梶山の浮気を見つけた美樹は田舎暮らしを提案し、彼はその術中にはまるものの、当の美樹の心中は……
カラオケは歌い疲れ飽きたし、これ以上飲めば間違いなく二日酔いになることが分かっている梶山三郎が帰るといった。
「まだ十時だぜ」
「俺には、もう夜中だよ。お寝んねしないと、朝がきついしな」
「俺だってそうだって」
梶山を引きとめる森野将太は台湾人のホステスにちやほやされご機嫌だったが、梶山は外国人より日本人のが好きだった。そういうこともあり、森野に台湾パブに誘われても、一人で先に店を出ることが多かった。
帰宅した梶山は、風呂から出たばかりの美樹を相手に飲みなおしている。
「随分早かったじゃない」
「森野はああいうところが好きだけど、俺はどうもな……」
「森野さんって、ああいうお店じゃないと、多分持てないと思うな」
「随分なこというな。あいつに、いっといてやるよ」
「いいわよ。そんなこといわなくても。でも、仕事のこともあるし、付き合ってあげればいいじゃない」
「なんだ。けなしたと思ったら、今度は持ち上げるのか」
「そんなことないわよ。聖人君子のあなたのが、よっぽど好きだし」
「なんか、そういういいかたって、棘があるな」
美樹がコンドームをテーブルに置いた。
「あたし達、こんなの使ったことないわよね」
それを眼にした梶山がとりなそうとするが、いい考えが浮かんでこない。
「さっき、洗濯しようとしたら出てきたんだけど……」
「森野がくれたんだよ。持続時間が永くなるからって」
「そう。さっき、奈々子って人から、電話あったわよ」
「へー。どういう風の吹きまわしかな」
「しらばっくれないで、いえばいいじゃない。浮気したって」 「してないものを、したなんていえないさ」
「だったら、彼女がなんで電話かけてくるのよ」
「お前もおかしなこというな。考えてみろって。俺が本当に浮気するならだ、なんでその奈々子って女に自宅の電話番号を教えるんだ。飲みに行った先で、たまたま二人とも山が好きだってことで意気投合したから、それで教えただけだって」 「意気投合しちゃったんだ」
そういう美樹は怒ってる訳ではなく、意地悪くにやけている。
「なんだよ。その笑い方は」
「ま、いいけど。でもさ、結婚したら、浮気はしないでよ」 一年以上も付き合ってる梶山にとって、いつも同じ美樹相手では新鮮味がなく、時には刺激がほしくなることがある。それでつい、奈々子を抱いてしまったのが昨夜のことだった。
目を潤ませている美樹にそういわれると、梶山は不味いことをしたなと後悔している。
「今日は泊まっていくのか?」
「そのつもりよ。久しぶりに、一緒に寝たい気分だし」
「降ってきたな」
都心から離れた郊外は緑が多く、鬱蒼としたシルエットが雨に煙っている。
「ね、いつかは結婚するじゃない。このままいけば。そしたらどこに住む?あたしはここより、もっと静かなところがいいな」
「ここより静かっていったら、本当に山の中になっちゃうじゃないか」
「あたし、こういうマンションて、味気なくて厭よ」
「年寄りじみたこといってるな」
「だってさ、まるでニワトリのゲージだよ。マンションなんて」
「ニワトリ小屋はないだろ。ここだって二千万も出して買ったんだぞ」
「分かってるけどさ、そんなお金あるなら地方で、もっといい家買えるじゃない。一軒家で大きい家とか。あたしの親にいえば、それぐらい出してくれるし」
女性としては背の高い片山美樹は、バストで止めたバスタオルから、長い足を投げ出してソファーにもたれている。そのバストは俗にいうお椀形で、梶山の掌からはみ出すほど大きい。
そんな美樹と何度となく肌を重ねてきたが、結婚すればそれは快楽を求めるだけでなく、その結果子供もできるだろう。二人の子供だし、可愛い子に違いないと思う梶山だった。その子供に人間らしい生活をさせるなら、美樹がいうように地方のがいいのかも知れない。
「さっきね、ここにくる前にスーパーで買い物したんだけど、野菜が凄く高かった。うちの田舎千葉だけど、周りの農家の人が採れたてのくれたりして、それがみずみずしくて美味しいんだ。トマトなんて酸味のなかに甘味があって、最高に美味しいの」 「そうまで思わないけど、都会より田舎のがいいかなって」 梶山は塗装と防水を生業にしていた。
大手ゼネコンの下請け業者としてやっていたが、現場への往復時間だけで三時間から四時間かかることもざらで、家を出てから帰るまで十五時間ぐらいかかることが普通になっていた。そういう生活に不満を感じたこともあり、半年前から一般住宅専門に仕事を切り替えている。それも、なるべく近場の現場を取るようにしていた。その結果時間的なゆとりができ、美樹が泊まりにくることもふえていた。
「通勤ラッシュがない田舎で、のんびりしたいって思わない?」 「そりゃ、できればそうしたいけどな。でも、美樹。お前って、変な奴だな」
「どうしてよ?」
「齢いくつだよ?」
「二十四よ」
「二十四の女が、田舎がいいなんていうか?友達にいったら笑われるぞ」 「そんなことないわよ。他の子だって、地方のがいいって、結構いってるし」
梶山が眠いというので、美樹が布団を敷いた。その布団に入った彼は三十秒としないうちに寝息をたて始めた。その彼に起きてよといっても起きないので、美樹は胸にキスしたり刺激を与えるが、寝息は高まるばかりだった。
翌朝も雨が降っていた。
梶山が淹れるコーヒーの匂いで目を覚ました美樹が、彼のカップを横取りして口をつけている。
「美味しい」
椎茸をバター焼きにし、それにスクランブルエッグを添えたものでパンを食べる美樹。
「いい味してる」
梶山が住んでるマンションの大家が自家栽培してる椎茸だった。
「今日は雨で、仕事できないんでしょ」
「うん」
「土曜だし、ドライブしようよ」
「行きたいとこあんのか?」
「別に。でも、ここから少し行けば日帰り温泉あるでしょ。そこ行こうよ」
二人は営業開始時間にあわせてタクシーを走らせた。
そこで朝風呂に入った二人は、大広間でビールを飲んでは横になっている。
「酔ったよ」
「朝のビールは効くからな」
ゼネコンの仕事を辞めてからというもの、雨の日の梶山は本を読みながら朝っぱらからビールを飲むことが常だった。
「これが二人っきりだったら、もっといいのにね」
美樹が座布団を枕に仰向けでいう。
「あたしさ、編み物好きだし、あなたのために、いろんなもの編んであげるね」
「そうかい。ありがとさん」
二人は俄かに混み始めた広間の隅で、束の間の眠りについた。
美樹がいいところがあるから行こうと梶山を誘ったのは、六月も入梅を目前にしたときだった。着いたところは山また山ばかりで、かろうじて開けてるのは駅のある飯山方面だけだった。そして、美樹があの家なら住んでもいいといってるその家に入ると、朽ちかけた外観にしては柱や梁が太く、板の間もしっかりとしていた。
「どう?」
「どうって?まさか、ここで新婚生活を送ろうって気じゃないよな」
「そのつもりだけど。ここが厭なら、もう一軒あるのよ」
「どこだよ」
「山梨の増穂ってところで、ここから四時間ぐらいかな」
「長野から山梨かよ。朝早く出てきて、もう疲れてるんだからな」
「諏訪湖に緑水っていうホテルあるんだけど、いいところなのよ。料理は美味しいし。そこで泊まって、明日でもいいじゃない。どうせ、仕事は暇だっていってたし」
「そりゃそうだけど・・・。増穂ってどの辺だ?」
「市川大門て知ってる?」
「あ-。昔仕事で行ったことある」
「その近くよ」
「そっかぁ。諏訪湖からなら二時間ちょいだな」
美樹は梶山が帰ろうというのではないかと思っていたが、ホテルに温泉はあるのかと聞いてきたのでほっとした。
緑水という宿の部屋は広く、美樹のいうように温泉は自家源泉の掛け流しだし、料理は和洋折衷で品数が多くて美味いものだった。
「食べたなー。仕事が早く終わったとき自炊してるけど、こんな料理作れないし」
「あたしが作ってあげるって。フレンチでもイタリアンでも。最近は会席料理も習ってるし」
「結婚準備は万端って訳だ」
「お母さんが料理しか取柄がないんだから、しっかり覚えなさいって」
「そんなことないだろ。美人だし、性格もまぁまぁだし」
「まぁまぁなんだ……。いいけど」
「そんな美樹が、どうして俺を選ぶんだか、不思議でしょうがないよ」
「どうしてだろうね?」
「こっちが聞いてんの。仕事してるとき、いろんなのから付き合おうっていわれてんだろう」
「それはあるけど・・・」
「それなら、なんでその男と付き合わないのかって、俺にしたら不思議でな」
「あなたより格好いい人いるけど、なんでだろう・・・。タイミングかな」
梶山は腑に落ちなかったが、美樹がいうように、男と女の結びつきなどそんなものかも知れないと思った。
翌日増穂に行くと、民家もほどほどあるし甲府にも近いので、仕事も何とかなるだろうと思う梶山だった。
結婚式まであと半月となり、梶山は雑務に追われると同時に不安が募っているようだった。
「いいよなぁ。あんな女と一緒になって逆玉でよ。親父さんがあっちこっちマンション持ってるし、家賃の上がりだけでも食っていけんじゃん」
「そんなのあてにして結婚する訳じゃないけど、なんか不思議でなんないんだよな」
「どうしてだよ?一年も付き合ってきたんだし、別に不思議じゃないだろ」
「三か月前、いきなり結婚しようっていってきたと思ったら、田舎暮らししたいっていうし」
「いいなー。田舎のがのんびりしてて、いいって」
森野のいいたいことは分かるが、美樹が急に田舎暮らしをしたいという真意には、何か別の意味があるのではないかと思ってる梶山だった。
これから新婚生活を送るべき家の近くには美樹の祖父の実家があり、その親戚があっちこっちにアパートや貸家を持っている。地主なので顔が広いし、その伝で梶山に仕事も紹介するとのことだった。
高校中退で塗装業の世界に入った梶山は人に騙されることが何回かあったし、そういうことで辛酸も少なからず舐めてきた。それだけに、あまりにも恵まれた環境を与えられることに、躊躇いがあるのかも知れない。
結婚式も終え新居に移った梶山と美樹の生活は、何もかもが目新しいことばかりで面食らうことが多々あった。だが、なるほどと思わされることが多くて面白い。それに、周りの人間は排他的なところがなく、二人を快く受け入れてくれることもあり、新婚生活は順風満帆だった。
「あたし、明日はクラス会で東京に行くけど、三日ばかりお家に戻ってていいかな?」
「ゆっくりしてくればいいよ。俺は近場の山でハイキングしてるよ」
美樹が自宅に戻ると田舎暮らしの退屈なことを嘆いた。
「もうね、何にもないの。下着ひとつ買うのも甲府まで行かなきゃなんないし、毎月買ってた雑誌も、大きな本屋がないから買えないし」
「しょうがないじゃない。あなたが梶山君に浮気されないために、わざわざそういうところへ行ったんだし。男なんてものは、浮気もしないようじゃ、魅力ないってことなのよ。それをあなたがあまりにもナーバスになりすぎて、若い子がいない田舎で暮らそうなんていいだすから、こうなったんじゃない」 「でも、あのままあそこにいたら、あの人毎晩飲み歩いて、女と遊び歩くと思ったからさ。これまで、三回ぐらい浮気されたし」
「そんなことされてでも一緒になりたいっていう、あなたもどうかしてるわよ」
「そうだけど、あの人といると幸せだって感じるし」
「だったら、しょうがないじゃない。浮気されないためには、今のところで我慢することね。でも、増穂だって開けてきてるし、若い子だってかなりいるんでしょう。飲み屋さんだってあるんだろうし」
「彼の友達がきて、なんだか可愛い子のいる店見つけたとかいってるし」
美樹の母は娘が思うほど、梶山が持てるとは思っていない。
だが、今のうちから地方で地に着いた生活をしていれば、行く末いいことがあるだろうと将来のことを考えていた。それは家を建てるにしても東京では地価が高いとかもあるが、それよりも安全な食べ物が手に入ることがいちばんだった。極端なことをいえば日本の食生活は崩壊している。それが、地方なら自給自足をしようと思えば可能だし、何れは自分達夫婦が娘の美樹の元へ行こうかという考えもある。そういうことで娘の取り越し苦労を親身になって検討した結果が、田舎暮らしということになったのだった。
「子供ができれば、浮気なんてしないわよ。毎日家に帰るのが楽しくなるってものよ。男って、そういう生き物なの。覚えておきなさい」
「そうかな……」
「心配ばかりしてないで、さっさと帰りなさい。梶山君が淋しがってるわよ」
お嬢様育ちのわりには苦労性な美樹だった。それにすれてないので、何かと考え込んでしまうのかも知れない。
「何かあったら、いつものようにメールしてきなさい。夜中でもいいから」
毎晩のように肌をすり寄せていたので、たったの二日間といえども梶山のたくましい腕に抱かれないのが淋しい美樹だった。そう思うと、すぐに車に飛び乗った。
「ただいまー」
「何だ。帰りは明日じゃなかったのか」
「あなたが淋しい思いしてると思って、帰ってきたのよ」
「朝は畑仕事してそのあとは山で、今は風呂上りのビールだ。明日は雨だっていうし、畑仕事もできないな。でも、美樹が持ってる畑は、雨だろうが晴れだろうが、毎日耕すからな」
美樹は何のことだか分からないが、梶山のグラスのビールをひとくち飲んで風呂に入った。
ここでの梶山に友人はまだできていなかったし、暇なときは本を読むことで暇を潰していた。晴れていれば勿論仕事もする。まさしく、晴耕雨読の生活だった。
完