塞翁が馬
「塞翁が馬」とは、「人生、何がきっかけで幸・不幸になるか分からないものだ」「幸福が不幸を招いたり、不幸な出来事がきっかけで幸福になったりする」という意味の故事成語である。これは「軽率に眼前の幸・不幸に一喜一憂するべからず」という教訓としても捉えられる。
「塞翁が馬」は「人間万事塞翁が馬」ともいう。中国語では「塞翁失馬」「塞上的馬」「塞馬」ともいう。
「塞翁が馬」は、前漢の書物「淮南子(えなんじ)」第18巻「人間訓(じんかんくん)」 に記されたエピソードの呼び名である。
「塞翁が馬」は(原典に記された言葉ではなく)当該エピソードを指す便宜的な呼び名であり、そのため呼び方にも揺れが生じているわけである。
「塞翁が馬」の由来となったエピソード
「塞翁が馬」は、文字通り「塞翁という老人が所有する馬」のことである。塞翁は北方の砦に住む老翁の呼び名である。あるとき、塞翁は、大切にしていた馬に逃げられてしまった。周りの人々は翁に同情し、「とんだ災難に遭ったものだ」と慰めた。しかし当の塞翁は「これは幸運だ」という。
しかる後、あの逃げた馬は、別の駿馬を引き連れて家に戻ってきたのであった。周りの人々は「なんという幸運に恵まれたものだ」と祝意を示したが、当の翁は「これは災難かもしれない」という。
然して、逃げた馬が連れ帰ってきた別の駿馬は、塞翁の愛息子を振り落としてしまった。落馬した息子は足を負傷してしまった。この災難に周りの人々は翁に同情した。しかし当の塞翁は「これは僥倖かもしれない」という。現代でいう逆張りがとにかく好きな爺である。
その後、戦争が起き、周りの若い衆はことごとく徴兵されたが、塞翁の息子は足を負傷していたため徴兵を免れ、戦地で命を散らす憂き目からも免れた。
要するに「塞翁が馬」の話は、不幸は幸福を呼ぶこともあり、幸福が不幸を招くこともある、眼の前の出来事に一喜一憂しても仕方ない、幸不幸は誰にも予測できない、ということを教える一種の寓話なのである。
塞翁が馬の類語・類似表現
塞翁が馬と似た意味を持つ格言に、「禍福は糾える縄の如し」や「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」などがある。「禍福は糾える縄の如し」は、人間が遭遇する幸不幸は縄のように表裏一体に絡み合っており、交互に巡ってくることを表現している。この言葉にも、「塞翁が馬」と同じく、幸せだと思っていたことが不幸の元になったり、不幸が幸せを呼んだりするという意味がある。「禍福は糾える縄の如し」は、司馬遷が編纂した歴史書の「史記」から引用された言葉である。
「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」は、人生を川の流れにたとえて浮き沈みがあることを表している。「生きている間には良いときと悪いときがあり、いずれも長くは続かないから思い悩む必要はない」というのが、この言葉の一般的な意味である。
英語で「塞翁が馬」に似ているのが、「Joy and sorrow are today and tomorrow」である。「今日の喜びは明日の悲しみになる」と訳されることが多いこの言葉は、「塞翁が馬」と同様に人生がどう転ぶかはわからないことを表現している。
塞翁が馬の使い方
実生活で「塞翁が馬」が使われるのは、概して悪い事態に遭遇したときが多い。たとえば、入学試験に落ちた学生に「人間万事塞翁が馬だよ」と言うときは、相手の心情を励ます気持ちが込められている。実際、受験した学校に落ちたことがきっかけで別な進路が開けたり、素晴らしい友達と出会えたりする幸運が訪れる可能性がある。不合格という災難をポジティブに捉えられるように発想の転換を促すのが、このようなケースだ。また、失恋をした人を慰めるときにも「塞翁が馬」を使うことがあるかもしれない。このような場合、相手に振られたことでより理想に近い相手に巡り合えたり、不幸な結婚をせずに済んだりする可能性がでてくる。
このように、日常生活では、主に「災難が幸運につながるきっかけになる」ということを伝える目的で、「塞翁が馬」という格言が使用されている。
塞翁が馬
塞翁が馬(さいおうがうま)とは、幸せも不幸も人間の期待した通りにはならず、何が禍(わざわい)となり何が福となるか分からないことを説明した故事成語である。
国境近くのとりで(塞)に住んでいた老人(翁)は、ある日、飼っていた馬に逃げられてしまった。近所の人たちが慰めると「これは幸運なことである」と翁は話をした。すると、その逃げた馬がやがて立派な馬を連れて帰ってきたので、「本当に幸せなことになりましたね」と周囲の人たちが話すと、今度は「これは不幸なことである」と翁は返事をした。実際、その馬に乗っていた翁の息子が、落馬して怪我をしてしまったのである。その不幸を同情していると、今度は戦争が始まり、怪我をしていた息子は兵隊に取られることがなく助かったという物語。
この物語から、何が幸せで、何が不幸なことにつながるかは分からないということを教訓として伝えている。
【歴史】前漢(紀元前206-8年)の頃、淮南王劉安が学者を集めた編纂させた思想書『淮南子(えなんじ)』に収録された話。
【語源・由来】「塞」とは「砦(さい)」と同じ意味、読み方。とりで。国境の小城など、外部からの侵入を防ぐためのもの。「翁」とは「おう」と読み、「おきな」と同じ意味を持つ。老人の男性のこと。「塞翁が馬」とは、「砦の近くに住んでいたおじいさんが飼っていた馬」という意味になる。「塞翁が馬」で故事成語となっているが、「人間万事塞翁が馬」と書いて、特に人生においては何が禍福か分からないということを強調して伝える場合もある。
【用例】「予定していた電車に乗り遅れてしまったが、おかげで、次の列車で有名な歌手と席が隣り合わせになったんだ。遅れた結果、あの人と一緒の電車になれるだなんて、塞翁が馬だね」
【他の故事成語】「雨降って地固まる」は、喧嘩など揉めてしまった後には逆に良い結果が訪れるということのたとえ。また、「一寸先は闇」は、先ほどまで喜んでいたのに突然事故に遭遇してしまうなど、ほんの少し未来のことでも想像することができないことのたとえである。
人間万事塞翁が馬
塞翁(さいおう)が馬(うま)
塞翁が馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:57 UTC 版)
「wikt:塞翁が馬」も参照 国境の近くにあった塞(とりで)の近くに住んでいた翁(老人)は、何よりも自分の馬をかわいがっていた。その馬は、周りからも評判が立つほどの駿馬だったが、ある日突然、蜂に刺された拍子に飛び出してしまう。一向に帰ってこない馬の様子に、周りからは翁に同情するほどだったが、翁は「これがきっかけで何かいいことが起こるかも知れない」とだけ言って、我慢強く待ち続けた。すると、どうだろうか。しばらくして、その馬が別の白い馬を連れ帰ってきたのだ。しかも、その白馬も負けず劣らずの優駿で、周りの者は口々に何と幸運なことかと囃し立てたが、翁は「これがきっかけで、別の悪いことが起こるかもしれない」と自分を戒め、決して喜ばなかった。 それから、かわいがっていた息子がその白馬から落ちて、片足を挫いてしまった。周りはまた同じように慰めの言葉を掛けたが、翁はまた同様に「いいことの前兆かも知れない」と告げる。それからしばらくして、隣国との戦争が勃発した。若い男は皆、戦争に駆り出されて戦死した。しかし息子は怪我していたため、徴兵されず命拾いした。そして、戦争も終わり、翁は息子たちと一緒に末永く幸せに暮らしたという。 このことから、人間、良いこともあれば悪いこともあるというたとえとなり、だから、あまり不幸にくよくよするな、とか幸せに浮かれるなという教訓として生かされる言葉になり、人間万事塞翁が馬などと使われる。
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塞翁が馬
出典:『Wiktionary』 (2018/03/31 16:25 UTC 版)
成句
由来
- (白文)
- 近塞上之人有善術者、馬無故亡而入胡。人皆吊之。其父曰「此何遽不為福乎」居數月、其馬將胡駿馬而歸。人皆賀之。其父曰「此何遽不能為禍乎」家富良馬、其子好騎、墮而折其髀。人皆吊之。其父曰「此何遽不為福乎」居一年、胡人大入塞、丁壯者引弦而戰、近塞之人、死者十九、此獨以跛之故、父子相保。故福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也。
- (抄訳)
- 国境の砦の近くに馬の調教に長ける老人(塞翁)がいた、飼っている馬が胡人(国境外の異民族)の土地に逃げ、近所の人々は同情したが、塞翁は「どうしてこれが良いことにならないだろうか」と言った。数ヶ月してその馬が、胡人の駿馬を連れて帰ってきた。近所の人々は祝福したが、塞翁は「どうしてこれが不運にならないだろうか」と言った。息子がその馬に乗り足の骨を折る大怪我をした。近所の人々は同情したが、塞翁は「どうしてこれが良いことにならないだろうか」と言った。一年して胡人が国境を越えて攻め入ってきた。国境の働き盛りのものは戦争に駆り出され、十人のうち9人の者が戦死した。塞翁の子は戦争に駆り出されず命を永らえた。
類義句
翻訳
「塞翁が馬」の例文・使い方・用例・文例
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