバイトを首になった。

 それでも好きなことをやりたいという強い意志は、彼女をネオンの街に駆り出させた。紫煙が舞う中、馬鹿話に適当に合い槌を打つのは慣れているが、助平心丸出しの客には手を焼かされることしばしばだった。

 32歳の夏は、由紀にとってあまりいいものでないまま終わりそうだった。

 

5 目覚め

 

 盆休みなのにあんなに空いてる温泉宿を見つけた。それも格安だったと由乃に褒められた瀧子は、それをヒントに湯治場専門のサイトを主宰することにした。

 これまでブログで知り合った各地の仲間から情報を仕入れるだけでは物足りず、自分でも実際に足を運んで詳細を調べた。そういう目的ができると、寂寞感などまったくなかったし、毎日がスケジュールに追われあっという間に時間が過ぎていく。

 これでは時間が足りないとばかりにスタッフの募集もした。5人は年齢もまちまちだし男女入り交ざっているが、瀧子の思い通りに動いてくれた。月給は15万円だが、好きな人間には金額の多寡ではないのだろう。瀧子の想像以上の情報を次から次へと集めてくれた。

「村井さん。仕事として頼みたいんだけど、是非、うちで働いて欲しいんです」

「私にできることなんてないわよ」

「うぅん。村井さんが生きてきたことが、ここでは必要なの」

 

瀧子は温泉に行くことの必要性を考えていた。

 彼女は夫の浮気の腹いせで、温泉に入って美味しい物を食べたいということがきっかけだった。若い女性たちが温泉に行くにしても、食べ物目当てや疲れた体を癒したいということだろう。だが、主婦となるとそうそう温泉に行く機会は少ない。しかも、50代以上だとツアーでは行っても、個人で行くのは盆や正月など連休ぐらいなものだろう。

 そういった意味で、60半ばでしかも働いてる由乃が温泉に行ったときの感想は貴重な資料になる。そういうことを瀧子は由乃に言い聞かせた。

「瀧子さん。あなたが私を慕ってくれるのは本当に有難いよ。その関係を続けたいなら、今のままにしておいて欲しいの。私は月に1回行くかどうか。それだけで満足してるの。温泉なんて、私にしたら凄く贅沢なもんなのよ。離婚した当時は、食うや食わずのその日暮らしみたいなこともあったの。だから、今は本当に幸せよ。あなたは目的を見つけた。私はそれを陰で見守る。それでいいじゃない。私なんかより、もっと他にいい人いるだろうし」

 由乃は素直な気持ちをいうが、瀧子は解せなかった。

「私のこと嫌いなのかな・・・」

「何いってるの。私はただ、自分の道を行きたいだけよ。あなたが何かと目をかけてくれるのは有難いと思ってるの。それだけは分かってね」

 

 由乃は自宅を7時に出て満員電車に揺られる。

 仕事先のマンションは50世帯ほどで、3人で廊下と階段のモップがけをする。それと庭掃除もある。秋から冬は落ち葉を掃き集めるのが大変だが、今では大きなドライヤーのようなブロアーという物があり、それも楽になった。あとは週2回のごみ出しだった。

春夏秋冬。毎日が決まりきったそんな仕事は昼には終え、1日3000円の日当だった。この10年間、1回もその賃金は上がってなかった。それでも由乃は愚痴ることなく、よほどのことがない限り休むこともなかった。

これが自分の人生なんだと達観していることもあるが、ほかにできる仕事もなかった。

自宅に戻れば洗濯をし、夕方になれば買い物に行く。夕飯を済ませば風呂に入り、1時間ほどブログの更新に費やす。

そんな毎日が由乃には有難いと感じている。それをじーっとパソコンと向かい合う毎日など、彼女には耐え難かった。

好きなことを仕事にしたいというのはいい。だが、由乃には好きなことなど何もなかった。瀧子と付き合う温泉にしても、それは昔馴染みのよしみであり、行ったら行ったで明日からまた頑張るんだという英気を養うものだった。

瀧子からは頻繁に連絡があったのに、仕事の依頼を断ってからはまったくなかった。それでも由乃は何も動じることはなかった。

 

春樹が仕事先で弁当を食べている時、老婆から漬物を振舞われた。

「どうも」

「暑いのに大変だね」

「慣れてるし」

「あたしゃこれから医者に行くんで、3時のお茶は玄関に置いときますよ」

「すいません」

 親方が来ると、春樹は玄関にお茶の用意をしてあることを告げた。

「最近じゃお茶を出してくれるところも少なくなったのに、めずらしいな。お前の仕事っぷりがいいせいかもな」

「かもねー」

 三村は入ってまだ間がない春樹のことをすっかり信用し、現場を任せっきりにしている。昔ながらの生地仕上げのステインやニスにしてもネタをだらすことなく綺麗だし、その上外壁のローラー塗りもできる。何をやらしてもそつなく仕事をこなすので重宝しているが、口のきき方がなってないのが難点といえばいえなくもなかった。

「お前はいくつだっけ?」

「29」

「そうか。仕事だけじゃなく、社会人としても磨きをかけとけよ」

 そういわれても親方が何をいわんとしているか分からない春樹だった。

「あっ。親方。この現場終わったら少し間があくっていってたけど、どれぐらいですか?」

「何だ。休みたいのか?」

「まー、そんなところです」

「ずーっと休んでもいいんだぞ」

 春樹は慌ててかぶりしながら続けた。

「4日だけ」

「ま、好きなようにしろ」

 

 潤はようやく出版社から内定を受け、春樹からの温泉旅行の誘いに応じた。

「あのタンクあるだろ。あれ。今から10年ぐらい前に俺が塗ったんだ」

 海沿いを走る車の中から、春樹が指差したのはかなり高いセメントサイロのタンクだった。

「へー。凄い。ビルの窓拭きやる人みたいにロープで下がったの?」

「あー。3月頃だったけど、毎日1回は雪が降ってな。地下足袋履いてたけど、足の指は凍りそうだし、寒くてしょうがなかった」

 まだ20歳ぐらいだった春樹は、約1か月間のその出張で40万円ほど手にした。その当時に彼がいた店の親父がいった、乞食とトロ屋は3日やったら辞められない、という言葉が今では懐かしく思い出され、それを潤にいった。

「トロ屋っていうのはペンキ屋のことだけどな」

「いいなー。40万円もあったら何に遣うか迷うね」

「俺はほとんど、ソープとキャバクラに遣ったけど」

「やーね。ソープなんか行くんだ?」

「昔は仕事の先輩がそういうの好きで、よく付き合いで行ったな。驕るから行こうっていうしな」

「ふーん。でも、ソープって、どんなことするの?」

「ま、それは今夜教えてやるよ」

 春樹は含み笑いしながら潤の太股を軽く平手で叩いた。

 佐渡を見ながら南下した車は小高い丘で止まった。

「ここに泊まるの?」

「あー」

 純和風の宿は如何にも格調高い感じで、ラフなティーシャツにミニスカートの潤は気後れしている。ジーンズにスイングトップの春樹はそんなことは意に介さず、出迎えた従業員に村井だけどと告げた。

 通された部屋は離れだった。掘り炬燵のある居間と寝室の二間続きに檜風呂まで備えてある。

「高かったでしょう?」

「女がそんなこと気にすんなよ」

「有難う。海は見えるし、いい旅館ね」

「夕飯は6時からだっていうし。その前にいっちょうやるか」

 春樹はミニスカートに包まれた潤のヒップを、かきむしるように揉み始めた。

「少しはムード出してよ」

「贅沢いってらー」

 

 夕食を満喫した春気は潤と一緒に風呂に浸かっている。

「青いお月様なんて初めて見る」

「お。本当だ。でも、山で見るほうがもっと綺麗だぞ。空だってもっと暗くて、星が煌めくっていうのはこういうのかって、よく分かるし」

「あたしも連れてってよ」

「行くか?でも、歩けるかよ?5時間とか6時間も」

「多分。あたしね、どうせなら富士山がいいな」

「富士山は無理だ。もうこの時期だと突風も吹くし嵐なんかきた日にゃ、お手上げだ。独立峰だからな」

 春樹は暇があるとネットで山のことを色々調べているので、山についての造詣もかなり深くなっていた。

「2番目に高い北岳もいいけど、アプローチが長すぎる。潤が楽に登れて喜びそうなのは・・・あそこだな」

 そういって潤の股間を掌でむんずとつかんだ。

「もー。エッチなんだから」

 

 その翌日、宿泊先は決めていなかったが春樹は、急遽諏訪湖へ行こうと潤にいった。

 柏崎から直江津まで海岸線を走ったが、その先は山間部を通り抜け諏訪湖に着いた。その車窓の移り変わりを潤は飽きずに見ていたが、車はかなり細い山道をぐいぐい登って行き、気がつけば場違いな広場に着いた。

「えー。何々。こんなところにたくさん車停まってるよ」

「蕎麦も食ったし、ここで腹ごなしだ」

 春樹に手を引っ張られたり腰を押されたりしながら、潤は丘につけられた細い道を上がった。そこで彼女が目にしたのは遮るものが何もない山並みだった。

「わー。いつの間にか、こんな高いところに来てたんだー」

 潤は辺り構わずに両手を大きく開き、ぐるっと一回りして広大な景色を眺めた。

「たった30分歩いただけで、こんだけの景色だぜ」

「最高」

「でもな、車なんかじゃなく、登山口から一歩一歩登って行くっていうのは、もっと感動するぞ」

「だよねー。ね、本当に行こうよ。あたし、ちゃんと身体鍛えるし」

 富士山は勿論、北・中央・南アルプスに八ヶ岳の山々が大パノラマを展開していて、潤ならずともその光景に見とれるのは必死だろう。

「11月なら紅葉が綺麗だし、それまでに何とか山女に変身だ」

「山女ときたか・・・」

 山の見晴らしにはまりそうな潤に、春樹は半年前の自分をだぶらせていた。

 

 潤は毎朝欠かさずジョギングした。ストレッチングやヨガは以前からやっていたが、その時間も少し増やした。

「ずいぶん張り切ってるみたいだけど、どうしたの?」

「山に行くんだ」

「まさか、前いってたペンキ屋さんとじゃないでしょうね」

「いけない?」

「会ったことないから何ともいえないけど、好きなの?その人のこと」

「どうかな・・・。あまりそういうこと考えたことないからね。ただ、一緒にいると面白いし」

「あなた。あなたも何とかいってよ」

「山に行く男ならいいんじゃないか。いまどき出会い系サイトとかで女を漁るのが多いご時勢だっていうのに、見上げたもんじゃないか」

 潤の母は夫に助け舟を出してもらうはずだったのが藪蛇になり、それ以上娘に反対できなかった。

 

 春樹が潤のために選んだのは奥秩父の金峰山という山だった。

 登山口の紅葉は盛りで白樺の葉はまっ黄色だった。

 はじめのうちはそんな紅葉を見る余裕たっぷりの潤だったが、徐々に険しい登りになるにつれ、本格的な山が初めての彼女の息遣いが荒くなってきた。

「しっかりしろよ。頂上に着いたら、美味い飯つくってやっからな」

 そういう春樹は潤の2倍はあろうかという大きなザックを背負っているが、たいした疲労もない様子で遅れて来る彼女を煙草を吸って待つことしばしばだった。

「まだー」

「もう少しだ」

「少しだ少しだっていって、ぜんぜん着かないじゃない」

「今度こそ本当に少しだぞ」

 1時間前からずっと急坂を登っている潤の目に、大きな岩が目に入ってきた。それこそが金峰山頂上のシンボルである五丈岩だった。

「着いたの?」

「そうだよ」

 春樹は誰もいない頂上で潤を抱きしめながらいった。

「やったー。登ったぞー」

 抱きしめている春樹の腕を振りほどき、潤は岩のそばではしゃぎまわった。

「標高差1000m。よく、頑張ったなー。ここが金峰山の頂上で2595mだ」

「うん。有難う。あたし、頑張ったよね」

「あー」

 潤は遠くに霞む富士山を見ながらうっすらと涙を流している。

「車で行った入笠もよかったけど、こっちはもっといい。我慢して登った甲斐あったよ」

 手の甲で涙を拭う潤に、いつしか春樹ももらい泣きしていた。

 そんな彼は早速バーナーに鍋をかけた。

「いい匂い。何かなー」

 春樹が蓋を取ると、煮込みが煮えていた。

「家で冷凍しといたの温めただけだけどな。食べようぜ」

 このところ母親の由乃が家を留守にすることが多く、春樹はたまに自炊することもあった。外食が続くとさすがに飽きるからだった。それで、冷え込んできた季節には晩酌にもってこいの、鍋物や煮込み料理をつくったりしていた。

「へー。料理するんだ?」

「あー。こないだはイカをさばいて大根と煮たし」

「凄いじゃん」

「なんか、最近、お袋が弁当もつくってくれないし」

「お母さんも年で疲れてるんだよ」

「だろうな。でも、いっちょ前にブログなんかやってるらしい」

「へー。今度会ってみたいな」

 この夜は山小屋いる2人だが、11月の連休前なので無人だった。

 潤は生身の春樹を迎え入れた。

それは生まれて初めてのことで肉体的な刺激もさることながら、苦労しながら山に登りきった同じ体験を共にすることができたという感慨も手伝い、彼女はしけった重い布団の中で何度も熱いほとばしりを受けた。

外は煌々ときらめく星が手でつかめそうなぐらい近くにあった。その冷気の中、潤は寝入った春樹をおいてひとり入っていった。

6 他生の縁

 

 由乃のブログ「六文銭を用意しておこう」は、冥土に行くときに必要とされる金のことをタイトルにしてある。

脳血栓で倒れ、幸いにも後遺症もなく生きながらえてる日々のことを綴ってきたが、最近は自分史の編纂に本格的に取り組んでいた。それを今度は連載小説としてブログに投稿し始めた。

生い立ちから結婚、そして離婚後は息子との葛藤。それらを小説というよりは、独白という形で載せている。

そのブログを更新するときは自宅ではなく、図書館でやっていた。ちょっとしたことはネットで十分だが、昔の人間というのはネットよりはきちんとした文献のほうのが信頼がおけるのだろう。

そのブログの更新で時間を割いているため、このところ由乃は春樹の弁当や夕食をつくれないことが多い。

「春樹。今夜何か食べたいものあるかい?」

「いいよ。自分でつくるから」

「悪いね。ここんと頃ちょっとやらなきゃいけないことが多くて」

「仕事も暇だし、別にいいよ」

「また、暇になったの?困るね」

「そんなこといったってしょうがないだろ。文句あんなら馬鹿な政治家にいえよ」

 春樹はこれまで何回か仕事先を変えてはいるが、一貫して塗装会社ばかりに従事してきた。それは彼の自己都合で辞めたわけではなく、仕事がないので必然的なことなのだ。

なぜ仕事がないのか?

それを春樹にいわせれば、新建材を多用した住宅が増え、塗装自体の仕事量が激減した。天然木材を使用する従来の建築だと、火災が起きたときに近隣に飛び火してしまう。それを防ぐために建築法では極力耐火材を使用するように定めている。そればかりでなく、外壁のモルタルは塗装の必要がないタイルやサイディングが主流になりつつある。

昔なら、窓枠や建具などすべて刷毛塗りだったが、アルミサッシュやフラッシュドアのよう合成樹脂を施した化粧板に取って代わられている。上がり框や床柱は勿論、板の間さえないのがごく普通の建築事情だ。

そういう現状の塗装業で忙しいのは大手ゼネコンなどの下請けをしているところだろう。春樹はそういう現場の仕事を専門にしているところへ1度行ったことがあるが、2度としたくないと思った。

だから、暇になれば、他の一般住宅をやっているペンキ屋を渡り歩いてきた。だが、今回暇だといっても、親方の三村は仲間との繋がりもあれば、自ら店のホームページを公開してることもあり、春樹としては楽観視していた。

「心配すんなって。金だってちゃんと入れてるし、自分のやりたいことやってりゃいいよ」

「そうかい。じゃ、仕事行くからね」

「あー」

 由乃が出て行くと、春樹は朝からビールを飲んだ。

 仕事がないとはいえ、1日出れば15000円を稼ぐ職人だ。今月だって、20日近くの出面がある。暇なときは身体を休める意味で、寝起きにビールを飲んだところで罰はあたらないだろう。

 そんなことを思いながら、春樹は潤に電話をかけている。

「何やってんだい?」

「今起きたのよ。この電話で」

「そっか。起こして悪かったな」

「別に。もう起きないといけない時間だし」

「それより、こないだ金峰山行ったときのやつ、アップしといたよ。潤のは目線なしでそのまま晒してやった」

「えー。駄目だって。削除してよ」

「可愛く撮れてるからいいだろ」

「もー。勝手なんだから」

そういいながらも、潤はマウスを動かしながらブログにアクセスしている。

「おー。なかなかいいねー」

「だろ。本当はヌードのっけたいけどな」

「馬鹿なこといってるよ。あのさー。さっき、村井さんの夢見たよ」

「どんなやつだか当てようか?エッチしてるときのだろ?」

「もー。そんなんじゃないの。一緒に槍ヶ岳に登ってるやつだって」

「へー。おりゃまた、子供でもできたのかと思ったよ」

 潤は妊娠してないかという不安はあったが、まったくないので安心してるところだった。

「それより、あたし就職決まったよ」

 出版社に内定していたが、製品のロゴなどをデザインする会社に決まったのだ。

「貿易会社のクライアントが多いから、あたしのデザインが利用されたら世界的に有名になるかもね」

「寝言は寝てからいってくれよ」

 そんな他愛のない話を終えた潤は、就職先の担当者と昼食をする予定があった。

 

 すらっとした美人で長田由紀と名乗る女性に、潤は同姓でも憧れを持てそうな彼女に親しみをこめて挨拶した。

「課長があなたがこの会社でやっていけるかどうか、少し案内してっていうことなの。ざっと見回してきた感じはどうだでした?」

「頑張ります」

「そう。じゃ、課長にもそう報告するわね」

「宜しくお願いします」

「そんなに肩肘張らなくていいのよ。あなたは多分デザイン専門の仕事になるけど、こないだ提出してもらったロゴ。あれは山だったわね」

「はい。最近ちょっと登り始めたばかりだけど、山っていいなーって思ったので」

「そう。私も山にはよく行くわ。お友達になれそうね」

「え?そうなんですか?」

「私が友達じゃ嫌かしら?」

「いや。そうじゃなく。山に登るんですか?」

「そうよ。そのために仕事してるようなものだし」

「へー。長田さんみたいな綺麗な人が山に行くんですか・・・」

「綺麗かどうかは別として、山が恋人かな・・・。今度の週末は八ヶ岳に行くし」

「いいですねー。もう、雪降ってるんでしょう?冬山なんてロマンチックだなー」

「一緒に行ってみる?スノーハイクだから、冬山のウエアーさえあればOKだし」

「いいんですか?」

「いいわよ」

 由紀はにっこり微笑み、携帯の電話番号を潤に教えた。

 

 瀧子は久しぶりに温泉へ足を運んでいた。それも由乃と一緒だった。

「ずーっと社員の人たちの集めた資料と首っ引きで、肩が凝って凄いの」

「やる気満々でいいじゃないの」

 2ヶ月ぶりに会う瀧子は太ってはいたが、顔に生気が溢れていた。

 瀧子のことをそう思う由乃は相変わらず痩せてはいるが、こちらも笑顔が耐えない。

「雪見の露天風呂なんて、想像したこともなかった。長生きするものね」

「まだ64じゃないですか。これからだって」

「若いあなたはそういうけど、この年になるとあっちこっち痛むところはあるし。病気のデパートみたいなものね、私は」

「だから、うちに来てっていってるのに、村井さんは強情なんだから」

「動けるうちは動きたいのよ。そうでもしないと、どんどん弱っていきそうでね」

「はいはい。2度とうちに来てとはいいませんから」

 2人は顔を見合わせて笑った。

 夕食は大広間で他の客と一緒だが、瀧子と由乃のほかにいるのは若い女性2人だけだった。それぞれがテーブルにつく前に軽い会釈をした。

「いいお風呂でしたね」

「はい。山から降りてきたばかりなんで、最高にいいお湯でした」

「それはお疲れ様でしたね」

 潤は痩せぎすな年配の女性にビールを勧めた。

「あら。これはどうも有難う。めったに飲まないんだけど、頂きますか」

 由乃は何十年ぶりかに飲むビールの味わいに、舌鼓した。

「美味しいわねー」

 由乃は若い娘2人に自分たちのビールを注いでやった。

「他生触れ合うも袖の縁とはこういうことかしらね。知らない者同士がこうして挨拶から飲み交わす。平和でいい国です。日本は」

 仕事場では何かと仲間と話す由乃だが、それ以外では他人と会話する時間はあまりなかった。買い物先や図書館では顔馴染みと挨拶がてらに話すものの、まったくの初対面で酒を酌み交わすのは、こうした温泉で心身ともにリラックスしているからこそだった。

「大丈夫ですか?村井さん。忘年会でも飲まないのに、今日はご機嫌なのかしら」

「心配要らないわ。これ以上は飲みませんから」

 潤と由紀はそれを聞き、無理に酌をしなかった。

「うちの息子も、こういうお嬢さんと結婚してくれればいいんだけどね。あの子も、今は智恵子抄で有名な何とかっていう山に行ってるらしいのよ」

「安達太良山ですね」

「そうそう。そこに行くって出て行ったわ。冬山なんて初めてなのに、平気なのかどうか心配だけど、私がいっても聞かない子だし」

「それは心配でしょうね」

 安達太良山は突風が吹くことで有名なところだった。だが、年老いた母親にそれをいうのは不安を煽るだけなので、由紀はそれ以上山のことを口にはしなかった。

 真っ赤な顔をしているが若い娘たちと歓談して嬉しそうな由乃を、瀧子はデジカメに収めた。

 

 春樹は岳温泉でのんびりしていた。

 こんなところにお袋も行ってるんだろうな。俺も親孝行しなきゃいけない齢だけど・・・

 そんなことを思っているところに潤からメールがあった。

 スノーハイキングで北八ヶ岳から渋温泉に下ったことが、画像つきで届いた。その画像を開いてみると見覚えのある顔があり、春樹は跳ね起きた。

 

7 憧憬の山

 

 春樹は仕事がなくいらついていた。

 親方の三村としても春樹に逃げられては困るので、12月の給料は12日分の賃金の他に10万円を餅代として上乗せして払った。

「来月も暇だとは思うけど、そのときは別に払うから辞めるなよ」

「しょうがないな・・・。正月には早いし、クリスマスは山でも行くか」

 春樹は今月だけでも3回も山に行っていた。

 南アルプスの前衛峰である日向山や燕頭山など、暇さえあれば雪山がどういうものだかを知るために登っていた。

 

 潤もまた由紀と行ったスノーハイキングで自信をつけ、独自に山とは何かということをネットや本で調べ始めていた。春樹を驚かすために、1人で雲取山へ行ったりもしていた。

 

 山へ行ったことのない人間にしてみれば、何が2人をそうまで駆り立てるのか理解できないだろう。

 マラソンランナーがランニングハイという現象に陥るというか、そのときの快感がなんともいえないとはよく聞く。

 それと同様、何事もやってみなければ分からない魅力があるのだろう。

 ちなみに作者の私など、15の春に軽井沢東方の鼻曲り山へ行き、膝まで潜る雪と悪戦苦闘したことがある。碌なウエアーもなく、キルティングのスノーブーツはずぶ濡れで足の指は凍傷になるのではないかという恐怖に晒された。それでも八ヶ岳の勇姿には心踊らされ、いつかは登ってやろうと思った。

それが山に取り憑かれたきっかけだと思っている。

 

 春樹は潤にもいわずクリスマスイブの日に八ヶ岳山麓の原村に来ていた。

 雲ひとつない晴天で底抜けの青空は眩しった。目指すは阿弥陀岳南稜だが、無理はしないと決めていた。安達太良山にしてもそうだったが、行けるところまで行けばいい。今の自分が無理をすれば遭難することは分かりきっているからで、その判断は間違っていない。

 車から大きなザックを取り出し登山道を30分ほど歩くと、雑木林は白一色の中に埋もれていた。雪は膝近くまであり先人が残した足跡通りに、春樹は歩を進めていく。阿弥陀と赤岳が目の前に迫ったのは立場岳に着いた時だった。

 吐息で曇るサングラスをはずせば、ザラメ状の雪が太陽を浴びた物凄い反射で目を開けられないほどだった。

 そんなところでインスタントラーメンが煮える間、春樹は由紀のことを考えていた。だが、雲取山で自分を置き去りにした女など糞喰らえだとばかりに、春樹は自分でも分からずに丸めた雪を投げつけた。

 立場岳から先は緩やかな尾根だが吹き溜まりでラッセルに苦労する。

 雪を膝で固めながら少しずつ進むが、一向に距離がはかどらない。10m前進するのに10分以上かかり、汗だくになった。そのうち体力もなくなり、これが限界だと悟り雪庇を避けたところでテントを張った。

 食欲はないが、渇いた喉はビールを欲した。

 さっき食べたラーメンはとっくに消化され、冷え切ったビールだけでは胃が痛くなり、アーモンドを齧る。

 徐々に西に傾く太陽が雲に隠れ始めると、外気でいっきに汗が冷やされ身体が凍りつきそうになってくる。テントの中で急いで着替えるが、下着を脱ぐと全身に鳥肌が立っていた。雪を溶かした湯を2つのテルモスに入れ、それを湯たんぽ代わりにしてシュラフに包まり、熱燗を飲む。煙草を吸えばテントの中は煙が充満し、なかなか通風孔から出て行かない。寒さには勝てず仕方なく通風孔を閉じた。日はあっという間に傾き、ランタンを灯した。その小さな温もりさえ、今の自分にとっては最大の友のように思えた。空腹のまま寝たのでは凍死するかも知れないと思い、仕方なくテントの外で沸かした湯にレトルトのカレーを放り込み、餓鬼のように貪ると、いっきに睡魔に襲われた。鍋の湯はそのまま蓋をし、それを脱ぎ捨てた下着に包んで両手足を暖めているうちに意識が朦朧となってきた。

 

 そんな春樹の姿を容易に想像できる由乃は、それでも自分の思いをキーボードで打ち込んでいる。

 

 息子の春樹はとてもいい子で、小さいときは私が面倒を見なくても部屋の隅で丸くなってよく寝ていた。愚図ることなど一切ありませんでした。

 私はそんな息子が可愛いと思いましたが、なぜか彼が乳房をまさぐるのが嫌いでした。それで、彼とのスキンシップがあまりなかったのです。それが後々に、息子との葛藤になっていくとは想像がつきませんでした。

 百獣の王ライオンは子供を谷に突き落とすといいますが、私にはそんな思いはなく、ただ、乳房を触られるのが異常に嫌だっただけなのですが・・・

 

 潤は久しぶりにサークル仲間の男と会い、誘われるままホテルに入った。

 春樹によって女の歓びを知らされたものの、このところ彼女自身卒論に追われたり、彼から連絡もあまりないこともあってのことだった。

 春樹とは違う愛撫に興奮を覚え、潤は恥らうことなく声をあげた。

 そんな自分が嫌になり、彼女は男を跳ね除けて服を着た。

「ごめん。あたし、好きな人がいるの」

 

 カモシカだろうか?キーンという啼き声で目を覚ました春樹は時計を見た。

 5時だった。急な尾根を登るには、一刻の猶予もないと思った春樹は荷物を整理した。氷になっている鍋の水を火にかけ、アルファ米の親子丼を食べるとすぐに出発した。

 昨夜の寒さとは打って変わり無風状態で暖かい尾根だが、相変わらずラッセルを強いられた。ところどころ岩肌が露出している急峻な尾根道を、慎重にアイゼンを効かせピッケルを併用して歩を進める。パイプ足場の上を歩く要領で、一歩でも踏み外せば大怪我をするといった思いで、徐々に高度を稼ぐ。そういう歩みでなんとか阿弥陀岳に着いたのは昼前だった。ベテランなら3時間ほどの行程だろうが、冬山が初めてで誰から教わることのない春樹にしたら倍以上かかっても当然のことだろう。

 眼前に迫る赤岳は神々しさを感じる。

 だが、春樹は赤岳を諦めいっきに行者小屋へ降った。

 肩で息をする春樹を迎えた小屋番はどこからと聞いた。

「立場から」

「それはお疲れ様。少し混んでるけど」

 小屋番の男はそういいながら春樹を案内した。

「ほらー。まだ2時だっていうのに飲んだくれてんじゃないよ。まったく、クリスマスだからって山に登りもしないで飲んでばかりだからな」

 春樹は案内されたところでそのまま布団に倒れこんだ。

「南稜つめてきたんだってよ。静かに寝かせてやってよ」

「へー。たいしたもんだね」

 

 お疲れ様。無理した甲斐があったわね。でも、頑張るのもほどほどにしないと、痛い目に遭うわよ。

 

 そんことをいう由紀の顔ではっと目を開ける春樹だった。

 夢はすぐに忘れ、食堂に行った。

「どうぞ。今日はクリスマスなんでバイキングらしい」

 春樹は眠い目をこすりながら注がれたビールを飲み干した。

「南稜はきつかったでしょう?」

「ですね。2日かかったけど、何とか」

「上等じゃないの。雲取のときより、成長したようだね」

 春樹が隣の男を見つめた。

「思い出したかな?」

 吸殻を拾い上げ春樹に手渡し、山は逃げないからなといった男だった。

「彼女はどうしてる?」

 二の句が接げない春樹はよけい不機嫌になっている。

「それっきりですね」

「長田由紀さんは、確か来年のチョモランマの遠征隊に加わったんじゃないかな。女だけど勇猛果敢さは男に引けをとらない。山なんか行かなくても、彼女ならもっと別の人生があるだろうに・・・。成功することは祈ってるけどね」

 由紀がそんな有名な登山家だということに、春樹は衝撃を受けた。

「山っていうのは魔物だね。私みたいな老いぼれが、なけなしの年金をはたいてでも来るんだから」

 今朝春樹が仰ぎ見た阿弥陀岳は黄金色に輝いていた。それが刻一刻と色を変えていく。その美しいモルゲンロート現象を、彼はラッセルの合間に見ていた。

 誰を頼るわけでもなく、何もかも独学で入った冬山の厳しさに圧倒されるものの、荘厳なその光景を拝めただけでも、彼の無謀な山行は大いに意味があっただろう。

 

 由紀は風吹の北鎌尾根でビバークをしていた。

 パートナーは復縁したばかりの梶山三郎で、吹き荒れる雪の中でも心強かった。

 

 潤はネットで冬山の画像を飽きることなく見つめている。

 

 冬山のシーズンは開けたばかりだった。

 

8 邂逅

 

 美咲は久しぶりに由乃を訪ねた。

 痩せてはいるが元気そうな姉の姿を見てほっとしている。

「いつまでも仕事してないで、もう辞めればいいのに。年金だって貰えるんでしょう」

 由乃自身そろそろ辞めようかと思い、年末に会社へ退社願いを出した。後任が見つかり次第辞めてもいいということになったが、パートの応募に来た者がなかなか定着しないので、仕方なく続けてる状態だった。

「お姉さんも結婚してから苦労しっぱなしだったし、ここらでゆっくりしたほうがいいわ。春樹だって今はお金入れてくれてるっていうし」

「春樹の仕事もね、あったりなかったりなんだよ。でも、少ないながらに生活費はくれるから。それと年金合わせればなんとかやっていけそうだけど」

「あれも高校でぐれちゃって大変だったでしょう」

「ぐれたっていうことじゃないんだよ。自分のやりたいことと進路の違いっていうか。そういうのに嫌気がさしたんだろうね。うちの人は春樹のことを思ってのことだけど、春樹にはそれが分からなかった。それで私が間に立って色々苦心したけど、結局、躾がなってないってことで散々、私のことを罵った。それを見た春樹が夫のことを殴って・・・。後は美咲も知っての通り。でも、春樹が働かないっていうことはないんだよ。景気に左右される仕事だなんて、私には分からなかったけど、ペンキ屋っていうのはそれだけじゃなく、競争も激しいらしいのよ。それを何で仕事に行かないんだって聞いても、あの子は仕事がないんだからしょうがないだろうっていうだけで、詳しくいわないもんだから。それを、私が実家で愚痴ったもんだから、あんたにも春樹のことを悪く思わせてしまっただけのことなんだよ」

 そのことは美咲も知っていたが、それでも顔をあわせても挨拶も碌にしない春樹をいいようには思えなかった。

「それだってサラ金から借金しまくって、挙句には自己破産したんでしょう。それで姉さんに無心してたじゃない」

 

 職人というのはサラリーマンと違い、よほど手広く仕事をやっている会社でなければ決まったベースアップなど稀なことだろう。親方の気持ちしだいで手間が決まってしまう。バブルがはじけて仕事量自体も激減したところに、手間賃は上がるどころか下がるいっぽうなので、経営者側としても非常に厳しい状態だ。1ヶ月のうち半月も仕事があればましなほうで、開店休業といったペンキ屋はざらなのだ。

 高校中退では希望の仕事に就けなかったし、せっかく手に職をつけた塗装職人として身を立てていこうとしている息子のジレンマが分かると、朝っぱらから酒を飲んで寝転んでいる息子を責め続けた由乃は、自責の念に駆られたこともある。

 

 そんな経緯を聞かされた美咲だが、仕事がきれるんだったら他のペンキ屋と掛け持ちでもすればいいのにと思うが、現実はそれほどうまくはいかない。彼女が思う前に、春樹とて馬鹿ではないのだから当然の如く仲間にそれなりの対処はしていたのである。

 何はともあれ姉が元気でいることで安心した美咲は、温泉でも行こうといった。

「お姉さんが好きなところでいいから。行きたいところあるでしょう」

「温泉ねー。先月は蓼科へ行ってきたばかりだし。でも、雪見の露天風呂はよかったよー。何年かぶりにビール飲んで、ご機嫌だったわ」

 嬉しそうにいう由乃の顔は微笑んでいた。

 美咲は行き場所が決まったら連絡してといい、姉に3万円を小遣いにしてと手渡して帰った。

 

 春樹は山岳部の同好会に入り、冬山の訓練を積んだ。

 富士山で雪上訓練をした時、春樹の素質に目を止めた男が彼の粗暴さを注意したことがある。いくら技術が巧くても、言葉遣いが悪かったり人間的に未熟だと、一緒に山へ行こうとは誰も誘ってくれないだろうと。

 同好会とはいえ、生命の危険を伴う登山は人との信頼関係がなければ団体行動はできない。

 そういうことで、春樹は言葉遣いは勿論普段の言動にも気遣うように変わっていった。

 

 瀧子は本格的な温泉サイトを立ち上げた。

 趣味だけではなく事業としてやる以上、訪問者を増やさなければならない。その為にSEO対策も万全にした。

湯治をメインとした「湯らり湯ったり湯気のなか 湯治場温泉 夢見旅館」の初日の訪問者数は3千人弱だったが、その後は尻上りに増え、1ヵ月後にはコンスタントに1万以上のヒットを続けた。

サイトのタイトルに夢見旅館とあるが、これはサイト自身を旅館に見立てているだけのことで、「夢見」が人の気持ちを惹きつけるキーワードになっているのか、あらゆる分野からの訪問者があった。

ネットで或る言葉を検索にかけた時、思わぬところに行ってしまうのはよくあることで、夢見がどうして湯治や温泉に繋がってしまうのか訪問者は戸惑うだろう。だが、温泉なら行きたいしちょっと見てみようと、本来の検索を忘れて立ち寄ってしまう。

構成内容は温泉に入る意義とその効能。レポーターが実際に足を運んだ温泉宿の紹介。レポーターの呟きなどを毎日写真やイラスト入りで紹介するコーナー。全国各地の特産品や飲食店の紹介。それに瀧子自身のエッセイなど、多岐に亘ってのブログ形式だった。

そのブログを、湯治宿だけでなく一般の温泉宿や飲食店などの広告収入と予約料で賄うにはまだまだ時間がかかるが、瀧子の当初の目的は達せられているようだった。

 

春樹の自分に対する所作が変わってきたことに、由乃は驚きを隠せなかった。

「何かあったのかい?」

「何かって?」

「だって、急に優しくなったし」

「今までがおかしかっただけじゃないのかな。お袋には心配かけてきたから、少しは親孝行しなきゃいけないし」

「親孝行なんていいんだよ。春樹が独り立ちしてくれれば、それだけでいいんだから」

 春樹自身独り立ちしてるつもりでも、給料前には金が足りないといっては5千円貸してくれないかといったりしていた。それを由乃は親に甘えていると思うのだった。

「三村さんのところが暇なんで、今度違うところに行く。山岳会の人で工務店やってるのがいて、そこでペンキ屋が辞めたばかりだっていうから」

「そうかい。いろんな人と付き合って幅を広げるのはいいことだし、母さんは賛成だよ」

 しばらく禁酒していた春樹だが、鍋料理を肴に熱燗を飲みながらいった。

「これ。三村さんが退職金だってくれた。これで温泉でも行ってくればいいよ」

 1年もいなかったが、春樹の腕を見込んでいた三村は申し訳ないといい20万円を手渡していた。

「いいよ。それはあんたが使えばいい。母さんにだって貯金ぐらいあるし。それより、明日で仕事辞めることになったよ。それで美咲と温泉に行こうって誘われてるんだけど、どこかいいとこ知らないかい?」

 これまで仕事がきれると、春樹は気のむくまま旅に出ることがあった。温泉など興味がなかったが、山へ行くようになってから、下山後に風呂に入ることは最大の楽しみになっていた。槍ヶ岳の帰りに泊まった茅葺屋根の温泉宿を思い出し、彼はそのことを話した。

 由乃が酒を注ごうとすると、春樹はグラスを両手で持った。

「なんだい。親子なんだからそんな他人行儀じゃなくていいんだよ」

 春樹は自然とそういう作法が身についているようだった。

「これも山のおかげかな」

「いい山岳会に入ったもんだね。そういえば去年の暮れ蓼科へ行った時、山から降りてきたばかりだっていう若い女性2人と話がはずんでね・・・」

 由乃は瀧子が撮ってくれたその時の写真を春樹に見せた。それを見た春樹が驚いた。

「この女性は綺麗だったよ。春樹もそろそろ結婚を考えないとねー」

 由乃が見せた写真には長田由紀と潤が写っている。

「この女性。覚えてないの?」

「え?」

「俺が入院した時見舞いに来てくれただろう。彼女はお袋と入れ違いだったから、顔をよく見てなかったのかも」

 そういわれた由乃は、食事のときに由紀が自分の顔を何度か見詰めていたことを思い出した。

「それで、私の顔を見てたのかねー」

「ま、お互いにちゃんと話したことないから記憶が曖昧になってたんじゃないの。それはいいけど、惚けないでほしいもんだね」

「そうだといいけど。そのためにもブログやってるし」

「何書いてるか知らないけど、あまり無理しないほうがいい。目も悪くなるし」

 春樹は由乃の体を気遣っていった。

 

 春樹が所属する山岳会ブロッケンは1月の山行に、谷川岳の展望台でもあり急峻な尾根登りで有名な白毛門を選んだ。

 たっぷりと水分を含んだ雪のラッセルは想像以上に困難を伴い、29歳の春樹でもかなり堪えるものだった。それでも何くれとなく皆が指導してくれるので、春樹は弱音を吐かなかった。その帰りには皆で恒例の温泉に浸かった。

「かなり慣れてきたようだね。このぶんだと来年はアイスクライミングに挑戦できるんじゃないかな」

 そういうのは春樹に仕事をさせている大沢岳雄だった。

「今は他の山岳会員になってるけど、一応名誉顧問という肩書きの長田由紀さんていう女性がいてね。彼女のクライミングは素晴らしいんだ。的確なルートファインディングと強靭な体力は男も顔負けだよ」

「らしいですね。今年はチョモランマの遠征隊にも選ばれたとか」

「よく知ってるね。それで山は引退して結婚するらしい。山岳会から脱退したからって、山は行くだろうな。一度山の味を知ったら、辞められるわけないから」

「でしょうね」

 春樹は由紀を個人的に知っていることを伏せながらいった。

「今夜は彼女がOBとして此処に来る。年末に行った北鎌尾根のスライドを見せてくれるらしい」

 

 この夜、春樹は食事を終えると広間に集まった皆に資料を配ったり、新人会員としての役割をこなしていた。準備が整うと、皆は由紀の登場を待つばかりとなった。

 雪焼けした由紀が部屋に入ってくると12名の会員がいっせいに拍手で迎えた。

「お正月は過ぎましたが、今年初めてお会いしますね。皆さん、明けましておめでとうございます」

 由紀は会長から聞いていた村井春樹を一瞥した後、スライドの映像を説明していった。

「私としては5回目の積雪期の北鎌尾根で、夏よりは楽な気がします。ただ、ルートを見誤るととんでもないことになるので、その点は十分留意して頂きたいですね。技術に溺れることなく、体力を過信しない。そうすれば、山が裏切ることはないですから」

 由紀はスライドをケースに戻すと、会長の勧めで車座の中に入った。

「ご無沙汰してるけど、一人前の山男になりそうね」

 由紀が春樹にいうと、大沢は春樹の顔を見た。

「知ってるのか?」

「えー。雲取へ一緒に行ったことがあります」

「あの時は悪かったわね、置いてきぼりにして」

 春樹は自分こそ悪かったと非礼を詫びた。

「遠征隊の参加。頑張って下さい」

「有難う。お母さんがあなたが安達太良に行ってるといってたけど、心配かけないようにね」

 由紀はやはり母のことに気づいていたのだと、春樹は知った。

「あの時長田さんと一緒にいた潤は、僕の彼女ですよ」

これには由紀が吃驚させられた。

「彼女が4月から私の部下になるけど、その時、私は日本にはいないわ。あなたがしっかりリードしてあげなきゃ」

 春樹は由紀にビールを注いだ。由紀は春樹に返杯した。

「単独もいいけど、パーティーの素晴らしさもいいものよ。それは山だけでなく、人生でも同じだと思うわ」

 

 由乃は瀧子に頼んで春樹が教えてくれた宿の手配を頼み、合掌造りの温泉宿にいた。風呂は別棟に内風呂と露天風呂があり、雪野面の彼方には山並みが見える。その風呂から上がれば日本海の鰤や鱈など新鮮な魚料理を食べ、2人は熱燗でほろ酔い気分になっている。

「こないだ春樹が携帯電話を買ってくれてね、なんでもないことをメールで送ってくるんだよ」

「へー。あの子も変わったものね」

「気味が悪いぐらい変わったもんだよ」

 

9 卒業

 

 仕事が忙しい春樹と会う機会が少ない潤は、1人でもハイキングに出かけている。たいがいは陽だまりの中を歩き、夕方は温泉に入って帰ってくるというものだった。だが、今は3日の予定で雁坂峠から甲武信ヶ岳を目指そうとしている。

 2月だというのに暖かな陽気は歩くたびに膝下まで潜るような雪道だが、潤の歩みは順調で雁峠を12時に越えた。雁坂峠へは多少のラッセルをするものの、3時過ぎに着いた。そこで小屋泊まりとなり翌朝は甲武信ヶ岳だが、2000mから2500mともなるとさすがに積雪量も多くなり、女1人が絶えずラッセルしながらの工程はきつい。

 潤の身長は165cmで体重は48kgだが、その体型で雪を踏み固めるには軽すぎるのか、アップダウを繰り返しながらの稜線歩きにばてている。それでも由紀が北八ヶ岳で教えてくれたラッセルを忠実に実行している。いや、そんな技術だけでなく、精神的な教えも思い出している。

 

自分が積んだ訓練と体力は自信になるの。だから、毎日トレーニングしてね。辛いけどそれが頑張りにがると思うわ。そうすれば、山は絶対にあなたを裏切らないし。

 

由紀のその言葉を常に頭においている潤は、大学へ行くときも1駅分手前で降りて早歩きしたり、エレベーターやエスカレーターも極力使わなかった。それに腕立て伏せや腹筋に腰わりなどで、筋力を鍛えていた。そして、メンタルな面では1人になった時のことを考え、どんな時でも冷静な判断ができるようにイメージトレーニングもしていた。

 

息が荒くなり唾が出ないほど喉が渇く。潤はこまめに水分を取っていたが、破風山の頂で大休止した。

目標の甲武信ヶ岳はこんもりとし目の前にあるが、まだ急坂を降っては昇り返さなければならない。煮立てた紅茶に赤ワインを淹れたので、冷えてくる汗を暖めるようにして飲んだ。それにアーモンド入りのチーズを齧った。

富士山や南アルプスを眺めながらのティータイムは、冬山にいることを忘れさせるような穏やかな陽気で、このまま寝てしまいたいと思う潤だった。だが、彼女は30分ほどで腰を上げた。遠くの山に傘雲がかかっているのを見たからだ。

昼過ぎから稜線は風が強くなり、下から吹き上げてくるようになった。それも雪混じりで、ラッセルで汗をかいているはずの潤の体温を容赦なく奪っていく。

青空でも山に傘雲がある時は天気が崩れるからなるべく急ぐこと。

由紀の言葉を思い出した潤は急坂を降っている。

樹林帯の中に小屋を見つけるものの、身体は思うように前に進まない。昇りがきついのは当然だが、降りとて吹雪の中は相当ハードなようだ。ゴーグルは吐く息で曇り、それが凍り付いて視界をさらに遮る。そういう頑張りでようやく小屋に着いた潤は、ほうほうの体でザックを肩から放り出すように降ろした。

誰もいない小屋は外よりましだが、それでも気温は氷点下10℃ぐらいだろうか。吐く息が白くなる。吹雪はますます強くなり、強烈な風の音が聞こえてくる。そんな中、潤はコンロで暖をとりながらラーメンをつくった。熱いスープは喉が痛くなるほどで咽かえりそうになるが、食べているうちに身体が温まってくると人心地がついてくるようだった。それでも夜中には寒さで寝られないと思ったのか、彼女はテントを張った。その中でシュラフに潜り込むと、あっという間に眠りに落ちていった。

 

由乃は書き上げた自分史をまとめると、いっきに読めるようにしてブログに再投稿した。

それまで少しずつ増えていた閲覧者が「六文銭を用意しておこう」の総集編を読んでは、各自のブログでそのことを紹介した記事を書いたのか、由乃へのコメントがいつになく多くなった。

それを見てはにんまりしたり目を細めたりするが、書き上げてよかったという満足感でいっぱいの由乃だった。

痩せ衰えた身体を炬燵で足を伸ばして仰向けになると、涙が自然に零れる由乃だが睡魔に襲われるようにそのまま寝入ってしまった。

 

春樹は手洗いを済ませると、炬燵で寝ている由乃に布団をかけてやった。

開いたままのノートパソコンのマウスを動かすと、黒かったモニターにぎっしりと書かれた文字が浮かび上がった。

それを読み進めるうち、春樹の胸は痛くなった。熱くもあり、息苦しくもなり、涙が止めどなく溢れる春樹だった。

 

潤は新雪を踏み抜かないように注意しながら、頂上から千曲川源流沿いの道を降った。そして、昼過ぎにはバスに乗ることができ、八ヶ岳山麓の食事処で腹を満たした。そうなると、3日間の雪山での疲れを癒したくなり、近くにある日帰り温泉に行った。

潤が自宅以外の風呂に入るのは友人同士で行った先の温泉や、春樹と戯れた後のラブホテルの風呂でそれぞれいいものだったが、今のが最高だと思えた。湯舟から雪で真っ白な山を見ているだけで幸せだし、その山に登ってきたんだという充足感でいっぱいだった。さらには風呂上りのビールでご機嫌な彼女は春樹に電話をかけた。

「今平気?」

「あー。休憩してるところだから」

「今ねー。甲武信から降りてきたところ」

「へー。雪はどれぐらいだった?」

「30から50cmぐらい。でも昨日は吹雪かれて、今朝なんか新雪のラッセルで大変だった」

「女1人で、たいしたもんだな。俺より凄いよ」

「これも村井さんに山のよさを教わったお蔭だね」

「いや。俺じゃなく、長田由紀さんだろう」

 潤は雪の名前を春樹にいった覚えがないのに、どうして知ってるのかと不思議だった。

 蓼科温泉で潤と由紀が、由乃と宿で一緒になっていたことを春樹が話した。

「そうだったんだ。あの人が村井さんのお母さんとはねー・・・」

「そのお袋が自分史みたいなのブログで書き上げたんだけど、なんか調子悪くて寝込んでる」

 痩せて皺だらけの手が印象に残っている潤は、由乃の容態が気になった。

「病院行くようにいったの?」

 

 由乃は病院から戻ると春樹が好きな鳥のから揚げの用意をし、息子の帰宅を待っていた。

「どうだった?」

「軽い過労だって。栄養つけてよく寝れば心配ないらしい」

 春樹はさっと風呂に入り、ビールを飲み始めた。

「温泉でも行けばいいのに」

「そうしようかね。で、春樹のほうはどう?仕事は順調なの?」

「段取りの都合で明日から5日間ぐらい休みになるけど、心配ないよ」

「そうかい。じゃ、揚げるとするかね」

 由乃がつくる鳥のから揚げはニンニクと生姜がたっぷりと効いていて、ビールのつまみにはもってこいだった。

「美味いなー。お袋の味加減は最高だよ。俺も早いとこ結婚して、嫁さんにこの味を覚えてもらわないとな」

「そうだよ。山が好きならこないだの写真の子みたいな女性がいいね」

 由乃は蓼科温泉で知り合った潤と由紀のことをいった。

「2人とも美人でいい子だった。スタイルとか顔がいいだけじゃなく、話すことに人柄が滲んでてね」

 由乃が褒め上げるその1人、潤とは何度となく肌を合わせている春樹。

後姿のままで由乃は話し続ける。

「春樹に好きな女性がいるなら、早く連れて来てほしいね。孫の顔が見たいもんだよ」

「早いとこ子供でもつくるか」

「そういう子がいるのかい?」

「あー。明日その彼女と会うから連れて来るよ」

 

 潤は春樹と一緒に彼の自宅に行った。

 出迎えた由乃は潤の顔を見るなり、絶句してしまった。

 潤のことを春樹が紹介するが、由乃は胸を押さえたまましゃがみこんでしまった。

「どうしたんだよ?」

 そう聞かれても由乃は言葉が出ない。

「喜んでくれないのかよ。昨日、あんな女性ならいいのにっていってた、その彼女だよ」

 由乃は口にできないほど喜んでいた。と同時に胸が圧迫され、嬉しいとだけいうのがやっとだった。

 その様子に異変を感じた春樹が救急車を呼んだが、由乃は意識をとり戻すことなくその夜のうちに亡くなった。

 

 春樹は母の葬儀を済ませると、潤と一緒に山に行った。

「お骨を山で撒くのはいいけど、それじゃお墓に入れないの?」

「墓なんてないし」

 墓があろうとなかろうと、春樹は山で散骨したかった。できることなら、由乃と一緒に山に登りたいと思っていたからだ。

「富士山。お袋が唯一登った山らしい」

「今日はこんな天気で見えないけど、明日は見えるんじゃない」

 2人は早々とテントに入っている。

「明日は回復するっていってるけど、風が凄いな」

「こないだの甲武信の時と同じみたい」

「小屋泊まりならどうってことないけど、テントだから訳が違うだろう」

 日が暮れると風は強まるいっぽうだった。

「ね。テント飛ばされない?」

「ブロックで囲ってるし、ペグだってしっかり打ち込んであるから平気だろう」

 雪上でテントを張るのはこれで3回目の春樹だが、それは誰が見ても文句のつけようのないものだった。

「怖い」

 シュラフに包まっている潤は、身体を半回転させて春樹に寄り添うようにした。

 春樹は山で吹雪かれた経験をしてるので、さしたる恐怖感はない。

「大丈夫かな?」

「平気だよ」

 いくら雪でブロックを積んで風除けにしているとはいえ、風向きは一定してる訳ではない。風圧でテントが傾いだりすることもしょっちゅうだった。

 夜が明けても風は強く、潤がテントの外に出ると吹き飛ばされそうになる。

 関東地方の沿岸部に雪が降るケースとしてよくいわれるのが、八丈島の南を低気圧が通過する時だった。今はまさにそれで、さらには日本海に張り出した低気圧が猛威を揮い、小金沢連嶺は地吹雪に襲われていた。これでは冬山の経験が少ない潤がいくら頑張ろうにも、精神的に気後れしてしまうというものだ。

「湯ノ沢小屋まで戻ろうか?」

「今はここにいたほうがいいよ。もう少し待ってから行動しよう」

 まだ6時で、湯ノ沢小屋に戻るとしても時間的なゆとりはたっぷりある。それで、潤は吹雪が収まってから行動しようといった。

「じゃ、飯でもつくるか」

 春樹1人ならさっさと小屋まで行ける自信があった。だが、潤がいる以上無理をする気になれず、春樹は雑炊をつくった。そして、由乃がつくりおきしてあった最後の鳥のから揚げをその中に入れた。

「ニンニクが効いてるから身体が暖まるよ」

「うん。美味しい」

「お袋の最後の料理がこのから揚げだった」

「いいお母さんだったのに。温泉で一緒になった時、村井さんが初めて雪山に行ってるって心配してた」

「今じゃ、潤の親が心配してるだろうな」

「そうかも。でも、これぐらいのことで、私は死なないよ」

 昨夜からの吹雪は吹き溜まりでは30cmを超し、テントの雪を払うことを怠れば潰されてしまうぐらいだった。

「いつかは北鎌尾根へ行くんだもんな」

「そう。長田さんもいつか行ってみるといいっていってたし。孤高の人読んだら絶対行きたいと思ったよ」

「だったら、これぐらいの吹雪で弱気になるなよ。加藤文太郎はテントもなしで挑んだの知ってるだろう」

「うん」

 山へ行こうと誘ったのは春樹のほうだった。潤は母を亡くして気落ちしてるだろう春樹を元気付けるため、山に行ってきたばかりだったが付き合ったのだ。だが、意外と元気な春樹。しかもこの吹雪に動じることなく、酒まで飲んでいる姿にほっとするやら呆れてもいた。

「停滞するのは俺たちだけでいいから、前線が早く通過してくれればいいんだけどな」

 春樹はテントから顔だけ出して煙草を吸おうとするうが、吹き殴るような雪にすぐ顔を引っ込めた。だが、ペグを引っ張る紐が緩んだりしていないか、外に出て点検をした。

「ウ~。寒ぅ。薄日が差し出したから、昼には落ち着くと思うよ」

 春樹のその予想は当たらず、前線を伴った低気圧の動きは遅く、さらに他の低気圧も接近していた。

「久しぶりにエッチでもしようか」

 潤はあからさまなその言葉に顔を赤らめるが、とてもそんな気になれないし、できる状況でもなかった。だが、春樹は潤を抱き寄せてキスした。

「よそうよ。そんな気になれないから」

 それでも春樹は潤の舌を絡めとり、シャツをまくりあげて乳房をもみしだいた。そうされてるうちに潤は忘れかけていた本能が蘇り、寒気も感じなくなり次第にその気になっていく。

 

 春樹は手を払いのけられ、愚図っている小さい赤ん坊の頃の夢を見ていた。

 母親の乳房をまさぐるのは赤ちゃんだけでなく、授乳時以外でも3歳頃までは普通の行為だろう。だが、由乃は春樹に母乳を与えず粉ミルクで育てた。それでも彼は本能で乳房を触りたかったのだろう。それさえも拒絶されることが多かった。

 それだけに、春樹は男として目覚めたとき、真っ先に乳房に触れたがった。それは愛撫というより、母乳を欲する赤子のようだったのかも知れない。

 

起きて、という声で目を覚ました春樹は、眉毛が雪で白くなっている潤の顔を見た。

「外に出たのか?」

「だって、テントが潰されそうなぐらい雪が降ってるし」

 春樹が時計を見ると昼過ぎだったが、雪はいっこうに止みそうもなかった。

 食料はたっぷりあるし燃料の心配もなかった。

「冬山なんだから雪が降ったっておかしくないだろう」

「そうだけど・・・」

「低気圧の動きが遅いだけで、明日になれば止むだろう。今度は潤が寝てなよ。俺は起きてるから」

「寝る気になれないよ」

 いざというときに寝不足では困るので、それとなくいう春樹の言葉で潤はシュラフに入った。

 潤は加藤文太郎が遭難死する時はどういう思いだったのだろうと、目を閉じながら考えていた。だが、怖くなって家族の顔を思い出した。

 このまま死ぬことなどありえないとは思うものの、山の恐ろしさを身に感じてしょうがなかった。

「俺が誘わなければこんな思いもしなかったのにな」

「そんなこと思ってないよ。ただ、こんなに雪が降るとは思ってなかったから」

 シュラフごと潤の身体を抱き寄せ、春樹はリズムをとるように彼女の背中を軽く叩きながら寝かせつけた。

 母を亡くした春樹にとって、怖いものといえば潤を失うことだろう。だが、彼女の気持ちがどうなのかと思えば、結婚してくれるとは断言できない。それでも、こうして山に付き合ってくれるのだから、満更でもないことは確かだろう。

 

その翌朝は晴れ渡った青空に太陽が輝いていた。

 だが、降り積もった雪は30cm以上で、2人はわずか4km先の小屋にたどり着くまで半日を要した。

「どうする?このまますぐに降るか?」

「うん。温泉入りたい」

 林道にも雪がかなり積もり、車は除雪車のようにバンパーで雪をはねながら走った。

 石和まで足を伸ばして温泉に入った潤は、昨夜までの不安がどこへいったのかという顔つきだった。生死の境とまではいかなかったが、それでもテントごと飛ばされて谷底に落ちるのではないかと、何回も思うことがあった。それも束の間で風呂上りにはビールを飲み、家族に電話で心配ないからというと、あとは春樹に抱きすくめられるだけだった。

 

 春樹は潤を抱きながら由紀のことを思い出している。

 彼女と知り合ってなければ山に登ることはなかっただろう。それがたった1年足らずで、冬山まで行くようになった自分自身の変化に呆れ返るものがあった。少しは由紀を抱きたいという気があったが、今ではそんな気はさらさらなかった。ただ、何かの拍子で彼女の顔がちらつき、潤と比較することがある。潤に比べれば女としては成熟してるだろう。自分など、逆に手玉に取られてもおかしくはない。それだからこそ、付き合ってみたかったという無念さがあるのも事実だった。

 

 潤から身体を離した春樹は煙草を吸った。

「もういいの?」

「え?」

「あたしたち、これで終わりにしよう」

「どうしたんだい?いきなり」

「あたしに山はむいてないって思ったの。これからは仕事を一生懸命して、イラストの勉強をもっとしたいって思った。山より、あたしは皆と適当に遊んでるほうがむいてるの。村井さんから教えてもらったこともあるけど、あたしは由紀さんみたいに強くないってことがよく分かったわ。だから、山は今日限り。それで、村井さんもね」

 潤がどういう思いだか計り知れない春樹だったが、そうかと頷いた。

「だから、思いっきり抱いて。もう一度」

「俺は潤と結婚したいって思ってたんだけどな」

「それは無理。まだやりたいこと沢山あるし」

「だろうな」

「でも、あたし、村井さんのことは多分忘れないと思うな。変わった人だと思ってたら、本当に変わったよね。初めて会った時とぜんぜん別人だもん。いい思い出になると思うんだ」

 母が亡くなって、初めて人恋しいと思う春樹だった。それで結婚という言葉を出したが、あっさり拒否されてしまった。それでも悔しさはない。ただ、潤がなぜ今日で終わりにしようというのか、それが気になるが、それでもそれ以上詮索する気はなかった。

昨日テントで寝ていた春樹が、何度も由紀の名を寝言でいうのを潤は聞かされていた。

 

翌朝も快晴で、春樹が運転する車内のラジオが卒業写真の歌を流し始めた。

車は雪で真っ白な山間を分ける中央高速を疾走していた。

潤はこれで何もかも終わるのかと思うと、ラジオから流れる歌声がさらに悲しく聞こえた。

「俺はこれからも山に登る。一生登るだろうな」

「お母さんが亡くなって淋しいからよけいでしょう?」

「俺29、男だよ」

 

              俺29男だよ   完

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