雨乞岳(1238m) ~蓮如上人・信長公も通った千草街道~
今週も鈴鹿山脈のお山へ。
雨乞岳
滋賀県東近江市と甲賀市に跨る鈴鹿山脈第2の高峰で、鈴鹿セブンマウンテン、鈴鹿10座にも選定されている。
山頂にはクマザサに囲まれた小さな池(大峠ノ沢)があり、古くから雨乞信仰の対象とされ、下流域の農民がこの池に登拝していたことが山名の由来となっている。
先週竜ヶ岳の翌日にこの山に登る予定だったが、天気が下り坂だったので中止した。
この日の登山指数はオールAと絶好の登山日和だが、
最高気温32℃の真夏日で、標高1000mでも19℃という厳しい暑さの予報。
少し躊躇したが、もうじき山ビルが出てくるので、2週続けての遠征となる。
前日帰宅後に出発し、先週同様道の駅あいとうマーガレットステーションで車中泊。
R421(八風街道)で登山口のある甲津畑を目指す(5:49)
雨乞岳への登山道は三重県側の武平峠(ぶへいとうげ)から登るルートがポピュラーだが、今回は滋賀県側の千種(千草)街道(ちくさかいどう)で登ることにした。
山上小学校前の信号を右折し、甲津畑集落へ。
ただし登山口は林道で左の山を越えた別の谷にあるのでご注意を。
登山口への案内はないが、永源寺グリーンランドの看板が案内板代わりとなる。
最後グリーンランドには林道から下っていくが、そのまま直進すると甲津畑登山口に至る。
一旦登山口を過ぎた先に5~6台分の駐車スペース(路肩)がある。
既に3台が停まっており、ちょうど健脚そうな男性が準備されていた。
6:48 甲津畑登山口(岩ヶ谷林道起点)(標高約420m)
鈴鹿10座の雨乞岳、イブネ、御在所岳の東近江側の登山口。
男性の話では、10座全制覇したハイカーには記念バッジが貰えるそうで、男性は先月達成されたそうだ。ただし証明写真提出ではなく、レポートのようなモノを書かされるそうです。
※詳しくは道の駅奥永源寺渓流の里まで。
滋賀県内でよく見かける飛び出し坊やがお出迎え。
登山帽にザックとハイカーバージョンで、正式名称は飛出とび太というそうだ(笑)
持参した登山届を忘れずに提出。
雨乞岳山頂までは距離約6.5km、標高差約820mで、標準CTは3時間30分。
前半はなだらかな林道歩きなので、目標CTを5時間(休憩含む)に設定。
当面の目的地、杉峠までは距離約5.9km、標高差約620mで、標準CTは3時間。
なおこの案内板は2時間35分とチョッと厳しめ。
今日は一段と暑そうなので、水は4L担いでいます。
序盤は藤切谷を高巻きしながら、なだらかに林道を進んで行く。
かつてこの道は千種(千草)街道と呼ばれ、近江と伊勢を結ぶ主要道の1つで、
山越衆とも呼ばれた近江の四本商人たちが、峠の流通独占権を握っていた。
この辺りから未舗装路に変わり、歩き易くなる(7:11)
7:18 善住坊かくれ岩分岐(標高約500m)
杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)が織田信長公を狙撃した場所。
信長公記によると、元亀元(1570)年4月26日、越前朝倉氏攻めの最中、同盟を結んでいた浅井長政の裏切り(所謂”金ヶ崎の退き口”)で窮地に陥るも、秀吉の殿(しんがり)戦や松永久秀の朽木元綱説得などにより、30日に命辛々京に帰還。この時信長公に従うのは僅か10騎ほどだったとされる。
裏切った浅井氏討伐の兵を準備すべく、居城岐阜城に戻ろうとするも、長政が近江から美濃に至る東山道(中山道)の行く手を遮ったため、信長公一行は蒲生賢秀らの助力により、やむなく鈴鹿山脈を越える千草越えに変更。
弱り目の信長公にとどめを刺すべく、2年前に観音寺城を追われた六角承禎(義賢)が刺客を放つ。それが火縄銃の名手の杉谷善住坊だった。
その善住坊が登場するのが、1978(昭和51)年放映の大河ドラマ黄金の日日。
六代目市川染五郎(現在の二代目松本白鸚で、松たか子さんの父)さんが演じる、南蛮貿易で堺の豪商となった呂宋(納屋)助左衛門(るそんすけざえもん)の半生を通じて、自由都市堺の栄枯盛衰や信長、秀吉の天下取りが描かれている。
故川谷拓三さん演じる善住坊の素性は甲賀の忍者、雑賀衆、根来衆など諸説あるが、作中では故根津甚八さん演じる石川五右衛門と同様、助左衛門の幼馴染という設定。
かくれ岩は林道から標高30mほど下った河原近くにあり、帰りにでもと思ったが、
そうすると間違いなく寄らないので、先に寄っていく(笑)
善住坊かくれ岩
なんでこんな下った河原近くで?と思ったが、当時の千草街道(古道)は対岸を通っていた。
なるほど、対岸からの狙撃であれば、狙撃後に逃避するにも川が追手を遮ってくれる。
信長公記 巻三 千種峠にて鉄炮打ち申すの事 |
五月十九日御下のところ、浅井備前(=長政)、総江の城(=鯰江城)へ人数を入れ、市原(=旧永源寺町)の郷一揆を催し、通路を止むべき行仕侯。然れども、日野蒲生右兵衛門大輔(=蒲生賢秀)、布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千草越えにて御下なされ侯。左侯ところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎(=六角義賢)に憑まれ、千草・山中道筋に鉄炮を相構へ、情なく、十二、三日(=間)隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し侯。されども、天道昭覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ侯て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。 |
5月19日、隊列が12~13間(約22~24m)まで近づいたところ、火縄銃の火蓋が切られる。
信長公をめがけ2発撃つも、天道が味方したのか、かすり傷で済み、21日に岐阜に帰還した。
善住坊が放置した火縄銃が、我が家に家宝として伝わるこの銃なんです(大ウソ)
信長公記 巻六 杉谷善住坊成敗の事 |
さる程に、杉谷善住坊、鉄炮の上手にて侯。先年、信長、千草峠御越えの砌、佐々木承禎に憑まれ侯て、山中にて、鉄炮二玉をこみ、十二、三間隔て、無情に打ち申す。されども、天道昭覧にて、信長の御身に少し宛打ちかすり、鰐の口御遁れ侯て、岐阜御帰陣侯ひき。此の比、杉谷善住坊は、鯰江香竹を憑み、高島に隠居侯を、磯野丹波召し捕へ、九月十日、岐阜へ、菅屋九右衛門・祝弥三郎両人御奉行として、千草山中にて鉄炮を以て打ち申し侯子細を御尋ねなされ、おぼしめす儘に、御成敗を遂げらる。たてうづみにさせ、頸を鋸にてひかせ、日比の御憤を散ぜられ、上下一同の満足、これに過ぐべからず。 |
狙撃に失敗した善住坊は逃亡するも、信長公の怒りは収まらず、犯人捜しを厳命。
3年後の天正元(1573)年9月、湖西(高島郡)の阿弥陀寺に潜伏していたところを捕縛され、岐阜に移送される。
そして信長公が命じた処刑方法が、この鋸挽きの刑。
首から下を土中に埋められ、生きたまま鋸で首を切られるという残酷な処刑法で、宣教師ルイス・フロイスの日本史にも類似する記述がみられる。
嫌がる通行人に無理矢理鋸を挽かせ、しかも切れ味の悪い竹製なので、苦しみが長く続く壮絶なシーンは、今でもハッキリと記憶に焼き付いている。
閑話休題。
すっかり脱線したが、ハイクの続きへ(7:30)
時折後続のハイカーに道を譲るもマイペース。
7:50 桜地蔵尊(標高約550m)
ここまで約1時間とほぼCT(55分)通り。
地蔵菩薩の横に大きな桜の木があったことからこう呼ばれている。
かつてこの先にあった鉱山の経営者から信奉され、あかがね地蔵、赤金不動尊とも呼ばれていたそうだ。
鋼鉄製の橋を渡って右岸へ(7:53)
ここで地図を落としたのに気付き、地蔵尊まで取りに戻り数分ロス。
前方に小屋らしきモノが見えてきた(7:59)
8:00 甲津畑避難小屋(標高約570m)
ベンチ等があり、ここで小休止。
内部は5坪ほどの広さで、4~5人は泊まれそう。
水場があるが、沢水なので要煮沸。
仮設トイレも設置されているが、怖くて中は覗いていません(笑)
林道はここまでで、この先は登山道となる(8:09)
支流の沢には多くの丸太橋が架けられている。
橋によっては踏板がだいぶヘタっているので、歩く際は橋桁のある中央を。
釘が打ってある箇所が目印。
沢を高巻きしながら進んで行く。
渡る際には1人ずつ慎重に。
一番怖かったのが、真ん中の丸太が折れて落下しているこの橋。
両脇の丸太に足を掛けながら渡るのだが、これも結構朽ちていて、私が足を載せる度にミシミシと音を立てて沈み、折れないか心配だった(笑)
8:26 古屋敷跡(ツルベ谷出合)(標高約605m)
旧塩津々集落があったとされ、石垣等の遺構が残っている。
看板では桜地蔵尊から15分となっているが、あの丸太橋群を通過するのでチョッと厳しいかも。
ここはツルベ谷(大峠)出合とも言われ、
右に進むと大峠(約830m)を経て、綿向山や雨乞岳にも至る。
往時は多くの人馬がこの道を行き交った。
ヤマツツジ(山躑躅)
ツツジ科ツツジ属の半落葉低木。
炭焼窯跡に見えるが、かつて近くにあった水力発電所の変電所跡らしい。
木橋を渡って左岸へ(8:41)
8:43 蓮如上人御旧跡(標高約660m)
ここまで1時間55分と、依然標準CT(1時間50分)をキープ。栄養補給を兼ねて小休止する。
浄土真宗中興の祖として有名で、北陸にも大変縁のある蓮如上人が誕生した頃、
本願寺は天台宗の青蓮院の末寺に過ぎず、衰退の極みにあった。
父存如(ぞんにょ)の死去に伴い、長禄元(1457)年に第8世宗主となると、延暦寺と度々対立。
寛正6(1465)年には延暦寺から仏敵認定され、衆徒により本願寺が破却。蓮如は近江を転々としながら布教することになる。
だが近江でも真宗に改宗する人々が増え、盛名を馳せるのに危機感を覚えた延暦寺は弾圧を強め、蓮如は伊勢に逃れるべく、案内役の杣人、黒川頓入とともにこの千種街道に入ったとされる。
小屋の入口には蓮如と頓入一夜泊りの竈と記されている。
小屋の前半分はベンチの置かれた休憩スペースで、後が炭焼窯跡になっている。
泊まれそうだが、1人だとチョッと怖い感じ。
内部には蓮如と頓入が炭焼窯で一夜を過ごす様子が描かれた絵があった。
現在も水を湛えた井戸があり、かつてこの一帯は塩津と呼ばれる集落があった。
海がない近江にとって、伊勢からの一番重要な交易品が塩で、ここに一時集積されたことに由来し、先ほどの古屋敷跡(塩津々)から舟で運ばれ、往時は宿泊所や茶屋もあったと言われる。
御旧跡から少し先にある大シデ(8:58)
右奥のハイカーの隣にある石碑は、この先の向山鉱山主だった佐野育造氏顕彰碑。
大シデを過ぎると少し傾斜がキツくなり、路面がザレてくる。
これらはこの先の鉱山で発生したズリ(廃石)が堆積したモノだそうだ。
沢の近くを歩くようになり、時折山ビルが付いていないか確認しながら登っていく。
また今回山ビル対策として持参したハッカ水を首周りや靴に噴霧する。
だいぶ痛んだ吊り橋を渡って右岸に移り、滝を高巻きしていく(9:12)
9:15 向山鉱山跡(標高約690m)
古くは江戸時代初期まで遡り、昭和10年代頃が最盛期で、銅を中心に金・銀・鉛などが採掘されたが、昭和20年代半ば頃には閉山になったとされる。
往時を偲ばせる石垣やコンクリートの土台などが残っている。
9:21 シデの並木(標高約720m)
クマシデやミズナラなどの大木が約350mに渡って並木を形成し、市の天然記念物。
御旧跡から27分と、少しペースが遅れてきた。
次第に沢が近くなり、渡渉する箇所が増えてくる(9:43)
要所にはレスキューポイント(千草街道2)が設置されている。
傾斜が一段とキツくなり、よたよた登っていく。
10:04 一反ぼうそう(標高約890m)
シデの並木から15分の表示のところ、43分と大ブレーキ。堪らず小休止する。
でもこの区間(標高差約170m)、15分で歩くのは厳しいと思うのだが…
付近に枝を広げた広さが一反(=300坪)にもなる巨木があることから名付けられた。
最後の渡渉をすると、杉峠まではもう少し(10:22)
10:24 杉峠西避難小屋(標高約980m)
トタン板が外れて崩壊寸前。
沢を外れ、急斜面をトラバース気味にのぼっていく。
10:31 禿の水(標高約1010m)
この日はコンコンと湧いていたが、杉峠で会ったハイカーの話では、通常は水量が細かったり、涸れていることも多いそうだ。
看板が剥げていたが、まさに禿(はげ)の水というそうだ(笑)
飲むとハゲるらしいが(大ウソ)、冷たくてはげまされた。
禿の水を過ぎてつづら折れの道になると、前方が開けてきた(10:35)
10:40 杉峠(標高約1042m)
登山口から3時間52分と、目標の4時間をクリア。
かつて旅人たちが目印にした杉の大木があったのが峠名の由来。
前方には御在所岳(1212m)が聳え、絶景を望みながら、行動食を頬張る。
ここまで8人しか会わなかったが、峠にはイブネやコクイ谷方面に向かうハイカーが休憩中で、中にはテン泊装備の大きなザックを背負ったハイカーもちらほら。
日帰りの私も60Lザックですがなにか?
燃料補給を済ませ、雨乞岳山頂を目指す(11:05)
杉峠から山頂までは距離約700m、標高差約200m、標準CTは30分。
一見なだらかそうに見える高低図だが、序盤の200mで一気に標高100mを登る激登が待ち構えている(汗)
本来はつづら折れの道のようだが、ショートカットしたトレースが多数あり、
下ばかり向いているといつの間にか直登する羽目になる。
ようやく序盤の激登が終了(11:32)
ここまでだけで27分もかかってしまう。
左手には東雨乞岳(1226m)が見えており、山頂にはハイカーの姿も視認。
日差しを遮るモノがなく、すっかりバテバテで堪らず小休止(11:39)
私が亀足なのもあるが、山頂まで30分は絶対おかしいと思う。
前方に岩稜帯が見えてきた。
この付近は眺望が良く、背後には鈴鹿10座のイブネ(1160m)、釈迦ヶ岳(1092m)、
そして先週登った竜ヶ岳(1099m)も望めた。
雲1つない快晴だが、それにしても暑いよ~
ハルリンドウ(春竜胆)
リンドウ科リンドウ属。画像ではそこそこの大きさに見えるが、実際はかなり小さい花。
植生がクマザサに変わると、山頂まであと少し(11:55)
竜ヶ岳と異なり、雨乞岳のササは背丈ほどあり、藪漕ぎしながら登ることになる。
道幅も狭く、突然下山者と鉢合わせする箇所もあった。
12:05 雨乞岳山頂(標高1237.71m)
タイムは5時間17分で、杉峠からはちょうど1時間かかった。
登頂記念の三角点(三等・雨乞嶽)タッチ。
山頂は意外と狭く、武平峠側からひっきりなしにハイカーが登ってきており、10人もいれば一杯といった感じ。
むしろ東雨乞岳の方が広く、山頂らしい感じ。
絶景を見ながら、ビアで喉の渇きを潤す。
南東側には鈴鹿セブンマウンテンの鎌ヶ岳(1161m)や入道ヶ岳(905m)
南西側には野洲川ダム
西側には稜線続きで、昨年登った綿向山(1110m)
杉峠に戻ることに(12:45)
東雨乞岳には往復40分ほどだが、今回は長居してしまったのでパス。
下りの藪漕ぎは足下が見えにくく段差もあるので、慎重に下っていく。
最後の激下りもザレて滑り易いので要注意。
13:21 杉峠(標高約1042m)
下りも標準CT20分のところ36分。やはりこの区間のCTはチョッとおかしいかも。
この時間帯になっても、雨乞岳や甲津畑方面から続々とハイカーが登ってくる。
彼らのほとんどがイブネでテン泊するようで、この日は既に10張以上ありそう。
イブネは鈴鹿の雲ノ平とも呼ばれる秘境で、現在人気急上昇中。
今年はもう時期的に厳しいが、私も来年辺りテン泊してみよう!
甲津畑からテン泊装備で登ってきた男性2人組は8時30分から登り始めたそうだが、1人が5時間、もう1人はなんと5時間30分もかかってしまったそうだ。
いくらテン泊装備とはいえ、私以上の亀足ですね(笑)
ここでもかなりグダグダしたので、そろそろ降りることにする(14:06)
登りで見過ごした花を愛でていこう。
下りでも時折大きなザックを背負ったハイカーとすれ違う。
また後方からソロのハイカーが降りてきたので道を譲ると、なんと朝の男性。
男性は杉峠からイブネ、国見峠、御在所岳、武平峠、雨乞岳と回ってきたそうだ。
変態ですね(笑)
15:03 蓮如上人御旧跡(標高約660m)
ここで小休止。2週間ほど前のレポでは、ワチガイソウやキランソウ、ヤマシャクヤクなどが咲いていたようだが、既に散ってしまったのか、見つけられなかった(涙)
再び例の丸太橋に差し掛かる(15:27)
一度通って免疫ができたのか、下りではそれほど怖くなかった。
15:38 甲津畑避難小屋(標高約570m)
避難小屋の直前で、10名ほどのテン泊装備のグループとすれ違う。
えっ、今からですか??
目的地がイブネなら、標準CTでまだ3時間はかかるので、到着は19時近く。
ツアーのようで、登山ガイドの方もいる様子だったが、いくらなんでも遅いと思うんですが…
あとはひたすら林道を下るだけだが、これが意外と長く感じた。
16:26 甲津畑登山口(岩ヶ谷林道起点)(標高約420m)
下りは2時間20分(標準CTは2時間40分)
バリバリジョニーに立ち寄った後、家路につく。
今回は替玉1回しかしませんでした(笑)
天気に恵まれ、ヒルにも遭わず、気持ちの良いハイクが楽しめた。
2週続けての鈴鹿山脈だったが、その奥深さに触れて、ますますハマってしまいそう。
☆行程☆
6:48甲津畑登山口
7:18善住坊かくれ岩7:30
7:50桜地蔵尊
8:00甲津畑避難小屋(小休止)8:09
8:26古屋敷跡(ツルベ谷出合)
8:43蓮如上人御旧跡(小休止)8:54
9:15向山鉱山跡
9:21シデの並木
10:04一反ぼうそう(小休止)10:11
10:24杉峠西避難小屋
10:31禿の水
10:40杉峠(小休止)11:05
11:39(小休止)11:47
12:05雨乞岳(小休止)12:45
13:21杉峠(小休止)14:06
15:03蓮如上人御旧跡(小休止)15:11
15:38甲津畑避難小屋
16:26甲津畑登山口
☆アクセス☆
☆今回のルート図☆
やっぱり、山っていいね!
雨乞岳(1238m)(甲津畑コース)
標高差818m(累積標高差1178m)
登り 5時間17分、下り 2時間56分、TOTAL 9時間38分(うち休憩2時間33分)
出会った人 70人ぐらい 出会った動物 マムシ1匹
2019年:24座目
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