そんな彼女をボーイが椅子を持ってテーブルに案内した。
「相席させてやって下さい」
ボーイにいわれ振り返った梶山三郎の目に、戸惑いを見せる女の姿が入ってきた。
「座って座って。なに黙ってんだよ。席詰めろって」
そういうのは梶山と向かい合ってる長谷山だった。
「つかえねぇー奴だな」
長谷山は美人な青木洋子を見て、梶山に席を詰めて彼女を座らせるようにいうが、梶山は壁際に座っていて席の詰めようがなかった。むしろ、長谷山の隣のがスペースが空いてるほどだった。
「俺がお前の隣に行くよ」
「そうしろ。お前の面見ててもしょうがないし。可愛い子チャンの顔拝みたいから、早くしろ」
調子のいい長谷山にうんざりしながら梶山が席を替わった。
「悪いわね」
「そんなところよ。あなた達も?」
「僕はビル・エバンスのがいいって思ってるけど、この彼がオスカーがいいっていうんで、無理やり連れられて来たんですよ」
「そうなの。ピーターソンのが、私は好き。麻薬なんてやらないし」
「そ、そう。昨日彼にいわれてピーターソンのアルバム聞いたら、エバンスより上手いなって」
そんなやり取りも満席状態の店内では誰も気に留める者はなく、誰もが早くオスカー・ピーターソンが来ないかという顔だった。そんな思いを察したのか、磯野てるおがコンサートが長引いてる模様なので、もう少しお待ちをとアナウンスした。 狭い店内はタバコの煙でもうもうとし、いかにもジャズ喫茶という雰囲気だった。 壁や柱に飾られたジャズメンの油絵はどれもそっくりで、手で顎を支えてるウエス・モンゴメリーなど生き写しのようだった。いや、彼だけでなくマイルス・ディビスやジョン・コルトレーンなどどれもそっくりな絵ばかりだった。 そんな絵を見ながら、梶山がジンライムをちびりちびり舐めている。
長谷山が手洗いに行くと、静かになったわねと青木洋子が梶山に話しかけた。
「あの人。若大将に出てくる青大将みたいね」
梶山がまったくだとばかりに苦笑した。
「あなた。ピーターソンのどんな曲が好き?」
「サマータイム。メロー・ムードのアルバムの曲は皆好きだけど、特にサマータイム」
「もしかして、ポギーとベスの映画見た?」
「見ましたよ。こないだのテレビ」
「やっぱり……。ポワチエとサミー・ディビスよかったわね。でも、音楽としてはピーターソンのが一枚上。あたしもメロー・ムード持ってるのよ」 「あのなかのニカの夢もいいし」
「そうそう。気が合いそうね。あたし達」
「輸入版でテンダリー聞いたら、痺れた。凄くジェントリーな感じだったし」
「それ、聞いたことない。聞いてみたいわね」
「今度持って来ましょうか?」
「ほんとに?貸してくれるの?」
「ピーターソンのファンなら、聞いて欲しいし」
「有難う。彼、遅いわね」
「あんなうるさいの、連れて来なきゃよかった」
「それも一理あるわね」
そういうところに長谷山が戻って来た。
「下痢だよ。お前が奢ってくれた水割り。毒入れたんじゃないか。帰るよ。ジャーね、可愛い子ちゃん」
長谷山と入れ替わりに青木洋子が手洗いに立った。
「道が混んでて、ここに着くのは夜中になるらしいって」
「残念。マスターにバイト早めに切り上げてもらったのに」
「どこでバイトしてんですか?」
「ガス燈って知ってる?」
「あそこなら、何回か行ったことあるけど」
「そうなんだ?よかったら遊びに来て。あたし、青木っていうの。夕方から九時まで毎日ほとんど行ってるし」
「あ、レコード持って、明日行こうかな」
「嬉しい。待ってるわね」
梶山が着替えてグラウンドに出ると高野というOBが来ていた。
「このなかにタバコ吸ってる奴がいる。吸いたい気持ち分からないこともないが、息切れして走れなくなるぞ。そうじゃなくても、貴様ら試合に勝ったことないくせに。勝つためには走り込みだ。ジャス喫茶なんか行ってる暇あったら、少しでも走れ」
梶山は自分のことをいわれてると思いながら、その高野を見ていた。
「いい女だったな。女といちゃつくにゃ、まだ十年早いぞ」
「よし、多摩川まで往復ランニングだ。三十分以内で戻ってこない奴は、しごくぞ」
その声に、皆が我先に駆け出したが、梶山は高野を睨み付けながらゆっくり走り出した。そんな梶山がいちばんでグラウンドに戻って来た。
「タバコ吸ってるくせに、足は速いらしいな。でもな、ラグビーを舐めんなよ」
高野はそういうと、部長である太った副島を肩車して腰割り百回を梶山に命じた。
「タバコ吸ったのがそんなに悪いなら、学校にいえばいいのに」
梶山の言葉に副島がやめろと制した。
「先輩に楯突くな」
「そんなこといったって、理不尽だし……」
「ここもずいぶん変わったもんだ。OBにいい返すのがいるとはな」
「えらそうなこといってんじゃないよ。なにがOBだ。あんただって在学中、部室で吸ってたんだろ」
「やめろ」
「OBだからって、勝手なこといってんじゃねぇーよ。どうせ、大学じゃ万年補欠で試合にも出してもらえないのが、ここに来ちゃ威張り腐って、いい気になってるだけじゃねぇーか」
そこに皆が続々と戻り、険悪な雰囲気を固唾を飲みながら見ている。
「いい度胸してんじゃねぇーか」
「あんたみたいに、女の穴追っかけるほどじゃないけどな」
「なんだと。もう一度いってみろ」
「あんたにいいよられて、困ってる女がいるってことだ」
「梶山。高野先輩に謝れ」
「嫌だね。こんな奴に頭下げるぐらいなら、辞めるぞ」
三年生は受験勉強に追われ、部長は梶山と同じ二年生の副島だった。そういう状況で、三年生の元部長が高野に練習を見てくれないかと頼んだらしい。
「自分のやってること、分かってるのか?おまえは」
「タバコぐらい、どうってことねぇーだろ。あんただって俺達が走ってる間、吸ってたんだろ。あんた大学二年だけど、確か、早生まれだったよな。だから身体も小さい。まだ二十歳になってないはずだ。それを、自分は吸って俺にどうこうっていうのは、虫が良すぎるってもんだ。ファイブスポットであんたを見たら、俺はあんたの大学に通報するからな」 梶山は高野の足元に転がってるタバコの吸殻を見ながらいった。その高野は梶山を制裁するつもりで来たものの、逆にやり込められてしまった。
「こんなのがOB面してるから、俺達は勝てないんだ。皆。グラウンド十周だ」
梶山のことばに、おーっと応えた皆が彼の後に続いた。
高野は女癖が悪いと部内でも評判のOBだった。後輩の彼女を無理やり紹介しろと迫り、それに従わないと練習で仕返しをするという姑息な人間性に、辞めていった部員が何人もいた。そういう悪い話が部内で引き継がれているのだった。
学生鞄は入学当時少しの間だけ持って通学していた梶山だが、周りの皆の程度の低さに教科書を持ち帰って復習や予習などしなくてもいいと分かれば、VANやJUNの紙袋に必要最低限の物だけを入れて学校に通っていた。それが二年になると、それさえも持たない日が多かった。その代わりに、石鹸やシャンプーにタオルといった風呂道具を入れたスポーツバッグを持つことが多くなった。
「風呂行くか?」
「あったぼうよ。今日は帰りに寄るところあるし」
「高野がいってた女か?」
「まあね」
副島がパン屋で牛乳を飲みながら梶山と話してる。
「あいつには気をつけたほうがいいぞ」
「いわれなくても分かってるって。退学なったところで、俺は別にどうってことないし」
「そんなこというなよ。もうすぐ三年になるんだし。バイトで何とかなるだろ」
梶山は母子家庭で育ち、近所の子供達を集めて宿題を教えたりしては授業料を払ってる状態だった。
「お前は頭もいいし、大学だって行けるって、森戸もいってるし」
「公立とか国立行ければいいけど、私立じゃ金かかってしょうがないしな」
そんな二人が風呂でお互いに背中を流し泥だらけの頭を洗い、制服から私服に着替えれば高校二年には見えない。
「そういえば、長谷山が最近見えないな」
「あいつ、女孕ませて退学になるらしいぞ」
「馬鹿な奴だな」
梶山は長谷山と深入りしなくてよかったと安堵した。
風呂から出た二人に片山美樹が声を掛けた。
「お風呂?」
「こんな時間まで、何やってたんだ?」
「文化祭の準備。それより、二人ともいい匂いしてる」
梶山も副島も風呂上りにMG5で整髪したばかりだった。
副島は駅に着くと梶山と片山とは反対方向の電車に乗った。
「副島君。格好いいよね」
「何だよ。俺はよ?」
「梶山君も格好いいけどさ」
「ついでみたいにいうな」
自由が丘に着くと梶山は片山美樹と別れ、北口の改札口を出た左側のスタンドでホットドッグにメロンジュースを頼んだ。それを口に入れた後は、三省堂隣のレコード屋でフランシス・レイの「白い恋人たち」を視聴した。そして南口のドンキーへ行った。 青木洋子は時間がないといいながらも、梶山の買ったばかりのレコードジャケットに見入ってる。
「この映画、フランス人らしい視点で面白かった。眼鏡かけた日本人の団体が出てたり、凄くエスプリが効いてるっていうか」
「ルルーシェらしいよね。今日、あの高野って野郎にはっきりいってきた」
「誰?高野って?」
「あー。でも、なんであの人知ってるの?」
「高校の先輩だった」
「それはちょっと、まずいんじゃない?大丈夫?」
「平気平気」
「ならいいけど、喧嘩しないでよ。これ、有難う。永い間借りててごめんね。じゃ、バイト行くから。また来て。ご飯ぐらい、奢るわよ」
ニキビ面の梶山にそういい、洋子は彼の頼んだアイスココアの伝票を持って立ち上がった。
「いいよ。自分で払うから」
「いいわよ。レコード貸してもらったし」
タイトミニの洋子の後姿を見送った梶山が、氷で薄くなったココアをストローで吸い上げた。それでも喉が渇いてしょうがなく、洋子が残したレモンスカッシュを飲んで店を出た。
「な、今夜はいいだろ?」
「そんなこというなら、帰るわよ」
「冷たいこというなよ」
「あたしはジャズが聞きたいから来ただけで、あなたと付き合いたいなんて、これっぽちもないし」 「はっきりしてるな。そういうところも好きだけどな」
「生で演奏してるんだから、黙っててよ」
ステージではハウスクインテットがレフト・アローンを演奏している。
心を満たしてくれたあの愛はどこなの?
決して別れないはずのあの人はどこなの?
人は皆私を傷つけ そして見捨てる
私は置き去りでひとりぼっちよ
他には誰もいない
そんな歌詞を思い出しながら洋子が演奏に聞き入ってる。
「こんなところより、タンポポ行って飲もうや」
「しつこい人、嫌い。もう、お店にも来ないで」
「ちぇっ。すかした女だな」
男が出て行くと、入れ替わりに高野が洋子の前に立った。
「相変わらず、気の強い女だな」
洋子はラークを吸いながら高野を見上げ、彼の顔に煙がかかるように吐き出した。
「横浜にドライブしないか?」
「お一人でどうぞ」
「そういわずに、付き合えよ」
そこにボーイが、洋子がお変わりしたレモンスカッシュを持って来た。 「軟派するなら、出て行ってくれませんか」
「ほんとよ」
ファイブスポットはジャズを聞かせる店で客質は良かったが、ときには高野のような輩が来るとボーイが排除した。 「もてるね」
ボーイはそういいながら洋子の前にグラスを置き、ウインクしてホールに戻って行った。
授業が終われば友人とたまに遊びに行ったりするが、高崎から出て来て下宿生活してる洋子はバイトに追われる毎日だった。
洋子を女にした男はアメリカに行ってしまい、彼女が現在付き合ってる男はいない。こうしてファイブスポットでジャズを聞くのが唯一楽しい時間だが、ややもするとその彼のことを思い出すことがある。それを忘れるには、好きなジャズを聞くのがいちばんだった。身体の中から嫌なものが消えていくように思えるからだった。
梶山が洋子から返してもらったレコードを袋から出すと、手紙が入っていた。
テンダリー、いい曲で何十回も聞いちゃった。ピーターソンがオーケストラバックに弾いてるなんて、初めて聞いた。ストリングスのせつない感じが素敵だったよ。なにかお礼しないといけないんだけど、映画の前売りで我慢してね。
もう秋っていうより冬で寒くなるし、風邪ひかないようにね。
今度、スケートでも行こうね
たったそれだけの文章を、梶山は何度も読んだ。
バレンタインに学内の女子から手紙つきのチョコレートをもらったことがあるが、それとは比べ物にならない興奮が梶山の胸を熱くさせている。
まさか手紙が入ってるとは思ってなかったし、梶山より三歳年上の洋子の達筆な字が、彼に大人の女を感じさせるからだった。それに、スケートの誘いが書かれていたことも、彼には嬉しかった。
夕方会ったときの洋子の化粧の匂いが思い出され、それを胸に布団に入る梶山だった。
城達也のナレーションで始まるジェットストリームが始まる頃、彼は青木洋子の夢を見ながら眠りに落ちていった。
期末試験で学校が早く終わった梶山たち四人が学校近くの雀荘に行くと、定時制の教師達と出くわした。
「お前たち。テストはちゃんとできたのか?」
四人は笑ってごまかすが、そこにラグビー部顧問の外山がいたので立ちすくんでしまった。
「梶山。高野に食って掛かったそうだな」
「そういう訳じゃないですよ」
「お前。あんまり騒ぎ起こすと、進級できんぞ。職員会議じゃ、しょっちゅうお前のことが取沙汰されてるし。出席日数だってぎりぎりだろう」
梶山はなんの反論もできず、他の三人に帰ろうといった。
「いくら試験ができたって、出席足りなきゃ、俺だってかばいきれないぞ」
外山の声を背中で聞きながら、梶山が雀荘から出て行った。
母の具合が悪くなり、それで梶山は学校を休んで近くの植木屋にバイトに行くことがあった。そこの三村という親父に可愛がられ、退学するなら俺のところに来いといわれていた。そんなこともあり、彼の気持ちは揺らいでいた。
母が爪に火を灯す思いで溜めた金で夏に家を新築したローンを払うためにも、なんとかしなければならない状態だった。それでも森戸という学年主任は大学へ行くようにと、執拗に彼を言い含めている。
このぼんくら学校じゃ珍しいぐらいの秀才だ。奨学金制度もあるし、なんとか進学しろと、親身になっていわれていた。
そんなもやもやした思いが吹っ切れず、梶山は一人足早に駅に向かった。
自由が丘デパートの餃子センターで百五十円の定食を食べ、ハイライトを買ってファイブスポットに入った梶山。 目を閉じ、自分の将来をどうしようか考えながらハイライトを吸った。
「偶然ね」
青木洋子はおちょぼ口の梶山のハイライトを取り上げながらいった。
「高校生がサボって、昼間からこんなところ来たら駄目でしょ」
「びっくりした。センコウかと思った」
「悪いことばかりしてるからよ」
にやっとしながら、洋子が梶山から取り上げたハイライトを吸った。
「辛い。私はやっぱりラークのがいいわ」
洋子はハイライトを梶山に返し、それを彼が吸い始めた。
「ませたこといってる」
「どっか遠くに行きたい」
「いいわねぇ。あたしもそんな気分」
「バイトは?」
「まだ早いわよ。ね、トップでオムレツケーキでも買って、うちに来る?こないだレコード買ったし、聞きにおいでよ」
洋子のくりっとした黒目がいたずらっぽく見えた。
「お酒ある?」
「レッドならあるけど」
「それでもいいから、飲ませてよ」
九品仏のアパートまで歩いてると木枯らしが吹き、洋子は梶山の身体に寄り添って風を凌いだ。
「なんだか、恋人同士みたいだね」
梶山は細身のトップの学生ズボンだが、がっしりとした身体の上には黄色いスタジアムジャンパーを着ていて高校生には見えない。
「レッドのお湯割り飲んで、温まろうね」
洋子はアパートに着くとすぐに薬缶をガス台にかけ、クラッカーの上にサラミやチーズを乗せた皿を梶山に出した。
「これ、ミロスラフ・ビトウズよ。ハンターで買って来たの」
「ウェザー・リポートにいたメンバーでしょ」
「そう。よく知ってるわね」
ファイブスポットの磯野てるおがFMNHKでジャズの解説をしてる番組を、梶山はエアチェックしては聞いていた。そのおかげで、グループやプレーヤーの名前をよく知っていた。
「フユージョンにちかい感じだけど、なんだか聞き心地いい」
「でしょう。七百円で安かったから買ったんだけど、正解だった」
静かな出足のベースはエレクトリックな感じで、サントリーレッドのお湯割を二杯飲んだ梶山の身体に、その音がすーっと入っていく。スローテンポだがリズミカルな音が次第に高まり、リターン・トゥ・フォーエヴァーを感じさせるメロディに、梶山は身体だけでなく心までが酔っていった。
「ゆっくり飲んだほうがいいわよ」
「なんか、寒くて」
木枠のガラス窓が木枯らしで揺れ隙間風が入って来る。洋子はカーテンを閉め、炬燵に入ってる梶山の肩にに毛布をかけてやった。そして、その彼に彼女が寄り添うように座った。
「そんなにそばに来たら、おかしくなりそうだって」
「いいよ。おかしくなって」
梶山は洋子を抱き寄せたかったが、手が出ない。
「経験、ないんでしょ?」
梶山は軟派じみた格好をしてるものの、やることは硬派なことが多かった。
部活はラグビーだし、加藤文太郎が主人公の「孤高の人」を読んで感化され、ときには山に登ったりもする。 クラスメイトや部活仲間とつるむこともあるが、バイトをしなければならないこともあり、そんな学友達と別行動をすることも多かった。
その彼が学校内でタバコを吸ったり、アイビールックで通う姿は職員の間で問題になっても、女子からは結構人気があった。
その一人の片山美樹と、梶山は二回キスしたことがある。それは、ただ唇を合わせるだけで舌を絡ませるまでいってなかったし、勿論セックスなどしたことがない彼だった。 青木洋子という年上の女性と知り合ってからというものは、彼女のことで眠れない夜もある梶山だった。
その青木洋子が今、梶山に寄り添っていた。
「無理にとはいわないけど」
「青木さんのこと好きだよ。でも……」
梶山はセックスに興味があるものの、その反面恐怖心があった。うまくできるかどうかという、未経験者特有の恐れる気持ちだった。恥をかきたくない思いが強く、それが洋子を目の前にしながら彼女の誘いに甘えられなかった。
「いいの。こんなこという、あたしがおかしいんだし」
洋子はそういい、レコードをパワフルなヴォーカルのレイ・チャールズに替えた。
「バイト休むから、ゆっくり寝たら」
洋子はそういって梶山を自分のベッドで寝かし、彼女は炬燵でみかんをつまんだ。
梶山は洋子のアパートに行った日から、彼女と少し距離を置くようになった。
ラグビーシーズンが本格化し練習は毎日のようにあったし、そのうえ三村のところではデパートの催事場へ植木の運び込みなど夜勤のアルバイトにも行ってた。さらに土曜の午後は近所の子供達に勉強を教えたし、毎日くたくたで、ファイブスポットへ行く回数も減っていた。
それが冬休みになるとバイトで得た金で懐具合もよくなり、クリスマスには洋子と会った。
「久しぶりじゃない。電話なかったから、嫌われたと思ってたんだ」
「そんなことないよ。ただ、うまくいかないで、恥かきたくないっていうのあるし」
洋子は梶山の無垢な気持ちが分かっていた。だからこそ、そんな彼に身体を預けようとしたのだった。
「あたし、明日実家に帰るのね。戻って来るの、一月の半ば頃かな」
「じゃ、そのときは送って行く。上野ならここから日比谷線で行けるし」
「無理しなくていいわよ。バイト終わってからだから、遅くなるし」
「九時に、東横線のホームで待ってる」
「有難う」
「白い恋人たちダビングしたテープ。聞いて」
「嬉しいなぁ」
洋子はそういって喜んだ。
翌日、洋子はホームで梶山にマフラーを巻いてやった。
「一日遅れのクリスマスプレゼント」
梶山は声が出ず、礼をいえない。
「気に入ってくれないの?アイビーのあなただから、タータンチェックなら喜んでくれると思ったのに」
「嬉しくて、声が出なかった」
洋子が苦笑した。
日比谷線が御徒町を過ぎ上野に着いた。
「時間平気?」
「冬休みだし、終電で帰れば平気だけど」
「だったら、ご飯食べよう。それとも、お酒のがいい?」
「どっちでもいいけど」
終電時間から逆算すると一時間の余裕があった。
二人はコンパで飲み、国鉄の高崎線のホームに向かった。
「飲んでるから、走ったら眩暈する」
「こっちもだよ」
列車が発車するまで十分ほどあった。
「ちょっと待ってて」
梶山は売店で女性雑誌二冊を買い込んで来た。
「これ、読んでたら退屈しないでしょ。酔って寝過ごすこともないし」
「気が利くんだね」
洋子は礼をいいながら列車に乗り込んだ。
発射ベルが鳴り梶山が手を振った。その手を洋子が引っ張って彼を車内に引っ張り込んだ。
「一緒に行こう」
「そんなこといったって」
「いいから、一緒にいて。恥なんてかかせないから、心配しないで」
洋子は自分で大胆なことをいってることに気づいているが、恥じらいはなかった。梶山の優しさとぬくもりが欲しかった。そして、ジャズの話をしたいと思った。
ドアが閉まり、列車が動き始めた。
「後悔させないから」
梶山は洋子の吐息に、どうにでもなれと思った。
高崎まで洋子は梶山の膝枕で寝ていたが、着けばホテルに彼を連れて行った。
「どうして?」
二人が初めてファイブスポットで会ったときと、洋子がドンキーでレコードを返したとき。梶山は洋子が残したレモンスカッシュを、彼女の口紅のついたストローで飲んで間接キスをしていた。その他にタバコでの間接キスがあった。 そして今、唇を合わせたのが四回目だったのを話した。
「純情だよね」
そういいながら洋子が梶山をベッドに押し倒し、彼の唇を舌でこじ開けてキスした。
梶山は初めてのディープキスに、全身の力が抜けていくようだった。
洋子がくすっと笑った。
「歯、磨こう」
そういって立とうとする洋子を引き止め、梶山は自ら彼女の舌を絡めとるようにキスした。
コンパで食べたチキンバスケットは生姜とニンニクの味が利いていた。その香りが洋子の口のなかに残っていた。否、梶山にしてもそうだった。
来春には退学し母の代わりに働かなければならない梶山だったが、女を知った喜びで、その前途を明るく感じているようだった。
「働くようになったら、一緒にどっか行こう」
洋子が梶山の顔を見上げながら頷いた。そして、彼の舌を吸い込むようなキスをした。
完