おさらぎ‐じろう〔‐ジラウ〕【大仏次郎】
大佛次郎
大佛次郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:54 UTC 版)
大佛次郎は、1921年(大正10年)2月に妻となる女優の吾妻光(本名・原田酉子)と学生結婚するのを機に鎌倉へと移住し、鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)で教鞭を執った。大佛と言えば『鞍馬天狗』をはじめとする娯楽小説の大家として有名であるが、これは関東大震災の影響で文芸界が劇作家をやれる状況でなくなり、困窮した大佛が時代劇娯楽小説、通称「マゲもの」に手を出さざる得なかったためだが、これが当たって以後、次々に作品が生まれ出ることとなる。大佛次郎のペンネームも鎌倉の大仏にちなんだ物で、当時は長谷大仏の裏に住んでいたところから、「マゲもの」掲載時にペンネームを求められた際に、慌てて名付けた物とされる。 流行作家となった大佛は度々転居し、住まいを変えているが、これは生来の「ネコ好き」が原因だった模様で、ひととき住んでいた材木座の借家は退去する際、畳を変えた上に襖や障子も新調して、「小説家というのは感心な者だ」と家主に褒められたが、これは飼っていた十数匹の猫が残した酷い惨状でそうせざる得なかったというオチが付いている。この家を退去後、1928年(昭和4年)に雪ノ下(神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目11-22)に新居を構えたが、これが大佛の終の住まいとなった。1945年(昭和20年)に鎌倉文庫設立の参加や、研究社の『学生』の主筆となり、1949年(昭和24年)まで「鎌倉通信」を連載し、財団法人鎌倉風致保存会の設立発起人及び初代理事を務めた時も、ここが住まいであった。この鎌倉の邸宅は、大佛の没後、週末のみ「大佛茶廊」として2019年8月まで一般公開されていた。 1973年(昭和48年)に病没。死後は鎌倉扇ヶ谷の寿福寺に葬られた。
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