風越峠 5~8章 見返り桜編
外資系コンビニワンダラーに立ち向かうつもりなのか、村井春樹はイートインスタイルを進化させた田舎っぺというチェーン店の展開を始めた。
梶山を追うようにして波流美も風越の喜左衛門で働くようになり、二人の恋仲は順調のようだった。
5 雪に鎖される恋心
浩二は酒に溺れながらも妻の叱責に応え、もう一度やり直すべく仕事に精を出している。陳列台の隅から隅まで拭き掃除をしたり、店に併設してある手洗いの便器や鏡をぴかぴかになるまで磨いた。ポスシステムによる商品補充をどうすればいいか?マニュアルに沿ったオペレーションを実践した。
それでも冬場の風越は決まった人間しかいない。観光客がくる花見どきまでまだ二ヶ月以上もあるが、それまで彼がこのように一生懸命仕事を続けられるのだろうか・・・。
加代は芳江と話をしているが、既に酔っているようだった。
「早くお店出してくれないと、あたし、本当に辞めちゃうよ。あそこにいるの、辛いんだから」
「そんなこといってないで、ちゃんと仕事してよね」
「いわれなくても、仕事はきちんとやってます。でもね、村井さんの顔見ると、駄目になっちゃう」
万吉からそれとなく加代の様子を聞かされていたものの、姪の加代がこれほど村井春樹に心を傾け、そして苦しんでいるとは思ってもいない芳江だった。
春樹と加代が恋仲になること自体、芳江はいいことだと思っている。小学校から高校までずっと一緒だった春樹のことを、芳江は知り尽くしているからだ。ただ、二人の年齢差を加代の両親がなんというか。それが気になるところだった。
「あたし。村井さんにまたいっちゃおうかな」
「いえばいいわ。いいもしないで、ぐじぐじ悩んでてもしょうがないじゃない」
加代は初めて春樹と二人で飲んだとき、酔った勢いで自分の気持ちを彼に話したが、相手にされなかった。仕事では普段どおり話すが、それでもなんとなくすっきりしない加代は、仕事に行くのが辛くなっているのだった。それで叔母の芳江に苦しい胸の内を明かしていた。
そんな加代のこと以外に考えなければいけないことがあるが、芳江は可愛い姪の愚痴を聞いてやらなねばと思った。
「いって駄目なら諦めるし、村井君が加代ちゃんの気持ち分かってくれるんだったら、しめたものじゃない」
「こないだは酔っていっちゃったけど、今はいえない」
「子供じゃないんだから、しゃきっとしなさいよ」
テーブルに脇をつけて手を伸ばし、それで徳利を玩んでる加代。
「もう帰るわよ」
「待ってー」
加代はふらつく足で芳江の後を追うが、芳江はさっさと店を出て行った。
春樹は税金の申告のために去年の帳簿をチェックしている。
「どうだ?売り上げは伸びてるのか?」
「四月は花見だから当然だけど、その後も前の年に比べると少しだけど伸びてる。梶山さんがきたおかげかな」
「あれもいろんなこと考えて、今までとは違う料理出してくれたからな。で、儲けはどれぐらいあるんだ?」
喜左衛門は個人商店で法人化してないので、経費を抜いた残りすべてが春樹と万吉の給料になった。去年一年間のその収入は千五百万ちかくあった。
「またぞろ税金で持っていかれるか。わしにしてもそうだけど、お前にしたって寝る時間も惜しんで働いてるっていうのにのぅ」
「爺ちゃんよ。自分の取り分が同じならいい訳だろう?」
「何だ?脱税でもするのか?」
「ま、任してくれって」
万吉が出て行くと春樹は色々シミュレーションして、ようやく膝を叩いた。
この夜も雪が深々と降り続いている。
「美紗緒にも残ってもらったのは金一封をあげたくてね」
「さすが喜左衛門」
美紗緒が手を叩いて子供のように喜んでる。
「大金だぞ」
「嬉しい」
しきりに言葉をはさむ美紗緒とは対照的に、加代はお茶を飲んでは俯いている。梶山といえば、洗い物で冷たくなった手をストーブにかざしてこすり合わせていた。
「梶さんと美紗緒には百万ずつ。加代ちゃんはきたばかりだから三十万円」
三人は顔を見合わせた。
「ただし、それは去年のボーナスとして払ったことにしてほしいんだ」
「どうして?」
春樹は万吉と自分が払う税金の分をうまく調整して三人に振り分けたのだ。そのことを話すと、皆は納得した。
「そこでもうひとつ頼みっていうか提案があるんだ」
春樹は芳江から、井戸屋を喜左衛門の支店としてやらせてほしいと相談されていることを話した。そこで彼は井戸屋を現在の喜左衛門とまったく同じスタイルの店にし、ここは少し洒落た懐石風の店にしようと話した。
「懐石なんて高級すぎて、誰もこないんじゃない」
「いや。幕の内弁当なら千円で十分にできるからな。他に蕎麦懐石とか、囲炉裏焼きだ。梶さんもだいぶん焼き方に慣れたみたいだし、任せていいと思うんだ。いいよね」
「はい。やらせてもらえるなら、何とかやります」
「で、俺と加代ちゃんは芳江と一緒に駅前に移る。どうだい?何かいいたいことあるか?」
加代の顔が曇った。
「あたし。もうできないと思います」
加代の言葉に、春樹以外の目が彼女に集まった。
「仕事とプライベートをごっちゃにするな!それができないなら、すぐ出て行け!」
春樹の言葉はきつかったが、口調そのものは穏やかだった。
「済みません。これで」
立ちかけた加代に、万吉がまぁまぁといって彼女の肩に手をかけた。
「人間いろんなことがあるもんだ。短気は損気っていってな、ここで逃げ出したら、あんた。一生後悔することになるかも知れんぞ」
美紗緒は加代が春樹に好意を寄せていることに気付いていなかった。それで、加代がなぜこういった態度をとるのか不思議でならない。
「どうしたの?何でもあたしには話してたじゃない。もしかして、あたしのことが嫌だとか・・・」
美紗緒は自分のお喋りが嫌われたのではないかと思ったようだ。
「違う。あたし・・・」
「なー、加代ちゃんよ。人を好きになるってぇのは誰にもあることだ。春樹は、それと仕事と一緒にするなっていってるだけのことよ。仕事以外であんたが誰のことをどう思おうが勝手なんだ。なー。春樹」
春樹が黙って頷いた。
「ここであんたが辞めたら、あんたの叔母さんが恥かくことになるんだぞ」
「でも、それでもあたし・・・」
「こんなことで梶さんを引き合いに出すのは悪いんだが・・・」
万吉が梶山に酒でも出してくれといいながら続けた。
「あんただって、この梶さんのことは知ってるはずだ。あの峠で首を吊ったことをな。だがな、この人が首を吊って生き恥を晒しながら、何でここにいなきゃいけないんだ?」
揶揄されてるとは思わないが、居所のない梶山は熱燗をのせた盆を持ったまま立っている。
「皆に飲ませにゃぁ」
万吉からいわれ、梶山が猪口を配りながら酌をした。
「ここはなーんもないが、都会からきたもんにゃ住んでみたくなるんだろう。だが、生き恥晒してまで住むか?それでも、もう一年ちかくここで頑張ってる。そうしたらどうだ?風越のもん皆が梶さんを認め始めたじゃないか。あんたが春樹を思ってくれるってーのは、わしにしてもえらく有難いことじゃ。だが、それを仕事と一緒にしたんじゃ、あんたの叔母さんだけじゃなく、春樹にしたって疲れてしまうでな。ここはひとつ大人になってだ、新しい店で頑張ってみようっていう気にならんかのぅ」
黙って聞いていた美紗緒が加代に飲むようにいった。
「加代ちゃんはこんなオッサンがいいのか?いくらでも紹介してやるのに。春樹さんより、もっと格好いいのをね」
「違うの。あたし、一生懸命仕事してる村井さんがいいの」
加代はそういうと顔をしかめながら酒を飲み干した。
「済みませんでした」
「じゃ、ここにきたときのように明るくやるんだな?」
「はい」
春樹の言葉に、加代は滲んでくる涙を拭いながら応えた。
「よし。梶さんには嫌な思いさせて済まんな」
「いやー。こっちはいわれたとおりの人間だし」
「それにしてもあんた。いったいここのどこがいいんだい?」
「他に行くところもなかったし」
梶山が顔を赤らめながらいうと、皆は噴出しそうになった。
実際、梶山は病院で意識を戻したとき、そばにいた春樹を頼るしかなかったのだ。
加代は美紗緒と途中まで一緒だったが、別れた後は一人で家路に向かった。降りしきる雪は止む気配もなく、街灯さえ暗く感じた。いつもなら早足だが、冷たい雪の中をゆっくり歩く彼女の心は熱かった。つかえていた物を飲み下した感じだが、それでもすっきりしない。それでも、なるようにしかならないのだと、気持ちを変えていくしかないと思う加代だった。
万吉は春樹と二人で酒を飲んでた。
「お前。四十になってまで、まだ由紀のこと諦めんのか?そんなことだから目の前が見えんのじゃ。恋は恋。生活とは別物じゃ。いつまでも独りでいると、その頭はよけい、由紀の亡霊ばかり見る破目になるってもんだ。現実を見詰めるこった」
春樹は万吉の猪口に酒を注ごうとしたが、万吉は寝るという。
「曾孫の顔は、いつになったら拝めることやらな」
そういいながら万吉は二階に上がって行った。
6 旅路
仕事を辞めたというのに波流美の心は和んでいる。
長距離列車に久しぶりに乗って旅に出てるような気分になっているからなのか、自分自身でも分からないが、車窓を見てるだけで気分が和らぐ。
都心のビル街が遠のいて民家が多くなり、それがやがては山の景色へと変わっていく。特急列車から各駅停車に乗り換え、そして、何度目かの民家が沿線に見え隠れしはじめたとき、波流美は風越のホームに降り立った。
遂にきてしまった。
波流美はデイパックを肩にしばし町を見下ろしていたが、ファーストフード店で熱いコーヒーを飲み、そしてコンビニで耳あてを買い込んで喜左衛門に向かった。
そんな彼女に最初に気付いたのは春樹だった。
「あ、珍しい」
「こんにちは。ご無沙汰してます」
「梶さん、奥にいますよ」
梶山は万吉に蕎麦の打ち方を教わっているところだった。
「お。別嬪さんのお出ましだ。ちょうどいい。あんたが打った蕎麦を食べさせてみりゃぁ」
「どうしたの?急に」
波流美は遊びにきたといった。
梶山は蕎麦の修行の成果はどうかと、波流美がひとくち啜っただけで聞いた。
「美味しい。出汁もいいし」
「他には?」
波流美は蕎麦通でもないのでどう答えていいか分からないので、ありきたりのことしかいえなかった。
「喉越しは?」
「食べてるのに、そんな矢継ぎ早に聞いてどうするんだい?ま、ゆっくり食べ終わってからにするこった」
万吉はそういうと加代と美紗緒に奥へ行くように目配せした。
「蕎麦って、難しくてね」
梶山はねじり鉢巻をしていた手ぬぐいで、顔や首筋の汗を拭きながらいった。
一年前に自殺を計った男が今ではそんなことがなかったかのように、それどころか、一人前の板前のような感じに見えた。
「仕事に燃えてるって感じ。私なんて、辞めてきちゃった」
梶山はそうかと頷くが、それ以上のことを聞かなかった。
「いつまでいるの?」
「まだはっきり決めてないの。のんびりしたいだけ」
「今まで仕事頑張ってきたんだし、ゆっくりすればいいさ」
「梶山さんは、張り切ってるね」
四月から井戸屋の跡地で喜左衛門の姉妹店をオープンさせるので、これから忙しくなると梶山がいった。
「万吉さんもそろそろ引退しようかっていうし。それで今特訓受けてる」
「大変ね」
「俺はいわれたことやってるだけだけど」
「でも、前にくらべたら活き活きしてるし」
「そうかな・・・」
「うん」
春樹は車から降ろした弁当箱を洗うように美紗緒にいい、梶山と波流美のところに歩み寄った。
「梶さんの蕎麦はどうだった?お客さんに出しても平気?」
「はい。これで二百五十円なんて、やっていけるんですか?」
「山菜はそこらじゅうにあるし。蕎麦は爺ちゃんが栽培してるからね」
「東京で二百五十円っていったら、立ち食いのかけ蕎麦の値段なのに」
「安くて美味い。それが喜左衛門の売りだから。それより、今日は泊まるんでしょう。梶さんと一緒に隣町の温泉でも行けばいいのに。梶さんもいつまでもそんな格好してないで着替えなよ」
「そんな・・・。まだお仕事してるのにそんなことされたら、私が困ります」
「いいっていいって」
「いーえ。私は急ぐことないし、よかったら手伝います」
「え?そんなことさせられないって」
「梶山さんの仕事ぶり、見たいし」
「そういうことか」
春樹は気の利かない自分を嘲笑した。
テレビでニュースが始まると、ワンダラーが不採算部門のファミリーレストランを統廃合すると報じている。
「ファミレスも過当競争で大変だ。それに比べたら、喜左衛門は独占企業だもんな」
「何いってんだか。ここは他に店がないだけで、駅に行けばあるでしょ」
「そりゃそうだがな」
葛谷は煮込みを肴に熱燗を飲んでる。
「ハラミ焼いてもらうか」
「肉ばかり食べないで、野菜も食べなよ」
「客に逆らうのか」
「もう酔っ払ってやがる」
万吉は二階から降りてくると、葛谷の頭を後ろから小突きながらいった。
「春樹。肉は肉でもニンニクにしてやれ」
「はいよー」
「ニンニクでも食って、たまには女房と仲良くするこった」
「あんな古女房なんぞ、面も見たかねぃや。そこの若いねーちゃんなら毎晩可愛がるけどな」
「阿保んだら。若い娘さんに何てこというんだ」
その若い娘とは波流美のことで、彼女はすることもなく梶山のそばで彼の包丁捌きを見ていた。
加代は翌朝の仕込みでパン生地を作り始めた。
「パンも自家製なの?」
「そうです」
「加代ちゃんの煉ったパンが美味いんだ」
「あら。お世辞なんていいのに。あ、卵割りすぎたかな?」
そういってる合間にも客が入ってきて、波流美は注文を聞いたりその品を運んだりした。そして、手のあいたときは加代が余らした卵でプリンを焼いた。
「へー。プリンなんて何年ぶりかな」
春樹は嬉しそうにスプーンを口に入れた。
「いい味してる」
「有難うございます」
「本当。白身も混ざってるのに」
「こりゃいいな。春樹。年寄り連中にも食わしてやれや」
「そうだな。加代ちゃんに教えてやってもらえますか」
加代はノートに波流美のいうレシピを書き留めた。
「ここにいる間は私が作りましょうか?いつまでいるか分からないけど」
「どうせなら、ここにおりゃいいのに」
万吉は食べて空になった器をスプーンで綺麗にさらいながらいう。
「そうすりゃ梶さんだって嬉しいだろうし」
梶山は波流美の顔を見るが、何もいわない。
「ここで働かせてもらえるなら残ってもいいけど・・・」
「渡りに船だ」
春樹が手を打っていった。
「大歓迎ですよ。酔っ払いもたまにはいるけど、爺ちゃんと梶さんがいるし。ね、梶さん。残ってもらっていいよね」
「俺はいいけど、本当にここで働くの?朝は早いし、夜だってこの時間までやるって大変だよ」
「私、派遣で仕事してて感じたことがあるの。このまま続けても正社員にはなれないし、なったとしてもいずれは結婚して辞めるときがくるでしょう。それに、企業の歯車になって、目上の人に色々と指示するのって、疲れるなって感じてたし。っていうより、私。この人たちの人生を自分が握ってるのかと思うと、凄く責任感じて嫌だったの。それは目上とか下とか関係ないんだけど。でも、そういう人たちがミスをしてもきちんと対処していくっていうことは、自分には荷が重いなって。それより、直接人から喜んでもらえることをしたいって考えてたの。久しぶりに梶山さん見たら、凄く情熱持ってるなって思ったし。私も、そういうふうになりたいって」
「男の人の働く姿って、じーんときますからね」
加代は波流美に頷くようにいった。
「ま、うちはたいした店じゃないけど、波流美さんがいたいだけいればいい」
加代から自分の家でしばらくいればといわれたが、波流美は駅前の木賃宿で荷を解いた。風呂に入りこれまでのことを振り返るが、それよりも、明日はどんな日になるのか。そう思うものの、決して不安はなかった。
波流美が喜左衛門を手伝うようになると、加代は何かと彼女に話した。それは加代自身が春樹との一件でいっとき気まずくなったこともあり、彼女にしては気持ちのきりかえを図れたからだった。波流美にしても梶山とばかり話すのは気がひけるところもあり、加代の存在は有難く思えた。
「プリンだけじゃなく他にもスイーツ作れるんでしょう」
「スフレとかチーズケーキとかなら」
「だったら春樹さんにいってみるといいわ。春になると凄く忙しくなるし、それまで、名物になるようなもの作れたらいいね」
加代はコンビニの井戸屋にいたことで、プリンやクレープなど甘い物が売れることを知っていた。それを喜左衛門でも販売したらどうかと思っていたところに波流美が現れ、加代は助っ人を得た感じだった。それで自宅に夕飯の招待をしたり、何かと波流美と一緒にいる時間が多い。
梶山はそんな波流美と二人きりの時間を持てなかったが、別に不満もなかった。春樹が芳江と打ち合わせをしたりで店を留守にすることも多くなり、その分彼は忙しく、波流美の相手をする余裕もないからだった。
井戸屋は三月で契約満了なので、花見どきに間に合うように店内の改装をするための手筈を整えたが、半月ほどで開店できるか不安だった。波流美が梶山と結婚して残ってくれるならそれに越したことはないが、春樹が彼にそのことを聞けば今はそれどころではないという。
「前に、ここにこないかって彼女にいったことはあるけど、いきなり彼女がきたのはびっくりしてるし。でも、詳しいことは聞いてないんです。こないだ彼女がいってたように、派遣会社で責任を持たされる立場になって、人材管理っていうか、そういうのが重荷になったっていうのは間違いないんじゃないかな。仕事で誰かがミスしたらそれを対処しなきゃいけない。若い連中なら注意されても気に食わなきゃ、じゃ、辞めるってこともできるけど、五十代ともなればそうもいかないでしょう。そういうことが、彼女の重荷になって辞めたんじゃないかな。二十五でそんなことを任せる会社もおかしいと思うけど、現実はそうだし」
そういいながら梶山は春樹にビールを注いだ。
「梶さん。あんたが仕事に打ち込んでくれるのは有難いんだけど、今は彼女を受け止めなきゃいけない大事なときじゃないのかな。彼女とよく話したほうがいいよ。明日は休みだし、これからどうするのか。ゆっくり話してみなよ」
波流美は春樹と一緒に温泉に行き、大広間でビールを飲んでる。
「こんなに空いてる温泉なんて初めて。お風呂も広くていいし、最高ね。梶山さんは休みのとき、いつもここにこられていいじゃない」
「君だってこようと思えばいつだってこられるじゃないか。っていうより、どうする気なのかな・・・」
「どうするって?」
波流美は煮込みをつまみながら美味そうにビールを飲んでいる。
東京にいたとき、温泉へ行くとなればほとんどが泊りがけだった。それがここなら電車に乗ってわずか十分ほどでこんなにゆったりした気分になれ、昼前にはのんびりと湯に浸かってビールを飲めることに、波流美はいい意味でショックを受けているのだ。
「東京じゃこんなことできなかったし、本当にここにいたいなって思う」
「はっきり聞くけど、俺のことはどう思ってるのかな」
「というより、梶山さんは私のことをどうしたい訳?」
「結婚したいって思ってる」
梶山は波流美の眼を見ながらいった。
梶山のことをどれほど知ってるのか?波流美自身分からない。
仕事を辞めたときはそれを知りたいこともあったし、気分転換で旅行したいこともあって風越にきた。それがひょんなことから喜左衛門で働くことになり、派遣会社にいたときとは違う毎日にほっとしてる波流美だった。
梶山から恋心を打ち明けられたことも何度かあるので、結婚といわれて驚くこともなかった。だが、このまま早急に結婚したいとは思えない。
「結婚はもう少し考えさせてほしいのね。梶山さんだって新しいお店が開店したら春樹さんがそっちへ行って大変だろうし、今は結婚どころじゃないでしょう」
万吉がいるものの、実際には梶山が細かなことまでやることになり、実質彼が店を取り仕切ることになるのは間違いなかった。それは春樹からもいわれてたし、万吉からも任せるから頼むといわれていた。だからこそ、波流美が心の支えになってくれればという思いがある梶山だった。その反面、独りでもいいという気もあった。
「そうか。それはそれでいい。でも、喜左衛門にはずっといる気?」
「東京に戻っても何かしたいことがある訳じゃないし、ここにいたいって思ってる」
「じゃ、村井さんに君がこのまま残るっていってもいいんだね」
「でも、それは帰ったら私が直接いうわ。自分のことだし」
その後は以前いた会社の同僚のことを話す二人だったが、お互いの今後のことについてはあまり触れることはなかった。梶山自身結婚はまだ先でもいいと思ってたし、これから任されるだろう喜左衛門で、思う存分腕を振るいたいと武者震いしてるのだ。
夕方の四時ともなれば日はとっぷり暮れる盆地だったが、三月になった今は日がかなり高くなっていた。
「帰ろうか?」
「せっかくのお休みだし、何か美味しい物でも食べて、その後は久しぶりに・・・」
波流美が何をいおうとしているのか梶山には分かっていた。
梶山は馬刺しの美味い店に波流美を連れて行った。その後は彼女の気持ちに応えた。否、それは彼女だけでなく、梶山自身の欲望をも充たしたのかも知れない。
帰りの電車内で波流美は梶山に寄り添って目を閉じていた。
そんな二人は恋人同士に見えるが、それは傍目が思うことだけなのかも知れない。梶山は今が転機だと、波流美は新たな生活を楽しみたいと思っているのだ。だが、そんな二人が平行線を辿ろうとしてるとは思えない。なぜなら、肌を合わせたばかりなのだから・・・。
梶山はこのまま列車に揺られながらどこかへ行ってみたいと思いながら、波流美の手をとってホームに降りた。
「ゆっくり旅行でもしたいね」
「そうだな。なんだか知らないけどあれ以来突っ走ってきたし、本当はここらでのんびりしたいって思う気もあるし」
あれ以来とは、桜の木で首を吊ったことだろう。
「新しい喜左衛門ができて落ち着いたら、どこか行こうね。私もスフレ作んなきゃいけないし」
闇に消えていく列車のテールランプを見ながら、二人はしばしホームで佇んでいた。
7 遅すぎた春雷
喜左衛門の風越駅前支店は花見シーズンに何とか間に合い、客がひきもきらず押し寄せた。芳江と加代は井戸屋をやっていた当時では経験したことのない忙しさにてんてこ舞いだが、春樹の的を得た指導でたいした混乱もなく初日の営業を終えた。
「どうだい?」
「疲れるけど、やり甲斐があるわ」
「あとは追々客捌きを覚えていけばいいんじゃないかな。加代ちゃんはうちにいたから慣れてるし」
「本当。あたしなんかよりきびきび動いて助かるわ」
「井戸屋のときは何でもマニュアルとおりやらないといけなかったけど、今はそういうのに縛られないから、私は楽だけど」
「コンビニと違って調理販売がメインだから、とにかく美味いものを作っていこう」
「そうね。春樹さんには当分面倒見てもらわないと」
「それはいいけど、俺だっていつまでもここにいる訳にいかないからな。年寄り連中の食事のこともあるし」
「そうだったわね」
春樹はそういって帰って行った。
「加代ちゃん。少し飲もうか」
「乾杯だね。開店祝いの」
二人が酒を飲んで心地よくなってる頃、春樹もまた自宅のある喜左衛門でビールを飲んでいた。
「どうだった?こっちは」
「スフレが美味しいって、お客さんが喜んでました」
万吉と梶山、それに美紗緒と波流美の四人でやってる喜左衛門は、食堂と飲み客に的を絞った店になっていた。蕎麦懐石や幕の内弁当など、その〆に波流美が作ったスフレやプリンを出した。それが好評らしい。
「あっちもこっちも同時に新しい店にしたから、お前も大変だったろう。さ、飲めや」
万吉は春樹の労に報いるためにビールを注いだ。
「波流美さんも疲れたんじゃない?」
「いやー。私はそんなには。美紗緒さんのいうとおりやってただけだし」
波流美にも万吉がビールを注いでいる。
「あんたがきたおかげで、この店も上品になった。偉いだろうが、頑張ってやっておくれ。さ、飲んだ飲んだ」
「有難うございます」
梶山は汗で濡れた半纏を脱ぎ、ティーシャツ一枚になっている。
「メニューは少なくなったけど、村井さんがいないとやっぱり大変だ。くたくたですよ」
「梶さんがくる前は、俺もそうだったから分かるけど。ま、しばらくは辛抱して慣れるしかないね」
春樹はそういいながらレジの集計を始めた。
思ったとおり客数はかなり減っているが、売り上げは逆に増えていた。それは駅前店に反映されているので、別に驚くこともなかった。あとは客がどういう反応を示しているのか、それを知ればいいことだと思った。
芳江は井戸屋を始めたときよりさらに気を引き締めるものの、それを顔にださないし加代にも悟らせない。いくら忙しいときでも、これはどうしたらいいのかとパートに聞かれても、決して嫌な顔を見せない。それどころか相手が分かるまで丁寧に教える。するとおかしなもので、聞いた相手が忙しいのに済みませんというのだ。そして、店が終ったときか始るときに、分からないことを聞いてくるようになった。
加代はヤキソバやパンなどを焼くほか、春樹から焼鳥や椎茸などの焼き方を仕込まれている。丸々一羽の鶏をはじめから捌いていくのは気持ち悪かったが、慣れてくるとそれほどでもなかった。串に刺すまでの解体もできるようになれば、今度は採算性を考えるようにといわれる。
仕入れ値は五百円前後だが、それを解体して調理して売っていくらの儲けが出るのか?しかし、儲けるだけでなく、買ったお客さんがどれだけ喜んでくれるか?そういうことまで見越して春樹がやってたのかと、いまさらながらに、加代は彼に惚れ直すのだった。そういうことを踏まえながらの一日を終えると、加代はさすがにぐったりした。
「何よ、若いくせに」
「春樹さん。次から次に難しいこというし」
「加代ちゃんを見込んでるからでしょう。さ、これで美味しい物でも食べて」
加代は芳江の言葉に甘えて一万円を貰った。そして、自宅近くの天麩羅屋に行った。
「おー。珍しい。景気はどうかな」
「井戸屋なんか問題にならないぐらいいいけど、疲れる」
「経営者だもん。それぐらい辛抱しないとな」
「経営は叔母さんだって。私は手伝ってるだけ」
「そうか。ま、どっちでもいいや」
加代は主に勧められるままノレソレの踊り食いをした。
「どうだい?美味いか?」
「口の中でピチピチはねてる」
「アナゴだからピチピチってぇよりは、ヌルヌルだな」
「アナゴなんだ」
「アナコンダじゃないから噛み付いたりしない」
「何をくだらないこといってんだか」
「客の前で夫婦喧嘩はできねぇーし、俺が折れてやるか」
女房に馬鹿にされながらも、主は加代にビールを注いでは駄洒落をいってる。
「小父さんはいつも面白いね」
「そうかい。こう見えても客商売だから、美味いもの出すだけが能じゃないしな。加代ちゃんが俺の話と料理で、少しでも疲れがなくなりゃ、しめたもんだ」
「うん。かりっとした天麩羅はいつも美味しいし、疲れなんか飛んでいく。でも、駄洒落がもう少しうまくなるといいね」
加代の言葉に主は苦笑した。
春樹は加代のために木賃宿と交渉し、素泊まりだけの下宿として一か月五万円と決めた。本当なら梶山と一緒に住むアパートを借りてやりたかったが、二人がそれは困るという。
「家賃は半年分払ってきたから、波流美さんはここにいる決心しなよ」
「それはどうも。有難うございます。ここにはいますから」
「なら、いいけど。でも、梶さんとは結婚しないの?」
「今は梶山さんも忙しいし、私もここのお仕事面白くて。だいいち、毎日十時間以上一緒にいるんですよ、梶山さんとは。結婚してるのと同じようなもんですよ」
「それは違うかも」
美紗緒が口をはさんだ。
「同じ職場で長い間一緒にいても、仕事が終わって家に戻ってからって、緊張感もなくなってるでしょう。そういうときに初めてお互いの自然な姿が分かると思うんだけど」
「だろうね。俺も結婚したことないから、そのへんは美紗緒のがよく知ってる」
「結婚って、お互いにそのままを見せ合うことだと思うんだけど。それで別れるとかっていうふうになることもあるけど、それは大変なことだし。恋愛の場合は好きだ嫌いだって思うだけで、お互いにリスクもない。結婚って、子供ができれば育児もしなきゃいけない。ちょっとのことで相手を嫌いになったからって離婚なんてしてたら、みなしごハッチになっちゃう」
春樹と波流美がくすっと笑った。
「波流美さんが梶山さんのことをどう思ってるか知らないけど、彼と結婚する気があるなら、そこのところを踏み込んで考えたほうがいいと思うよ。こんな場合どうなるんだろうって」
「有難うございます。私自身、結婚したいっていう気があるのかどうかも、まだ分からないんです。ただ、梶山さんのことは好きで、尊敬してるところあるし」
憧れのホステスに入れ込んでその女性と同棲したものの、反りが合わずに別れた。そして派遣では誰よりも一生懸命仕事をこなしてた。だが、こんなことでいいのかと不安に駆られ株で一儲けをたくらんだものの失敗し、自殺未遂を起こした。
喜左衛門で仕事をしてる梶山の過去に、誰がこんなことを想像できるだろうか。それで、波流美は畏敬の念ではないが、彼を素晴らしい人間だと思っているのだ。だが、結婚となれば次元が違うとも感じていた。
「急ぐこともないけど、二人がいい方向に向かってくれれば、俺はそれでいい」
「美紗緒さんも村井さんも心配してくれて、有難く思ってますから」
梶山が休憩から戻ってきた。
「よく寝た。美紗緒さん。まだいたの」
「もう帰るところ。梶山さんは幸せだね」
美紗緒が少し皮肉っぽくいうので、梶山は何のことだと首を傾げるが、彼女はそれじゃといって店から出て行った。
「さて、俺は帳簿の整理でもするか」
「駅前のほうは行かなくていいんですか」
「芳江たちも慣れてきてるし、少しは自分たちでやらしたほうがいいと思うんだ」
加代は焼物を覚えて少し余裕がでてくると、焼き台の前にいても店全体の様子を見ることができた。
二十五坪ほどの店内で、芳江とパートの一人は主に調理をし、もう一人のパートが客席をまわっている。自分を含めた四人がそれぞれの受け持ちでうまく仕事をこなしてるように見えるが、本店の喜左衛門とはどことなく雰囲気が違うように思えた。
何なんだろう?
加代はそれを知りたいと思うが分からない。
「どうしたの?」
「ちょっと感じたことがあったから」
「どんなこと?」
加代は思ってることをいった。
「ね、叔母さん。叔母さんも本店に少し行ってみない。私じゃどうしたらいいか分からないし」
「そんなこと、今できないわよ。休みのときなら行けるけど」
加代がそんなことまで気遣っているのかと思うと、芳江は嬉しく感じた。
「でも、貴重なあなたの意見は有難く受け止めておくわ」
「そうか・・・。ね、今夜天麩羅食べようよ」
「何よ。仕事のことより食い気なの」
「いいからいいから」
この夜、芳江は波流美に引っ張られるようにして天麩羅屋に入った。
「風越の美人さんがおそろいだ」
「いやーね。見え透いたお世辞いって」
「いやいや。お世辞と嘘は嫌いで、本当のことしかいわない主義でさぁ」
「相変わらずね、叔父さんも」
「そろそろ暇なこの店もたたみたいとも思うが、相も変わらず飽きないで商いやってる。おまんま食べていかなきゃならねぇーし」
「本当。お互い様ね。奥さんは?」
「買い物行ったきり帰ってこない」
「だって、九時だっていうのにどこへ買い物に行ってるのよ」
「さー。多分、このまま帰ってこないんじゃないかな」
「ま。のんきなこといって」
「陰気なばあーさんがいなくなって清々してる」
主はそういいながらビールを注ぎ、筍の煮物を出した。
芳江は久しぶりに外で飲むせいか、気分が浮いていた。というより、店の主の顔を見ながら話すだけで、ほっとするようだった。女房が帰ってこないというのが嘘だか本当だか分からないが、それでもこの主は飄々としてるだけでなく、話に翳がない。
「いつも陽気でいいわね。叔父さんは」
「そうかい。ま、同じ一日なら面白いほうがいいに決まってるしな」
芳江が頼んだ刺身が出された。そして、加代が注文した鮎もこんがりと焼きあがっている。
客と話しながらも、この主の手は動いているのだ。そればかりか、他の客への注文もこなしていた。
「加代ちゃんがここに行こうっていう意味、分かったわ」
「やっぱり。うちとは違うでしょう」
「そうね。あなたがそんなことまで考えてるとは思いもしなかった。大人になったね」
「大人よ。もう二十六になるし」
「お店のこと考えてくれるのもいいけど、あなた自身のことも考えてね。春樹さんのことは諦めて、他の人探しなさいよ」
「そうする。でも、村井さんからは仕事って何かっていうこと教えてもらって感謝してる」
「それは私もだわ。春樹さんだけじゃなく、あなたからも私はいいこと教わったし。さ、今夜は飲みたいだけ飲むわよ」
「恐いなぁ」
浩二親子が春樹を訪ねた。
「どうしたんだい?二人揃って」
「店をたたむことにしたんで」
「村井さん。頼むから、俺をもう一回つかってくれ」
春樹は万吉と梶山と、ビールを飲んでは馬鹿話をしているところだった。
「じゃ、これで上がりますよ」
「いいじゃないか。話はすぐ済むからいなよ」
村井は梶山を引き留めた。
「そういう話なら断る。美味い酒飲んでるんだ。帰ってくれ」
「わしからも頼む。な、浩二をつかってやってくれ」
「柳下さん。小父さんもいい加減目覚ましたらどうかな」
「分かってる。恥を偲んできてるんだ」
「恥を偲んでこられようが、俺には関係ない」
「頼む。後生だから、な、もう一回この馬鹿息子をつかってやってくれ。でないと、俺たち一家は心中しなきゃならん」
黙って聞いてた万吉が売り上げの金を柳下に差し出した。
「これ持って帰り。それで借金がなくなるかどうか知らんが、しばらくは食い繋げるだろう。あとのことは自分たちでよー考えにゃな。どっちにしろ、この町でコンビニなんてもんはいらんてこった。井戸屋は駅前だから何とかやっていけたがのぅ」
「説明会行ったら絶対儲かるっていってたし」
「馬鹿者。お前までがそんなこと信じてどうする」
一喝された柳下は札束をぎゅっと握り締めた。
「八十ちかいわしでさえ、そんな話にゃ乗らんぞ。世の中にゃな、合う合わないってもんがある。たった一万人足らずのこの町で、しかもおまえんとこは駅からも遠い。誰があんなところまで足を伸ばす。そんなことは子供でも分かる道理ってもんじゃ。な、柳下よ。お前さんもわしから蕎麦打ちを習った人間なら分かるだろうが、商売なんてもんは儲けを考えちゃならんのじゃ。客がどうしたら喜ぶか?それがだいいちなんじゃ。それには手間隙惜しまずやるしかない。それがお前ら親子ときたら目先のことばかり考えよるから、何かいい話がありゃそれに飛びついては失敗する。そういう性根を叩き直さん限り、何やっても駄目じゃろう。その金はくれてやる。よー、考えてみるがいい」
「何でもやる。だから頼む」
浩二は涙を流しながらいうが、万吉は頑として断る。
「おめぇーも女の尻追っかけてようやっといい女房捕まえたんだ。生まれてくる赤子のためにも、ここは踏ん張るしかねぇな。そのとろくせぇー頭で考えろや」
そうまでいわれては、柳下親子も万吉と春樹を拝み倒すことはできなかった。
二人が帰ると春樹は新しいビールを持ってきた。
「あそこまでいったら分かるかと思うけど、どうかな・・・」
「分からんだろう。分かるぐらいなら、浩二を辞めさせないで、何としてでもここで働かせただろう。それをしなかったあの柳下も馬鹿者じゃ」
「村井さんは、どうして俺のこと助けてくれたんですか?」
春樹は梶山が自殺未遂で意識を戻したとき、彼の目に涙が溜まっているのを見た。このとき、梶山は春樹に助けてくれといった。何のことだか分からない春樹は、死の淵から蘇った人間を無碍にすることはできなかった。それに、話を聞いてみれば豪快な気性であることが分かり、それならと店でつかう気になった。
それを春樹がいった。
「じゃ、あの親子が仮に心中して失敗したら、俺みたいに助けるんですね」
「それはないな。だいいち、梶さん。あんたは死のうとしたとき、もうこれで悔いはないといったよね。あんたが行き詰って死んだっていうんだったら、俺はあのとき助けなかったかも知れない」
「っていうことは・・・」
「ま、これは俺の人生論だけど、疲れて死ぬ奴なんて、俺は嫌いだ。でも、やりたいことやってこれでいいやって死ぬんだったら、それはそれでいいと思う。あいつら親子はできることもしない。やりたいことやったら、皆裏目に出る。で、挙句の果ては心中しなきゃならないっていう。それが本当なら人にいうか?あいつらは口だけで、死ぬ勇気もないって」
「人間ってぇもんは、運命が決まってるのかも知れんのぅ」
「梶さん。波流美さんがいってたけど、ここでのあんたは活き活きしてるって。尊敬してるってさ。俺のことは、誰も尊敬してくれる奴いないのに」
春樹が自嘲気味にいうが、万吉は目を細めて嬉しそうだ。
「なーに。お前さんにだって、遅い春がくるって」
トンネルを抜けるとそれまで青空だったのが打って変わり、雲の多い景色に変わった。それでも、由紀は懐かしい思いを胸に、風越のホームに降りた。
桃の花でピンクに染まった風景が目に入れば、その畑で春樹と戯れたことがいっきに思い出されてくる。ゆっくり歩き改札を出ると、駅前の姿がすっかり変わったことに驚かされ、由紀は立ち止まって煙草を吸い始めた。
薄手のティーシャツからは黒いブラジャーが透け、真っ赤なミニスカートからはすらっと伸びた足がまぶしい女に、駅員は彼女の後姿にどこかで見た顔だと首をかしげるが思い出せない。
緑色の幟にお焼きと書かれたのが目に留まった由紀がその店に向かえば、喜左衛門駅前店という看板が掲げられていた。もしやと思いながら店内に入るが、心当たりの人間は見当たらなかった。好きな山菜のお焼きを頼もうとしたが、アナゴのもあるので、彼女はそれを注文した。少し甘めの生地にふわっとしたアナゴは薄目の塩味で、それが相まってなんともいえぬいい味わいだった。
「お茶のお代わりはどうですか」
「有難う。ほうじ茶なんて珍しいわね」
「香ばしいってよくいわれます。緑茶もありますよ」
「うーん。これでいいの。喜左衛門て、昔のお店はまだあるの?」
「知ってるんですか?」
「昔はここにいたから」
「そうですか。本店は内装が変わったけど、場所は元のところにありますよ」
「そう。行ってみるわ。ご馳走様」
由紀が外に出ると、加代は彼女に傘を渡そうとした。
「雨が降りそうなんで、つかって下さい」
「いいわ。歩いて五分もかからないし」
だが、由紀の予想よりも雨は早く降り、彼女が本店の喜左衛門に着いたときはずぶ濡れになってしまった。
そんな由紀の姿に、波流美がタオルを持ってきた。
「大丈夫ですか?」
「平気平気。それより、春樹さんいるかしら?」
春樹は二階に干してあった洗濯物を取り込み、下に降りて行った。
「いらっ」
階段の途中で、春樹はそういいかけて立ち止まってしまった。
「えらい雨が降ってきたのぅ」
手洗いから戻った万吉は由紀に気付いた。そして、春樹の唖然とした顔にも。
「どういう風の吹きまわしだ。春雷にしちゃぁ遅すぎらぁ」
雷を伴った春の嵐はあっという間に収まり、暑い日ざしが窓から差し込んできた。
「そんな格好してたら風邪ひく。風呂沸かしてやるから入れや」
万吉は風呂場に行った。
春樹はようやく土間に降り、何事もなかったかのようにどこ行ってたんだと由紀に聞いた。
「ごめん。散歩のつもりが永すぎちゃって」
「ふん。散歩ってのはせいぜい一時間だ。お前は十五年も散歩すんのか?」
波流美は新しいタオルを由紀に渡し、何やら訳ありの彼女と春樹から厨房に戻った。
風越では四月下旬に田植えを始めるが、遅い春雷に農家はおやっと思っていたに違いない。
万吉はにやにやしながら春樹の後ろに立っていた。
8 無骨者
柳下は万吉から手渡された金をどうするか息子に聞いた。
「返さなくてもいいってくれた金が五十万ある」
浩二は出て行った身重の妻や生まれてくるだろう子供のことを気にしながらも、朝から酒を飲んでる。五十万あるといわれても、ワンダラーの店を中途解約するには足りる額ではないし、かといってそれで以前のように遊ぶ気にもなれない。
「親父の好きなようにすればいいだろう。俺は眠いだけだ」
途方に暮れている息子を、父親として何とかしてやりたいものの、柳下自身これといった考えがないのでどうすることもできない。
「嫁から電話はないのか?」
「ない」
酒を飲んでも胃が痛くなるばかりで、浩二は大の字になってしまった。
「売り上げから四十パーもロイヤリティー引かれて、それで仕入れの支払いなんて無理だったんだ。それを営業の奴らは絶対に儲かるなんて嘘いいやがって」
浩二はそういい、子供のようにワンワン泣きじゃくった。
三十年生きてきた自分の浅墓な人生を振り返ると、浩二は不甲斐なかったのだ。そんな息子に育てた柳下の目にも涙が滲んでいた。
喜左衛門駅前支店を芳江と加代に任せた春樹だが、元のように本店で仕事をしてるかといえばそうでもない。彼は風越の目抜き通りで、新たな出店をしようと計画している。そのための土地探しで、彼はいろんな人間に頭を下げては交渉しているのだった。
風越駅前にはスーパーもあれば洋品店もあるが、それは昔ながらの地元民がやってる規模の小さな店ばかりだった。当然、客も地元界隈の人間相手だ。ところが役場のある目抜き通りは両側に五十店ほどが軒を並べ、駅前と違ってスーパーやコンビニの規模も大きく客数も多い。
春樹はそこになんとか喜左衛門を進出させたかった。
「駅前がようやく軌道に乗ったと思ったら、今度は町のほうか。お前はいつからそんな実業家になったんだ」
「そんなんじゃないけどな」
「由紀が戻ってきたっていうのに、碌すっぽ相手もせんで、どこほっついてるんだか」
万吉はそういうが、春樹は時間があればビジネスホテルに泊まっている由紀を誘い食事に行ったりしていた。
「そんなことはどうでもいいけど、爺ちゃん」
「なんだ」
「爺ちゃん、町にはもう何年も行ってないだろう」
「何年もってことあるか。無尽のたんびに行ってるが」
「そうか。で、今の町見てどう思う」
「どう思うも何も、いろんな店ができて便利になっただろうに」
「それはそうだけど、俺が小さかった頃とは違う。お袋からお使い頼まれて店に行って金が足りなかったときなんか、次でいいよなんてことあったけど、今じゃそんな店なんかないし」
「そりゃそうだ。それが時代の流れってもんだ」
「そうだけど、何か違うんだ」
「何がいいたいんだ、お前は」
町の景観が時代と共に変わるのは当然のことだが、人間性まで変わってきてるのではないかと春樹は感じていた。
工場団地を作りそこに企業を誘致したことにより、人口も年々増加しつつあり、町の財政は確かに潤っている。だが、その弊害もある。コンビニやファミリーレストランは二十四時間営業で、そこには時間を持て余した中学生や高校生がどこからともなく集まってくる。そして、駐車場前では地べたに座り込んでカップ麺を食べたり漫画を読んだりする輩までいる。昔の風越なら、商店街は七時を過ぎれば店仕舞いしていたものだ。そして、家族揃って夕飯を食べるのが当たり前のことだった。道端では誰彼なく挨拶を交わした。そういう風潮が薄れていくことに春樹は違和感があり、それを万吉にいうのだった。
「そりゃな、お前のいうとおりだ。だがな、人間食っていくには時流にも乗らにゃいかんてことだ。それを、遮二無二なりすぎたのが柳下だがな」
「そういえば、ワンダラーは店閉めっぱなしですね」
梶山がテーブルを拭きながらいった。
「もう駄目だろう」
春樹は浩二親子のことも少しは気にしていたが、手を差し伸べる気はなかった。それよりは、土地の確保を何とかしなければと思案しているのだった。
由紀から呼び出された春樹は、ホテルを引き払うといわれた。
「たまたま入った食堂で、月十万で店をやらないかっていうのね。東京で働いたお金も少しあるから、やろうと思って」
由紀はその店に住みながら居酒屋を兼ねた食堂を始めるという。
「場所はどこなんだ」
「ワンダラーの向かいにある並木っていうところよ」
「あそこなら人も多いからやり方しだいで流行るな」
「でしょう」
由紀は水商売をやっていたせいか、化粧が濃い。それが薄暗いホテルの部屋でも映えていた。その彼女を抱きながら、春樹は色々と思考をめぐらせている。
「そこを、俺にやらせてくれないか」
「そうしたら、あたしはどうなるの?」
「一緒にやればいいじゃないか」
由紀は独立心が旺盛で、春樹の話に乗り気しなかった。
「あたし、人につかわれるの苦手だから。でも、そういう話なら、あのお店は村井君がやってもいいよ」
「由紀はどうするつもりなんだ」
「どうしよう・・・」
頼りない口ぶりの由紀だが、東京で小金を溜め込んできたのだから、ここでも何とかしていくだろうと思う春樹だった。
春樹と万吉から全面的に店を任された梶山は、喜左衛門のブログを新たに立ち上げた。
風越の喜左衛門
風光明媚な町 風越
四季折々に見せる自然の中にいらっしゃいませんか
風越峠の桜だけでなく 隠れた名所を探し歩いてみてはいかがでしょうか
都心からわずか三時間で田舎にきたような気持ちになれる風越
皆様のお越しを歓迎いたします
先代が萬屋喜左衛門という名称で始めた何でも屋さんが今は飲食を中心とした店になっています。
駅前店はコンビニを兼ねた気楽な食堂です。
本店は蕎麦懐石や囲炉裏懐石など本格的な料理店ですが、焼鳥などもあり一人でも気楽にお越しいただける雰囲気を大事にしています。
お品書き 風越本店 風越駅前店 風越田舎っぺ 主の呟き
そんな内容で、主の呟きは梶山が毎日更新している。
今日は定休日なので風越峠に行ってきました。
花見でにぎわった大きな桜は新緑まっ盛りでした。
その下で、この風越にきてからのことを考えてると、あっという間に一年が過ぎていったことに我ながら驚いています。言い換えればそれだけ忙しかったということです。
私がここにきたのにはある理由があったからですが、それはここでいいたくありません。秘密です。
とにかくそのことがきっかけで私はここのオーナーに拾われ、元々料理好きだったこともあって板前になってしまいました。
そのオーナーは今、駅前店についで町の中心部でも新たに支店を出しました。
駅前店と同じスタイルですが、日用雑貨品を多く揃えたイートインスタイルのコンビニといった感じのお店です。
蕎麦は本店の万吉さん仕込の職人が腕を揮い、予約をすれば焼きたてのスフレも食べられます。その場で作るハンバーガーやホットドックにお焼き。皆安い値段で食べられます。
その名前が奮ってます。
「田舎っぺ」といいます。
女性の店員は絣のモンペで、男性は野良着スタイルです。
店名の由来やユニフォームのことを聞いても、オーナーは笑うだけで詳しいことをいいません。
このオーナーは私の命の恩人ということもありますが、凄く尊敬のできる人です。それだけに、喜左衛門の新しいお店 田舎っぺ には何かあるんではないかと思っています。
コンビニなのに夜は七時で終わるというのも気になります。
気になるといえば、蛙の鳴き声が大きくなってます。繁殖期なのか、このところ夜は眠れないぐらい鳴き声が響き渡っています。
でも、明日は早いので、その泣き声を子守唄にして寝ることにします。
梶山は煙草に火をつけると窓を開けた。蛙の泣き声が一段と高く聞こえるが、空を見上げれば星が煌々と輝き、その大合唱も気にならなくなる。
波流美はもう寝たのだろうか・・・
春樹は花見が終わりかけの頃に突然帰ってきた由紀の変わりように驚いているものの、東京の荒波に揉まれながら生きてきたのだから、派手な服装や化粧に文句をつけることもしない。また、昔のように、彼女を一途に思う気持ちも薄れていた。だが、彼女と会えば青春時代のことが色々蘇ってくるので、それが楽しかった。
「お店のほう、いつも人が入ってるみたいね」
「あー。二十坪足らずで狭いから、今度二階の一部を吹き抜けにするんだ。そこでゆっくり食べられるようにしようと思ってね」
「でも、ハンバーガーが百円なんて安すぎて儲からないでしょう」
「そんなことないよ。パンは自分のところで焼いてるし、肉は輸入もんで安いし」
「それにしたって、他の物も皆安すぎだよ。スナック類のお菓子とかボールペンとか、ワンダラーより皆三割ぐらい安く売ってるじゃない」
「仕入れが安いからな」
「じゃ、儲かってるんだ」
「たいした儲けはないな。皆のバイト代は高いし」
「それなのに、どうして安く売るの?」
「どうしてかな・・・」
春樹としては赤字にならなければいいと思っている。否、赤字になってでもやるときはやると決めていた。
「それより、アパートの住み心地はどうだい」
「いいわ。ただ、夜中に改造したマフラーの車が通ってうるさいときあるけど」
「県道に近いからしょうがないな。で、仕事はあった?」
由紀は店をやりたいので、物件を探してるといった。
「そうか。俺があの店横取りしたからな。柳下浩二って覚えてるか?あいつが潰したコンビニの跡地が空いてるけど、そこでやってみる気ないかな」
「あそこじゃ場所が悪いじゃない」
「飲み屋ならいいかも分からない。バスの営業所があるし、それに由紀の色気に誘われてくる奴だっているだろう」
「どうかな?あたしだって、もう四十だし」
「居酒屋で美味い料理出せば、家族連れもくるんじゃないか」
「料理できないもん」
「そんなもん慣れだって。やってみろよ。いつまでも遊んでると、早く老けるぞ」
春樹は由紀に抱いていた憧憬もなくなり、一人の人間として彼女がこの地に根付いてほしい思いでいった。
由紀が帰ってきたことを知っていたが、芳江はまだ一度も彼女と会ってなかった。それで彼女と喜左衛門の本店で会うことにした。
「あ、由紀ちゃん。久しぶり」
「駅前のお店やってるんだって」
「そうなのよ。村井君に頼んで、暖簾分けしてもらったの。それより、変わったわね」
「そう?でも、芳江だって変わったわよ」
「旦那が亡くなって苦労してきたし。こんなんでも、色々とあったのよ」
「あたしもね」
二人は十五年ぶりの再会に、少女のように甲高い声で笑い、そして途切れることなく話している。
「駅前の人通りはどう?村井君から、浩二がやってたコンビニのところで、居酒屋でもやったらどうかっていわれてるんだけど」
「どうだろうね・・・。でも、村井君がいうからには、多分平気だと思うけど」
「ただ、あたし料理なんて学生の頃にやったぐらいだし」
「だったら、うちで覚えればいいわよ。私の姪なんて鳥を丸ごと潰して焼き鳥にしてるし。パートの人も料理が上手だしね」
「でも、あたしみたいなのがお店に行ったら迷惑じゃない?」
「そんなことないわよ。きなさいよ」
「じゃ、頼もうかな」
「いいわよ。その代わり、私が飲みに行ったら安くしてもらうからね」
そんなことでも、二人はげらげら笑うのだった。
春樹はいつものように山住まいの年寄りたちに弁当を届け、喜左衛門に戻った。
「お。きてたのか」
「お疲れ様。いっぱい飲んだら」
「そうしたいけど、これから問屋の人間と会うんでね。そうもいかないんだ」
「社長さんは大変ね」
「社長なんて柄じゃないけどな」
「うぅーん。村井君はたいした者よ。私なんか一生頭上がらない」
「そりゃそうだ。昼間っからビール飲めるんだしな」
「それも、村井君のおかげ」
「お。時間だ。悪いけど、これで行くから。ゆっくり飲んでなよ」
喜左衛門は昔ながらの付き合いのあるところの他に、ネットで見つけた安い問屋からも仕入れをしている。今日は梶山のブログを見た業者が見本を持ってくるというので、春樹は田舎っぺで会っていた。
「コンビニなのに二階建て。それも吹き抜けというのは変わったお店ですね」
「コンビにっていう形式に、あまりとらわれないでやってるんで。で、どんな食材かな」
業者が持ち出したのは、串に刺さされた焼鳥の他にハンバーガー用のパテ肉。それにウインナーだった。
「焼鳥は三十円です。焼いた物を冷凍してあるんでレンジで暖めるだけで販売できます。パテとウインナーはオーブンで焼くようになってます。パテは五十円で、ウインナーが六十円です」
「焼鳥はいい」
「といいますと?」
「三十円ならうちのが安くて新鮮だってことかな。それに焼いた物を解凍した物なんて、うちで売るわけにはいかない」
春樹はパテとウインナーのパッケージの生産元を見ながらいった。
「せっかくだけど、これじゃ取引できないな。うちじゃ、安くて美味しい物しか販売しない主義だから」
「これが不味いとでもいうんですか?」
二十代後半の吉村はストレートにいった。
春樹はそのパテとウインナーでハンバーガーとホットドッグを作り、彼に喜左衛門のと比較させた。
「これを百円で売ってるんですか」
吉村が齧ったハンバーガーからは、ジューシーな肉汁が口の中に溢れた。ホットドッグはパリッとした食感でスパイスのきいたウインナーと、みじん切りにした玉葱とマスタードソースのほどよい味がなんともいえなかった。
「えー。パン生地も全部手作り。それにパートの時給はここらではいちばん高い千円」
「どうしてそんなやりかたをするんですか」
「どうしてって?安くて美味いものならお客さんが喜ぶじゃないですか。そうすれば作ってるほうだって気分がいいし」
「でも、パートの時給千円では、儲けがないんじゃないんですか」
「家賃払ったらぎりぎりってところかな。でもね、子供の頃からきちんとした物食べてほしいっていうか、そういうことでこの店をやってるし」
「もうひとつお聞きしますが、雑貨や菓子類も相当安いですが、これも独自の仕入れですか」
「バッタ屋はいくらでもあるし」
春樹は儲けがないという素振りだが、相当な利益があるのではないかと吉村は見た。
「わざわざきてもらって申し訳ないけど、そういうことなんで」
吉村はこんな店主は初めてで、春樹に興味を覚えながらも立ち上がった。
「何かいいものがあったらまたきます」
「そのときは、吉村さん。あなたが他の問屋に行ったときじゃないかな。こういう商品を持ってくる限り、うちとの取引はないからね」
吉村は自社をこけにされたと思うものの、春樹のいいたいことが分かっているだけに、敗北感だけでなく爽やかな気分で店を出た。
由紀は包丁の持ち方から野菜の切り方。それに煮物の味付けなど徹底的に芳江に仕込まれた。手がふやけるほど洗い物をしたし、竹串では何回も指や掌を突っついた。
その甲斐あってか、夏にはさらし野という居酒屋を開店させた。
L型のカウンターは十五席。四人掛けのテーブルが二つにあとは八畳の座敷の店は、浩二がやってたワンダラーとはまったく逆で客足が絶えない。
浩二は自宅から風越の駅や街に向かうたびにさらし野や喜左衛門の前を通り、俺もいつかはこんな店をやるんだとハンドルを強く握り締めるのだった。
芳江は店に出る時間を減らした分、帳簿を見ることが多くなった。
春樹からいわれたとおり、パソコンのエクセルで毎日の売り上げを管理している。そのグラフを見ているといろんなことが分かるようだ。たとえば光熱費は春に比べ夏はかなり高くなる。その理由はドリンクの売行きが上がるので、その補充で電気代が高くなるというふうにだ。それで、冷蔵庫型の陳列ケースには、前もって水冷式のバッカーで冷やした物を補充するようにした。カレーやおでんが売れないかと思えば、意に反して極端な落ち込みがないのには、芳江は首をかしげた。
「やっぱりざる蕎麦とか冷麦がよく売れてるわね」
休憩に入ってきた加代に、芳江がいった。
「お蕎麦は本店から安く卸してもらってるし、冷麦だって仕入れが安いから、今月はかなり純益出るんじゃない」
「そうね」
芳江が六十万で加代が四十万の給料だった。そして一切合切の経費と在庫分を引いても、八月は残り十日あまりあるが五十万以上の利益が出ていた。
「冷やしたウーロン茶とお水。紙コップに入れて十円で売ろうか」
「そんなことしたら、スーパーから怒鳴り込まれない?」
芳江は加代の言い分はもっともだと思い、早速掛け合って了解を取り付けた。そして、翌日からセルフ方式で飲む給水器二つを店頭に置いた。これには春樹が驚かされた。
「やるねー。通りがかりの連中が喜んでるよ」
盆が過ぎても涼を求め、風越に列車が止まるたびにハイカーや観光客が降りてくる。その彼らは弁当やパンを買おうとして喜左衛門に入ると、レジ脇に十円で飲める冷水やウーロン茶があるのだから有難いというものだ。それでも、紙コップなので持ち歩きはできず、ペットボトル飲料は売れる。
「前よりいいお店ね」
「有難うございます」
「いろんな食べ物があって安いし、他のコンビニよりずっといいわ。私たちみたいにたまにしかこない人間は生活用品は買うこともないし」
レジでそういう客の言葉を聞き、春樹は店を出て行った。
朝ならともかく日が高く上っているのに、空は濁りのない青空だった。その空の下、春樹はゆがいた冷麦を積んだ車を山に向けて走らせた。高度を稼ぐほど空は澄み、窓からの風は涼しく、彼は鼻歌まじりでハンドルを握っていた。
続く