石と歴史のエクスタシー 瓶割山(234m)
2019年3月9日(土) 快晴
繖山を縦走し、時刻は13時過ぎ。
安土城址(安土山)に登る予定だったが、もう1座別の山に登りたかったので今回はパス。
瓶割山(かめわりやま)
安土城址から南南西に約5km先にある、近江八幡市と東近江市(旧八日市市)に跨る標高234mの低山(左)で、西(右)側の岩倉山(220m)と双耳峰のような山容を呈する。
繖山や安土山などと同様に、太古の時代には琵琶湖に浮かぶ島だったと考えられている。
かつて山上に長光寺城があったことから、別名の長光寺山と呼ばれていたが、ある戦国武将ゆかりの故事に因み、瓶割山と呼ばれるようになったとされる。
R8の友定町交差点からR421に入り、近江鉄道八日市線武佐駅入口を過ぎたところで右折。
武佐(むさ)は中山道66番目の宿場として栄えたそうだ。
登山口に至る一帯は工業団地になっており、区画が大きいので方向感覚が分かり難く、ひたすら瓶割山を目指して進んでいく。後から分かったが、R8の西宿町交差点を曲がった方が簡単のようだ。
登山コースは多数あるようだが、整備されているのは主に以下の3コース。
武佐側の大岩コースと日吉神社コース、東近江側の上沢コースで、他のコースは未整備だったり、通行禁止になっていたりするようだ。
今回は長福寺町側の大岩コースで登り、日吉神社コースで降りる周回プラン。
なお長福寺町と長光寺町という紛らわしい地名が隣同士にあるのでご注意を。
13:49 瓶割山大岩登山口(標高約98m)
駐車場はないので、少し離れた場所にあった広い路肩に停めさせていただく。
登山口にある説明板。
説明によると、長光寺城(のちの瓶割山城)は応仁の乱のさなかの応仁2(1468)年に、東軍の佐々木(六角)高頼(義賢の祖父)と対立した、西軍の佐々木政堯(まさたか)(高頼の従弟)により築城され、その後観音寺城の支城の1つになったとされる。
サブザックに水(500ml)だけ入れてハイク開始。
山頂までは距離約630mで、標高差は約136m。
序盤は急斜面に取り付くように登っていく。
10分ほど登ると、大きな岩に差し掛かる。
これがコース名の大岩なのかな? 注連縄等はなかったが、これも磐座なのだろう。
右に道らしきものがあったが、おそらく日吉神社に続く古道だと思われる。
急な北西尾根を直登していく。
登山道の右手に沿って、深く掘れた部分が続いている。
人馬でえぐられた切り通し(古道)だと思うが、もしかすると竪堀なのかも。
14:11 北尾根合流点(標高約186m)
ここで長光寺町側の北尾根や東尾根からのコースと合流。完全には整備されておらず、一部藪漕ぎになるらしい。
太郎坊の矢印があったが、逆方向だったのでパス。
どうやら東北東に5km離れた箕作山(みつくりやま:372m)にある太郎坊宮が望めるようだ。
箕作山は観音寺城の支城箕作城があった山で、観音寺城の戦いでは丹羽長秀、滝川一益、木下秀吉らの軍勢により僅か1日で落城した。
ここからは傾斜が緩やかになり、長光寺城の遺構が出てくる。
14:20 三の郭(標高約195m)
右手には米蔵があったとされる。
竪堀
武者隠し
14:25 瓶割山山頂(標高約232m)
タイムは36分。
一の郭
長光寺城は山頂部の一の郭を中心に、北・東・南の三方向の尾根に郭をもつ縄張り。
この長光寺城が瓶割山城と呼ばれるようになったのは、この方のせい。
柴田勝家公
画像は福井市中心部の柴田神社(北ノ庄城址)にある勝家公のブロンズ像。
永禄11(1568)年、六角氏の居城観音寺城(繖山)を落とした織田信長は上洛を果たし、天下布武への道へと突き進むが、元亀元(1570)年の朝倉攻めの際、同盟関係にあった浅井氏の離反、所謂金ヶ崎の退き口により敗退。
近江には敵となった浅井氏だけでなく、甲賀に落ち延びた六角義賢(承禎)・義治親子がゲリラ戦を展開しており、その抑えとして織田家随一の猛将であった柴田勝家を長光寺城に配置するも、織田勢の混乱に乗じ、観音寺城や長光寺城を奪還しようとする六角勢との間で戦闘となり、長光寺城は六角勢に包囲される。
長光寺城は山頂部にあるため水源に乏しく、唯一の水源を六角勢に奪われたため、勝家勢は絶体絶命の危機に陥る。このままでは座して死を待つだけとなるため、勝家は残った水瓶を並べさせ、手にする槍で打ち割るというパフォーマンスで兵を鼓舞し、退路を断って総力戦を挑み、見事六角勢を退けることに成功する。
この逸話から勝家は”瓶割り柴田”と呼ばれるようになり、長光寺山や長光寺城も瓶割(山)城と呼ばれるようになったとされる。
ただしこの話は江戸時代に山鹿素行が書いた武家事紀(ぶけじき)による創作ともされている。
一の郭は木々が打ち払われており、開放感がある。
特に北西方向が開けていて、琵琶湖や以前登った八幡(鶴翼)山が望める。
山崎の合戦で勝利した豊臣秀吉は、安土城に代わる南近江の抑えとして新たに八幡山城を築城。甥の秀次が近江八幡43万石城主として入城したが、文禄4(1595)年の秀次事件により僅か10年で破却される。
閑話だが、落城した観音寺城の遺材を利用して建てられた安土城が僅か9年で廃城。
その廃城となった安土城の遺材を利用して建てられた八幡山城も僅か10年で廃城となる。
さらには石田三成の居城佐和山城も、三成入城から僅か15年で廃城となっており、南近江の拠点となった城は悉く悲しい運命を辿る。
最後に南近江に入府した井伊氏が、三成の影響が残る佐和山城を忌み嫌って彦根城を築城。
ここでも佐和山城、観音寺城、小谷城などからの遺材が使われているが、現在まで残り国宝となっているのは、ある意味奇跡なのかも。
ちょうど眼下を新幹線が走っていた。
先ほど縦走してきた繖山(観音寺山)は木々が茂って、かろうじて望める程度。
伐採すれば安土城址、観音寺城址、八幡山城址など南近江の名立たる山城が一望できるのだが。
堀切&土橋
下山する前に三角点のある二の郭へ向かう。
一の郭西端にある長光寺城最大の石垣。
もしこの勝家の奮戦がなかったら、勝家らは約3週間後に起こった姉川の戦いに参戦することができず、織田勢は浅井氏と六角氏に挟撃される恐れもあり、その後の歴史も変わっていたのかも。
14:35 二の郭(三角点)(標高約234m)
お決まりの三角点(三等・平木)タッチ。
日吉神社に降りる登山道は、土橋を降りた先のお地蔵様が目印(14:37)
二の郭から先に続く道に進むと、東近江市側に降りてしまうので要注意。
急登だった大岩コースから比べる総じてなだらかな道。
林道に合流(14:48)
林道は左右に続いていたが、右側に何やら建物が見えるので寄ってみる。
関所じゃないよね?(笑)
14:49 日吉神社(標高約125m)
近年建て替えられたのか、あまり神社らしくない感じ。
14:53 瓶割山日野神社登山口(標高約100m)
下りは16分。
車を停めた場所に戻る前に、不二瀧に寄ってみる。
梅が満開でキレイだった。
えっ、これが不二瀧?!
これは下部にある水舟のようなもので、不二瀧は石垣の上にある。
不二瀧
こちらも滝というより、打たせ湯のようだが(笑)
説明板によると、古くは日本武尊も立ち寄ったとあり、その後不治の病に侵された妻に滝の水を与えると病気が平癒したことから、転じて不二瀧と名付けられたそうだ。
帰路は敦賀に立ち寄って、お気に入りのポーク丼を賞味。
この日の食事はこれだけでした。雪でも降るかな?(笑)
☆今回のルート図☆
☆アクセス☆
やっぱり、山っていいね!
瓶割山(234m)(登り:大岩コース、下り:日吉神社コース)
標高差136m
登り 36分、下り 16分、TOTAL 1時間4分
出会った人 なし 出会った動物 なし
2019年:10座目
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繖山を縦走し、時刻は13時過ぎ。
安土城址(安土山)に登る予定だったが、もう1座別の山に登りたかったので今回はパス。
瓶割山(かめわりやま)
安土城址から南南西に約5km先にある、近江八幡市と東近江市(旧八日市市)に跨る標高234mの低山(左)で、西(右)側の岩倉山(220m)と双耳峰のような山容を呈する。
繖山や安土山などと同様に、太古の時代には琵琶湖に浮かぶ島だったと考えられている。
かつて山上に長光寺城があったことから、別名の長光寺山と呼ばれていたが、ある戦国武将ゆかりの故事に因み、瓶割山と呼ばれるようになったとされる。
R8の友定町交差点からR421に入り、近江鉄道八日市線武佐駅入口を過ぎたところで右折。
武佐(むさ)は中山道66番目の宿場として栄えたそうだ。
登山口に至る一帯は工業団地になっており、区画が大きいので方向感覚が分かり難く、ひたすら瓶割山を目指して進んでいく。後から分かったが、R8の西宿町交差点を曲がった方が簡単のようだ。
登山コースは多数あるようだが、整備されているのは主に以下の3コース。
武佐側の大岩コースと日吉神社コース、東近江側の上沢コースで、他のコースは未整備だったり、通行禁止になっていたりするようだ。
今回は長福寺町側の大岩コースで登り、日吉神社コースで降りる周回プラン。
なお長福寺町と長光寺町という紛らわしい地名が隣同士にあるのでご注意を。
13:49 瓶割山大岩登山口(標高約98m)
駐車場はないので、少し離れた場所にあった広い路肩に停めさせていただく。
登山口にある説明板。
説明によると、長光寺城(のちの瓶割山城)は応仁の乱のさなかの応仁2(1468)年に、東軍の佐々木(六角)高頼(義賢の祖父)と対立した、西軍の佐々木政堯(まさたか)(高頼の従弟)により築城され、その後観音寺城の支城の1つになったとされる。
サブザックに水(500ml)だけ入れてハイク開始。
山頂までは距離約630mで、標高差は約136m。
序盤は急斜面に取り付くように登っていく。
10分ほど登ると、大きな岩に差し掛かる。
これがコース名の大岩なのかな? 注連縄等はなかったが、これも磐座なのだろう。
右に道らしきものがあったが、おそらく日吉神社に続く古道だと思われる。
急な北西尾根を直登していく。
登山道の右手に沿って、深く掘れた部分が続いている。
人馬でえぐられた切り通し(古道)だと思うが、もしかすると竪堀なのかも。
14:11 北尾根合流点(標高約186m)
ここで長光寺町側の北尾根や東尾根からのコースと合流。完全には整備されておらず、一部藪漕ぎになるらしい。
太郎坊の矢印があったが、逆方向だったのでパス。
どうやら東北東に5km離れた箕作山(みつくりやま:372m)にある太郎坊宮が望めるようだ。
箕作山は観音寺城の支城箕作城があった山で、観音寺城の戦いでは丹羽長秀、滝川一益、木下秀吉らの軍勢により僅か1日で落城した。
ここからは傾斜が緩やかになり、長光寺城の遺構が出てくる。
14:20 三の郭(標高約195m)
右手には米蔵があったとされる。
竪堀
武者隠し
14:25 瓶割山山頂(標高約232m)
タイムは36分。
一の郭
長光寺城は山頂部の一の郭を中心に、北・東・南の三方向の尾根に郭をもつ縄張り。
この長光寺城が瓶割山城と呼ばれるようになったのは、この方のせい。
柴田勝家公
画像は福井市中心部の柴田神社(北ノ庄城址)にある勝家公のブロンズ像。
永禄11(1568)年、六角氏の居城観音寺城(繖山)を落とした織田信長は上洛を果たし、天下布武への道へと突き進むが、元亀元(1570)年の朝倉攻めの際、同盟関係にあった浅井氏の離反、所謂金ヶ崎の退き口により敗退。
近江には敵となった浅井氏だけでなく、甲賀に落ち延びた六角義賢(承禎)・義治親子がゲリラ戦を展開しており、その抑えとして織田家随一の猛将であった柴田勝家を長光寺城に配置するも、織田勢の混乱に乗じ、観音寺城や長光寺城を奪還しようとする六角勢との間で戦闘となり、長光寺城は六角勢に包囲される。
長光寺城は山頂部にあるため水源に乏しく、唯一の水源を六角勢に奪われたため、勝家勢は絶体絶命の危機に陥る。このままでは座して死を待つだけとなるため、勝家は残った水瓶を並べさせ、手にする槍で打ち割るというパフォーマンスで兵を鼓舞し、退路を断って総力戦を挑み、見事六角勢を退けることに成功する。
この逸話から勝家は”瓶割り柴田”と呼ばれるようになり、長光寺山や長光寺城も瓶割(山)城と呼ばれるようになったとされる。
ただしこの話は江戸時代に山鹿素行が書いた武家事紀(ぶけじき)による創作ともされている。
一の郭は木々が打ち払われており、開放感がある。
特に北西方向が開けていて、琵琶湖や以前登った八幡(鶴翼)山が望める。
山崎の合戦で勝利した豊臣秀吉は、安土城に代わる南近江の抑えとして新たに八幡山城を築城。甥の秀次が近江八幡43万石城主として入城したが、文禄4(1595)年の秀次事件により僅か10年で破却される。
閑話だが、落城した観音寺城の遺材を利用して建てられた安土城が僅か9年で廃城。
その廃城となった安土城の遺材を利用して建てられた八幡山城も僅か10年で廃城となる。
さらには石田三成の居城佐和山城も、三成入城から僅か15年で廃城となっており、南近江の拠点となった城は悉く悲しい運命を辿る。
最後に南近江に入府した井伊氏が、三成の影響が残る佐和山城を忌み嫌って彦根城を築城。
ここでも佐和山城、観音寺城、小谷城などからの遺材が使われているが、現在まで残り国宝となっているのは、ある意味奇跡なのかも。
ちょうど眼下を新幹線が走っていた。
先ほど縦走してきた繖山(観音寺山)は木々が茂って、かろうじて望める程度。
伐採すれば安土城址、観音寺城址、八幡山城址など南近江の名立たる山城が一望できるのだが。
堀切&土橋
下山する前に三角点のある二の郭へ向かう。
一の郭西端にある長光寺城最大の石垣。
もしこの勝家の奮戦がなかったら、勝家らは約3週間後に起こった姉川の戦いに参戦することができず、織田勢は浅井氏と六角氏に挟撃される恐れもあり、その後の歴史も変わっていたのかも。
14:35 二の郭(三角点)(標高約234m)
お決まりの三角点(三等・平木)タッチ。
日吉神社に降りる登山道は、土橋を降りた先のお地蔵様が目印(14:37)
二の郭から先に続く道に進むと、東近江市側に降りてしまうので要注意。
急登だった大岩コースから比べる総じてなだらかな道。
林道に合流(14:48)
林道は左右に続いていたが、右側に何やら建物が見えるので寄ってみる。
関所じゃないよね?(笑)
14:49 日吉神社(標高約125m)
近年建て替えられたのか、あまり神社らしくない感じ。
14:53 瓶割山日野神社登山口(標高約100m)
下りは16分。
車を停めた場所に戻る前に、不二瀧に寄ってみる。
梅が満開でキレイだった。
えっ、これが不二瀧?!
これは下部にある水舟のようなもので、不二瀧は石垣の上にある。
不二瀧
こちらも滝というより、打たせ湯のようだが(笑)
説明板によると、古くは日本武尊も立ち寄ったとあり、その後不治の病に侵された妻に滝の水を与えると病気が平癒したことから、転じて不二瀧と名付けられたそうだ。
帰路は敦賀に立ち寄って、お気に入りのポーク丼を賞味。
この日の食事はこれだけでした。雪でも降るかな?(笑)
☆今回のルート図☆
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やっぱり、山っていいね!
瓶割山(234m)(登り:大岩コース、下り:日吉神社コース)
標高差136m
登り 36分、下り 16分、TOTAL 1時間4分
出会った人 なし 出会った動物 なし
2019年:10座目
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