2026-01-10

俺は宣言する。今年は無用自己放尿はしないと

ストア派格言人生訓として消費する連中は、だいたい「コントロールできるか否か」で思考を止めて自己放尿する。

浅い。あまりに浅い。それは哲学ではなく、精神安定剤用法用量だ。エピクテトスが言っていたのは慰めではない。行為選択最適化条件だ。

そして最適化には、必ず目的関数評価軸が要る。俺はその評価軸を三つに拡張する。

制御可能性、人生に対する効果量、そしてユダヤ教善悪。この三つを同時に満たさな行為は、例外なく無用自己放尿である

まず制御可能性。これは単なる「自分で決められるか」ではない。介入したとき因果の鎖がどこまで自分責任として回収できるか、という問いだ。

世論他人感情組織空気歴史の流れ。これらに口を出すこと自体可能だが、結果を引き受けられないなら制御不能だ。

制御不能もの情動を全投入するのは自己放尿に等しい。朝起きたらおもらしでビショビショだ。

次に効果量。ここが大衆には決定的に欠けている。人生における行為は「どれだけ状態空間を変えるか」で考えろ。

効果量とは、スキル、信用、自由度時間健康といった基底変数に対する偏微分である

SNSでの発露は効果量はほぼゼロ、むしろ負だ。自分は何も積み上げず、時間集中力を溶かし、敵意だけを増やす。これは哲学堕落ではない。自己放尿だ。

そして第三の軸、ユダヤ教善悪。ここを理解せずにストア派を語る者は、必ず冷酷さと倫理区別を誤る。

ユダヤ教善悪とは、快・不快でも、同意不同意でもない。行為が秩序を生むか、責任を引き受けるか、世界を持続可能な方向に押すかという判断だ。

自分気持ちよくなる正義は、たいてい善ではない。責任を取らない善行は、ほぼ確実に悪だ。これは感情論ではなく、共同体の存続条件の話である

ここで三軸を同時に考える。制御可能で、効果量が正で、善が正。この条件を満たす行為は驚くほど少ない。

学ぶこと、身体を鍛えること、沈黙すべき場面で沈黙すること。

逆に、制御不能効果ゼロ倫理的に負。これが最悪だ。

これは単なる自己放尿ではない。倫理と理性のダブル放尿である自分だけでなく、周囲の床まで濡らす。

ストア派は「感情を捨てろ」とは言っていない。怒りは境界侵害シグナル、恐怖はリスク兆候快楽依存前兆だ。

それらをそのまま行為に変換するのは、センサー出力を直接アクチュエータにつなぐような設計ミスである暴走する。

哲学とは、感情行為の間に厳密な評価関数を挟む技術だ。

現代人は逆をやる。まず感情を出力し、後から理屈を貼り付ける。しかもそれを「誠実さ」と呼ぶ。

違う。それは責任回避自己放尿だ。自分行為世界に与えた影響を測らず、善悪の帳簿もつけず、制御不能対象に全力で介入する。その結果、人生は何も進まない。床は濡れ、臭いけが残る。

から俺は宣言する。無用自己放尿はしないと。

制御できないものに怒りを投資しない。効果量がゼロ行為時間を賭けない。倫理的に負の行為快感を得ない。結果を引き受けられない行為はやらない。

これは高潔さの宣言ではない。最低限の設計仕様だ。

世界感情トイレではない。そこで漏らすな。引き受けろ。そして乾いたまま次の一手を打て。それだけだ。

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